甘えるミーコに皇后さまにっこり

2011年1月6日
動物園ひと物語:宮崎市フェニックス自然動物園/4 /宮崎 - 毎日jp(毎日新聞)
<祝40年> ◇開園時からの最古参−−長友茂美さん(58)=飼育員

甘えるミーコに皇后さまにっこり
1973年4月10日、毎日新聞社会面にクモザルを抱いた香淳皇后と昭和天皇の記事が写真付きで載った。
この年、全国植樹祭で宮崎入りし、動物園にも足を運ばれた。
クモザルは皇后が抱き寄せたのではない。突然、飼育員の手を離れて飛びついたのだ。
記事はこう伝えている。
<南米クモザルのミーコがひょいと皇后さまの胸へ。
皇后さまは驚かれて二、三歩あとずさりされた……
すぐ笑いが皇后さまのほおに返り、お孫さんでもあやすようにミーコの背中をポンポン>
侍従のコメントが面白い。
<こんな派手な抱きつかれ方は“皇室開びゃく以来”のことです>
この時の飼育員が長友さんだった。高校を出て3年目の春。
「しまった。引っかきでもしたら事だ」と冷や汗が流れた。
しかし、皇后は「孫のあーや(秋篠宮さま)に持って帰りたい」と優しくなでたという。
あとで園長から「とんだハプニングだったな」と肩をポンとたたかれたが、
今となっては懐かしい思い出だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110106-00000202-mailo-l45

開国によって失われたものは何か?

文藝春秋2009年2月
名著講義(5)渡辺京二『逝きし世の面影』
開国によって失われたものは何か?
それは誇るべき日本の面影
藤原正彦(お茶の水女子大学教授)


学生
…「当時日本を訪れた外国人が日本をどう見たか」を、外国人の文献をふんだんに引用しながら書いていたので、
福沢の本とはだいぶ違った印象を受けました。
多くが日本を「素朴で絵のように美しい国」とか
「小さな社会の、一見してわかる人づき合いのよさと幸せな様子」などと
礼賛していたことが嬉しかったし、日本はそんなに素晴らしかったんだ、と驚きました。


藤原
…自分たちとはまったく違う価値観ながら整然とした社会を目にして、驚いてしまうわけですよね。
もちろんまだまだ日本も貧しい時代でしたから、ボロを着ていた人も多かった。
しかし、どんな貧しい農家でも、ひょっこり訪れた外国人に対して「まあちょっと上がれ」と言い、
縁側に腰をかけると奥さんがすぐにお茶を持ってきてくれる。
庭からきれいな花を手折ってきたり、お新香を出してくれたりもする。
ヨーロッパだけではなく世界中の多くの国で、こんなことをされたらお金を請求されるとだれもが思います。
ところが日本人は誰一人請求しない。
日本人には当然だけど、世界という視点から見たら不思議なんですね。
こういった、外国人の眼を通して書かれた本を読んではじめて、私たちは自分たちの異常さに気づくのです。
もちろん素晴らしい異常さですけどね。

この本にもあるように皆がそのような讃辞を喜んだ訳ではありません。
…当時の日本の知識階級は、日本的なものを捨てなるべく早く欧化し、
富国強兵を進めたいと思っていたからでしょう。

この時代に日本を訪れた外国人の間では、女性に対する評価が非常に高い。
それはヨーロッパの上流階級の婦人に似ているからだと思います。
例えばイギリスの中・下層階級の女性には、粗野な人も多い。
ところが中の上以上になると、とたんにおしとやかな人が増える。
服装も地味で、知性がありながら出しゃばったりせず静かに微笑んでいる。
こうした点が日本女性に共通して見えたので、よけい高い評価を受けたのでしょう。
…イギリス人の質素を尊ぶ心が、当時の日本人と共通していたんですね。

それに彼らは、女性の外見を褒めているわけではありませんからね。
「彼女たちはけっして美しくはない」とも書いています。
「陽気で、純朴にして淑やか、生まれつき気品にあふれている」点が魅力的だったと言えます。
西欧の中流、下流の女性とはまさに正反対で、外国人には印象深く映ったのでしょうね。
しかも日本の場合、上流階級の女性だけではなく、
全国津々浦々の女性がそうした美徳を兼ね備えていたわけですから。
下品な美人より、愛嬌と気品のある不美人の方が、どんな男性にとっても魅力的だと思います。

学校では「江戸時代は士農工商という身分制度に縛られた最低の社会だった」と習ってきたでしょう。
いまや世界中で身分社会は悪いものとされていますが、どうして悪いのかを証明した人は誰もいません。

たとえばインドの蛇使いのカーストに生まれた人たちは、おじいちゃんもお父さんも自分もその息子も、
みんなが生まれてから死ぬまで蛇使いとして生活し、死んでいきますね。
迷いや悩みを抱くこともなく、蛇使いとして一生懸命やっていこうとする中で
幸せに生きている。蛇使い以外のものになりたい、と思うことすらないわけです。
また、道義に反した行いをすればそのカーストの不名誉となりますし、
下手をすると追い出されてしまいますから、コミュニティでは道徳や平和が一定水準に保たれていました。
では同じ頃、自由・平等を謳ったフランス社会はどうだったか。
革命の頃から少なくとも数十年間は、社会や人心の荒廃はひどいものでした。
ニ十世紀にはいってからでさえ、ジョージ・オーウェルが『パリ・ロンドン放浪記』で
描いたように、文明のもっとも進んだ自由平等のパリやロンドンでさえ、
不潔で貧富の差は大きく犯罪も多発していました。

…日本に来た欧米人がその清潔さや人々の穏やかな表情にとことん驚いたのも不思議ではありません。
確かに江戸時代は、身分制度がはっきりしていました。
でも本の中に出てくる日本人はみんなにこにこしていて、幸せそうだと書かれていますね。
支配階級の武士だって農民だってみんな貧乏なのに、陽気で、
冗談を言っては笑い合っていると外国人は異口同音に言っています。
自由平等イコール幸福、封建社会イコール不幸、というのは欧米のまきちらした神話で、
よく考えればそれほど単純ではありません。
そもそも、日本の封建社会は西洋のものとは似ても似つかないのです。
アメリカのケネディ大統領やクリントン大統領が米沢藩の上杉鷹山を尊敬していたことはよく知られています。
戦前のすべてを否定するGHQや日教組による教育の呪縛から解放され、
改めて自分の頭で考え直さねばなりません。


学生
彼らも日本に来る前は、将軍による専制政治が行われていて
民衆はこき使われて個人の自由はないと思っていたとあります。
ところが現実は「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足に見え」て驚きます。
また幕末にイギリス駐日公使をしていたオールコックは「
一般民衆が自由で民主的な制度をもっている国々以上に、日本の町や田舎の労働者は多くの自由を持ち…」
という意味のことを述べています。


藤原
自分達は、身分制度という劣悪な旧習を打破し、
自由平等という素晴らしいものを勝ち取ったと自負していたヨーロッパ人にとって、
下層までの人々がのびのびと暮らす日本人を見た時は、故国の現状を思い出して驚愕したでしょう。
それは自分たちの社会の優越を否定することにつながりますから。


学生
お辞儀は多くの外国人を驚かせたと書かれています。長崎を訪れたイギリス人のティリーは
「挨拶のふつうのやり方はからだをほとんど二重に曲げ、そのままの姿勢でお世辞をいうごとに頭を下げる。
…年とった女が二人、そういう風に頭をひょこひょこ下げながら、どちらがもう参ったと思うまで、
三十分ほど喋っているのを見ているのはとても面白い」と描写しましたが、こうした光景は今でもあります。


藤原
明治になって下級武士の息子たちが海外に留学したときにも、
彼らの礼儀正しい態度は、欧米人から尊敬の対象となっていました。


学生
私が通っていた中学、高校には礼法の授業があって、中学一年生の時からお辞儀について何度も習ったので、
今でもよく覚えています。たとえば立って行う礼には四種類あります。
会釈のような目下に対する礼、身分が同じ人に対する普通の礼、
身分が上の人に対する礼、そして神様に対する礼です。
正座して行う礼はさらに多く、六種類もあります。
このことからも、日本人がどれだけお辞儀を大切にしているかわかります。


学生
当時の日本では、ある程度の礼儀をわきまえ、礼節がしっかりしていれば、
年齢や性別に関係なく社会の中に居場所を作ることができたからではないでしょうか。
逆にいえば、それだけ礼儀が重んじられてきたということです。
最近よく、「社会に居場所がない」ということを聞きます。
信じられないような犯罪を起こしてしまったり、独居老人が孤独に死ぬことなどはその例だと思います。
他人とのつながりが薄くなってきたとも言われます。
それは、礼節を軸に築かれていた社会の横の結びつきが失われたからだと思うんです。
この本を読み、江戸や明治初期の社会では、小さな子供や身寄りのない老人もきちんと社会に溶け込んでいて、
回りの人々が彼らに気を配っている様子が伝わってきました。


藤原
エドウィン・アーノルドも「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、
普遍的な社会契約が存在する」と言っています。
皆が皆を支えに生きているから、孤独からくるストレスというものがほとんどなかったのでしょうね。
最近の殺人に「誰でもいいから殺したかった」というかつてなかったタイプが多くなりましたね。
マスコミは格差のためなどと分析していますが、より本質的にはあなたのいう、
社会の横のつながりがなくなったことによるストレスではないかと思います。


学生
フランス人海軍士官として日本を訪れたデンマーク人のスエンソンは
「日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえめったに物怖じすることのない国民」
「青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、
自己の尊厳を主張することも教えられているのである」と書いていました。
支配されているイメージはありません。
自信を持っていたので、封建社会の中でも自分たちを卑下することなく満足して暮らしていけたんでしょうね。


藤原
1820年代に出島にいたオランダ人のフィッセルも「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、
したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。
ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。
専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない」と看破しています。
専制イコール悪と欧米では考えるけれども日本を見るとそうではなかった、ということですね。
新渡戸稲造も内村鑑三も、それから福沢諭吉も、
日本人の道徳は欧米人と比べても劣っていないと感じていました。
「和魂洋才」という言葉がありますね。魂は日本のままで、文明はどんどん取り入れるという意味です。
足りない部分、遅れている部分だけを一所懸命補えば、世界に通用すると考えていたのです。
ところが今では、魂までアメリカやヨーロッパに売り払おうとしている。


藤原
過去の日本を称賛するような本は、右翼反動の本としてこれまであまり受け入れられてきませんでした。
第二次世界大戦後、GHQが日本の歴史、文化、伝統を否定する政策を取ったので、
当時は教育でも戦前日本の素晴らしい点に触れることは許されていなかった。
これが日教組に継承されましたから、今でもマスコミやインテリ階級の間には、
日本の良さに触れたものを軽蔑する風潮があります。特に欧米人による讃辞は、
彼らの単なるエクゾティシズム―異国趣味にすぎないというわけです。
あるいはまた、そうした本には裏に欧米人の優越意識があり、
日本に対する憐憫の情があるから取るに足らぬものだ、とひねくれて解釈したりもします。


学生
オリエンタリズムという言葉は、東洋人をまるで法廷で裁かれたり学校で訓練を施されるような
「下層の」存在として描出するものだと述べています。
そして作者は、本書に出てくる外国人の多くはそうしたオリエンタリズムに基づいて日本を称えたのではなく、
当時の日本社会ときちんと接し、大人や子供と触れ合いながら感じたことを
素直に文章にしたのだと論じていました。
ただ残念ながら、今の日本の知識層はむしろ西洋に自分を同一化して、
日本を遅れた国とみなすことがカッコいいと思っているように見えます。


藤原
日本を卑下する考え方は戦後だけのものではなく、実は明治時代にも存在していました。
東大の医学部の基礎を作ったドイツ人のベルツが日本の歴史について同僚の日本人に尋ねると、
日本のインテリたちはみんなうつむいて
「日本の歴史なんて野蛮なものです。これから歴史を作るのです」と答えたそうです。
過去を否定する点で、戦後と似た精神状態にあったわけです。
ただし状況は似ていても、内容はかなり異なっています。
明治初期は国の存続自体が風前の灯でしたから、『学問のすゝめ』で福沢が言っていたように、
植民地化を免れるためには富国強兵以外にとるべき道はありませんでした。
ですから過去を振り返らず未来だけを睨み、遮二無二西洋文化を吸収しようとしました。
大東亜戦争後はそうではありません。アメリカと日教組によるダブルの洗脳によって、
持つべき祖国への誇りを捨ててしまったのです。だから日本を褒められてもまともに受け取らず、
単なる異国趣味としかとろうとしない。インテリ階級が特にそうです。
褒め言葉をまともにとるのは無知の証と考えてさえいる。
自分たちが自分の祖国を評価していないのだから、そうなって当然ですね。
その結果何でもかんでも外国の真似をしようとなる。情けないことです。
評判が悪く見直しがきまったゆとり教育は、米英が1980年代までに大失敗したものでした。

日本人の基礎学力は、江戸初期の頃からつい20年ほど前まで、
ほぼ四世紀にわたって世界でダントツだったと考えています。
これは識字率の圧倒的高さとか江戸初期に出た『塵劫記(じんこうき)』という算数の本が
江戸時代を通して大ベストセラーだったことからもうかがえます。
道徳心も他国とは比較にならぬほど高かったし、独創性も文学や数学などに見られるように高かった。
他国の真似より自らの過去に学ぶことが多くあります。 


学生
この本で外国人が日本人に対してもったようなイメージを、
私は、以前マレーシアを旅行した時に現地の人に対して感じました。
おおらかでゆったりしているなあ、と。


藤原
現代社会では、文明化とはどれだけ資本主義が進んでいるかということですね。
そして資本主義は競争原理に基づいていますから、ゆったりすることとは相反しています。
資本主義とは利潤を上げるために効率を重要視します。効率は時間で量りますから、
みんな時計を身に着けるようになり、余裕を奪われ世知辛くなっていってしまう。


藤原
お金だけではありません。訪日したほとんどすべての外国人が、
日本では高貴な人に家にも下層労働者の家にも家具が何もないと言っています。
イギリス人のジャパノロジストであるチェンバレンは明治中期の日本人を
「金持は高ぶらず、貧乏人は卑下しない」と評しています。
日米修好通商条約を結んだタウンゼント・ハリスはこう言いました。
「一見したところ、富者も貧者もいない。…これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、
果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。
私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す」。
日本は金銭欲や物欲からもっとも遠く離れた国だったのです。


学生
この時代に自分も住んでみたかったと感じました。「妖精の国」と評した外国人がいましたが、
現代に生きる私にとっても「御伽の国」のように映るからです。


藤原
日本人が皆あなたのように外国人になってしまったのですね。
西欧化する中で失うものが少なかった国もありますが、日本はそうではなかった。
むしろ、日本ほど大きなものを失った民族は思い当たりません。
ハンチントンが世界の八大文明の一つにあげたほどの、
高度かつ固有の文明をこの小さな島国が築き上げていただけに、
西欧化ついでアメリカ化といいう大津波で一気に洗われ、かなりの部分が流されてしまったからです。
鎖国はよくなかったと教科書には書かれているかもしれません。
しかし鎖国したことによって他国とはまったく異なるひとつの文明を熟成することができたのですから、
鎖国は素晴らしかったと私は思っています。
この高度に熟成された文明に代表される、日本独自の文化文明があったからこそ、
我々は「日本人とは何か」を知ることができ、また民族や祖国への深い自信や誇りを持つことができるのです。
世界有数の軍事力を有していても世界一の経済繁栄を何百年続けても、深い自信や誇りには決してつながりません。
この文明に初めて触れたヨーロッパ人が度胆を抜かれた様子が、本の中にも生き生きと描かれていますね。
欧米の大都市は不潔で乞食だらけだったのに、日本は清潔で乞食もほどんどいない。
井戸水を飲んでも安全だし、泥棒もいないので鍵をかけなくてもいい。
物質文明は遅れていても、こうした清潔さや治安のよさ、
人々のやさしさ、道徳や倫理においても欧米を圧倒していたのです。
世界一の国だったといってもいいでしょう。
このような国民性は当然ながら江戸時代に突然生まれたものではなさそうです。
七世紀初めの頃に隋で書かれた隋書『倭国伝』に
「日本人はすこぶる物静かで争い事は少なく盗みも少ない」と書いてあります。


藤原
例えば十七世紀のことを調べている学者は、
当時世界で一番進んだ市民社会をもっていたのはロンドンだと当然のように思っていた。
ところが江戸を研究してみたら、ほとんどの点において
江戸の方が比較にならないほど素晴らしいことがわかった。
エコロジーや清潔さもそうだし、市民の文化享受や識字率もそうです。

彼らも、自分たちのものが行き詰まっていると明言しなくとも、うすうす感じているのではないでしょうか。
欧米モデルだけでは人間は幸せになれないということです。
自由や平等がオールマイティだとここ二百年ほどは考えられてきました。
しかしそれを反省する時期にきたのです。自由競争により経済的利益を必死で追いかけるうちに、
人間にとって何が最終目標なのかが見失われてしまった。
…豊かになった国が富を独占し、石油を買い占め、食料を買い占め、貧しい人はますます貧しくなっていく。
自由だけではどうやらいい結果は生まれない、そもそも自由と平等は互いに衝突してしまう、
ということがようやく誰の目にも明らかになってきたのではないでしょうか。
人間が幸福になるどころか、現実はより悲惨な方向に向かっているとしか見えないからです。


学生
本の中で、「日本人はみな貧しいのにみな幸せそうだ」という印象記がいくつもあり、とても感銘を受けました。


藤原
例えば幕末日本の農村地帯を詳しく実見した英国公使オールコックは『大君の都』の中で、こう記述しています。
「突如として百軒ばかりの閑静な美しい村」に出会った彼は、
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、
かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、
非常なゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、
これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。
むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいない」と述べています。
これではまるで楽園みたいです。無論、江戸や明治にも多くの欠点はあったはずです。
こういった描写が多いのは、本書の著者も見抜いているように、
そう見えるほど自然が美しく、極めて質素ながら勤勉で礼儀正しく実直な人々が幸せそうに暮らしていたからです。
一言で言うとお金と幸福とが無関係であることを示した、欧米人にとっては想像を絶した世界だったのです。
…これまでは教育の中で、日本のすぐれた部分、素晴らしい部分は無視され、教えられることがありませんでした。
海外の真似をするのではなく、日本人ならではの特性をいかに生かし世界や人類に本質的な貢献をできるか、
日本人は考えるべきです。
世界のどこともまったく異なったとてつもない文化文明を築き上げた国なんだという自信を、
すべての国民、とりわけ政治家は持ってほしいですね。



講義を終えて
私としては、この本の内容とともに、これだけの書物が名のある学者ではなく、
熊本に住む一介の塾講師により書かれたということも知って欲しいと思っていた。
一流の学者にひけをとらない実力の持主がこの日本の片隅にもいるということは
知っていてよいと思ったのである。…
ボーダーレス時代とかグローバル社会と言われる現代にあって、
日本ばかりでなく各国、各民族、各地方はこの荒波に個性を洗い削り取られ、
一斉に等質化されようとしている。
歴史上の奇観と言えよう。
効率や能率の向上を飽くことなく求める現代が、この地球に咲いたもっとも美しい花、
すなわち地球の各地に生まれた文化や伝統を抹殺しようとしている。
これに強い危機感を覚える私は、十年以上前から、二十一世紀はグローバリズムではなく
ローカリズムでなければならないと言い続けてきた。
ローカリズムとはたとえ経済効率を犠牲にしてでも、
地球の各地に生まれ花開いた文化や伝統を、世界中の人々が尊重尊敬し、
それを暖かく見守っていくという世界のことである。
このためには何よりもまず各国、各民族、各地方の人々が自分達の文化や伝統を知り、
己れのよって立つ所を確かめ、それを育んできた先輩達への敬意を持つことである。
日本人の場合、江戸から明治中期にかけてを知ることがよい。
なぜならそれ以前に比べ文献がはるかに多いこと、
そして古代から遅々営々と築いてきた日本という極めて特異な文明が、
急激な欧化の直前というその時期に最高潮を迎えていたからである。
さらにはその頃に、外国人の眼という客観的な視座が新らしく加わったことである。
これら外国人の眼は現代に生きる我々日本人の眼と似通っているから、余計都合がよい。

…底深い混迷に陥った世界を救うためのヒントを、「みな貧しいながらもみな幸せ」という、
今から考えると不思議な文明を築き上げた日本人の中に見出してくれればよい、と私はひそかに思っていた。

もしも雅子さまにヤンキー気質があったなら

湯山玲子 「雅子さま論争」 P186第六章「もしも雅子さまにヤンキー気質があったなら」 

雅子妃には、ヤンキー魂はなかったが、果たして紀子妃はどうなのか?
私の体験で言えば、女性のヤンキーは男性に比べ、ウラ番率が高い。
学校では目立たず、おとなしくしているのだが、
街に出ればきっちりと族のヘッドの女を務めるコワモテのタイプを数人思い出すことができる。
紀子妃のいかにも優しげな外見の中に、そういった強気の部分荒ぶる魂が存在するからこそ、
彼女は皇室にフィットしたのだろうか?とすれば,雅子妃が持ち得なかった、
困難をものともせず、居場所と要求を通していくモチベーションは、
下世話な話でいえば、天皇の母として君臨する権力か?などとも考えるが、
紀子妃からはそんな様子はうかがえない(もし、そうだったとしたら、凄い話だが)。

紀子妃の学歴、キャリアは雅子妃と比べれば格段に低い。
学習院大卒だが、皇室の経歴があるわけでもなく、教員宿舎に住む学者の娘。
実は私は学習院出身なのだが、内部進学者ヒエラルキーでは、
紀子妃のような生まれ育ちは完全に庶民レベルである。
当時の大学の先輩で、父親が学習院職員関係者という紀子妃と似た境遇の娘さんがいたが、
彼女の言葉遣いと態度は何かというと”お育ちの良さ”を表現しがちであり、
口さがのない連中は、「あれはコンプレックスよねー」などと陰口を叩いていたものだ。
ゆえに、それをバネに紀子妃の今がある、という仮説も成り立つ。
桐野夏生が名著『グロテスク』で描いたブランド女子校内の恐るべき階層社会ぶり、
であるが、実際の学習院はもっとユルユルな校風なのでダイレクトにはそう考えられないのだ。

『富田メモ』はなぜ今流出したか?

「『富田メモ』はなぜ今流出したか? 機密漏洩事件の本質をこそ見よ」
週刊ダイヤモンド2006年8月5日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 652
7月20日に「日本経済新聞」が「A級戦犯靖国合祀」「昭和天皇が不快感」と報じた元宮内庁長官の
故・富田朝彦氏のメモは、理解に苦しむものだ。
「富田メモ」には、1988(昭和63)年4月28日付で昭和天皇のご発言として
「A級(戦犯)が合祀されその上松岡、白取までもが」
「だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と走り書きされていた。
このメモをもって、「産経新聞」を除く各紙はほぼいっせいに、
昭和天皇は三国同盟に走り国を誤る元凶となった松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を疎み、
A級戦犯の合祀に不快感を抱いていたと断定、“A級戦犯”を分祀すべきだという論調に傾こうとしている。
しかし、その解釈は天皇を究極的に貶めるものである。
「富田メモ」は、“A級戦犯”合祀に関して靖国神社の故・筑波藤麿元宮司は慎重だったが、
合祀に踏み切った後任の故・松平永芳元宮司は怪しからんと怒っておられる天皇のお姿を想像させる。
だが、筑波宮司がA級戦犯の合祀に反対で松平宮司のみが積極的だったというのは、事実に反する。
このような思い違いが目立つ「富田メモ」を全面的に信頼することはできない。
このメモから浮かび上がる天皇像にも違和感を抱く。あの不当な東京裁判で、
自らの命を差し出すことによって天皇と皇室を守り、日本国を守ったのが“A級戦犯”だった。
そして昭和天皇もまた、ご自分の命を差し出して日本国と国民を守ろうとした。マッカーサーに対し、
ご自分の運命はどうなってもよい、すべての責任はご自分にあると述べられ、
いっさいの弁明をなさらなかったのは周知のとおりだ。
他人への責任転嫁をなさらない昭和天皇が、「富田メモ」ではおよそ正反対の姿である。
これははたして真の姿なのか。88年4月当時の昭和天皇は体調も悪く、メモのようなご発言があったとしても、
ご自分の真意を十分に伝えることができていなかったのではないかと思えてならない。
そして、メモはなぜ今になって流出したのか。国家機密保持の観点から問題の根の深さを指摘するのが、
京都大学教授の中西輝政氏である。氏は、宮内庁長官だった富田氏が職務として昭和天皇のお近くに仕え、
そこで入手した情報を書きつけた「富田メモ」は、まぎれもない公文書であると指摘する。
「富田メモの公開に関しては、まず陛下の許可が必要です。しかし、陛下は私人ではありませんから
宮内庁の許可が必要です。宮内庁は同メモの発表には関知していないと言っています。
富田さんのご家族はプライバシーを公表される側の許可をまったく取らずに公表したわけで、
こんなことが許されると考えたのでしょうか」
現在の日本では、個人情報について行き過ぎた規制が行なわれている。
事件や事故で病院に運ばれた人の病室さえも、個人情報だといって教えない病院が増えているなかで、
天皇の情報が長官メモのかたちで流出したことの異常さに気づかなければならない。
庶民と異なり、多くの人が公私にわたって日々お仕えしなければ、天皇家の生活は成り立たない。
お仕えする人びとがメモを取って、内容を確認することも合意を取りつけることもなく公表すれば、
皇室を守るべき人びとは恐るべき暴露者になる。皇族の方がたにとって周囲がすべて敵になり、
皇室は存続できないだろう。
中西氏は、「富田メモ」は欧米では公文書と見なされると指摘する。となれば、富田氏は退職後、
公文書を自宅に退蔵し、それを今回、富田家が私的に流用したことになる。
この種のことは英国では「公的機密保護法」で10年以上の懲役刑に処せられると、中西氏は言う。
宮内庁始まって以来の大スキャンダルが示す、日本という国家体制のあまりの不備、
驚くべき機密漏洩事件の本質をこそ見なければならない。

「祈年祭」早くも伊勢神宮で

伊勢志摩経済新聞
今年の五穀豊穣祈る「祈年祭」早くも伊勢神宮で−黒田清子臨時祭主が奉仕
2013年2月18日(月)
朝の宇治橋には真綿のような霜が降りまだまだ寒さ厳しい2月17日、
今年の五穀豊穣(ほうじょう)を祈る祭典「祈年祭」が
伊勢神宮外宮(げくう)・内宮(ないくう)で執り行われた。
23日まで伊勢神宮125社で行われる。
としごいのまつり」とも呼ぶ同祭、神饌(しんせん)を奉納し
五穀豊穣を祈願する「大御饌(みけ)の儀」、
勅使が参向し「幣帛(へいはく)」と呼ぶ皇室より送られた布などを奉納する
「奉幣(ほうへい)の儀」が両宮で執り行われた。
内宮での「奉幣の儀」では、幣帛を入れた唐櫃と勅使が先頭を歩き、
その後を緋(ひ)色の浅沓(あさぐつ)、白衣・緋袴(ひばかま)・小袿(こうちぎ)といった
平安の装束の臨時祭主・黒田清子さんが続き、鷹司尚武大宮司、高城治延少宮司と続く参進の列を成した。
玉砂利を踏みしめザクザクと音を立てながら正宮まで歩くその様子は、
平安時代に時間が逆戻りしたかのような厳かな空気をつくった。
この日は、日曜と重なったため参道は多くの参拝者で埋め尽くされ、
その光景を目にした参拝者は目の前を通る参進の列に自然と頭を垂れていた。
同祭は、皇居と全国の神社でも執り行われた。
http://iseshima.keizai.biz/headline/1658/

ご学友証言

天皇陛下 退位恒久制望む 電話受けた学友証言「お言葉」20日前
2016年12月1日 朝刊
天皇陛下が八月にビデオメッセージを公表する約二十日前の七月、退位について恒久制度を望む思いを、
学友の明石元紹(あかしもとつぐ)氏(82)に電話で打ち明けていたことが、明石氏の証言で分かった。
陛下は「将来を含めて譲位(退位)が可能な制度にしてほしい」と語られたという。
私的な会話とはいえ、退位の在り方について陛下の具体的な考えが明らかになったのは初めて。
父である昭和天皇の大正時代の経験を踏まえ、摂政設置によって混乱が生じることへの懸念も示したという。
明石氏は「陛下からの電話だったので内容を注意深く聞いていた」と話した。
明石氏は学習院幼稚園から高等科までの学友。
七月十三日夜の報道で退位の意向が明らかになった後の同二十一日午後十時ごろ、
陛下の身の回りの世話をする内舎人(うどねり)から「陛下が直接お話ししたいと言っている」と電話を受けた。
明石氏によると、陛下は退位について「随分前から考えていた」
「この問題(退位)は僕のときの問題だけではなくて、将来を含めて譲位が可能な制度にしてほしい」と話した。
明治時代より前の天皇に関しても触れ「それ(退位)がいろいろな結果を生んだのは確かだ。
譲位は何度もあったことで、僕が今そういうことを言ったとしても、何もびっくりする話ではない」と語ったという。
「摂政という制度には賛成しない」と明言。理由として、大正天皇の摂政だった昭和天皇の例を挙げ
「(大正天皇派と昭和天皇派の)二派ができ、意見の対立があったと聞いている」と振り返った。
明石氏は「私は多くのメディアの取材を受けていたので、
間違ったことを言ってほしくない、真意を伝えたいとの思いがあったのではないか」と心情を推し量っている。

◆「僕の時の問題だけではない」と陛下 明石氏の主な証言内容 
天皇陛下とのやりとりに関する明石元紹(あかしもとつぐ)氏の主な証言内容は次の通り。
私が(皇后の)美智子さまの体調について以前、
テレビで「お体が悪いのではないか」ということを語ったことに対して、
陛下は「美智子のことを心配して、譲位を訴えているようにとられるので困る。
そういうことを言うと、既成事実になってしまうから言わないでほしい」と話された。
陛下は「今度の(退位の)話については、僕は随分前から考えていた。
天皇の在り方は歴史上いろいろな時代があった。特に明治以前の天皇については途中で譲位をしたり、
いろんな形でいらした天皇はたくさんいる。
それが、いろんな結果を生んだのは確かだ。けれど、譲位は何度もあったことで、
僕が今、そういうことを言ったとしても、何もびっくりする話ではない」と話した。
陛下は「摂政を置いた方が良いという意見もあるようだが、僕は摂政という制度には賛成しない。
その理由は、大正天皇のときに、昭和天皇が摂政になられたときに、
それぞれの当事者(大正天皇と昭和天皇)として、
あんまり、こころよい気持ちを持っていらっしゃらなかったと思う」と話した。
陛下は「その当時、国の中に二つの意見ができて、
大正天皇をお守りしたい人と摂政の昭和天皇をもり立てようとする二派ができ、
意見の対立のようなものがあったと聞いている。僕は、摂政は良くないと思う」とも語った。
陛下は「この問題(退位)は僕の時の問題なだけではなくて、
将来を含めて譲位が可能な制度にしてほしい」と話した。
陛下からの電話だったので内容を注意深く聞いていた。

◆冷静に考えるのが筋
評論家の八幡和郎(やわた・かずお)さんの話 八月の天皇陛下のお言葉を聞き、
退位を容認すべきだとする国民の気持ちがある。
今回も、陛下が恒久的な制度を望んでいるという意
向を尊重すべきだという国民感情が大きくなるだろう。
大正天皇と摂政となった昭和天皇のことを踏まえ、
陛下が退位制度を望む気持ちを持ったことは、心情として理解できる。
だが、制度を改正するなら、将来に起こり得るさまざまな状況を想定しながら、
陛下の意向とは切り離し、冷静に考えるのが筋だろう。

◆4歳から遊び相手 学友の明石元紹氏
明石元紹氏(82)は幼稚園に入った四歳から、
天皇陛下の住まいがあった東京の赤坂離宮に通って遊び相手を務めたほか、
一緒に疎開を経験するなど、戦前から現在まで同じ学年の学友として関係が続いている。
明石氏は一九三四年一月、貴族院議員を務めた男爵元長(もとなが)の長男として誕生し、
天皇陛下とは学習院初、中、高等科で共に学んだ。
祖父元二郎(もとじろう)は第七代台湾総督、伯父の堤経長(つつみつねなが)は昭和天皇の学友。
戦前の初等科時代は天皇陛下と共に栃木の日光へ疎開し、終戦を経験。
戦後は、天皇陛下の家庭教師として米国から来日したバイニング夫人の授業も一緒に受け、
高等科では馬術部のチームメートとして友情を築いた。
天皇陛下が学習院大、明石氏は慶応大と進路が分かれた後も絆は変わらず、
二〇一三年に出版した「今上天皇 つくらざる尊厳」では
「その在りようは精神力と努力の蓄積だけのものではなく、
生まれながらの宿命と対峙(たいじ)する精神的な気高さが存在する」と記した。
ゆっくりと話す機会は減っているが、クラス会や記念行事では必ずあいさつを交わし、
外国訪問時には皇居の御所で送迎することもある。
退位を巡っては「象徴天皇としての在り方を考え抜いた末、
結論としてのお気持ちの公表だと思う。賛成する」と語っていた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201612/CK2016120102000140.html

宮中祭祀というブラックボックス

宮中祭祀というブラックボックス
対談
原武史
保阪正康
(二〇〇四年十二月二十四日 講談社にて)

今上天皇の意外な顔

編集部 さて、こんどは読者のために「平成皇室の謎」についておおいに語っていただこうという趣向であります。
思えばここ数年、皇室関連のニュースが大きく報じられております。
それは二〇〇四年五月の皇太子による「雅子のキャリアや人格を否定する動きもあった」という衝撃の発言にはじまり、
十一月の秋篠宮の「(皇太子発言は)残念だ」との言葉、そして……。

保阪 天皇誕生日の「皇太子の発言の内容については、
その後、何回か皇太子からも話を聞いたけれども十分に理解しきれぬところがある」という旨の文書回答ですね。

編集部 そうです。しかし一連の皇室報道に接していても、どうもよくわからない。
なにやらもどかしい思いを抱く人は多いと思います。
そのもどかしさを少しでも解くためには、
いまの皇室と昭和前期の皇室を比較することが有効なのではないかと考えます。

原 『昭和史 七つの謎』(講談社文庫)Part1の帯の文句に
「いまだ過ぎ去ろうとしない『昭和』」というのがありましたが、
皇室においてもまさにそのとおりだと思いますね。

保阪 同感です。原さんは雑誌『アリエス』二〇〇四年秋号(講談社)に
「宮中祭祀というブラックボックス」という、
きわめて興味ぶかい一文をご発表になられましたね。
あれはこれまで誰も指摘していない重要な論点の提起だと思います。そこから話をはじめませんか。

原 そうしましょうか。

保阪 あそこで原さんは学者らしく慎重な言いまわしながら、
宮中でおこなわれている祭祀にたいする認識の「温度差」が
雅子妃を精神的に追いつめている可能性があることを指摘された。

原 はい。まず確認しておくべきなのは、現天皇と現皇后が祭祀にものすごく熱心だという事実です。
現天皇と現皇后は、どこかの県を訪問するとか、外国訪問も含めてですが、
すべてのスケジュールを宮中祭祀にあわせるんです。
とにかくこれを最優先する。場合によっては、午前中に祭祀をすませて、
そのあと新幹線で移動するとかいうようなことまでしています。

保阪 ちょっと意外ですね。一般的に現天皇は、ヴァイニング夫人に教育を受け、
即位のさいには「日本国憲法を守る」と発言したように、
ある意味でリベラルな「戦後民主主義の申し子」だと思われていますよね。
最近では園遊会で、日の丸・君が代の強制は望ましくないと、
棋士で東京都教育委員の米長邦雄さんをやんわりたしなめた。

原 しかし、それは外に見せる顔であって、もうひとつの内側の見えざる天皇というものをもう少しきちんと見ないと、
いま皇室のなかで起こっていることはなかなか理解できないのではないかと思うんです。


出欠表をつくってみると

原 それでね、『アリエス』に掲載した「天皇、皇后、皇太子、
皇太子妃の宮中祭祀出欠表(一九九九年から二〇〇三年まで)」に
秋篠宮夫妻の出欠も加えて、よりくわしいものをつくってみたんです。
saisi.jpeg

大祭に当たる祭祀だけを掲げましたが、女性皇族が出席できない新嘗祭のような祭祀は除外しました。

保阪 どんな資料をお使いになったんですか。

原 宮内庁のホームページにある天皇夫妻や皇太子夫妻の日程表には、
宮中祭祀についての記載はいっさいありません。
なので『アリエス』の段階では神社本庁の機関 紙『神社新報』や、
日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』などをもとにしました。
その後、『わたしたちの皇室』およびこれを改めた『皇室』という雑誌に、
天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけではなくて、
秋篠宮とかほかの皇族の動静も書いてあることがわかりましたので、それを使いました。
ただ、これも現天皇の 在位十年を記念して創刊された雑誌なので、それ以前についてはわかりません。

保阪 それは残念。

原 この出欠表を見るとわかりますように、
天皇は二〇〇二(平成十四)年十二月の賢所御神楽の儀までは全出席なんですね。
即位してから十年近くも皆勤です。一九 九八(平成十)年四月の神武天皇祭で初めて休んだんです。
それはたしか風邪をこじらせたか何かの理由。
後で触れるように、昭和天皇も最晩年まで祭祀にはこだわりますが、
現天皇の祭祀にたいする熱心さは非常に突出していると思います。

保阪 二〇〇一(平成十三)年は他の年に比して儀式の数が少ないようですが。

原 それは香淳皇后の服喪のためです。二〇〇〇(平成十二)年六月に死去しましたので、
それから一年間は祭祀に出席していません。

保阪 なるほど。その翌年の二〇〇二年末に天皇が前立腺がんであることが発表になって、
二〇〇三(平成十五)年一月十六日に東大附属病院に入院、
翌々日の十八日に 前立腺の全摘出手術をして二月八日に退院しています。
六月の香淳皇后三年式年祭には出ているわけですから、退院後四ヵ月での祭祀復帰はたしかに熱心といえますね。
しかもその後はずっと皆勤になっている。
それと表を見ますと、美智子皇后の動静も興味ぶかい。

原 天皇の入院・療養中、一月から五月まで皇后は皆勤です。
そもそも皇后は、一九九九(平成十一)年七月にお父さんの正田英三郎さんが亡くなって服喪していた例を除けば、
ほとんどすべて出席しているんです。

保阪 なるほど、ご夫婦そろってほぼ皆勤ですね。かたや皇太子と雅子妃なんですが……。

原 皇太子は二〇〇二年一月の孝明天皇例祭と十二月の賢所御神楽の儀には欠席しています。
皇太子妃は表をご覧ください。
たとえば二〇〇二年十月の神嘗祭以降、二〇〇三年一月七日まで四回連続して欠席なんです。

保阪 神嘗祭、賢所御神楽の儀、元始祭、昭和天皇祭。

原 この四回がなぜ欠席なのか。その前の二〇〇一年から二〇〇二年にかけての欠席は懐妊、
内親王出産後しばらく静養していたということで説明できる。
しかしこの四回の欠席理由は、皇太子とともにニュージーランドを訪問した
二〇〇二年十二月の賢所御神楽の儀を除いてわからないんですね。
しかも秋篠宮はこの賢所御神楽の儀に出ている。

他の皇族は

保阪 秋篠宮夫妻はずいぶん熱心に出席していますね。

原 そうです。他の皇族でいちばん熱心なのは秋篠宮夫妻と紀宮。
次いで常陸宮夫妻。三笠宮家は必ずしも熱心ではない。

保阪 お父さんの崇仁殿下? それとも寛仁殿下?

原 オリエントのほうの三笠宮は高齢のせいもあるのでしょう、あまり出てこない。
ヒゲの寛仁さんだって、秋篠宮に比べれば明らかに頻度は落ちます。桂宮病気だからもう全然出てこられない。
むしろ亡くなる前の高円宮夫妻の方が熱心に出席していました。

保阪 庶民でいえば、さしずめ法事に兄夫婦が欠席で、
弟夫婦のほうはよく顔を出しているということですか。

原 まあ、そんな感じかもしれません。
通常ならば当然出席しなければならないはずの祭祀に、この時期は欠席をしている。
ともかく表全体の傾向として、皇太子妃は年があらたまる前後の時期、
つまりその前の年の十一月ぐらいから一月ぐらいにかけて、
言葉はわるいんですがどうも「休みぐせ」がついているように見える。
からだのリズムができてしまったのかなという感じがするほどです。

保阪 帯状疱疹で入院したのもやっぱり二〇〇三年の十二月でしたね。

原 そうです。これ以降、皇太子妃は長期の静養に入り、祭祀にはまったく顔を出さなくなります。 
皇太子妃は、だんだん年が押し詰まってくると、体調がすぐれなくなる傾向があるような気がします。
たしかに十二月から一月にかけてはわりと行事が多い。内親王の誕生日もある。自分の誕生日もある。
いうまでもなく天皇誕生日もあるし、一般参賀もある。心身ともに疲労してもおかしくはない。

保阪 行事、行事の連続でたしかにたいへんですよ。


入院中に何かが起きた!?

保阪 さて、いまのデータをもとに、原さんは重大な示唆をなさっていますよね。
「天皇入院中に何かが起きた!?」と考えられる……。

原 いや、そこまでは(笑)。

保阪 ぼくはジャーナリズムの側にいる人間だから、学者の原さんのいいにくいところをズバリいえば(笑)、
天皇不在中に、祭祀になかなか出てこない皇太子妃にたいする不満を、
皇后が皇太子に向かってぶつけていた可能性がある。
美智子皇后は皇太子を場合によっては叱責したのかもしれないですね。

原 天皇が入院、療養しているあいだのすべての祭祀に皇后と皇太子は出席していますが、
皇太子妃は一月の元始祭と昭和天皇祭、三月の春季皇霊祭・春季神殿祭、
五月の開化天皇二千百年式年祭に欠席していることは事実です。

保阪 この間は皇后と皇太子だけでおこなっている祭祀がわりと多い。
下世話にいえばもともとお嫁さんがなにかの理由で欠席がちで、
舅と姑と息子で儀式をおこなって いたところに舅が入院というわけだ。
俗なことをいいますが、天皇は雅子妃にたいして、それまでものわかりがよかったということなのかもしれませんね。

原 天皇のほうが、この表を見ていると少し寛大だったのかなと。私の印象はそうです。
その天皇が病気で不在になって、祭祀において皇后にかかってくる比重が当然大きくなるわけでしょう。
その傍らに皇太子しかいないというような、明らかに二〇〇二年までとは違った状況になったときに、
皇后と皇太子のあいだに、なんらかの感情的なやりとりのようなものはなかったか。
もちろん、これはひとつの推測にすぎませんが。

保阪 このことについて、皇室ジャーナリストのだれもきちっと書いていないんでしょう?

原 書いていません。ぼくは、皇室を論ずる場合、
宮中祭祀の問題は非常に重大、重要だと以前から思っているんです。
祭祀においては、秋篠宮とかそれ以外の皇族は 後ろに控えているだけです。
じっさいに大祭で宮中三殿に上って拝礼をおこなうことができるのは、
天皇、皇后、皇太子、皇太子妃の四人だけなのです。

保阪 いちおう宮中三殿を説明すると……。

原 伊勢神宮の神体である八咫鏡の形代を安置した賢所、歴代の天皇や皇族を祀る皇霊殿、それと神殿です。
皇居の南西、宮殿の裏手にありますが、ここは天皇家にとっての聖域であり、
そこに上る者には大きな責任のようなものがある。
それを二人だけでおこなわなければならない。美智子皇后がそれを重く感じたことはまちがいないでしょう。

保阪 「自分は宮中入りして以来、こんなにがんばってきたのに」と思ったかもしれない。
そういう感じは受けますよね。

原 ここで思い出されるのが、昭和初期の昭和天皇と母の貞明皇后との関係なんです。

保阪 貞明皇后が、昭和天皇にたいして「ほんとうに神を敬わないと神罰があたるぞ」といった話ですね。

原 そうです。おうおうにして、外から旧家に入って、
もともとのメンバー以上に熱心にイエのまつりをするようになった母親というのは、
イエの本来のメンバーである子どもにたいして、かなり率直に、ストレートに不満をぶつけることがある。

保阪 一種の過剰同調というのかな。まさに日本最古の旧家だからね。

原 貞明皇后にいわせれば、祭祀とはまちがいなくおこなうだけではダメなんです。
そのぐらいはできて当然。
そこにプラスして「祈る」という行為のうちに、
ほんとうにアマテラスなり皇祖皇宗を畏れる気持ちがあるかどうかが大事であって、
昭和天皇にはそれがないと叱ったわけです。
その背景にあったのが、大正天皇の病気が悪くなるとともにのめり込んでいった、
筧克彦のいわゆる「神ながらの道」でした。

保阪 貞明皇后は大正天皇が亡くなったあと、ある一室に、ほとんどだれも入れないで
大正天皇の遺影を置いて会話をし、心を通わせていたという。
ある意味で尋常でな い空間かもしれませんね。そのような志向をもっている人だから、
彼女にとっては、礼拝の式のひとつひとつの行動のうちに、
それが真剣かどうか、彼女なりに 見抜く目があるわけでしょう。
あれはたんなる形式だけではないか、心がないではないか、
敬うものがないではないかと。だけど考えれば、それはかなり主観的ですよね。

原 そのとおりです。ですから『対論 昭和天皇』(文春新書)でもひとつの推測をいいましたが、
なぜ貞明皇后が「神ながらの道」や祭祀にのめり込めたかというと、
ひょっとしたら彼女は努力すれば自分がアマテラスになれるかもしれないというような
気持ちがあったのではないかと思います。
天皇の場合は、皇后のように努力を重ねてそこまでのぼるということをしなくても、
生まれながらにして「神々の子孫」です。
そういう資格をもった存在であるにもかかわらず、
神々というものをきちんと実感しないで祭祀をおこなうなんていうことは許せないというか、
貞明皇后には考えられないわけですよ。そこから息子の昭和天皇にたいして強い態度に出てくるわけです。

保阪 宮中祭祀への熱心さということをめぐる力関係において、
少なくとも主観的には貞明皇后のほうが昭和天皇より上位にあったということになりますね。

原 そうですね。のちに昭和天皇は神器に執着するようになっていくのですが、
それも貞明皇后の感化ということがどうしても考えられるわけです。
昭和天皇がさしたるきっかけもなく、あれだけ生物学の研究に熱中していたのに、
それをだんだん振り捨てて神に祈るようになるというのは、
自力でというか、自発的にそうなったというよりは、
貞明の感化を受けて、しだいにそうなっていったというほうが……。

保阪 納得しやすい。

原 そうです。理解がしやすいんです。


「祈る」ということ

保阪 いまの美智子皇后は貞明皇后の置かれていた立場に近いのかもしれない。
皇后は祭祀を何年もおこなっているから、祈りが本物か見抜く力がある。
しかるに皇太子妃は見抜くも見抜かないもなくて、そもそも祭祀の席に来ない。

原 そう、来ないんです。
それに出席したとしても、問題はその先ですね。
まちがいなく拝礼ができるようになったとしても、プラス、そこに畏れる、さっき神罰といいましたけれども、
そういうものをちゃんと認識できるか否かというところが問われているのですから。

保阪 その点が大きな壁なのではないでしょうか。

原 そう思いますね。それでね、「祈る」ということがどういうことなのか、
美智子皇后は皇后なりにたぶんわかっていると思うんです。

保阪 美智子皇后は聖心女子大を出ていて、
カトリックで、クリスチャンじゃないかということで一時期は皇族たちに疑いの目で見られたこともありました。
宮中には、一方でキリスト教人脈もあるように思いますし…。

原 祈る対象はカトリックの神ではなくなったけれども、
祈るという行為そのものにたいする順応性はもともとあったと思うんですよ。
もちろん、対象は皇祖皇宗、い わば歴代の天皇であり、八咫鏡であり、
アマテラスであるわけだけれども、そういうものに向かって祈りつづけるということが、
同時に国民の平和を祈るということでもあるという、合理的な説明ができないけれども、
それを受け入れる素地、素養というものが皇后にはあったのではないか。
高橋紘によれば、皇后は若い ころ、「皇室は祈りでありたい」と語っていますし、
元東宮大夫の鈴木菊男には、ある事態が起きたとき最上の解決法を決めるのは「国の叡知」だが、
皇室の役 目は「善かれかし」と祈り続けることではないかと話したそうです。
それにたいして雅子妃の場合は、たしかに田園調布雙葉学園は出ているけれども、
少なくとも大学はハーバードとか東大にいって、
そういう意味では西洋近代的、 合理主義的な考え方を身につけているのではないか。
そこは美智子皇后と、育った環境も違うし、その志向性も相当違うのではないかという印象を、
ぼくはもっているんです。
雅子妃の場合に、なぜこのような祭祀をするのか、いくら考えてもたぶん理解できない。
理解できないことを、どうしてこんなに繰りかえし繰りかえしおこなわな ければならないのか。
どこかでそれに、どうしても耐えられないというか……。
たぶん、祭祀の拝礼のしかたひとつとってもかなり細かい決まりのようなものがあり、
天皇がまずそれをおこない、そのあと皇后がおこない、
それから皇太子夫妻が二人でおこなうのでしょうけれども、順序からして、
皇太子妃が、周りから 見られているなかで身体作法にきちんと則ってやるということの、
つまり、ある種の権力空間に身を置くことの苦痛というのは、かなり大きかったのではないでしょうか。

保阪 それがからだに出てくるというわけですか。口には出さないけれども。

原 もちろん推測ですよ。

保阪 しかし皇室行事の重要性について、雅子妃は結婚する前にいろいろ聞いているはずでしょう。
それを彼女自身が認識していないのか、
あるいは皇太子が、疲れているなら休んでいいよというかたちで、言葉はわるいけど少々甘く考えているのか。
たしかにそのような推測をする向きもあります。

原 皇后から見ると、もしかすると、ナアナアでやっているように見えるのかもしれないし、
天皇もひょっとしたらそういうふうに考えていたのかもしれない。

保阪 こうなってくると、いまの天皇の祭祀への姿勢がなおさら気になってきますね。
父・昭和天皇がおこなっていたことを手本にしているのか。
あるいは、これだけは必ずおこなえよと父から固くいわれていたのか。そのへんが知りたいところですね。

原 当然、昭和時代は昭和天皇夫妻が祭祀をおこない、現天皇夫妻は皇太子夫妻として参加していたわけです。

保阪 香淳皇后からキツイことをいわれたりしたのかしら。
昭和三十四(一九五九)年のころの、香淳皇后と美智子妃の関係や、
天皇と皇太子の祭祀をめぐる事情を調べたらいいかもしれませんね。
当時のそれぞれの祭祀出席率がわかるとありがたい。
たぶんきちんと出ていたんでしょう。

原 昭和天皇の侍従長だった入いり江え 相すけ政まさの日記などにあたれば、もちろん記録はあります。
だけど、その日に祭祀をおこなった、天皇が来たというところまでは書いてあるけれども、
皇后や皇太子や皇太子妃はどうだったかというところまではあまり書いていない。
そこまではたぶん厳密にはわからない。
ただ、入江日記には祭祀のあり方をめぐって、
昭和天皇と香淳皇后の間にも温度差があったことが示唆されています。
それが表面化するのは、入江が「魔女」と呼んで毛嫌いする女官の今城誼子の記述が目立つ
一九六〇年代から七〇年代にかけてです。
今城はもともと貞明皇后に仕えていた女官で、貞明皇后と同様に敬神の念が厚く、
をおろそかにするのを何よりも嫌っていました。
香淳皇后も今城を可愛がりますが、それは香淳が今城に感化されることでもありました。
入江は天皇夫妻がしだいに高齢化してきたのに伴い、
体力を要する祭祀を代拝にして負担を減らそうとし、天皇からは了解を得ますが、
そのたびに今城の抵抗にあい、皇后も「日本の国がいろいろ
をかしいのでそれにはやはりお祭りをしつかり遊ばさないといけない」
(『入江相政日記』一九七〇年五月三十日)と発言するなど、難色を示すのです。
入江によれば、今城は「真の道」という教団に出入りしていました。
聖徳太子を「聖の君」として仰ぎ、日鏡・月晶・神剣を神器として奉斎する教団です。
ただし 河原敏明は、『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』(講談社)のなかで、
これを入江の独断として否定し、今城が入信したのは「大真協会」という別の団体であり、
実は皇后も信者であったという驚くべき説を紹介しています。
まるで『対論 昭和天皇』でも取り上げた松本清張『神々の乱心』の戦後編のような話ですが、
実はこの説は一九八三(昭和五十八)年の『週刊新潮』にすでに出ており、
それを真っ向から否定する入江の談話も掲載されています。
なお大真協会という団体はホームページもなく、実態がつかめません。
結局、今城誼子は入江ばかりか天皇からも嫌われ、一九七一(昭和四十六)年に罷免されます。
『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』には、
皇后が今城を「良き時期に再任」すると確約した直筆の手紙が掲載されています。
しかし皇后の思いもむなしく、今城は再任されませんでした。
そして皇后の痴呆が目立ちはじめるのは、ちょうどこのころからなのです。
天皇は皇后のただならぬ様子に、明らかに動揺し、「お口のパクパク」が激しくなります。
いったんは了解した祭祀の簡略化に天皇が難色を示すようになるのも、それが影響しているのかもしれません。
ひょっとして昭和天皇は、大正天皇の脳の病気が進んだときに「神ながらの道」にのめり込んでゆく貞明皇后の心境を、
このとき初めて理解できたのではないでしょうか。

保阪 スゴイ話だ。やはり宮内庁には実録を早く完成してもらいたいですね。

原 まったくです。


宮内庁は知らせたくない

保阪 宮中でどのような祭祀がおこなわれているか、
その具体的内容は、いまだ充分に公開されてはいないわけですよね。

原 そうです。高橋紘のような、宮内庁に長らく詰めたジャーナリストや、
侍従長や侍従のような側近が多少書いてはいますが、
基本的にはまったくのブラックボックスです。
唯一の例外は、皇居東御苑でおこなわれた一九九〇(平成二)年十一月の大嘗祭で、
一部が公開されたことぐらいでしょうか。

保阪 天皇家の私的な領域にわたるというわけですね。当然、憲法上の国事行為ではない。

原 はい。宮内庁は宮中祭祀についてまったく公開していないんです。
象徴的なのは祭祀のおこなわれる場所である宮中三殿の扱いです。
宮内庁のホームページには「皇居案内図」が載っていますが、
宮中三殿が皇居内のどこにあるのかまったくわからない。
みごとなまでにその位置が抹消されているんです。
それから先ほども少し触れましたが、同じホームぺージには、天皇夫妻や皇太子夫妻の日程が公開されています。
クリックすれば日々の細かいスケジュールが出てきますが、そこにはひとつとして祭祀に関するものはない。
宮内庁は、とにかくこれをひた隠しにしているかというか、知らせたくないようなんです。

保阪 知らせたくないというのは、内部でいろいろな齟齬をきたしている側面があるということを
間接的に認めているというふうに解釈してもいいんでしょうか。

原 そういう見方もできると思います。

保阪 政府としてはホントにやっかいですね。これは大喪の礼のときに噴出した問題と同じです。
あのときも私的領域と公的領域とを分けたじゃないですか。
冷たい雨のなか幔まん幕まくのようなものをバラッと垂らして、ここから先は天皇家の私的領域だとした。

原 宮内庁は、できればああいったアクロバティックな論理をもち出さずに、そっとしておきたいのでしょう。

保阪 おそらくそうでしょうね。
ところで、祭祀の具体的内容については、うかがい知れぬことが多いとは思いますが、
たとえば着るものなどについてはいかがでしょうか。
まさかモーニングでということはないでしょうけれど、
衣冠束帯なのか、それともなにか白装束のようなものを着して、精進潔斎して儀式を執りおこなうのか。

原 昭和聖徳記念財団から出た『昭和を語る』という本に、
昭和天皇に仕えた卜部亮吾という侍従が皇室祭祀について語っているんですが、
天皇は祭祀では黄櫨染御袍を着ることが非常に多いとあります。
黄櫨染というのは黄櫨で染めた上に蘇芳を重ねた特殊な染色で、
この色の衣装は天皇だけのものだといいます。
祭によって装束が違うらしいんですが、だいたいは黄櫨染御袍を召して自ら祭典をおこなったり、
三殿に拝礼する。これはたぶんいまも踏襲されているのではないかと思うんですよ。
それから儀式の前には潔斎をするといいます。

保阪 それは天皇、皇后、皇太子までですか。

原 皇太子妃もです。掌典長や侍従を含め、宮中三殿に上るには必ず潔斎をしなければなりません。

保阪 祭祀のさい、秋篠宮以下の皇族は後ろに立っているだけなんですね。

原 もちろん。じっさいに三殿に上って拝礼をするとか祭典をおこなうとかいうことはないので、
潔斎をする必要もありません。
それから大祭に関していうと、いつもではないのですが、
内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官といった三権の長が出席する場合がある。
記録を見ると、小泉純一郎首相が出席しているケースもあります。

保阪 なるほど。だとすれば政治家の日記などにあたってみると新しい発見があるのかもしれない。

原 そうですね。この点で面白いのは『佐藤栄作日記』です。
佐藤は一九六四(昭和三十九)年から七二(同四十七)年まで首相の座にありましたが、
この間に春季皇霊祭・神殿祭と秋季皇霊祭・神殿祭、
それに新嘗祭にはほぼ欠かさずに出席しているんですね。ケネス・ルオフは『国民の天皇』(共同通信社)の中で、
「師の吉田茂同様、天皇の歓心を得ようとする佐藤の努力は涙ぐましいほどだった」と指摘していますが、
祭祀への出席もこうした努力の一環だったのかもしれません。

保阪 ぼくは政治家、とくに首相体験者は後世への責任として、
必ず記録を残すべきだというのが持論で『政治家と回想録』(原書房)という本まで書いたのですが、
いまの原さんのお話に関していえば、たしかに佐藤栄作の日記などを読みなおし、
入江日記などと突きあわせてみる作業が必要なのでしょうね。

原 おっしゃるとおりです。

保阪 しかし、宮中祭祀に三権の長が出席しているとなれば、
政教分離原則からしても微妙な問題をはらんできますね。
国事行為、準国事行為(公的行為)、私的行為のうち、準国事行為とみなしうる。

原 おそらく公的行為に含まれると解釈できるのではないでしょうか。
しかし宮内庁としては、政教分離原則に抵触するかどうかということもありますが、
それよりも これまで指摘した宮中祭祀をめぐる皇室内部の確執というもののヒント、
示唆を与えかねないことを怖れているのだと思います。


「公務」と「伝統やしきたり」とのあいだ

保阪 なるほど。説得力はありますね。この観点からすると
「公務というのは、かなり、受け身的なものであるのではないか」との
秋篠宮発言は俄然べつの意味を帯びてきませんか。

原 ぼくは「公務」といった場合に、国事行為には入らないけれども、
三権の長が出席をすることもあるものを、
それをたんなる天皇家の私的な行事といいきれるだろうかと思うのです。
ちなみに、今年出された自民党の憲法改正に関する「論点整理(案)」では、
天皇の祭祀などの行為を「公的行為」と位置づける明文の規定 を置くべきであるとされています。

保阪 少なくとも秋篠宮が認識する「公務」の内容には、宮中祭祀が含まれるというのが原さんの推理ですね。

原 ぼくにはそう読めたんですよ。しかも宮中三殿でどんなことをおこなっているかといえば、
当然、皇祖皇宗、あるいは歴代天皇に向かって祈っているわけです。
なんのために祈るかというと、五穀豊穣と国民の平安。
「民安かれ」と祈るということは、そこでパブリックなものとつながっているともいえる。
天皇家の私的な 行事は結果的には国とか民というものにつながるとの認識をもつ者にとって、
それは「公務」であるといっても、けっしておかしくはないと思うんです。

保阪 どうも兄と弟のあいだで「公務」の意味あいが食い違っているようですね。
秋篠宮のいう「公務」は、もしかしたら皇太子のいう「伝統やしきたり」なのかもしれない。

原 そうなんです。二〇〇四年六月八日の皇太子の説明文書にはこうあります
(編集部註:表記等は読みやすくあらためてあります)。

(五月の人格否定〞発言のあった)記者会見以降、これまで外国訪問ができない状態が続いていたことや、
いわゆるお世継ぎ問題について過度に注目が集まっているように感じます。
しかし、もちろんそれだけではなく、伝統やしきたり、プレスへの対応等々、
皇室の環境に適応しようとしてきた過程でも、たいへんな努力が必要でした。
私は、これから雅子には、本来の自信と、生き生きとした活力をもって、
その経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動をおこなってほしいと思っていますし、
そのような環境づくりがいちばん大切と考えています。

国民の多くが気にしているお世継ぎ問題にすぐ続けて、「伝統やしきたり」が出てくる。
ぼくはあの言葉を素直に額面どおりに受け取ればいいと思っているんですよ。
だから『アリエス』にも「(皇太子は)『伝統やしきたり』に批判的に言及した。
その背景にあるのは、宮中祭祀をめぐる皇室内部、
とりわけ天皇夫妻と皇太子妃の間に横たわる温度差ではないのか」と書いたんです。

保阪 つまり「伝統やしきたり」という言葉はストレートに「祭祀」と理解していいということですね。

原 ぼくはこれを書いたときにそう解釈しました。

保阪 原さんのお考えをずっと突きつめていくと、
天皇家のなかに、いまいろいろと垣間見える対立というのは、
一過性の家庭内のいざこざではなくて、かなり本質的な対立だということになりますよね。
天皇制、天皇家のありかた、天皇のありかたまで含めて。

原 ええ。現天皇夫妻は、そういう意味でたぶん昭和天皇とかなり連続していて、
祭祀を繰りかえしおこなうということが、
おそらく、神武以来、アマテラス以来、連綿と受け継がれてきた皇統というものを
維持する究極のよりどころといいましょうか、
自分たちのアイデンティティを確認するためのよりどころであると。
それはいくら時代が変わろうが、とにかく変わらないものとして
受け継がれていかなければいけないと考えていると思うんです。

保阪 ぼくは、明仁天皇自身が―これは美智子皇后も同様ですが―
天皇家というのは時代とともに変わるんですとしばしば述べていたことを考えあわせますと、
やはりあの方は新しいタイプの誠実な天皇だと思いますね。
時代とともに変わるということは、天皇のもつオモテの、国民に見えている顔というのは
固定したものがあるのではないことを意味する。
制度として固定したもの はいちおうその時代、時代であるんだろうし、それにしたがって動くのだけれども、
しかしそのウラの見えないところにある祭事は本質的に変わらないのだとするなら、
いまの天皇はたいへんな努力を重ねてきているということですよね。

原 そうだと思いますね。

保阪 市民的な社会のなかにいて、祭祀の伝統のなかにいる。
天皇の祭祀王としての性格を内にまもりながら、一方で時代に即応していく。
けっして分裂しないで、そこ へひとつの融合する機能性をもたせる。
それが「国民の象徴」「国民統合の象徴」ということなのか……。
なにか強い覚悟のようなものを感じますね。

原 現天皇はその使い分けということをすごく認識しているのではないかと思います。
もっとも、毎日地方に行って恵まれない人びとを直接励ますわけにはいかないから、宮中で祈るのだと解釈すれば、
皇居の「外」と「内」でやっていることは矛盾しないという見方もできますが、
いずれにせよ非常にうまくやっているように思われます。
それにひきかえ皇太子妃は……。

保阪 耐えられない……。

原 というか、そういうダブルスタンダードを設けること自体が非常に苦痛なのではないか。
「伝統やしきたり」に適応しようとした皇太子夫妻のこれまでの努力が、
天皇夫妻には必ずしも理解されていないのは、
「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、
まだ私に十分に理解しきれぬところ」があるとの
天皇の文書回答からもうかがえるといったら、うがちすぎでしょうか。


皇太子の戦略

原 皇太子夫妻は国民世論を味方につけながら、場合によっては大なたを振るって、これまでの伝統と決別して、
むしろ新しい伝統みたいなものを自分たちでつくっていくといいましょうか、
そういうほうに賭けているのではないかという感じがするんです。

保阪 それは女性天皇問題を含めてですか。

原 むろんそれもあります。いまのところ世論は圧倒的に女性天皇容認に傾いています。
べつに男じゃなくてもいいじゃないか、と。

保阪 皇統の連綿性というものは、いまや二の次になっている……。

原 たとえば二〇〇四年九月二十四日に、東宮御所の内部や、
自分たちの内親王にたいする教育ぶりをビデオで公開したじゃないですか。
あれはまた好感を呼んだと思いますけれども……。

保阪 絵本を読みきかせたり、皇太子の肉声も入って「よきパパぶり」を示した。
しかし、私はああいうことはしなくてもいいと思う。

原 ひたすら自分たちは、そのへんにいる一市民というか、
ふつうの家庭と同じであるというようなイメージを演出して、垣根を取っ払って、まさか自分たちが突然着替えて、
皇居の奥深くで恭うやうやしくぬかづいて拝礼しているというようなことを国民にはみじんも想像させない。

保阪 オランダやベルギーの王室のような感覚ですよね。

原 そっちの方向で演出したいんじゃないかと思います。
それによってむしろ皇室の存在というものを人びとに認識させて、皇室をより安定させていく。

保阪 それはある意味で危険な考え方ではありませんか。

原 そう考える人も多いでしょうね。だけど少なくとも主観的には、
皇太子夫妻はそう考えているのではないかとぼくは見ます。

保阪 現段階において、それは成功しつつあるのかもしれない。

原 短期的に見ればね。しかし長期的に見てどうか。それは、皇室そのものの廃絶にいたる道かもしれない。

保阪 うーん。その危険性を含んでいると、私も思う。
ともあれ皇太子はそういう自分の「改革」のパートナーとして雅子さんを選んだのかもしれませんね。
だから「全力でお守りする」と。

原 雅子さんはそれを理解して宮中に入った。
おそらくほんとうに皇太子といっしょになって変えたいと思ったと思うんですね。
ところが、それは自分の想像をはるか に超えるような巨大な壁だった。それに気づいて打ちのめされたというか
それがある種の精神的な混乱をひき起こしているのではないか。

保阪 雅子妃は、自分の心身が不調になることで、
はじめて皇后になるということの怖さを知ったのかもしれませんね。

原 ここでも昭和史が参考になります。昭和天皇が二十代のとき、
貞明皇后とのあいだに相当な確執があったことは、さきほどお話ししたとおりです。
とくに摂政宮と なる直前、一九二一(大正十)年の三月から九月にかけてヨーロッパを訪問し、
それこそむこうの王室に刺激を受けて帰ってきて、
いきなり改革に乗り出したわけでしょう。女官をお側に置くのを廃止するとか、
明治以来の一夫多妻の源になっているような古いしきたりを排そうとするわけです。

保阪 それにたいして貞明皇后は欧風化する王室には立ちはだかって頑強に抵抗している。
もっとも側室制度の廃止は当然と思っていたでしょうけれど。

原 そうです。つまり、皇太子というのは、そういう意味でいつの時代でもといったら言いすぎでしょうが、
時代にあわせて皇室を革新させようとする存在であり、
それにたいして皇后や皇太后というものは伝統を守ろうとするものなのかもしれません。

保阪 しかし、その結果どうなるかが問題です。

原 はい。では昭和天皇のときはどうだったか。
は先にも触れたように、昭和初期には皇太后となった貞明皇后に
きちんと祭祀をおこなわなければ神罰が下ると言われて神器に固執するようになり、
一九六〇〜七〇年代には今城誼子に感化された香淳皇后を思うあまり、
祭祀の簡略化に抵抗しているように見えます。その意味で昭和天皇は、
皇太后や皇后に振り回されているように見えなくもない。
今回はどうなのか。いま、皇太子夫妻ががんばっているわけですが、
もし歴史が繰りかえすのであれば、けっきょくは雅子妃にも敬神の念が芽生え、
現天皇夫妻の ように祭祀を熱心におこなうようになっていくのか、
それともあくまでも彼らが押しきって、まったく新しい皇室をつくっていくのか。


兄宮と弟宮の微妙な関係

保阪 しかしですよ、秋篠宮家に男子が誕生した瞬間に、いままでの話はどこかにすっ飛んでしまいますよね。
現行の皇室典範どおりにいけば、皇太子は即位しても一代かぎり。次の皇位は弟宮の家にいく。

原 そうです。女性天皇論なんかどうでもよくなっちゃうんです。
これまでの懸念はぜんぶ消えるし、宮中三殿も宮中祭祀ももちろんそのまま維持できる。
ですから湯浅利夫宮内庁長官の「秋篠宮家に第三子の出産を希望したい」という発言はホンネだと思いますね。

保阪 あれもすごいセリフだ。暗に皇太子夫妻は批判されていることになる。
ところで、昭和史の単純な事実なんですが、昭和前期においては兄宮である昭和天皇も
弟宮(秩父宮・高松宮・三笠宮)もみな若いんです。

原 しかも兄宮にはまだ世継ぎがいないし、弟宮にも子はいない。
現天皇の誕生は一九三三(昭和八)年ですからね。

保阪 しかし、けっきょく秩父宮と高松宮にはお子さんが生まれず、
そして二〇〇四年十二月十八日に高松宮妃の喜久子さんが亡くなったことでついに両宮家とも断絶した。

原 陸軍の一部には根強い秩父宮待望論があって、昭和天皇と秩父宮の関係は微妙でした。
貞明皇后は、昭和天皇よりも秩父宮の方を溺愛していたという話もあります。
いまの日本で二・二六事件のようなことは起こりようがないけれども、
秋篠宮家にもし男子が生まれた場合に東宮家と秋篠宮家の立場が逆転する可能性はあります。
そのとき世論はどう動くか。

保阪 世論は秋篠宮家のほうになびく流れに変わるかもしれない。
しかし、現状では国民世論は「女性天皇容認」の方向にあるようですが……。

原 秋篠宮は二〇〇四年十一月の会見で、五月の皇太子発言について「残念だ」と述べたあと、
第三子についてはこう述べています
(編集部註:表記等は読みやすくあらためてあります)。

  ……(宮内庁の湯浅)長官が「皇室の繁栄」と、それから、
これは意外と知られていないように思いますが、
「秋篠宮一家の繁栄」を考えたうえで「三人目を強 く希望したい」ということを話しております。
宮内庁長官、自分の立場としてということですね。
そうしますと、私が考えますに、そのような質問があれば、宮内庁長官という立場として、
それについて話をするのであれば、
そのようなことを言わざるをえないのではないかと感じております。

しかし、男子誕生となれば、それは「秋篠宮一家の繁栄」もさることながら、
その子は即座に皇位継承者なのです。

保阪 やはり女性天皇容認論の高まりにたいして「ちょっと待て」といっているように聞こえるし、
長官にたいしては「よし、わかった」とも聞こえてしまう。兄宮と弟宮との関係はむずかしい。

原 昭和天皇は秩父宮にだけでなく、高松宮にたいしても非常に警戒心を抱きますよね。

保阪 戦時中のことでしょうか。そのときは、高松宮は海軍軍令部にいた。
しかし昭和天皇は高松宮の意見をあまり評価してなかったんじゃないですか。

原 阿川弘之さんに怒られますよ(笑)。

保阪 高松宮は一九四一(昭和十六)年十二月一日でしたか、
最終的に対米開戦を決めるときに、兄の天皇のところに行く。
そして「海軍は開戦にみんな反対している」 というので、天皇はびっくりして、
軍令部総長の永野修身や海軍大臣の嶋田繁太郎をもう一回お召しになる。
海軍上層部は「いや、そんなことございません」。 それで、どうも高松宮のそそっかしさというんですか、
そういうものにたいしては距離をおくというのか、不信の念を抱くようになったように私は思いますね。

原 そうですか。しかし一九四〇(昭和十五)年十一月十一日、
紀元二千六百年奉祝会が宮城前広場でおこなわれたとき、
高松宮が前に出てきて「天皇陛下万歳」の発声をやります。
あれはフィルムも残っていて、ぼくも川崎の市民ミュージアムで見ましたが、
掛け声のしかたといい、じつにみごとなものです。
それを聞いた何人かの日記には「御力強い御声」「実に御立派であった」などと書いてあって、
感銘を与えたようです。そういう押し出しのよさはあったのではないでしょうか。

保阪 細川護貞の『情報天皇ニ達セズ』(『細川日記』)を読むと、
戦争末期に高松宮は、危ない連中とも接触していますね。
東條暗殺もやむなしというような企てにもコミットしています。
そのあたりも昭和天皇の不信をつのらせたかもしれない。

原 戦後も昭和天皇は高松宮を警戒していて、占領期に退位論がかまびすしかった時分には、
自分が退位すれば、当時まだ少年だった明仁の摂政として高松宮が力をふるおうとする野心があるから、
それはできないと考えていたふしがありますよね。


天皇の気魄

原 話を宮中祭祀に戻しますと、明治天皇も、大正天皇も、
晩年はみずからはおこなっていないんですよ。
大正天皇に関しては、体調が悪化する一九一九(大正八)年 からほぼやっていないということは、
この前公開された実録で確認できました。
昭和天皇は先に触れたように、一九七〇年代以降に入江相政が進める祭祀の簡略化に抵抗しますが、
それでもすべての祭祀を型通りにおこなっていたわけではありません。
年をとるにつれ朝早い儀式とか、ほんとうに寒いときの儀式などは、
しだいに時間を遅らせたり、代拝させるようになっていきます。

保阪 水をかぶったりしなきゃいけないんでしょう。

原 そうです。冷暖房とか基本的にないので、やっぱり冬は寒いし、夏は暑い。
水を浴びる場合に、冬はちょっとあったかくするとかはあったようですが。
入江日記に は、一九六九(昭和四十四)年七月に賢所に冷房を入れようとして、天皇からは許可を得るものの、
皇后に「とんでもないこと」と言われて断念したとあります。

保阪 昭和天皇はいつまでおこなっていたんですか。

原 最後までみずから祭祀をつかさどったのは新嘗祭です。一九八六(昭和六十一)年までということです。

保阪 十一月二十三日ですね。

原 はい。一九八七(昭和六十二)年に例の腸の手術があった。あれが九月でしょう。
それ以降はできなくなったのです。

保阪 昭和六十二年といえば、二月に高松宮が亡くなっていますね。

原 昭和天皇は、数ある祭祀のなかで新嘗祭をいちばん重んじていたんですよ。
あれはいちばんたいへんな祭で、「夕の儀」「暁の儀」からなり、
夕方から夜中までか かる。もちろん入江や侍従たちはなんとか昭和天皇の負担を軽減させようとして、
あの手この手を使って、「もういいです」と何度もいっているんです。
「われわれがかわりにやりますから」って。
でも昭和天皇はこれだけは聞かない。「暁の儀」をやめるところまでは妥協するものの、
「夕の儀」だけはとにかく譲らない。
どんなに寒かろうが、かたい畳の上でずっと端座して直会をしているわけでしょう。
当然、足なんか痛くなってくるわけじゃないですか。
新嘗祭が近づくと、天皇はふだんはソファに座って居間でテレビを見ているのに、
座布団を敷いて座って見るようになったといいます。
端座の練習までしていたんですね。

保阪 それにしても八十歳をすぎて、崩御の二年前まで自分で儀式をおこなうとは。
高齢なのに周辺は配慮しなかったのですか。

原 ここでも昭和天皇と高松宮のあいだには確執めいたものがあったようなんです。
天皇が晩年になっても祭祀にこだわるのは、皇后以外に高松宮の存在も無視できなかったことが、
入江日記からはうかがえます。
一九七四(昭和四十九)年一月三 日の元始祭を天皇は休みますが、
この日は高松宮の誕生日に当たり、天皇に会う習慣がありました。
そこで高松宮は、天皇が元始祭を休んだのは前日の一般参賀の疲れが残っていたせいではないかと
言ったというのです。
ここには、一般参賀に疲れたぐらいで大事なお祭りを休んでいいのかという批判が込められており、
天皇は大いに気にします。
また一九七六(昭和五十一)年四月三十日には、入江が天皇に翌日の旬祭を代拝にするよう求めたところ、
天皇は「あんまり急で昨日の誕生日のあとで疲れたのかと高松宮同妃が言つてもいかんから」と言って
これを拒絶しています。
昭和天皇と高松宮の間には、ほかにも当時、ぎくしゃくとした問題があり、
天皇は入江にしばしば高松宮に言及しています。
現天皇と弟の常陸宮にはそれを感じさせるものがありませんが、皇太子が祭祀にずっと出席しているのは、
ほんとうに出席したいかどうかは別として、秋篠宮への対抗意識があるのかもしれません。

保阪 そうかもしれない。

原 しかし、それはそれとして、みずから祭祀を執りおこなうというスタイルと気魄は
昭和天皇から現天皇に継承されていると思うんです。

保阪 いま、古希を過ぎてもというのは、すごいことですね。現天皇のもつ決意を感じます。

原 そうです。ぜんぶ自分でおこなっている。昭和天皇にもなかったことです。
それを見なおそうという声は、少なくともあまり聞こえてこない。

保阪 あと十日たらずで平成十七年を迎えますが、一月三日には天皇は元始祭に臨むのでしょうね。
もちろん、それは皇后もいっしょということですね。

原 ええ、いっしょに。

保阪 こういう分析をしていくと、いまのジャーナリズムでの議論は、
祭祀というなかなか合理的には説明のつかないことを抜きにしての、
表面的なものでしかないとい うことになりますね。むずかしいことではありますが、
もっと本質的な問題を探らなければ、天皇家の内実がわからないという感はします。

原 この問題に関しては、戦前と戦後に分けられないというか、
戦前と戦後で断絶したどころか、きわめて連続性があり、
しかも強化されているといっていい。その面を明らかにすることで、
皇室内の母子関係も兄弟の問題も歴史の相のもとで、もっとよく見えてくると思うんです。     
(『昭和史 七つの謎 Part2』巻末対談を再録)

産経 天皇陛下ご即位20年

■産経 天皇陛下ご即位20年
2009年1月5日

平成の皇室 「国民に尽くす」貫かれ
元日、午前5時半。皇居では、まだ夜も明けきらぬころから、天皇陛下が1年最初のお仕事を始められた。
「四方拝(しほうはい)の儀」。
天皇陛下は、伊勢神宮をはじめとする四方の神々と山陵を遙拝(ようはい)、
今年の五穀豊穣(ほうじょう)と国民の安寧を祈られた。
四方拝の儀は毎年、陛下ご自身が拝まれている。
昨年末、胃や十二指腸に炎症が確認されたことから、
ご負担を考慮して代拝も検討されたが、今年もご自身で臨まれた。
場所は、例年行われる神嘉殿(しんかでん)南庭ではなく御所前の庭に変更、ご装束もモーニング姿に簡略化された。
とはいえ、肌をさすような冷気のなかで執り行われることに変わりはない。
宮内庁幹部は「これだけはご自身でされるのがいい、というご判断では」と話す。
「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、
国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」
昭和天皇崩御に伴い、55歳で即位された天皇陛下は平成元年1月9日、
皇居・宮殿で行われた「即位後朝見の儀」でこう宣言された。
国民に対して「皆さん」と呼びかけられた天皇陛下。その言葉に、国民は新しい時代の皇室像を感じ取った。

即位後の天皇、皇后両陛下はお二人で力を合わせ、国民と直接接する機会を大切にされた。
この20年、日本は幾度となく大きな自然災害に見舞われた。
雲仙・普賢岳の大火砕流(平成3年)、北海道南西沖地震(5年)、
阪神・淡路大震災(7年)、新潟県中越地震(16年)…。
両陛下はそのたびにヘリコプターなどで現地入りし、被災者に直接お声をかけ、励まされた。
戦後50年の節目となった平成7年には、長崎、広島、沖縄、東
京都慰霊堂への「慰霊の旅」にも赴き、原爆犠牲者や戦没者の冥福を祈られた。
17年には先の大戦の激戦地、サイパン島も訪問、犠牲者を悼まれた。
両陛下はこの20年間で、47都道府県すべてを巡られた。
両陛下は、高齢者や障害者と向き合われると、腰をかがめたり手を握ったりされることがある。
昭和時代には考えられなかったことだ。皇室と国民との距離感は、確実に縮まった。
国民とともに歩む「平成の皇室」。20年の歩みに通底する陛下のご信念とは、何なのだろうか。

平成8年12月から約10年半の長きにわたり侍従長を務めた渡辺允(まこと)氏(72)は、
「陛下は、国と国民のために『尽くす』とおっしゃった」と指摘する。
陛下は平成10年12月18日、誕生日に先立つ宮内記者会との会見で次のように述べられている。
「…国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、
国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています」
今も宮内庁侍従職御用掛として両陛下に仕える渡辺氏は、
「そのお言葉通り、毎日の行事一つ一つ、会う人一人一人をおろそかにせず、
丁寧になさるその積み重ねが20年の皇室像を成している」と振り返る。
陛下は今年の新年のご感想でも、「国と国民のために尽くしていきたい」という言葉を使われている。
地方のご訪問では遠くにいる人にまで手を振られ、国民との懇談では一人一人ときちんと言葉を交わされる。
昭和天皇も戦後のご巡幸でそのようにされたが、さらに徹底されたように思われる。
陛下は国民との関係において新しい皇室像を築かれる一方、皇室の伝統も大切にされている。
陛下が、昭和天皇にならい、宮中祭祀を厳格に執り行われていることは、意外と知られていない。
宮内庁掌典職によると、陛下は昨年、恒例の祭祀のほか歴代天皇の式年祭などにもご自身で臨まれた。
毎月1日の「旬祭」にも地方ご訪問がない限りご自身で臨まれ、
昨年1年間に陛下が自ら臨まれた祭祀は約30件にも上る。
宮中祭祀の中でも、11月に行われる新嘗祭(にいなめさい)は特に大きな祭祀だ。

陛下は、夕方に行われる「夕の儀」と、午後11時〜午前1時ごろまで行われる「暁の儀」に出席されるが、
それぞれ2時間ほど床に正座し、新穀などを供えられる。かなりの激務だ。
渡辺氏は「陛下は夏ごろになると、時折正座をして新嘗祭に向けた準備をなさいます」という。
陛下は国民の目に触れない祭祀の場で、国家の安寧と五穀豊穣を願われている。
それは、昭和天皇をはじめ歴代天皇とも共通する「無私」のご姿勢でもある。
常に国民のために心をお砕きになる天皇陛下。
学習院初等科時代からの陛下のご学友である、元共同通信社ジャパンビジネス広報センター総支配人、
橋本明氏(75)は、陛下が皇太子時代から折に触れて口にされた次のような趣旨のお言葉を思いだすという。
「天皇という存在は、普段は国民の心に潜在化しているのが理想。 
国民が個々の難題に直面したときに、その存在を思いだしてくれればいい」
古くから、天皇は民を「大御宝(おおみたから)」と呼び大切にし、国民は天皇を父のように慕ってきた。
幾歳(いくとせ)を経て日本の統治機構は大きく変革してきたが、
天皇陛下と国民は、今も昔も「見えない絆」で結ばれている。
そのことを、陛下は誰よりも強くお感じなのだろう。
今年は、天皇陛下のご即位20周年、天皇、皇后両陛下のご結婚50周年という節目の年に当たる。
両陛下がこの20年で築き上げられた平成皇室像に迫るとともに、
心配される陛下のご健康問題、皇位継承問題など、皇室が直面する課題についても考える。


ご負担軽減 議論の時
昨年12月2日、天皇、皇后両陛下は東京都北区の都障害者総合スポーツセンターを訪れ、
さまざまなスポーツに励む障害者を激励された。気温9度。
12月としては厳しい寒さのなか、常に笑顔で話しかけられる。
障害者スポーツの振興は皇太子・同妃時代から取り組まれたライフワークでもある。
「どうぞお元気で!」。お帰りの際、陛下が見送りの人々にかけられたお声はいつになく大きかった。
ご体調に異変があったのはその日の夜。血圧が普段より明らかに上昇し、翌3日から一時ご公務を控えられた。
5日の胃カメラ検査で胃や十二指腸にただれや出血跡が見られ、「急性胃粘膜病変」と診断された。
原因は精神的、肉体的なストレスが考えられるという。
「陛下は決して『疲れた』という言葉を口にされない」と側近の一人はいう。
だが国民に見せる笑顔の裏で、陛下は胃がただれるほどのストレスに耐えられていたことになる。
ストレスの原因をめぐってはさまざまな憶測を呼んでいるが、宮内庁関係者の話から確実にいえることは、
陛下の日々のご生活は質素で規則正しく、そしてご多忙だということだ。
側近によると、陛下は毎朝午前6時にはお目覚めになり、まず、テレビニュースをごらんになっているご様子だ。
日々のお食事も決して豪華なものではなく、普通の家庭のごくありふれたメニューをバランスよく召し上がる。
時には、皇后さまがお作りになった品が並ぶこともあるという。
食べ物の好き嫌いをいわれることはない。おそばで仕える侍従も「さん」付けで呼ばれる。
ご執務のある日は、御所から徒歩で宮殿に向かわれることが多い。
法律の公布など国事行為に関する書類に目を通し、ご署名と捺印(なついん)をされる。
昨年の誕生日までの1年間でその数は1074件に上った。
また、同じ期間に地方8府県を公式にご訪問、東京都内や近郊へのお出かけも49回に上った。
その他、国内外の要人との面会や宮中祭祀(さいし)などもあり、「毎日のスケジュールは分刻み」(元側近)だ。
お目覚めが早いので早くやすまれるのかとも思うが、夜は午後10時半以降になっても
文書作りなどお仕事の準備をされていることもあるという。
すでに75歳。一般国民なら“後期高齢者”に当たる世代だが、陛下はリタイアすることはできない。
多忙で禁欲的なご生活はこれからも続く。
陛下は平成15年初めに前立腺がんの摘出手術を受けられている。

しかも、その治療の一環で現在も腹部にホルモン注射を打つ治療を定期的に受けられている。
74歳になられた皇后さまも19年3月に腸壁からの出血が確認されるなど、ご健康面で心配な面もある。
両陛下のご負担をできるかぎり軽減することでは、だれにも異論はないだろう。
実は、陛下のご負担軽減は、宮内庁にとって以前からの懸案事項だった。
昨年3月、宮内庁は「両陛下のご負担を軽減する観点から、祭祀の態様について所要の調整を行う」として、
ご即位20年を超える今年から宮中祭祀のあり方を見直す方針を明らかにしている。
陛下はなるべくご自身でお仕事をなさりたいご姿勢だが、宮内庁が祭祀のご負担を考慮して陛下に軽減をお願いした形だ。
昨年末の体調不良を受けた今回のご負担軽減は、医師団から申し出て受け入れられた。
金沢一郎・皇室医務主管は「陛下が受けてくださったのはお珍しい。ありがたいこと」と述べている。

宮内庁は年末年始のご負担軽減について、
(1)今すぐやらなくていいものは延期する
(2)時限性があり先延ばしができないものは行う
(3)記者会見などご負担が相当あると判断されるものは個々に検討する
(4)宮中祭祀は原則として代拝−とのガイドラインを示している。
宮内庁の羽毛田信吾長官も昨年12月11日の記者会見で
「陛下は確かにご多忙だが、『陛下でなければ』というお務めでもある。
入念な準備の上、相手と心が通う形で大切にやっておられる。そういうプロセスを抜きにして、
ただ『ご多忙だから』ということでこの問題をとらえられるのは抵抗がある」と述べている。
当面、行事をバッサリ切ることはせず、時間短縮などの方法でご負担軽減を図ることになりそうだが、
今後の長期的なご負担軽減にあたっては、宮中祭祀をどうするかが大きな問題として残る。
祭祀は陛下にとって肉体的ご負担が大きく、国民の目にも触れにくい行事ではあるが、
国家・国民の安寧、五穀豊穣(ほうじょう)を陛下が自ら祈られる点で、極めて意義が大きい。

旧皇族の竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫(やしゃご)に当たる作家、竹田恒泰氏は
「確かに昭和末期にも祭祀は簡略化されたが、陛下のご即位後は旧来のスタイルに戻されている。陛下は
国民の幸せを祈られているのであり、祭祀の簡略化をするなら、あくまで暫定的なものとすべきだ」と強調する。
「国と国民のために尽くす」という姿勢を貫かれている陛下のご負担の軽減に、国民も無関心ではいられない。
国民も参加して十分に議論する必要がある。


皇室守るは時の為政者
「ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、
皇室にかかわる諸問題をご憂慮の様子を拝しており…」
昨年12月11日、宮内庁の羽毛田信吾長官は、
胃腸にストレス性の炎症が見つかった天皇陛下のご心労についてこう語り、
原因の一つに皇位継承問題があることをうかがわせた。
この発言は、あくまで陛下のお気持ちをを忖度(そんたく)した長官の私的見解ではあるが、
宮内庁関係者によると、長官の発言内容はあらかじめ陛下に伝わっているという。
庁内では「陛下のご意向とはそう違わない内容」との見方が大勢だ。

皇統問題に関して陛下が記者会見などで踏み込んだ発言をされたことはなく、
陛下が実際のところどうお考えなのかはうかがい知れない。
しかし、われわれ一国民であっても、皇室の現状を考えれば将来の皇統維持に不安を覚えるのも事実だ。
「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」。
皇室典範第1条にはこう明記されている。
現在、皇位継承権を持つ男子の皇族は7人だけで、
未成年は秋篠宮ご夫妻の長男、2歳の悠仁(ひさひと)さましかいらっしゃらない。
安定的な皇位継承は、確かに現代の皇室の最重要課題である。
平成18年9月に悠仁さまがお生まれになるまでは、女性天皇・女系天皇を認めようという意見も強かった。
このまま皇室に男子がお生まれにならなければ、現行の皇室典範では
皇位の継承が極めて困難になるという危機感も反映した意見だった。

17年11月には政府の「皇室典範に関する有識者会議」で、女性・女系天皇を容認する報告書が出された。
政府もこの路線に沿った皇室典範改正案を国会に提出しようとしたが、悠仁さまのご誕生を受けて見送られている。
女性・女系天皇をめぐる拙速な議論は沈静化したが、同時に皇位継承問題に関する議論も沈静化してしまった。
悠仁さまのご誕生で男系男子による皇位継承が当面は維持される見通しになったとはいえ、それはあくまで当面の話だ。
悠仁さまの同世代の皇族がいらっしゃらない現実を考えれば、皇統は極めて不安定な状態にあると言わざるを得ない。

歴代天皇はこれまで125代にわたって、すべて男系で継承されてきた。
皇室問題に詳しい八木秀次・高崎経済大学教授は「この原理を変えてしまえば、天皇ではない別の存在になってしまう。
 天皇としての正統性は、生まれながらに備わった要件から得られる」と強調する。
歴史上、8人10代の女性天皇がいるが、いずれも男性天皇の血を引く男系の女性天皇だ。
「女性は皇位の継承者にはなりうるが、皇統の継承者にはなりえない」(八木教授)のだ。
過去にも皇統の危機に直面したことはあったが、
直系に男子がいなければ傍系の男子が天皇に即位し、皇統を維持してきた。
そもそも、現在の天皇陛下から6代さかのぼった直系のご先祖である光格天皇が、
傍系から即位した典型的なケースである。先代の後桃園天皇とは、7親等離れている。

共通の祖先は、光格天皇から3世代さかのぼった東山天皇だ=表。
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しかも、光格天皇は、世襲親王家の少なさから将来の皇統を案じた新井白石の進言で作られた閑院宮家の出身だ。
将来を見据えて対策を講じたことで、皇統は現代まで連綿と維持されている。
八木教授は「皇統を一本の幹に例えると、その脇に出たいくつもの枝が宮家。
直系の男子がいなければ傍系が肩代わりする形で、皇統は維持されてきたといえるだろう」と話す。
現代において男系男子の皇統を守るためになしうる方策は、
I旧宮家の復活、II皇族の養子を認め、旧宮家の男系男子を皇族とする−などがある。
IIの場合、「天皇及び皇族は、養子をすることができない」
とした皇室典範第9条の改正が必要であるが、この改正のみによって皇統を維持することができる。
旧皇族の竹田家に生まれた作家、竹田恒泰氏は
「皇統の危機は去っていない。今こそ議論しなければ、本当の危機を迎えてしまう。
ただ、まず女系天皇ありきでなく、男系男子という連綿と受け継がれた原則を
いかに貫徹するかという観点から議論すべきだ」と指摘する。
一度は下火になった皇位継承問題を、再び白紙から検討する必要があるのだ。
陛下の元側近の一人は「歴史上、時の権力者は皇室を守ってきた。
今の政治家は今後の皇室についてもっと真剣に考えなければならない。
江戸時代の幕府でさえ考えていたのに、悠仁さまのご誕生で安心してしまった」と、現在の政治状況を憂える。
竹田氏も「皇位継承問題は、政治家として歴史に名を残すことができるほど大きな課題だ」と話す。
麻生太郎首相は、実妹が寛仁親王妃信子さまという皇室と極めて近しい関係にある。
実体経済の悪化という緊急課題への対応を余儀なくされているが、
天皇、皇后両陛下のご即位20年・ご成婚50年という節目の今年こそ、
皇位継承問題を改めて考え直すチャンスといえるだろう。
(白浜正三、内藤慎二)


昭和天皇 東条元首相を称賛

米占領軍資料で明らかに

戦時下に勅語で
厚い信頼関係を裏付け
(毎日新聞平成7年3月19日or20日)

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昭和の日 あの一体感取り戻したい

産経 主張
昭和の日 あの一体感取り戻したい
2008.4.29 03:28

今日は2回目の「昭和の日」である。言うまでもなく、この日は昭和時代の「天皇誕生日」だった。
昭和天皇が崩御された後、いったん「みどりの日」とされたが、
激動の「昭和」という時代や昭和天皇を偲(しの)ぶため、
国民運動を背景に昨年から「昭和の日」となった。そのことの意味を今一度考える必要がある。
あの時代を振り返るとき、何といっても忘れられないのは、
日本が未曾有の大戦を経験したことと敗戦から奇跡的といわれる復興を成しとげたことだろう。
ことに、戦後の復興から高度経済成長を経験した人々にとっては「よくぞ生き抜いた」との思いが強いに違いない。
その「力」となったのが、国民の中心に昭和天皇がおられたことである。
戦後の国づくりをめぐっては、敗戦によりそれまでの価値観の多くが否定されたこともあり、
さまざまな考えの違いがあり、対決や抗争があった。
それでも大多数の人が前向きに取り組むことができたのは、
国民の間に天皇を中心とした求心力があり「一体感」があったからといえる。
このことは、実に多くの人たちが、昭和天皇の全国御巡幸によって励まされ苦難に立ち向かうことができた、
と述懐していることからも十分わかる。
ひるがえって今の日本の状況を考えるとき、そうした「一体感」が急速に失われているような気がしてならない。
政治の世界をとっても、党利党略で国の将来など考えない政治家が目立つ。
有権者も目先の利益だけで投票しているように見える。国民の意識がバラバラである。
民主主義の国だから、いろんな思想や意見があっていい。
だが「心」の部分までがバラバラであっては国の行く末は危うい。
その理由はさまざまに考えられるが、昭和の時代に比べ、
国民の皇室への思いが希薄になっていることもそのひとつだろう。
グローバル化や近代化によって皇室に凝縮された日本の伝統文化への関心が薄れてきていることは間違いない。
しかし一方で、皇室自身や政府の側にもそうした伝統を軽んじていることはないのか、問い直す必要がありそうだ。
「昭和の日」の名称が定着しつつある今こそ、あの時代の「心」を取り戻すため、
国民と皇室とが向き合って、皇室のあるべき姿についても考えてみるべきだ。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080429/imp0804290329000-n1.htm