外国報道に見る御成婚

「外国報道に見る御成婚」文藝春秋[編]1993年7月25日第1刷

アメリカ ザ・ボストン・グローブ 1993年1月14日
1971年、家族とともに日本に帰国した。帰国子女ということで、
公立小学校三年生のときひどいいじめにあうが、四年生になると、
外交官やビジネスマンの帰国子女の多い私立小学校に転校した。
1985年、第二位(※?)の成績でハーバードを卒業し、
東大の大学院で経済を勉強するため日本に帰国した。

オーストラリア ジ・オーストラリアン・マガジン 1993年2月13-14日号
世界をかけめぐり、高等教育を受けた彼女は、五つの言語を話し、
戦後の政治について職業的な専門知識をそなえ、その外交手腕も、
パーティーでのおしゃべりや優雅な着物の着こなし(※?)などというレベルにとどまらない。
食事が毒味され、作法に少しでもはずれれば厳しく批判され、
公の席ではかならず夫の三歩うしろを歩き、検閲ずみの言葉以外は話してはならない世界に入ることを、
彼女は十分承知している(※?)からだ。

イギリス ジ・オブザーバー・マガジン 1993年3月7日号
ある未成年者を使って発禁ビデオを撮っていたプロデューサーが警視庁の取り調べを受けた。
サングラスをかけただけの十九歳の東京大学の女子学生が
「外交官試験に向けて勉強しています」というキャプションつきで、
トップレスで写っているのが問題の写真である。
この女性は、シカゴで、プレーボーイ誌の見開きページに載った小和田だとされており、
一部千円で東京で売られているが、専門家は電子的に偽造したものだと言っている。

・シンガポール ハー・ワールド 1993年4月号
何か変えようと願うよりも、まず彼女は皇室について多くを学ばねばならないだろう。
そして「すべきこと」よりも「してはならないこと」のほうが多いと気づくことになるだろう。

アメリカ ザ・ニューヨーカー 1993年5月10日号
温厚でハンサム(※?)な青年(日本女性週刊誌によれば「マイケル・J・フォックスのタイプ」)
は、確かに女性に会ったのだ。
このお茶会への招待は、(同じく官僚組織の一部である宮内庁に電話をかけることによって)
父親が取り付けたものである。

外務省は宮内庁にぞっこんだったのだと言う人々もいる。これはばかげた意見ではない。
これといった国内的影響力のない外務省は、あらゆるコネを必要としているのだ。それに、
誇り高い父親が、自分の聡明な娘には上等すぎる相手などいないと考えたとしても、許されるだろう。
父親がそう考えたとしても、娘のほうはそんなことは知らなかった。
元駐ソ大使・中川融がミス・オワダを皇太子に紹介する手はずになっていた。
ところが、皇太子の学友が紹介をすませてしまった。
さわやかな容貌だから何を着ても似合うだろうが、彼女は美人コンテストの女王ではない。
モデルの周旋業者だったら、身長が足りない点
(5フィート4インチ半。対するに皇太子は5フィート4インチ)、鼻が大きいこと、
意思の強さを示す顎、不揃いな歯などを指摘することだろう。
マサコの祖父、銀行家だった江頭豊は一家にとってありがたくない存在だ。
彼は1962年に、問題を抱えたチッソに転じた。チッソは水俣湾に有機水銀を流しつづけ、
地元の多くの漁師やその家族を苦しめていたのである。
江頭は、一部を政府が支払うことになる総額二億ドルの補償の交渉に当たった。
江頭は汚染そのものに関係したわけではなかったが、しかし、補償は通例もっと寛大なものである。
昨年までマサコはきわめてノーマルな日常生活を送っていた。
野心的な父親をもった外交官の卵としてはノーマルという意味だが。
母親は大学でフランス語を修め、かつてエールフランスの極東支社長秘書を務めていた。
娘もオックスフォード大学ベリオール・カレッジに二年間留学し、父親と同じく国際関係論を専攻した。
彼女は皇太子が五年前に見つけた中華料理店を発見し(麻婆豆腐)、スイスでスキーを楽しみ、
ときにロンドンの日本大使館へ郵便を受取りに出かけた。大使館員たちは彼女に対して
自分の娘に対するような目を注いでいた
一つには、彼女が皇太子妃候補として報じられることがあったからだが、
さらに大きな理由は、彼女が上司の娘だったからだろう。
洋服を買う場面も放映された。デザイナーものではなく吊し。彼女の衣装で
最も高価なのは1500ドルのコートだが、これも何十着と売られたもの。

外国人女性は”ランクによる規制”とは無縁であり、御所でのお茶に招ばれて
ブルック・シールズがやってきたときには皇太子は大喜びしたものである。

「ニューヨークのティファニーであれやこれや買うというのでは困る」
経済観としては正しいのかどうかわからないが−
ティファニーで買物をすれば、少なくとも日本の貿易黒字削減には貢献できるわけだ−
皇太子にはどうやら意中の人がいるようだった。

明仁が天皇であり、彼の子供が皇太子であるのは、彼らが世襲的に聖職の長であるからだ−
理屈の上では、太陽の女神であり、大和の地にあった朝廷の始祖であると伝えられる
天照大神の、彼らは直系の子孫であり、象徴的な崇拝者なのである。
太陽の女神の恩恵を利して軍事独裁の道を歩むことに天皇が反対であるという
事実にいらいらしているのは、極右の連中だけだ。太陽の女神自身は日本人が
崇める多くの神々のなかの一人にすぎない存在になったのである。
小和田雅子の父親は、娘の結婚問題に悩んだ末、外務省に近いある神社にお参りしたが、
その神社は天照大神ではなく八幡神が祀られている神社だった。
八幡神は戦争の神として武士が尊んだ神である。

アメリカ ヴァニティ・フェア 1993年6月号
東京の皇室のコンピュータは、名だたる候補者たちの家系をしらみつぶしにチェックしてきたが、
これまで、ナルヒトが少しでも興味を示したお妃候補者は、やんわり断るか、
ほかの男と結婚するか、自殺をほのめかすか、または行く先も告げず国外に脱出してしまった。
小和田雅子は大ぶりの鼻と浅黒い肌の持ち主である。
フィリピン人やネパール人と間違えられることがよくあった。
だがショート・スカートをはいて大股で闊歩する二十九歳のマサコは、
「解放された日本女性」のイメージそのものだった。
マサコは疑問を声に出して訊いた。皇太子と結婚すれば、皇后さまを苦しめたのと
同じ恐ろしい宿命に悩まされなければならないのでしょうか。
皇后はこう答えた。
「あなたが自分の感情に正直になり、自分の判断に従っているかぎり、
いかなる問題も決して起こさせません」
その意味するものは明白だった。
皇后は、息子と結婚する者には個人的な庇護を与えると約束したのだ。
じっさい、マサコと日本の両方に「これから暫く大変」なときがやってきそうだ。
今回「インペリアル・ドラマ」を見守った人々の多くはこう予言する。
皇太子妃の育ちや性格を見れば、マサコは夫を支配しそうだし、皇室を根本から変えることになろう。

ところが天皇制のもうひとつの機能についてはほとんど語られることがない。
つまり皇居にある神社の社殿奥深く、秘密の場所で古の礼服を身にまとった人々が
何をやっているのか、という点だ。
きわめてモダンなマサコは、外国の首都に自分の足で立つよりはるかに多くの時間を
神道のセレモニーの場でお辞儀して過ごさねばならないというのに。

ワシントン・ポスト紙極東総局記者・東郷茂彦
彼女の決断については、これまで以下の二説があったとする。
日本のメディアが報じているような「古典的なロイヤル・ロマンス」、すなわち「ハンサムな王子がチャーミングな女性を好きになり、誠実と献身によってその心をつかんだ」ためで、
雅子さまは、外国語からファッション、料理までできる万能女性、「完璧なプリンセス」であるという説。
アメリカの一部週刊誌で唱えられているような「いやいやながらのプリンセス」説。
つまり、人生に成功を収めてきたキャリア・ウーマンが、仕事と自由を放棄するような圧力を受け、
その才能をつぶされていく悲劇と犠牲の物語という説。
ところがワシントン・ポストは第三の見方をとる。
「この見解によれば、マサコ・オワダは彼女の求めたものを正確に獲得したのだ」
ワシントン・ポストが経済的な意味での御成婚ブームが空振りに終わったことを、
「日本のウェディング・ベルのブルース」と題してビジネス面で大きく報道

十三日付のワシントン・ポストは、小和田恒氏の外務次官退官後の身の振り方に焦点をあてた。
駐米大使のような諸外国との政策が激しく対立するような第一線の激職は、
「未来の天皇の義父」にとってふさわしくないとの見方を紹介している。

時事通信・服部健司
皇太子妃が内定した1月には、中国共産主義青年団の機関誌「中国青年報」が、
婚約にいたるまでの経緯を5回にわたって連載した('93年1月8日より)。
昨年の天皇訪中への答礼か、この慶祝記事は外交的配慮にみちており、
友好的かつ客観的報道に貫かれていた。

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小川東洲

北海道新聞 2008年2月13日 夕刊

『私のなかの歴史 命の証を尋ね求めてM』 書家 小川東洲さん

ショコラとおイネ
一昨年の夏のある日、軽井沢にある小和田恒さんの別荘へ向かう途中でのことでした。
雅子様もかわいがっていた小和田家の愛犬、ヨークシャーテリアのショコラは、もはや失明し、
はったままでしたが、ご夫婦は何度も運転の手を休めては介抱にこれ努めているのです。
見るに見かねた私が、「これでは(オランダに)持ち帰れますか」と声を掛けますと、
「いいえ、連れて帰るのです」と、小和田さんはなんともかよわい声で話すのです。
実はショコラを「持ち帰る」と話したのはそれなりに理由があってのことでした。
このときの老ショコラが首の出るトウで編んだ手提げかごに入っていたからで、
私どもには「持ち帰る」がこのときに合った言葉に思えたのです。
(略)

財団法人 美術文化振興協会
http://www.finearts.or.jp/riji.html
理事 小和田 恆 財団名誉会長 国際司法裁判所判事
   小川 東洲 財団常務理事 書家

小川東洲氏
愛子さまの書道について
「これはすごい!」とうなるような完成された書を4歳で書く と発言
「私がハーバードの客員教授になれたのは小和田氏のおかげ」とも
ハーバードでも雅子さまの師
雅子さま結婚前、小和田一家とともに北海道旅行へ


数学者の広中平祐氏が主催する、「数理の翼」セミナー
このセミナー第4回に小川東洲氏も参加
このセミナー第1回目の開催場所:栃木県那須の創価学会栃木研修道場
広中平祐氏とは…
著書
「子供の教育と親のかかわり」 著者名:広中平祐/著 広中和歌子/著 出版社名:聖教新聞社
「創造的に生きる」 著者名: 広中平祐/著出版社名:聖教新聞社

小川 
私があちらへ行った年のご入学でしたが、雅子様は一年の時から優秀で卒業時には
学生最高のマグナ・クム・ラウデ賞を受けておられます。

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「プリンセス・マサコ」ベン・ヒルズ 政府・宮内庁は抗議

フライデー2006年8月18日号 ベン氏インタビュー記事
「結婚当初、皇太子夫妻に子供ができないことを案じた天皇と皇后が毎月、雅子妃に『生理があったか』と聞くなど、
皇居の住人は彼女に屈辱的なプレッシャーを与え続けました。
雅子妃はそれに抗えずに不妊治療に取り組むことを決めましたが、
不妊対策のホルモン治療は肉体的にも精神的にも非常に辛いものです。
これが彼女の体調不良の原因のひとつになったと、私は考えています」
私は愛子様が体外受精で誕生したことを確信している。

結婚直後に子供ができなかったにもかかわらず、妊娠の可能性が低くなる高齢になってから、
愛子内親王が誕生したため疑問を持っていました。複数の専門医も同様の意見です。
実際、皇太子の精子と雅子妃の卵子を受精させる試みが2−3回行われたという、具体的な情報も得ています。

04年5月の<人格否定発言>の直後、皇太子は退位の可能性について雅子妃と話し合いました。
しかし、最終的にはそれが不可能だという結論に達したのです。
当時は皇室典範改正が議論され、愛子内親王が天皇に即位する可能性がありました。
自分たちが退位したら愛子内親王の天皇教育はどうなるのか、
愛する娘を手放さなければならないのではないか、皇太子夫妻はそう危惧したのです。

また、小和田家は<皇太子妃の実家>という立場を非常に誇りに思っています。
退位した場合、その原因を作った雅子妃とその実家に非難が集中する。
その影響を考えれば退位などできないというのが夫婦の考えでした

宮内庁は雅子妃を海外に出さずに皇居内に<軟禁>し、『適応障害』という本来の病名とは異なる発表をしました。
そして皇室はそれを黙認しています。
これらの時代錯誤な態度が海外での日本のイメージを悪くしていることに、日本人は気付くべきでしょう。
特に女系天皇や、皇族が外国人と結婚することを認めない制度は、
日本人が(女性や外国人に対する)差別主義者であるという認識を強めています。
私の著作が、皇室について議論する契機になれば良いと思っています。

週刊朝日2006年11月17日号
元東京特派員ベン・ヒルズ本抜粋と作者インタビュー
皇籍離脱→「人格否定発言」のあと雅子妃と皇太子が考えるも、「小和田家の不面目になる」ことと、
「当時後継者とみられていた愛子内親王を連れて行けない」ため断念。
愛子さま出生の秘密は「人工授精。まわりは皆怒って否定するが」。
堤医師が去った後不妊治療は行われず。
宮内庁の画策した「離婚」 宮内庁は雅子妃は皇后に相応しくない、
皇太子は再婚すれば男児を得られるかもと離婚を検討。
皇室の人々も宮内庁も、この結婚は「間違いだった」と認識。
しかしただひとり皇太子だけが雅子妃を愛し支えようとしている。
彼の愛情が深いため、この問題を両者で話し合ってはいない。
また、皇室離脱すると、東宮を離れ東京の片隅かボストン、オックスフォードなどで一般市民として暮らす。
雅子妃の結婚「古代から続く閉鎖的な家に嫁ぐことはしたくなかったが、家族、国に対する義務感もあって応じた」
雅子妃の関係者は当初から危惧。
友人はみな否定的で、「ショックのあまり」一人は披露宴出席せず。
両陛下は招待者全員の資料に目を通し、100人以上と言葉を交わす一方、
雅子妃は「興味のある分野の人」とは話が弾むが、
相手によっては「何を話していいかわからず、戸惑った表情を見せることも」。
2002年にはサッカーの日本代表選手に愛子さまのユニホーム姿写真を見せて話が弾んだ)
雅子妃は「見つめられるのが負担」(宮内庁東宮職)で、
雅子妃にとっては「もっともハードルの高い公務」(宮内庁記者)が園遊会。

週刊朝日2006年11月24日号
雅子さま国民に明かされていない本当のご状態
元東京特派員が書いた「プリンセス・マサコ」の衝撃
ベン・ヒルズ氏へのインタビュー第二段
雅子さまが表にでなくなったころ
「午前2時か3時まで経済書を読んだり、一人で楽器を弾いたりしてすごしていた。
話す気力も失い、時にはドアの隙間からメモを差し出して職員たちと意思疎通していた」
同(2005年ごろ)では、同級生との陽気な茶会の翌日は壁に寄りかかって一人では立っていられない様子
情報源は?の問いにベン「皇太子の友人、皇太子夫妻に近い日本人ジャーナリスト
詳しくは明かせない情報源もある。東宮職員の関係者も当然含まれている」
ベン「マサコさまの状態は適応障害とはいえない」
アダム・ロバート卿(オックスフォード時代の雅子さまの指導教官)
「退屈と言うべきではないだろうが孤独な様子。女官たちも疲れ果てていた。
雅子さまは彼女たちのおせっかいに我慢がならないようだった。
結婚を決めたのはご自身である
ベン「病気の原因は結婚。宮内庁が雅子さまにいくばくかの基本的自由を認めることをしないがために
彼女の人生は台無しになっている」
世界の王室と比較して日本の皇室の閉鎖性を指摘、それをさせているのは宮内庁

週刊文春2006年12月14日号
「12月1日午後に行われた定例会見でも、野村一成東宮大夫は週刊朝日の問題について、
かなり熱く『大変遺憾だ』などと話していましたよ」(前出・宮内庁担当記者)だが、
(注:ペン・ヒルズ本で週刊朝日が<皇太子夫妻が皇籍離脱も考えていた>と報道した事)
ベンヒルズの本は「皇室の名誉を傷つけるもの」として、千代田側のほうが深刻に受け止めている。
ベンヒルズの本には鎌田勇による言葉として
「皇太子はマザコン」「皇太子はゲイでも不能でもない」と書かれているが、
鎌田氏は「そんな失礼なこと言うはずない」と完全否定。
雅子さまはベンヒルズの本について知らないらしい。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「プリンセス・マサコ」

米国大使館に日米半導体交渉のためにやってきたマサコは
資料ブリーフィングをされておらず、準備不足だった。
米国側が厳しい態度で交渉にでたところ、マサコは突然涙をこぼし、
泣きながら大使館から交渉を放棄して退去してしまうという事件があった。
このため、日本の外務省は米国側に陳謝する対応を取らなければならなくなった。

ジョンソンが例に挙げたのは、以前にべつの西洋人ジャーナリストからも聞いた話だ。
それによると、ある日マサコは米大使館側との半導体交渉の席に呼び出され、
ワシントンから派遣されてきたさる交渉相手と対した。
ところが、マサコはろくに事前のすりあわせを受けていなかったため、
相手に「ギタギタにのされて」しまった。
相手への雅子の対応は、わっと泣き出し、席を立ってそのまま大使館を出てきてしまう、
というもの。そのせいで日本外務省は後にアマコスト米大使に非礼を陳謝するはめに陥った。

エリック・ジョンストン(ジャパンタイムズの現副編集長)が語ってくれたところによると、
マサコは自分に対する一切の批評(仕事の進め方、アドヴァイスもろもろ)を受け付けない性格である。
結婚の為の退省のときには、あからさまに同僚の一部は廊下で踊りだしかねない位喜んだ。
かれらはマサコが誰とも打ち解けず誰の言うことも訊かず、
高飛車で、人間味がなく、さらに無能だったからである。
そんな女がほんの駆け出しの時期に身に余る重責を担わされたのである。

ハーバードでのクラスメートだった韓国系アメリカ人 
カルロスとデビッドカオはボーイフレンド。
デビッドは何も無かったはずという話、
カルロスには母国のプエルトリコに呼んでもらって旅行をした。

マサコの婚約発表後、新潟県村上市では市をあげて盛大なお祭りをして、
今後観光客が増えるのではないかと狂喜したが、
数ヵ月後小和田家の先祖の遺骨はひそやかに掘り起こされ他の地に移されてしまった。

父恒の評判は一様に悪い。外務省の元同僚は「何を考えているか理解しにくいタイプ。
非常に野心的だが、他者に対する忍耐や温かみに欠ける」
オックスフォードのアダムロバート卿は「感情面が欠落。批判に対し手厳しい」
エリックジョンストン(ジャパンタイムズ)は
「恒のことを正真正銘のa son of a bitch(畜生・糞野郎)と呼ぶ人もいる。
非常に有能だが情がなく冷淡だ。
男の子を切望していたにかかわらず授からなかったので、マサコは彼にとって息子だった。
結婚を含めすべてのことで父親を喜ばせようとしてきた雅子は、重症のファザコンだ。」

工藤雪枝「雅子さんのことを強い性格だと言う人がいるけれど、
私にとっては「流れる水」のような人。
世界中のいろいろな場所で育った人なので真のアイデンティティが無い。
彼女は順応性はあるけれども、彼女の性格は完全な発達を見ていない。
日によって変わるし、今日穴の開いたセーターとジーンズ姿だったと思えば次の日は
モリハナエのスーツでばっちりキメテいる。彼女は一貫性がなく安定性にも欠けている。」

マサコは中学時代、読売ジャイアンツのピンチヒッターの
ハラダハルアキのおっかけをしていて、彼の写真を持ち歩き、
彼と同じ、背番号8 を自分のソフトボールの ジャージにつけていた。
二人の少女たちは、十三、四歳のころから
世田谷の多摩川氾濫原にある巨人軍の練習場へ応援に行ったものであった。
練習の後で、彼女らはその選手と一緒に喫茶店で時間を過ごし、人目を忍んで
イタリア料理店で食事をともにし、そして時には(食事の)後で、
うらぶれた 六本木の 古いグリーン・ルームのようなナイト・クラブへ飲みに行ったりもした。
「(あの頃の)手紙をとっとけばなあ」と(ハラダは)感慨深げに言う。
「相当な価値があったろうになあ。」
ハラダは 田園調布にある Dolci Mari Risa という、
(マサコの)学校からそう遠くはない 、トレンディーなケーキ屋に座り、アイス・ティーをもてあそんでいる。
60歳近いが、日に焼けた顔は今も変わらずハンサムだ。がっしりした体格に白髪混じりの硬い髪。
ピンクのストライプ・シャツにスラックスといういでたちで、腕輪のように太目の金の腕時計をしている。
彼は 1979 年にジャイアンツが九州のトレーニング・キャンプへ行った折のことを懐かしんでいた。
バレンタインデーに、(九州キャンプにいた)彼のもとへ、
恋心に揺れる16歳のマサコがチョコレートとラブレターを送ってよこしたのだ。
「たった一枚のカードとかいうんじゃなくて、二ページか三ページの手紙ですよ。
彼女が僕の野球をどんなにすごいと思っているか。僕のことがどんなに好きか。
実は・・・、ただその、いろいろなことを。」彼は頬を赤らめんばかりである。
彼は(二人の)少女たちと一緒に撮った写真も持ってはいたが、
妻に誤解されることを恐れて、マサコが結婚するまではそれらの写真を壁に貼ったりはしなかった。
「野球選手のまわりには、いつも女の子が大勢群がってきます。
率直な話、こういうことを心配する親ごさんたちもいます。
(しかしほとんどの)女の子は親には内緒なんじゃないかな。僕の友人のなかには、
(そういうおっかけの女の子と)結婚したやつが何人もいます。ファンと結婚したわけです。」
(ハラダと二人の少女の)友人関係は、十年間続いた。
折に触れて会うという感じで、時にはハラクミがボサノヴァを歌うのを
(連れだって)聞きに行ったりした。

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原久美
「雅子様の両親は幸福よりもステイタスに重きを置いて雅子様を育てた。
彼らは強烈な出世志向タイプで家の中はいつも厳格で緊張感が漂っていた。
卵の殻を割らないようにソロソロと歩かなければならないような、
そういう家庭の雰囲気だった。部屋の中は書物に溢れ、テレビもない。
彼女の両親は彼女に可能性を見出し、多大な期待をかけていた。」

母優美子は恒のモスクワ赴任が決まった時、書道の教授のポストを断って、恒について行った。
妻として恒の野心を優先させなければならなかった。

アイコの世話係の女官は、アイコが甘やかされてだめになると愚痴をこぼしている。
駄々をこねるし、プレゼントをもらうと礼儀正しく微笑んでありがとうと言う代わりに、
思ったことをはっきり言って、くれた人を傷つける、と言う。

試験管ベビーアイコの事実は、天皇の命を受けた宮内庁と日本政府により隠蔽された
プリンセス・キコが男児を産む可能性があるなら堕胎させるべき、と宮家が主張した。

天皇皇后が障害者施設へ赴くのは、幽閉から来るストレスを発散させるためである
障害者の手を強く握り、彼が苦痛で顔を歪めるシーンは日本のテレビでは放映されない。
正しい日本人は天皇制を打破して、”冤罪囚人”たる皇族を監獄から解放すべき。
日本では、天皇が中国皇帝・韓国皇帝の忠実なる使者として君臨していることは
6年間の基本教育で習う。日本では天皇制に疑問を持つ国民が7割を超えている。

ローマ法皇が天皇に会わなくなったのは、天皇はカルト宗教・神道の精神的指導者だから。
皇室を支えるために使われる費用だけでマレーシアとベトナムが買える。

皇太子学生の頃のホームスティ
宮内庁厳選だったはずのホストファミリーだが、ホストマザーの両親は大戦中に
シンガポールのチャンギ収容所に捕虜として収容され、日本軍にひどい仕打ちを受け
特に父親はその精神的ダメージから立ち直っていなかった。
当然ヒロノミヤをホストすることにも反対だった。
同じように豪の一般人の中でもまだ反日感情が激しく、
ホストファミリーには脅迫状が複数送り付けられていた。
到着直後に連れて行かれたサザンクロスホテルのブッフェで、ヒロノミヤは皿にカレーライスを大盛り。
キャンベラでの総督主催の公式晩餐会の後、ヒロノミヤは数々の著名人の前でヴァイオリンでショパンを演奏。
「ホームステイ」のはずだったが執事、世話人(毎朝着る服を準備)、
皇宮警察のボディーガードの3人が随行、その他日本大使館員、現地政府職員チーム、
複数の警備車などがついてまわる超厳重警備。
Macedon山の展望台を訪れたが濃霧で景色が見えなかった時にヒロノミヤの言った言葉は
"Kissinger's lookout"(キッシンジャーの展望)。
当時の日本における、キッシンジャーに対する反感
(彼は当時日本人をJapよわばりしていた反日派)を表す皮肉であるが、
皇族の政治的発言はタブーであり、ヒロノミヤの教育係がこれを聞いたら卒倒したであろう。
ヒロノミヤはゴルフをしたがったが、予定には無かった上に、
昭和天皇が「アメリカ的過ぎる」との理由で禁止していたスポーツなので宮内庁随行員からNGを出された。
しかしホストファミリーは遠方に釣りに行くとメディアを騙し、
滞在中の別荘の近くのゴルフコースに忍び込んでプレーを体験した。
クイーンズクリフのOzone Hotelで開かれた帰国前のお別れ夕食会の途中で
ヒロノミヤが失踪し大騒ぎになったが、実は一般のバーに忍び込んで居合わせた地元民達から
ビリヤードを習っていた。

マサコのハーバード時代のネタはSunhee Juhon-Hodgesという、
韓国系とみられる親友が大量提供。雅子が外務省で最初に配属されたのはOECD関連の部署。
ハーバードでの指導教授はJeffrey SachsはOECDの顧問だった。
Sachsに面談して雅子の「薄っぺらい」全99ページの卒論も見せてもらったが、
これは日本の政治経済界の著名人の協力を得た上で、
(当時の)日米間における日本の圧倒的な貿易黒字は二度のオイルショックが原因であり、
輸入障壁は全く関係ない、とする、日本の政治家の受け売りそのままの結論を出している。

Sachsに、彼女には父親のコネにより日本の上級官僚の協力を得たという不平等な
アドバンテージがあったのでは?と質問すると、
教授は「ハーバードは、有力者の助言や協力を求めるような優秀な学部生のためにある・・・
ハーバードでのトリックは、君が非常に優秀で野心にあふれる学生ならば、他人の助けを求める事だ。
」という当たり障りのない回答をしている。

ハーバード時代、院生だった男性(オーストラリア人で現在経済学教授)
「彼女は何か問題にぶつかると、夜中の1時とか2時というとんでもない時間に電話してきました。
私たち(彼と妻)は子供が生まれたばかりで、夜は大抵私が当番になっていたんです。」

宮内庁の役人たちは、もう1年以上も離婚という「解決策」を検討していた。
雅子は皇后になるのにふさわしくないし、離婚すれば皇太子は再婚をして男子の後継者をもうけることができる。
さらに、女系天皇を認める法改正も避けられると、宮内庁の代弁者たちは語った。

ハーバード卒業の頃、キャンパスでは米国の主要銀行、会計事務所、
金融機関などのリクルートフェアが開催された。
母親である優美子が友人に話したところによると、
雅子は高級外交官である夫の基本給よりも高額なオファーを提示されたという。
優美子は「私達(家族)はみな遊んで暮らせるかも」と冗談を言った。

オックスフォードでは最初は国際関係学のM. Phil(研究ベースの学位)コースにいたが
その後それよりも楽なM. Litt(講義ベースの学位)に変更したものの、それでも修論を仕上げられなかった。
後者は9ヶ月間講義を受け、夏の間に短い修論を書いて終了する。

オックスフォードでマサコは80年代におけるアメリカから日本への戦闘機の販売について研究していた。
そういうトピックは将来のお妃としては相応しくないので、皇室の面目を保つために
2年もかけて書き上げて来た修論を諦めた。
入内後に元アドバイザーが来日、別の当たり障りのないテーマで修論を仕上げないかと打診したものの実現せず。
国連大学でも研究室を与えられたものの研究再開のめどは立っていない。

エレナ王女のレセプション。
なぜそこに招待されたか、土壇場で手書きでリストに加えられたという説と、
旧ソ連大使でモスクワ時代の小和田家を知っていた上にナルヒトのオックスフォード留学中の
世話役の一人だった東大学閥のナカガワ・トオルという人物が便宜を図ったという説。

成婚時には街中のポスターや車内吊り広告にマサコの顔写真が掲載された。
大多数の日本男性は彼女のことを美人だと言うであろうが、
それはポップカルチャーにおいてもてはやされる
若い可愛いタレントの外見とは違う物である。
彼女の鼻と顎はやや大きすぎで、肌は古典的なアイボリー色よりも一段階黒く、
歯は並びが悪い(曲がっている)。
皇太子が魅了された点の一つがこの特徴的な顔立ちであることは間違いない。
大学時代に増えた体重を何キロも落としたため、
(成婚当時)29歳の彼女は運動選手のような健康的な体型である。
マサコは高校時代にソフトボールの選手として優勝経験があり、今もテニスとスキーが大好きである。

マサコに対する批判のソースは大きく分けると三つある。
宮内庁は海外で長年生活していたマサコを、本の伝統を継承するには充分日本的でないと思っている。
そして、彼女は思ったことを軽率に口に出しすぎる。
そこで、彼ら(宮内庁)は、雅子を陥れるため酷い策略を繰り広げた。
選ばれた数名のジャーナリストに、バーや喫茶店などで、
オフレコということで彼女に関する情報をリークした。
その結果、雅子の過去の男性関係についての悪趣味なストーリーが出回ったり、
彼女の家族がひどい公害スキャンダルにかかわっているという可能性が示唆されるという結果になった。

第二のソースは、公家と華族である。
これらの家系は、つい最近まで、皇室の嫁や側室を生み出すことのできる唯一の場所であった。
ところが、まずはアキヒトが、続いてアキヒトの二人の息子たちが平民の嫁をもらったという
前代未聞のできごとに公家や華族のメンバーは腹を立てていた。
彼らは真珠やツインセットなどを身に着けて頻繁にテレビに登場し、
マサコのマナー、そして外見などについて、見下したような批判を繰り返した。
そして最後に、皇族のメンバーや有力な家族の子息令嬢が教育を受けているエリート校学習院の、
(各界に)影響力あるOGの会がある。彼女らは、(学習院の)卒業生の中から、
皇太子の嫁となるにふさわしいとおぼしき方々のリストを手間隙かけて作成し、
コンピュータでプリントアウトして(皇太子サイドに)提供した。
それにもかかわらず、皇太子は、(リストにのっていた候補者を)全員拒否したため、OGの会は大いに憤慨した。
彼女らも、舞台裏で、そしてメディアで、アンチ・マサコキャンペーンを繰り広げているのである。

マサコに対する反感がどれほど根強いものかを示す例としては、
偉そうな態度の生きた化石、浜尾実の言葉を聞くがよい。
雅子は、(結婚後の)計画や夢について(あらかじめ用意された原稿によらず)
自由に話したことによって、(婚約記者会見という)場に新鮮な空気を吹き込んだ。
それなのに、彼女を批判する連中は、彼女の話の内容には耳も傾けず、
かわりにストップウォッチで彼女を計ったのだ。彼らは舌打ちしてこう言った。
マサコは 9 分 37 秒もしゃべった。これは 皇太子よりも 28 秒長い、と。
夫となる男を立てるために自分は(おしゃべりを)遠慮して、
相手に自分の二倍ほどしゃべらせる。これが礼儀というものだ、という
暗黙の了解が(皇室には)あるらしい。
浜尾がこの会見について語ったのは、次のようなことだ。

――― (雅子様は)少々 でしゃばりが過ぎるように思われます。
何よりもまず、しゃべり過ぎです。質問されていないことまでお話しになっている。
アメリカ流ですね。西洋人が「レディー・ファースト」だと言うから、
雅子様も男性の前をお歩きになる。アメリカならそれでいいかもしれませんが、
日本ではもっと謙虚なふるまいを見せるべきだというのが、私の信ずるところです。

この時から 数年間、マサコは公の場で話すことを許されなかった。
宮内庁がストップをかけたからである。マサコが、この浜尾の無礼な言葉に
怒り心頭であったことは疑う余地もないが、
プライドを捨て、皇室のやりかたを学ぶよりほかに道はなかった。
結婚を放棄し、耐え難い不名誉を自分の家族にもたす(という不可能な選択)以外には---

これ以後、マサコが公の場で即興の受け答えをするということは、一切なくなった。
そして、(公の場では)あの貼り付けたような微笑みすら、
一瞬たりとも消すことができなくなった。そんなことをしようものなら、
(微笑みが消えた瞬間を)パパラッチに(カメラで)とらえられ、
(週刊誌などの)編集者たちがこぞって待ち望んでいた
『不幸な皇太子妃』という見出しを書く、格好の口実にされることは間違いないからだ。

帰国子女としての克服しがたいハンディーにもかかわらず、
マサコが日本で教育を受けた子供たちに追いつくのに、それほどの時間はかからなかった。
勉強もよくでき、ピアノやテニスを習って余暇を過ごす。
手芸部に所属しており、小学校六年生になると、(将来)は獣医になりたいと決意する。
放課後、彼女はうさぎ、鶏、魚、ハムスターやカメレオンなどの世話をした。
学校のプロジェクトで、一度はコジュケイ(小綬鶏)の解剖を行い、剥製を作ったこともある。
樽のなかで小ネズミを繁殖させており、これを学校が休みのときに家へ持ち帰ったが、
小ネズミたちが両親の住んでいたお上品な住宅街に逃げ出してしまったため、
近所でちょっとしたスキャンダルになったこともあった。
クラスメートたちに「オワ」というあだ名で呼ばれていた彼女は、なかなかの人気者であったようだ。
ややお転婆で、上流家庭で甘やかされている餓鬼というのとは違った。
彼女はいたずら者であった。とは言っても、日本で悪ふざけと思われるようなことは、
おそらくよそではそれほど悪いことだとは思われないだろう。
昼休みの前に弁当を食べたり、屋上に上がって)雪の玉を生徒仲間にぶつけたりした。
サイレンを録音したものを授業中に流したときには、
生徒たちがばたばたと建物から外へ避難するという大騒ぎになった。

日本の聖人伝記作家たちはマサコが一九八五年夏に優等賞(マグナ・クム・ラウデ)で
卒業したことを大々的に持ち上げた。
これは、アメリカの大学制度をよく知らない人には、
彼女がアイシュタインの生まれ変わりであるかのように受け取られている。


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秋篠宮両殿下婚約会見


礼宮さま・紀子さんの記者会見での一問一答

礼宮さまと川嶋紀子さんの記者会見は、12日午後3時から25分間、赤坂御所の「桧の間」で行われた。
一問一答は次の通り。

−−このたびは、ご婚約決定、おめでとうございます。

礼宮さま
「どうも、ありがとうございます」

−−質問に移らせていただきます。お2人は皇室会議で正式にご婚約決定となりましたが、
現在のご心境をお聞きしたいと思います。

礼宮さま
「皇室会議で承認していただきまして、いま、ホッとしているというか、そういう気持ちです」

紀子さん
「私も、礼宮さまと同じく、私どもの結婚に皆さまのお認めをいただき、まことにうれしく存じます」

◆ひかれた点 プロポーズ

−−お互い、どんな点にひかれたのでしょうか。

礼宮さま
「以前にもお話ししたことがございましたが、話をしていて楽しい人。
また、どことなく愛きょうがあるというか……」

紀子さん
「生物、例えば御所内で飼ってらっしゃるナマズやアヒルなどをかわいがっておられるお姿や、
熱心に魚類を研究しているお姿に強くひかれました。タイのお酒、メコンに誘われるまま、
先生やお友達と語り合い、またギターを弾かれたりするご様子、そんなところにひかれました」

礼宮さま
「付け加えると、(紀子さんは)非常に話題が豊富な方じゃないかと思っております」

−−ご結婚を決意されたのは、いつごろでしたか。礼宮さまからのプロポーズのお言葉と、紀子さんのご返事は。

礼宮さま
「決意は、だんだん、徐々に、そういう方向に固まっていったというところでしょうか」

紀子さん
「私も礼宮さまと同じく、徐々に気持ちを整理して参りました」

礼宮さま
「プロポーズは……そうですね、確か昭和61年の6月26日だったと思いますけれども、
『私と一緒になってくれませんか』と話した記憶があります」

紀子さん
「私は『よく考えさせていただけませんか』と申し上げました」

−−先ほど、お2人は両陛下のところにごあいさつされたと思います。
その時、両陛下はどんなことをおっしゃいましたでしょうか。

礼宮さま
「このたびの婚約をうれしく思います。いままで2人が培ってきたものをさらに伸ばし、
また、お互いに補いあい、よい家庭といいますか、
よき宮家を築いていくことを期待しているとのお言葉でございました」

紀子さん
「同じようなお言葉をたまわりました」

−−現在、(昭和天皇の)喪中で、ご自身も留学中のお立場ですが、
そういう時のご婚約決定をどうお考えになりますか。両陛下から反対はございませんでしたか。

礼宮さま
「現在、留学中、喪中ということでもありますが、ここ一、2年の間に
川嶋家の方にいろいろ問い合わせ等が多くなって、
私としても責任のあることですので、早い時期に公にしたいと判断いたしました。
そうなりますためには、本日もございました皇室会議を経なければいけないわけですが、
それにつきましては宮内庁としても特に異議はありませんでしたし、両陛下から反対もありませんでした」

◆結婚の抱負 新家庭像は

−−ご結婚の儀式はいつごろと考えていらっしゃいますか。新婚旅行のご希望は。

礼宮さま
「現在は喪中ですので、明年1月の喪明けを待ち、それから考えていきたいと思っています。
新婚旅行などは、今のところまだ考えておりません。
結婚の後は、伊勢神宮とか神武天皇陵などの参拝もございます。
また、昭和天皇のご生前にお耳に入れることができませんでしたので、
武蔵野陵に参り、ご報告したいと思っています」

−−ご結婚されると、独立され、宮家を営まれるわけですが、
今後のご自身のあり方、抱負というものがございましたら、うかがいたいと思います。

礼宮さま
「新しい経験となるわけですけれども、いろいろな方からお導きいただきながら、
2人でいい家庭を築けたら幸いと思っております。皇族としての抱負といたしましては、
天皇をお助けする立場でございますし、与えられた皇族としての仕事をひとつひとつ、
大切に果たしていくつもりでおります」

−−皇太子さまより先に結婚が決まりましたが、ご感想は。
宮内庁は皇太子さまのご結婚をできるだけ早くと考えているようですが、
お近くにいてどのような雰囲気でしょうか。

礼宮さま
「兄の皇太子が早く決まればそれに越したことはなかったわけですし、
私もそのことを強く望んでいましたが、先ほども申したような事情もございまして、
私の方が先になってしまったということでございます。
雰囲気? 以前に30歳までにできれば上出来というふうに申しましたけれども、
やはり30歳までにできれば上出来なのではないかと私は思っております」

−−暗い見通しですね。

礼宮さま
「暗いと言いますか……。私もわかりませんけれども」

−−紀子さんは一般の家庭から皇室に嫁ぐことになりますが、これから皇族の一員になられるお気持ちは。

紀子さん
「私は礼宮さまと4年にわたり親しくさせていただき、礼宮さまのお人柄、
お考えから多くのことを学ばせていただきました。また両陛下、東宮殿下、それから紀宮さまが、
明るい中にも責任あるお立場をご自覚になり、ご生活なさっているお姿を拝見させていただきました。
ありがたく、まことに心強いことでございました。
皆さまのお教えを賜りながら一つ一つ学んでいきたいと思っております」

−−紀子さんにお尋ねいたします。ご結婚されたら、どんな家庭を築いてゆきたいとお考えでしょうか。
また、お子さまは何人ぐらい、お望みでしょうか。

紀子さん
「礼宮さまとご一緒にのんびりと明るく、和やかな家庭を築けたらと思っております。
後の質問についてでございますが、それについても、これからゆっくりと考えていきたいと思っています」

−−初めて結婚の話が出た時、(紀子さんの)ご両親は何とおっしゃっていましたか。

紀子さん
「父は『自分の人生は自分の責任や判断で決めることが望ましい。
よく考え、よく悩んだ上で、結論を大切にしなさい』と申しておりました。
また、母は『紀子ちゃん、よく考えてみましょうね』と申しまして、
そのあとで『はたち前半のころは豊かな経験をすると同時に、よく勉強し、
ライフワークの基礎を作る重要な時期ですよ』と申しておりました」

◆勉学の見通し 今後の計画

−−これから結婚の日まで、学業など日々の生活についてどのように考えていらっしゃいますか。

紀子さん
「私は現在、大学院生でございますが、礼宮さまは大変ご理解があるようで、そのご理解のもとに、
時間の許す限り勉強を続けたいと思っております」

礼宮さま
「私も、まだイギリスの方でやりたい仕事、研究と申しますか、たくさんありますので、
このことが一段落つきましたら、できるだけ早い機会にイギリスへ参りまして、
前と同じような研究生活に戻れればと考えております」

−−(11日の)誕生日に礼宮さまから何かプレゼントがあったとうかがっておりますが。

礼宮さま
「私からお答えさせていただきますと、何というか、写真立てみたいなものなんですね。
ちょうど2人の人が入るような、そんなものをプレゼントいたしました」

−−中に写真は入っていたのでしょうか。

紀子さん
「これから思い出深い写真を入れて、飾っておきたいと思います」

−−どこで求められたものなんですか。

礼宮さま
「日本で」

−−紀子さんはご結婚後、大学院での勉強をどうなさいますか。

紀子さん
「今後どんな生活を送るか、ちょっと分かりませんけれども、
時間が許す限り勉強はずっと……一生続けたいと思っております」

−−失礼な質問ですが、お2人は長い交際を続けていらっしゃいますが、
けんかなどというのはなさったことはございますか。

礼宮さま
「けんかの度合いにもよりますが、双方、からかったり、そんなことはいたしましたけれども」

−−涙を流したようなことはございましたか。

紀子さん
「みなさん、ご存じだと思いますが、(礼宮さまが)英国にいらっしゃった日でございます」

−−プロポーズの場所はどこだったのでしょうか。

礼宮さま「場所は目白近辺。夕方、集まりがありまして、私が(紀子さんを)送って帰る途中、
ちょうど横断歩道のところで信号待ちをしている間に、ついつい長話になって、その時に」

−−結婚までにお2人でタイへ出かけるとか、イギリスへお連れになるというお考えは。

礼宮さま
「まだ、そういうことにつきましては全然考えておりません」

−−先ほどのプロポーズの話ですが、紀子さんは「よく考えさせていただきます」と答えられ、
そのあとはどんな展開だったのでしょうか。

紀子さん
「先ほど申しあげたように、徐々に気持ちを確かめあいながら、きょうになりました」

−−紀子さんは礼宮さまが初恋の人ですか。

紀子さん
「そうでございます」

 −(学習院大構内の)本屋で最初の出会いがあったとお聞きしていますが、その時の第一印象は。

礼宮さま
「こちらのお父さまを前から存じ上げていたんですが、非常にお父さまの話し方と似ているなと思いました」

紀子さん
「私はお友達と話してらっしゃるお姿を拝見して、思ったより気さくな方という印象を受けました」

−−ご婚約に至るまでに障害のようなものは感じられませんでしたか。

礼宮さま
「私といたしましては、ほかからの反対は一切なかったと思っております」

−−皇太子さまの方から祝福のようなお言葉はございましたでしょうか。

礼宮さま
「おめでとうということですね」

−−前回、イギリスに礼宮さまが行かれた時、涙を流されたということですが、
また礼宮さまはイギリスに戻られます。ご婚約が決まられたことで気持ちはだいぶ楽になりますか。

紀子さん「これからは以前よりも親しくさせていただくことができるとうれしく思っておりますが、
やはり、心に通じ合うものがございましても、距離が離れますと寂しいものでございます。
おたちになる日はしんみりと涙を流すことになるのではないかと思いながらも、
笑顔でご出発を送りたいと思っておりますが」

−−きょうはありがとうございました。お幸せに。
(1989年9月13日 読売新聞)
引用元 http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89091303.htm

http://princefamily.gooside.com/konyakukiji10.html

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燃えないゴミの日

山口文憲著 平凡社刊 (1993.3)

「マサコさんの場合」 抜粋
よく考えてみていただきたい。マサコさまは外務省にお勤めだが、
だいたい、自分の父親がいる職場、しかもおやじがそのトッフに君臨しているような職場へ
平気で就職してしまうというあたりの感覚はどうみてもふつうとはいえない。
まあたいていの子どもだったら、そういう職場はまずいちばんにパスしたくなるもんだと思いませんか。
彼女のおやじさんは毎朝黒塗りの公用車が自宅まで迎えに来る霞ヶ関の高級官僚なのである。
こういうエライ父親をもった子どもというのは、ふつう、父親に反発こそすれ、
私もああいう仕事がしてみたいなどとは考えないものだと思うのだがどうだろうか。
あの方のパパというのは、ようするに福田内閣のときの首相秘書官だった人物である。
あんな自民党の親玉の小汚いじじいの家来になっている自分の父親の姿を見たら、
(あー恥ずかしい。やだやだ、おやじのばかやろーしんじまえ)と思うのが、
まあひと並の感受性を持った、ふつうの子どもというものではあるまいか。
しかし、マサコさまは、どうやらそうではなかったらしい。
よくわからないが、もともとそういう変わったおひとなのである。
だから、キャリアにさしたる執着も持たないし、学歴社会の常識と秩序をくつがえす
スキャンダラスな結婚も平気でおできになるのではあるまいか。 

目次2へ

秋篠宮さま 江森敬治著

秋篠宮さま 江森敬治著 毎日新聞 1998年

天皇陛下は32歳誕生日を前に浩宮、礼宮の教育方針についてこう語った。
「兄の方は将来、窮屈な立場になるので今のうちになるべく自由に、弟の方は将来、
兄より自由になるのでしつけに厳しく、窮屈に育てたい。
大きくなったことを考えると、これでバランスがとれると思う」

余談になるが、妃殿下は中学生のころから自宅近くの学習院大学構内でジョギングを続けられていた。
だから宮さまの同級生の間では「ジョギングの美少女」として
紀子さまの存在は有名だったという証言もある。
私もあるいは宮さまも妃殿下のことは薄々知っていたのではと思い、
宮さまにそれとなく尋ねたこともあったが、即座に否定された。
書店での出会いが初対面であり、それも偶然だったと強調された。
そして「あの時、出会わなければ、私はまだ独身だった可能性が大いにあったと思う」と話された。
まさに運命の出会いだったのだ。

昭和天皇のお手伝い
「『ヒオウギアヤメ』という家内の印(秋篠宮さまのはツガ)をなんで印としたのかというと、
昭和天皇が、『ヒオウギアヤメ』と、その変種で那須に分布する『ナスヒオウギアヤメ』が、
どういう関係にあるのか、『ナスヒオウギアヤメ』の由来や起源を知りたいという話を、
家族で会食している時に食卓でされました。昭和天皇が、なにかよい方法はないかと、私に聞かれた。
それでは、私が進化生物学研究所の近藤典生理事長(故人)に相談してみましょうということで、
そのプロジェクトが始まりました。
中間報告が進化研からくると、そのたびに私が昭和天皇に報告していました。
私がイギリスに行っている間は、私の父がかわりに報告していたと思います。
八七年の終わりか八八年の初めから、昭和天皇の具合が悪化するまでずっと続けられました。
最終結論は出てなかったと思います。
私もその『ヒオウギアヤメ』のことをよく知らなかったのですけれど、そういうことで
昭和天皇が最後に興味を持たれたことの手伝いをした。それでやっぱり自分にとって大変な記念でしたから、
家内の印が「『ヒオウギアヤメ』になったのです。
これは、私が両親と話をしたことによるものです(印は天皇陛下が決めて、お与えになる)」
当時、皇太子ご一家は週に一回、皇居内の吹上御所を訪れ、天皇・皇后両陛下と食事をされていた。
その折、ナスヒオウギアヤメのご研究についての話が出たという。

この話は、鶏の調査でインドネシアを訪ねた時、宮さまが仲間に話されていた。
進化生物学研究所によると、研究の狙いというのは、日本にはヒオウギアヤメの仲間として
ナスヒオウギアヤメとキリガミネヒオウギアヤメが自生している。
これらは形態がよく似ていて、相互の区別が難しい。そこで細胞学の立場からと色素成分の分析の観点から、
植物種の識別やそれらの類縁・系統を解明しようと始められたという。
これ以上に宮さまが昭和天皇の研究の手伝いをしたことはないという。
それは昭和天皇の研究対象が主に無脊椎動物であり、宮さまは脊椎動物であるという違いによるものらしい。

宮さまの昭和天皇への思い出はいろいろあるようだ。特に親しい人に語られたところによると、
いちばん印象に残っていることはやはり最後のお別れの場面だという。
一九八九年一月七日、宮さまは朝四時ぐらいに連絡を受け、着替えをして
赤坂御所から吹上御所の御寝所に行かれた。
そして宮さまは、昭和天皇の枕元のすぐ近くにいらっしゃったという。付近にはお別れしたい大勢の人達がいた。
「いちばん印象に残っているのは、ピーッと鳴った時でした(心臓が停止された時)。
最後にお話をしたのは、八八年の十一月でしょうか。十二月の時にはもう話ができなかったですから。
あいさつをして『いかがですか』みたいなことをたずねました。
日によってご容体に違いがあったような記憶もあるのです。結局、私にとっては祖父に当たるわけですよね。
ただ、私は昭和天皇というのが、別の世界にいる人のようなとらえ方をしておりました。
自分でそうしていたのかもしれないですけれども同じ家族という感じでは、接してなかったです。
これは皇居という堀に囲まれた地理的要因が大きかったのかもしれない」

宮さまは、昭和天皇を「おじじさま」、「陛下」と呼ばれた。
昭和天皇は、「あやちゃん」であった。(宮さまの幼少時の称号の礼宮にちなむ)。
皇太子さまのことは「ひろちゃん」、紀宮さまは「のりちゃん」だった。
宮さまは、とても親愛の情を込めて昭和天皇について語られる。
また、宮さまが外国訪問されるというと昭和天皇は「じゃあ、親善に努めるように」と必ずアドバイスされた。
「昭和天皇は一九〇一年のお生れで、そうしますと、終戦の時は四十歳半ばでいらっしゃいました。
戦前、戦中、戦後と昭和天皇の経験された事柄の重さは、はかり知れないものがあると思われますが、
殿下は今、三十二歳。殿下もお年を重ねるにつれてそういった昭和天皇のご苦労に
いろいろと思いをいたされますでしょうか」と私は、思い切って聞いてみたことがある。
それは、暑い夏の日だった。静かな宮家の中にいてもセミの鳴く声がうるさいほど聞こえてきた。
「とにかく私なんか、幸せな時代に育っていますから。随分、違うと思います。
ご苦労話を、昭和天皇から直接、聞くという機会はなかったです。
そういう話をあえて昭和天皇はされなかったのかもしれません。
こちらから聞けばなにかあったかもしれないのですが、
むしろ、私は父からそういう話を聞いたことがありました」宮さまはこのように答えられた。

「宮中祭祀を大切にしていきたいと思っている。拝礼の時も心の持ち方が大事であると考える。
私はいつもご先祖様に話し掛けるつもりでお辞儀をしている」

タイ訪問について
タイに行く予定の方が先であった。 タイに行くのは私用であり、クリントン晩餐会は公用であるのは事実。
ただ、このタイ調査旅行はタイ政府の「農業・協同組合省」からの招待を受けて
数年前からタイ側では半年以上も前から準備していた。
しかし、阪神大震災などで計画が先送りされ、この年の訪問になったという。
一方、クリントン大統領の訪日はいったん、前年11月に予定されたものが延期され、
この年の4月に確定したのは、タイ調査旅行の準備がすっかり固まった後だった。
それから父(今上陛下)にはきちんと許可をいただいていた。宮内庁にも打診した。
また、週刊誌は「重要な公務を放り出して私的なナマズ見物など言語道断」
というトーンだったが、宮内庁によると宮さまに限らず公用、私用を含めて皇族方が
また宮中晩餐会などの単発の行事は他の公務や私用と重なることもしばしば。
陛下たちのご予定は当然空けてあるが、年間を通じてさまざまな事に携わっている
すべての皇族が集うのは現実に難しく、実際欠席されることもしばしば。
赤木攻・大阪外大教授は今回の捕獲儀式の調査に同行した一人だ。
赤木教授は、「儀式のある日は決まっていましたから、その日を逃せばまた一年先になるわけです。
それにタイの関係者と一年前から日程を詰め、約束していました。
マスコミは『アメリカ』の大統領に失礼といった論調でしたが、
われわれはタイの人々との先約を大事にすることこそ国際信義に値すると考えました。
あれだけ日本で雑誌に叩かれましたけど、私はクリントン米大統領の宮中晩さん会に
出席した以上に国際親善の役割を果たしたと思っています。
とにかく地元ではものすごい歓迎でした。
県知事も大喜びで、こんな田舎に日本の皇族は来たことがないと感激していました。」

私が聞くところでは、皇族が海外を回る際には、日本大使館が皇族のスケジュールを作る。
宿泊や食事場所などをほぼマニュアルに沿って選び出すのだが
宮様の場合は現地の実情を形式ばらない形で知りたいという希望を出されるため、
大使館員によっては勝手が違うと振り回されたり、中には「わがままだ」と憤慨し、
宮さまの印象を悪くするケースもあると聞く。


ご結婚について
結婚前後、いろいろな批判報道も現れた。
皇太子さまより先に結婚するのはおかしいではないかという記事もその一つだった。
しかし、宮内庁関係者は、高円宮さまも兄の桂宮さまより先に結婚されている。
また、昭和天皇の喪中に婚約を発表したという批判があるが、
宮さまの場合には、昭和天皇崩御から八ヵ月後に皇室会議の決定として発表されたのに対し、
昭和の時代には池田厚子さん(天皇陛下の姉)の婚約が貞明皇后崩御から二ヶ月たらずで、
昭和天皇の御裁下により発表されており、いずれも先例があると、話す。
宮さまも一九八九年九月の婚約会見で昭和天皇の喪中や自身の留学中に婚約されたことについて、
「ここ一、二年、川嶋家の方に問い合わせなどが多くなり、早い時期に公にしたいと判断しました。
宮内庁も異議はなく、また両陛下からも反対はございませんでした」と答えられた。


参考

秋篠宮様結婚まで
昭和64年=平成元年(1989年)1月7日 昭和天皇崩御
服喪150日→平成元年(1989年)6月6日に礼宮様喪が明ける(皇室服喪令)
平成元年(1989年)8月26日 礼宮と川嶋紀子嬢との婚約発表。(朝日のリーク)
天皇皇后両陛下もご婚姻に関する皇室会議などの手続きを進めるよう、
同日、藤森昭一宮内庁長官に指示された。
 http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082601.htm


宮内庁サイトより
平成元年(1989年)9月12日 皇室会議で決議
平成2年(1990年)1月12日 納采の儀=正式に婚約
平成2年(1990年)6月29日 結婚の儀

※昭和帝が父母にあたる今上陛下は服喪期間が1年だが、祖父母にあたる秋篠宮様は150日。


皇室服喪令
 第一章 総則
第 一条 父、母、夫ノ喪ハ一年トス
第 二条 祖父母、父ノ父母、妻ノ喪ハ百五十日トス


両陛下の喪明けは平成2年1月7日。正式な婚約はそれ以降のこと
婚約会見等に至った理由はマスコミの川嶋家への問い合わせが殺到し
生活に支障をきたさないようにとの配慮で検討され、公表された。

正式な儀式は全て喪があけた後(両陛下の喪も)
成婚に至っては昭和天皇崩御から2年以上経っていた。
公表はせめて1年経ってからという意見もあるだろうが、
「喪中ではない」ということは確か。

順宮(池田厚子さん)の婚約は貞明皇后の崩御から2ヵ月たらずで、
昭和天皇の裁下により発表されている。
皇太子殿下も昭和天皇が亡くなってすぐの
平成元年2月には「雅子さんではだめでしょうか?」と宮内庁に打診している。

毎日新聞 1989年9月12日
天皇陛下 4年前から見守られ  宮内庁幹部らに「前向きに検討を」
天皇陛下は四年前に、礼宮さまと紀子さんのおつきあいを認め、
紀子さんをお妃の候補者として前向きに検討するよう宮内庁に伝えられていた。
同庁によると、礼宮さまが紀子さんを知ったのは、紀子さんが学習院大に進学した昭和六十年四月。
同大構内の書店「成文堂学習院店」で、一緒になり、
店長の阿部俊郎さんが礼宮さまに「川嶋教授のお嬢さんです」と紀子さんを紹介した、という。
二カ月後の六月に礼宮さま主宰の「パレスヒルズテニスクラブ」、
同十二月にやはり宮さまが会長のサークル「自然文化研究会」がそれぞれ発足。
紀子さんは両方に入会し、その活動を通じてお二人は交際を深めていった。
同年十二月に両陛下と礼宮さまが神奈川県・葉山御用邸でご静養の際、川嶋家も葉山に滞在していた。
両陛下が海岸を散策された時や、油壺のマリンパークでご昼食の時などに、
礼宮さまは紀子さんを誘い、さりげなくご両親へ紹介の機会をつくられた。
両陛下は紀子さんのことをすでにご存じだったが、
こうした機会は礼宮さまが「恋人」としての紀子さんを改めてご紹介したかったため、と側近は推測している。
この結果、天皇陛下は同月下旬、同庁幹部に「前向きに二人のことについて検討してほしい」
と話された、という。


ご成婚の頃の報道より
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宮中祭祀

■「宮中賢所物語」
1月 1日歳旦祭 ★天皇・皇太子のみ
1月 3日元始祭 その年初めて両陛下・両殿下が揃って拝する大切な行事 (他皇族も)
1月 7日昭和天皇祭
1月30日孝明天皇例祭
2月17日祈年祭 ★天皇・皇太子のみ
3月21日(春分の日)春季皇霊祭
4月 3日神武天皇祭・皇霊殿御神楽
6月17日香淳皇后例祭
6月30日節折(よおり)の儀(大祓い) ★天皇のみ
7月30日明治天皇例祭
9月23日(秋分の日)秋季皇霊祭
10月17日神嘗祭
11月23日新嘗祭
12月15日賢所御神楽
12月23日天長祭 ★天皇・皇太子のみ
12月25日大正天皇例祭
12月31日節折(大祓い) ★天皇のみ
この他に、歴代天皇の式年祭(それぞれの崩御後100年ごと)
★印以外は、他の皇族がたも参加。

■宮中祭祀 大祭と小祭
宮中祭祀には、大祭と小祭がある。
大祭は、元始祭(1月3日)、紀元節祭(2月11日)、
春季皇霊祭、春季神殿祭(ともに春分日)、神武天皇祭(4月3日)、
秋季皇霊祭、秋季神殿祭(ともに秋分日)、
神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日より24日に亘る)のほか、
先帝祭(毎年崩御日に相当する日)や先帝以前三代の式年祭(崩御日に相当する日)
大祭は、天皇が皇族や官僚を率いて祭典を主催し、御告文を奏する。
そのほかに小祭があって、大祭と小祭の間には、準大祭といわれる祭祀がある。

■斎宮物語
「伊勢の祭主」
現在は既婚者が祭主になることもあり、かつての因習はなくなったようですが、
本来は、天皇家から伊勢神宮に姫を「捧げる」ことを指していました。
昔は斎王と呼ばれた。 (在所を「斎宮」と呼ぶところから、斎王その人も斎宮と呼ばれた)
天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代します。
斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限りません)の中から占いで選ばれます。
大体が母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりするので、
占いで決めるといっても、あまり公平な選び方ではなかったようです。
斎王が任を終えて都に帰ることを退下(たいげ)と言います。
天皇が死んだ時、または譲位した時に斎王の任が解かれます。
また斎王の父が天皇以外の場合には、両親のどちらかが死んだ時に任を解かれます。

■新嘗祭
宮中の新嘗祭は23日午後6時から8時までの「夕の儀」と、
午後11時から24日午前1時までの「暁の儀」の2度にわたっての祭儀がおこなわれます。
皇居内の神嘉殿において「夕の儀」では夕食を
「暁の儀」では朝食を天皇陛下御手ずから神々にお取り分けになり食事を共にされ、
私ども国民の平安をお祈り下さいます23日は戦前「新嘗祭」という祭日でしたが、
戦後は「勤労感謝の日」と改称され休日の一つとなってその意義も忘れられてしまいました。
私達が夕食をしている頃に天皇陛下は神々と夕食をともにされ、
そして私達が寝静まる頃には再び神々と朝食を共にしておられます。
暖房の設備もない神嘉殿において、尊き御身ながら2時間もの
長い時間を正座の御姿勢をおとりになりお祀りを遊ばします御姿は誠に恐れ多いことであります。

■天皇さまと祭り
日本の国が始まって以来、天皇陛下の最も大切なお務めは、
御親ら(おんみずから)世の平らぎをお祈りになるお祭りを行われることです。
陛下が宮中で御斎行(ごさいこう)になられる恒例のお祭りは、
私たち国民一人ひとりにとっても、きわめて大切なお祭りです。
陛下のお祭りは、決して私的な信仰、皇室内のお祭りではなく、
常に国の発展、国民の幸福、世界の平和をお祈りになられる広い意味をもったものだからです。
陛下は、常に天照大御神の御神意をはじめ、御歴代天皇の御志(おんこころざし)を体すべく、
まごごろを尽くしてお祭りを続けられています。
それは、日本の国の繁栄を祈念された天照大御神の御心(みこころ)を継承し、
その御心をこの現代において生かすことを願われているからにほかなりません。
このお祭りを連綿と今日まで行われてこられたのが、歴代の天皇さまです。
私たちのくらしの背後には、常に天皇さまのお祭りとお祈りとがありました。
こうしたお祭りとお祈りがあればこそ、私ども国民の生活が今日のように豊かに、
そして国の発展とがもたらされてきたといえましょう。

■宮中歳時記(小学館文庫)
入江相政侍従長
元日最初に行われる祭祀が四方拝(しほうはい)
これは年災をはらい、五穀豊穣と国家・国民の幸福と皇室の隆盛を祈願する年頭の大切な儀式。
まだ、夜も明けない真っ暗なうちから 準備が進められ、午前4時になると儀式が始まる。
これは天皇陛下自らが行う遙拝の儀式なので、天皇陛下が病気などの時は 中止になる。
代拝が認められない儀式だけに、おちおち風邪もひけない。

午前九時を過ぎると、宮殿は大変な賑わいになる。
新年祝賀の行事は分刻みのスケジュールで進行する。
宮殿の全ての部屋を使い、祝賀に集まる人々を休所、両陛下の祝賀、祝い酒と次々にさばく。
両陛下は皇族方とご一緒に、宮殿の部屋を次から次へ移動なさって、祝賀をお受けになる。
祝賀に参内する人々は、宮内庁関係者、皇族、旧皇族、内閣総理大臣はじめ各大臣、
衆参両院議長はじめ国会議員、最高裁判所長官はじめ裁判官、認証官などである。
ご昼食はこれらの行事の間をぬって両陛下と皇族方とで宮殿の食堂であわただしいうちに簡単におすませになる。
お食事の始まるのは午後一時に近い。
ご昼食も早々にして午後の祝賀が始まる。各国の日本駐在大使の祝賀である。
宮殿松の間に、お国ぶりの正装をした大使夫妻が一人ずつ両陛下の午前に進んでご挨拶をする。
両陛下、皇族方はその間30分以上、松の間中央にお立ちになったままである。

■入江相政日記
昭和天皇が満六十八歳となったときから、
以後、新嘗祭は夕の義の四十分だけとし、暁の義は中止とした。

(皇室ジャーナリスト これを引用した上で)
平成になり、本来の姿へと戻された。
十日ごとの旬祭のうち、毎月一日は三殿へ参拝。 年間三回ほどの祭りを厳修している。
日本の神々に祈りを捧げる天皇について、美智子皇后は一九九五年の誕生日に、次のように語っている。
国民の叡智がよき判断を下し、国民の意思がよきことを志向するよう、
(天皇が)祈り続けていらっしゃることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます。

■天皇さまお脈拝見
12/31の行事、節折(よおり)と大祓(おおはらえ)
「節折とは、天皇がしらずしらずのうちにおかした罪や穢れを祓い清めるというのがその主旨、
これは午前二時から。続いて午前三時からおこなわれるのが大祓。
大祓は、国民一人ひとりが、やはりしらずしらずに犯した罪穢れを祓い清めるというのである。
大晦日の行事がそうして終ると、陛下は潔斎されたお身体を保たれたまま
翌日元旦の四方拝、歳旦祭を迎えられるのだ。
四方拝は、天皇が年頭にあたり、五穀の豊穰、国家国民の安寧を祈って伊勢神宮をはじめ、
各山陵、四方の天神地祇を遥拝するという、宮中古来からの恒例の行事である。
つづいて陛下は、賢所、皇霊殿、神殿のいわゆる宮中三殿におもむかれて玉串を捧げられる。
これが歳旦祭といわれるものである。歳旦祭が終るころに、ちょうど夜もしらじらと明けてくるのだから
大晦日から元旦にかけては、陛下はほとんど、お寝みになる間もないくらいだ。
夜が明けきれば明けきれたで、つまり元旦の日にはこれまた行事が目白押しである」

■日本会議国会議員懇談会(2006年9月)
松浦光修皇學館大學教授が「天皇の<本務>とは何か?」と題し、
祭祀と天皇は不可分、祭祀は過酷な仕事、祭祀には禁忌がある、の三点に絞って論じた。
背広姿で公務している天皇、外国の賓客と会見する天皇、被災者を見舞う天皇が天皇の本質ではない。
GHQ政策で歪められた国民の天皇に対する常識に修正を求め「天皇の本質は宮中三殿で祭祀を勤めること」と述べた。
「神と国民のなかを取り持つ祈りは千年以上微動だにせず今日に至っている」
「午前一時に起床し潔斎の後、四時半からの祭祀に臨む。暖かくもなく極寒で一時間独りで祈る。
肉体的には過酷で、この祭祀が年間三十以上ある」と「祭祀の王」の一端を紹介。
「国民が知らないところで祈っている。日本は天皇の祈りによって守られている国」「世界史上稀有な存在」と強調。

■「美智子妃」 河原敏明 
宮中祭祀には、天皇が自ら行う大祭と、掌典長(神官)が祭祀をする小祭、合わせて約20あり、
いずれも天皇はじめ各皇族が参列する。
他にも節折(よおり)、大祓(おおはらえ)など神道固有の神事があり、
中でも重要なのが11月23日の新嘗祭。
その年の新穀を皇祖や神々に備え感謝を捧げるとともに、
賢所の内陣では天皇が御飯、 山や海の幸に箸をつけるという農本国家を象徴する神事で
午後6〜8時の「夕(よい)の儀」、11〜翌24日1時頃までの「暁の儀」と
2回に分けて行われる。太古の時代そのままに庭には篝火がたかれ、
賢所内では灯明の灯りがほのかに揺らぐ幽玄の気の中に、
天皇お一人がこもって祈りを捧げられる神秘の儀式である。

■小冊子より
天照大神
イザナギとイザナミが国産みで日本を作った後、
二人が決裂してイザナギが潔斎したときに生まれたのが天照大神・月読尊・スサノオの尊の三貴神。
イザナギはこの世の権限を天照大神に託した。
そして天照の孫が地上に降り、その子孫が天皇家になった。
天照大神(天上の神=天津神)と日本にいるすべての神々(地上の神=国津神)、
そして歴代天皇皇后・皇族を祭っているのが宮中三殿。
東京にいながらにして、八百万の神々を祭れるような状態にしてある。
そこで日本の安泰と平和を祈るのが祭祀。
皇族方も神として祭られているので、先祖供養のようなものも祭祀の一旦になる。

天皇家の始祖が天照大神だから女系ということにはならない。
むしろその逆で、天照大神だから男系でなくてはならない。
天照大神は超絶した女性神で、大嘗祭を通じて三種の神器の継承を司っている。
土俗的祭祀でも「山の神」や「海の神」はみんな女神。
だから昔から、女が山に入ることや海の猟に出ることが忌み嫌われた。
なぜなら、女が山や海に入ると、その女神が嫉妬して怒るから。
修験者の山などに「女人禁制」の結界があるのもこうした理由から。

天照大神が三種の神器をニニギノミコトに与えて天孫降臨させた後、
三種の神器は「男系」のみによって継承されなくてはならない。
三種の神器継承の儀式が大嘗祭で、この時は天照大神と対座なさる。
これが神道的な意味での男系継承の意義。
男女差別云々の問題ではなく、女性神が司る国。

天皇は神ではなくて人間、その祖先も人間。
天照大神は人間と交わる。相手は人間であるために寿命がつきる。
だから、その男の血をひく子と、また、契る。そうして代々、天皇家を守護していく。

■貞明皇后伝記
大正天皇を10年も介護し、死後は自分が死ぬまで四半世紀もの間、毎日午前中全部と夕方二時間拝殿で祈った。
吹きっさらしの壁の無い建物でコンクリートに一枚畳を敷いてじかに座ってだった。
御所の掃除奉仕団への挨拶もおざなりではなく前夜必ず詳細な地図や資料で下調べをする。
大正天皇の病室でボーッとつったっている良子様(香淳皇后)に貞明が一言「おしぼり!」と言った。
「良子はビクッとして手袋も脱がず、いきなりタオルを握った。」

■櫻井よしこさんのブログより
http://yoshiko-sakurai.jp/
『天皇陛下の全仕事』によると、天皇陛下は元旦の午前5時半には
宮中三殿に並ぶ神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになる。
庭中央の、屋根だけの東屋風の簡素な建物には清潔な青畳が敷かれ、
陛下はそこで皇室の祖先神が祭られている伊勢神宮に遥拝し、
国の安泰と国民の幸福、農作物の豊作などを祈り四方拝を行われる。
元旦の東京の日の出は午前6時50分頃、したがって周りは暗く、
厳しい寒さの中での厳粛な祈りである。

御所から神嘉殿に向かわれる陛下をお見送りして、
皇后美智子さまが詠まれた歌を、山本氏は紹介する。
年ごとに 月の在(あ)りどを 確かむる 歳旦祭に 君を送りて
歳旦祭に臨む前に、陛下はすでに御所で身を浄め、身装いを正しておられる。
祖先の神々に祈りを捧げるずっと前から始まる仕度を、
皇后さまは陛下と呼吸を合わせるようなお気持で見守っておられることだろう。
そして、いよいよお出ましの時、闇に鎮まる皇居の森から視線を空に上げて、
月の光を探される美智子さまのお姿が浮かんでくる。

今上天皇は、新聞もテレビもあまり報じないこうした古代の祭祀を非常に大切になさるという。
自らを慎み古式の装束での祭祀は年間30回を超えるそうだ。
それを忙しい「公務」の間に手抜きもなさらず、とり行っておられる。
かつて天皇は日本のまつりごとの主宰者だった。
まつりごとは「祭り」であり「政」だった。これを一変させたのがGHQだ。

■昭憲皇太后の祈り
昭憲皇太后の祈り

■「天皇家の宿題」 岩井記者
宮中祭祀と皇太子妃 
皇太子妃が宮中祭祀を徹底的に拒否している現状について
「皇室にとって自己否定に均しく、計り知れないほど深刻な状態」
「紀子様は公務に関する陛下のご意思をすばやく察知するのに対し、
雅子様はいちいち論理的な説明を求める」

■貞明皇后の真意
評論家・鳥居民 「宮中祭祀廃止論」への疑問

諸君!2008年7月号 平成皇室二十年の光と影
「提言 われらの天皇家、かくあれかし」 より
■宮中祭祀改革は誰の構想か 八木秀次 (高崎経済大学教授)
国の中心に「国平らかに民安かれ」と常に祈っておられる方が存在するということが、
どれだけ国民に心の安定感を与えていることだろうか。
またどれだけ我が国の発展に寄与しているだろうか。
為政者に頼るところがなく、国民道徳が腐敗する今日にあっても、
我が国が辛うじてその地位を保っていられるのは、
こうした皇室の目に見えない「祈り」のお陰であると思わざるを得ない。
「祈り」は何も今上陛下の御代に特有のことではない。「祈り」は皇室の存在理由そのものである。
天皇はその始まり以来、一貫して「国平らかに民安かれ」と祈る祭祀王であり、
祭祀をしない天皇など語義矛盾でもある。
『日本書紀』によれば、皇祖神・天照大神自ら祭祀を行っているし、初代天皇・神武天皇も
「天神地祇を敬い祭」る存在として記述されている。
歴代天皇の祭祀に対する基本姿勢は第八十四代・順徳天皇の『禁秘抄』にある
「凡そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす」との言葉に尽きている。
宮中では神事しなわち祭祀を優先し、その他のことは後回しということだ。
今上陛下は皇后陛下とともに、『禁秘抄』の言葉そのままに
「祈り」を皇室の中核にしてこられたということであろう。
ところでこの皇室の存在理由そのものといっていい宮中祭祀の大幅な簡略化ないし廃止が
最近になって唱えられるようになっている。発端は皇太子殿下が昨年二月のお誕生日を控えてのご会見で、
雅子妃殿下のご病気の原因が宮中祭祀への違和感にあると示唆されたとして、
明治学院大学教授の原武史氏が、『週刊朝日』(07年3月9日号)で発言したことにあった。
原氏は、神武天皇は本当に実在したと考えられるか、天照大神の存在を理屈ぬきで受け入れられるか、
といったことなどを挙げ、こうしたことが合理性を重んじる海外で生活を重ね、
外交という現実の世界を生き抜いてきた妃殿下にとって簡単に受け入れられることではない、
信じることができなければ祈ること自体が苦しくなると述べ、「皇太子妃にとって、この『菊の壁』は
とてつもなく厚く、結婚前は想定もしていなかったものでしょう」
「本当は、そこに皇太子妃が苦しんでいる本質があると知ってほしい」と発言している。
そして、この妃殿下の苦しみを救うべく宮中祭祀の簡略化ないし廃止に向けて皇太子殿下が
「宮中祭祀改革」の構想を密かに温めているのではないかと推測している。
果たしてこの「推測」が文字通りの推測であるのか、
妃殿下を含めた皇太子殿下サイドの代弁をしたものであるのか、今のところ分からない。(中略)
問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、
いや、少なくとも祭祀に違和感を持つ皇后が誕生するという、
皇室の本質に関わる問題が浮上してくるのである。
皇室典範には「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、
皇室会議の議により、…皇位継承の順序を変えることができる」(第三条)との規定がある。
祭祀をしないというのは「重大な事故」に当たるだろう。
今はただ皇太子殿下・妃殿下に宮中祭祀に対するご理解を求めるばかりである。

原武史 宮中祭祀廃止論者

宮中祭祀というブラックボックス

対談 原武史×保阪正康
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ご婚約〜ご成婚直後

ケーキ
桂よ。 わが愛・その死 三宅一郎著
第四章 創る・描く・書く 
■皇后さまが「アリスの丘」に  p154-155
また、現在の皇太子殿下がご成婚なされたときのことですが、
皇室でのご婚儀にはウエディングケーキという習慣はないということでした。
ただ、ご皇族やご友人などを招いた内々の祝宴では大丈夫との言葉を受けて、
桂は皇太子殿下と雅子さまの恋の年月と同じ七年間、
洋酒に漬け込んでいた干しブドウやカレンズを入れて
焼いた七段重ねのウエディングケーキを作って、皇后さまにお届けしました。
皇后さまはとてもお慶びになり、お二人に桂からのプレゼントだとおっしゃって
紹介されたということでしたが、お二人は祝宴に使うものだとは知らず、
おやつとして食べてしまわれたというお話をうかがいました。
「内輪のお祝いの会で、桂さんのケーキをお切り分けし、
みなさんにお配りする予定が立たなくなってしまいました」と
皇后さまからご連絡をいただいたとき、桂は即座に「同じものをお作りします」と答え、
さらに一回り大きなものを作り、ご祝宴の当日に東宮御所にお届けしました。
お二人はそれをウエディングケーキとして披露され、実際にケーキカットをして、
ご出席のみなさまにお配りしたということでした。


※ご成婚直後のテレビ番組で森村桂さんご本人が語っていた要旨
『「皇太子ご夫妻が食べてしまったので、明日までに同じ物を作って持ってきてください」
と連絡が入り大急ぎで作り直しました』
『「翌日撮影に使うと説明があったのに食べちゃおうか」ということになり
お召し上がりになったようでした。』
『7年間つけたフルーツ、手の込んだ砂糖菓子の動物達は予備などなかったので、
当初のものとは大分違うケーキになってしまいました。』

友納尚子「雅子妃の明日」
「職員がケーキをお二人に見せた時に『明日撮影がある』と伝えたがお二人で食べてしまった 」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊新潮1993年3月11日
読売新聞によれば、ご進講は、「総論―皇室について」「神宮・宮中祭祀」「皇室制度史」「皇室法制」
「宮中の儀式、行事及び皇室典範」「日本歴史」「和歌」「書道」の九科目で、延べ62時間に及ぶ。
「美智子妃の時は、科目数も時間もずっと多かった。
あの時は、十四科目を74日間かけてお妃教育が行われました」と、ある皇室記者は言う。
十四科目とは、「お心得」「宮中祭祀」「礼儀作法」「宮内庁制度」「宮中慣習」「宮中儀式を含む行事」
「宮中儀礼」「英語」「仏語」「憲法」「和歌」「書道」「神宮祭祀」「皇室史」。
「ご進講は、日曜日を除く毎日、行われました。午前中はみっちりとご進講を受けて、
午後は着物、洋服の着付けがあったり、十二単・おすべらかしの着付け・結髪の練習もしないといけない。
各宮家にご挨拶には伺わなければならないし、お妃教育の宿題や予習、復習もあった。
“厳しすぎる”という声もあったんです。しかし、当時の宮内庁長官は、“暇だとだらけてしまう。
毎日、日課が決まって勉強した方がいいんだ”という考えの持主でした」
当然のことながら、お妃教育は時代とともに変わってきている。
例えば、皇太后の場合は、ご婚約がととのった大正7年から、何と足かけ六年間もお妃教育が行われたという。
皇室担当記者の一人が語るには、「皇太后の時は、久邇宮宅に“お花御殿”と呼ばれる学問所が造られました。
そこでは、当時の女子教育の最高権威者だった後閑(ごかん)菊野を筆頭に
“皇后とはどうあるべきか”という帝王学ならぬ帝女学が講義されたのです。
特に修身教育の権威だった杉浦重剛は、皇太子には倫理学、皇太子妃には修身と使い分けて教育しました」
皇太后は学習院中等科を中退され、お妃教育を受けられたために科目も多かった。
雅子さんの場合は、「英語、フランス語がなくなっていますが、語学は堪能ですから、これは当り前でしょう。
美智子妃の時と比較すると、礼儀作法がなくなり、宮中の儀式、行事、儀礼が一本化されています。
美智子妃の時は、宮中に古い世代が多かったので、その考えを教え込む面が強かったけれども、
今回は皇室に慣れていただく意味が強いと思う」と、ベテランの皇室担当記者は語る。
実際問題として、宮中のしきたりに慣れることは非常に重要で、
「例えば、皇太后はご老体であまり人にお会いになられない。
そうした場合、女官にお見舞いのお言葉を申し置かなければならない。そのやり方を知ることが大事です。
他の皇族に対しても、誕生日などにお祝いの言葉を申し置かないと、微妙な人間関係がうまくいかなくなる。
ですから、紀子さんの時も、女官長が宮中のしきたりを非公式に教えたりしていましたね」
(略)
皇室での和歌というと、歌会始ぐらいしか思い浮かばない人が多いかもしれないが、
実は意外と詠む機会は多いのだという。
「雅子さんも、これからは月に一回は詠まなければならなくなるでしょうね」と、ある宮内庁関係者は言うのである。
「紀子さまも和歌にはご苦労されていることが、毎年行われる“歌会始の儀”からも窺われます。
しかし、皇室には歌会始ばかりではなく、“月次(つきなみ)の歌”というのもある。
要するに月に一度作って、これを天皇陛下に差し上げるという習慣です。
また、地方を訪れた際に、お世話になったところに帰京後、歌を贈る習慣もあります」
新聞に和歌の講師として名前を挙げられた岡野弘彦国学院大学名誉教授は、
「まだ宮内庁からは何も言われていないんですよ」とことわりつつも、
紀子さまにお妃教育として講義した時の様子をこう語る。
「紀子さまの時は、初めに万葉集から古今和歌集、新古今、
そして現在の和歌という歴史的なアウトラインを把握してもらい、
最後の数時間を使って実地で五七五七七の和歌の組立てをしてもらいました。」
(略)
お妃教育で、もうひとつ気になる科目が日本歴史だ。
神話や南北朝、天皇の戦争責任といった微妙な問題に触れるのかどうか。
紀子さまのお妃教育も担当した笹山晴生東大教授の専門は日本古代史。
「紀子さまの時は、『古事記』と『日本書紀』について講義をしました。記紀の成立ち、性格、資料価値、
書かれていることのおおよその流れですね。それに基づいて、記紀の中でそれぞれの天皇が
神話の中でどう位置づけられているのか、だいたいそのような趣旨で話しました」
(略)
余談ながら、お妃教育で一回講義した際の謝礼は、菓子と三万円ほどの現金が普通だという。
今回の講師陣の人選で、最も苦労したのは、「総論―皇室について」だろうと言われている。
美智子妃殿下の時は、元慶応大学塾長の小泉信三博士がお心得を話した。
「小泉先生の書斎には、皇太子妃と美智子妃の写真が置いてあって、いつも皇室のあるべき姿について
熱心に話して下さったものです。美智子妃のお妃教育でも、英王室を模範に話をなさいました」(先の宮内庁関係者)
お心得にあたる総論を担当するのは、慶応大学の石川忠雄塾長と報じられた。
(略)
天皇のご学友でもある橋本明氏(共同通信社ジャパンビジネス広報センター総支配人)は、
「英王室は今、ああいう状態ですから、話すなら、むしろベルギーやオランダの王室について話す方がいいし、
昔の中国のことを話して差し上げるのもいいかもしれません」と提言する。そして、
「宮中祭祀のような、雅子さんが全く知らないことは一つ一つ教えて差し上げるしかないでしょうが、
29歳の女性なのですから、むしろ物の考え方について話すのがいいのではないでしょうか。
総論では人間としての心、道を外さないようにということをお話する。
正しいこと悪いことをはっきりさせ、弱い者や差別にあって苦しんでいる、
陽の当らない人を守ってさしあげること、贅沢になり親を親とも思わなくなった
最近の日本人の精神の批判もするべきだと話すのもいいと思います」
京都大学の会田雄次名誉教授は、英王室を模範とすることが間違いだと言う。
「英王室の特徴は、外国人を王室に入れること。そして、軍隊の先頭に立つことです。
もともと英王室は、ローマ帝国から任命された征夷大将軍。この二つから見ても、
日本の皇室とは存在理由が違うのです。ですから、総論は一言で言えば、古い時代に
帰ろうという講義をしていただきたい。『古事記』の世界に戻ってもらいたいと思いますよ。
昭和天皇は、ガンの末期でご自身が非常に苦しまれた時、病床から
“今年は天候が不順だと聞くが、コメの出来具合はどうか”とお聞きになったそうです。
減反、自由化が叫ばれている中で、アナクロニズムといえばアナクロニズム。
しかし、時代はどうあれ、こう腐心なさるのが皇室なんですよ。帰国子女でもある雅子さんのお妃教育も、
こんな心を持てるような講義にしていただきたい。間違ってもアメリカのファーストレディ、
ヒラリー夫人みたいにはなって欲しくないですね」
雅子さんのお妃教育は、およそ二カ月間、続く。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
「皇室に学ぶプリンセスマナー」
お妃教育の中で宮中祭祀・儀礼などの科目は、雅子妃は紀子妃の倍の時間だった。
「待立(じりつ)」という、ローブデコルテを着て長時間ひたすら立つ訓練、
長時間少しも動いてはいけない厳しいレッスンもある。
  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


週刊新潮1993年7月8日号
皇太子の恩師が見た御結婚宮中「茶会」の人々
御結婚披露宴のための宮中「茶会」とは、本来、皇太子の最も身近なところにいた人たちを招き、
皇太子妃を披露する内輪の宴だという。
が、今回は、両殿下の強いご希望で、海外の恩師や友人およそ百名にも招待状を発送した。
P・マサイアス元オックスフォード大教授も、その招待状を手に駆けつけたのだが、
教授の見たところ、「お二人が最も楽しそうだったのはガイジンに囲まれているとき」だったのだ…。

実は、皇太子殿下と雅子妃殿下の結婚披露宴は三種類、都合11回も開かれたのである。
最初は、皇族や元皇族を集めて、さる6月11日に開かれた「御内宴」
次が、6月15日から6回にわたって国事行為として催された「饗宴の儀」。
最後が、東宮主催で4回にわたって開かれた宮中「茶会」−。
(略)
「御結婚後に開かれる御茶会は、もともとは皇太子が生まれたときから現在までに奉仕した侍従や料理人、
護衛官、あるいは幼稚園から大学までの先生などを招くものです。
皇太子にとっては、家族同様の親しい人が集まるわけで簡素であっても、最も楽しい宴なんですよ。
まあ、今回は、両殿下のご希望で海外の恩師や友人・知人、雅子妃の関係者も招くことになり、
規模はずいぶん大きなものになりましたが…」(皇室通)
(略)
その招待者数も1130名に及んだわけだが、宮内庁東宮職が招待状を発送するに際して行なった分類では、
招かれたのは、大まかなところ次のような人たちなのである。
「御進講関係者」300名。「外国関係者」100名。「殿下外国訪問の際の随員」と「警備関係者」250名。
「両殿下の恩師(国内)」250名。「東宮職の旧奉仕者」230名…。
「両殿下は国内の友人・知人も招きたかったらしい」という話も伝わってはいるのだが、
結局は、過去に「御進講」をした学者や外務省の大使経験者、両殿下の幼稚園から大学までの先生、
あとは皇太子殿下が外国ご訪問の際に随行した宮内庁職員や外務省職員、護衛を務めた皇宮警察の警察官、
侍従以下の東宮職員…が選ばれたのである。やはり、異色なのは「外国関係者」の100名だろう。
そこには、皇太子殿下がオックスフォード大に留学したときの恩師や、雅子妃のハーバード大や
オックスフォード大在学中の恩師、ないしは友人も幅広く含まれているという。
実は、その「外国関係者」についてはすべて初回の、春秋の間での茶会への招待なのだが、
その招待状発送がわずか十日前だった。しかも、渡航費や宿泊費は本人負担。
それでも、冒頭に触れたように、40名近くの人が駆けつけてくれたのだという。
なかでも、皇太子殿下がオックスフォード大へ留学したときの指導教官、ピーター・マサイアス教授
(現ケンブリッジ大ダウニング・カレッジ学長)の来日には、宮内庁側が大いに驚き、マサイアス教授を
もてなすために春秋の間での茶会のあと「外人だけの茶会」(二次会)も秘かに開くことにしたほどなのだ。
(略)
そのマサイアス教授は語るのだ。
「実は、私たちは二つのパーティに招かれたのです。最初のは、宮殿の中の大広間に300人近くいたと思える
パーティで、
出席者は大多数が日本人でした。それは学習院の教授を始めとした先生や、妃殿下が幼い頃に学んだ先生、
かと思うと侍従や護衛官など、色々な職業、身分の人たちの混合となっていました。
(略)
両殿下の様子も、場内の雰囲気もオフィシャルなもので、私を含めすべての人が両殿下にお祝いの言葉を述べ、
お礼の言葉を返してもらうときには公式的になっていました。
それは、私にはリラックスしたパーティには見えませんでした。しかし、それが終わってから、
私たちガイジンがバスに乗せられ、殿下のお住まい(東宮御所)へ向かったのです。
そちらで開かれた第二のパーティが、実に楽しいものでした」
その「外国関係者のための茶会」が開かれることは、実は、日本人には、ほとんど知らされることはなかった。
遠路はるばる来た人のために、特別に開いたものなのだ。マサイアス教授の話は、当然、そこへ集中する。
「その、特別なパーティは、東宮仮御所の広間で、午後4時45分から、6時半まで行われました。
それは、日本式でありながらモダンな内装の部屋で、その部屋の外にはイギリスのように芝生の庭があるのです。
(略)
そのうえ、そのパーティでは、雅子妃殿下のご両親が最初から出席され、30分ほどたってからは、
天皇皇后両陛下も出席されました。
すべての人が友人のように話し合い、とくに殿下と妃殿下が心から楽しそうでした。
(略)
一方、春秋の間の茶会に話を戻すと、そちらの出席者は、宮内庁職員や外務省職員のほかに、
皇太子殿下にその昔論語の御進講をした宇野精一・東大名誉教授、雅子妃のお妃教育で和歌を受け持った
岡野弘彦国学院大名誉教授、雅子妃に書道の指導をしたことのある小川東洲・ハーバード大客員教授…等々の
両殿下の先生方が多かった。ところで、皇太子殿下にビオラをお教えしているのは、兎束俊之・東京音楽大教授である。
兎束氏は「雅子妃がピアノを弾かれる」と聞き知っていたので、ビオラとピアノのための合奏曲を作曲、
「ロマンス」と名付けて、この日献上したという。会場には、小林仁・東京芸大教授(ピアノ)や
久保田良作・桐朋学園大客員教授(バイオリン)なども出席していたので、音楽関係者はひとかたまりになって、
両殿下に挨拶を申し上げたのだ。が、皇太子殿下に学習院中等科で音楽指導をした藤原義久・山形大教授も、
22日5時からの茶会に招かれていた。その藤原教授は、
「私にとっての殿下の記憶は、誠実な性格でいらっしゃるが、あまり器用ではない。小さいときから音楽がお好きですが、
不器用なところがあった、というものです。しかし、その後こつこつと音楽の世界を広げていかれたのでしょう。
テンポが悪いとか、いろいろ叱った私が言うんですから間違いありません。今では、素人のオーケストラなら、
ビオラのトップを弾く力がおありです。ご結婚でも、六年間誠実に胸に秘められて、ぐらつくことがなかったのでしょう。
舞い上がって結婚するという感じの方ではないのです。当日は、心からおめでとうございますと申し上げました」
感動的な再会を果たした人もいたわけだが、宮内庁の名簿作りの手違いか何かで、招かれなかった人もいた。
スケートの稲田悦子さん(1936年冬季オリンピックに出場)が、その筆頭か。
「殿下が七歳の時から大学生の頃までフィギュアスケートの御進講をさせていただきました。転んで泣くと、
お付きの人に叱られるので、涙をぽろぽろ流しても泣き声だけは決してたてない方でした。
小さい殿下に御進講申し上げながら、私のほうが勉強になったくらいです。
殿下はその後スピードスケートに転向なさいました。私は身分相応なところで、ご結婚に喜びを感じています」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

ミカドと女官〜菊のカーテンの向こう側〜
小田部雄次 扶桑社
中町芙佐子は、「福祉の現場における情緒障害児や精神障害者(児)の相談や心理療法」、
「海外のソーシャルワーカーと我が国の社会福祉士との活動の比較研究」を専門としている職業婦人であった。
中町は昭和十七年生まれ、大阪大学文学部哲学科卒業、家族社会学を専攻し、
鳥取、大阪の家庭裁判所で調査官をつとめた。
退職後、大阪児童相談所で情緒障害児の治療にあたった。
昭和五十七年に夫を亡くし、ニューヨークのコロンビア大学院に留学、
精神障害児のセラピストとして、市立ウッドホール病院精神科に勤務した。
平成四年には、カレン・ホーナー・クリニックにて、適応障害、人格障害など精神症患者への対処法を学んだ。
平成五年に五十一歳にて東宮女官に就任し、平成十一年までつとめた。
(略)
中町が女官に起用された背景には、宮中入りする雅子妃のよきカウンセラーたることへの期待があった。
これは一つに、美智子皇后の過去の経験を克服するためであった。
もう一つは、外国語ができて、外国事情に詳しい人を配することによって、
雅子妃の生活環境を整えるためであった。
雅子妃の女官選定には、当初から周到な配慮がなされていたのであった。
結婚して十年後に「適応障害」という耳慣れない病状を公表された雅子妃であるが、
結婚当初から、「適応障害」の専門家が女官として配されていたのには、驚きがある。
一体、皇室あるいは宮内庁は何を予想してそのような人事をしたのだろうか。
そして、中町はなぜ辞任したのだろうか。
現在、中町は職を辞して、宮中のことについては慎み深い態度で沈黙を保っており、一切は不明である。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊新潮1993年7月22日号
サミット晩餐会で国際的ご披露した「雅子妃」への驚嘆
メーンテーブルには両陛下を中心に、慣例に従って国家元首である大統領、
次に首相がそれぞれ就任期間が長い順に上座に着席。
このため雅子妃殿下は左にエリツィン、右にクリントンという米露両国の首脳に挟まれることになった。
ある宮内庁関係者の話。
「意識してそうした席順にしたわけではありませんが、かなり大変な席であったことは事実ですね。
もっとも着席すると雅子さまはすぐにエリツィン氏と会話を始めたんです。
雅子さまは1歳9ヶ月から4歳まで>モスクワで過ごしていますから、
おそらくそんな話が出たのではないのでしょうか。
エリツィン氏も普段は厳しい顔をしていますがこの時ばかりは柔和な表情でしたからね。
会話はロシア語の通訳を通じて行われました。
ただ流石にエリツィン氏と喋るときは雅子さまもやや緊張気味でした。」
ちなみにその間、クリントン大統領は右隣の紀子さまやメージャー首相と歓談。
こちらは通訳抜きで行われた。


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身元調査

「ドキュメント・皇太子妃内定」(2)専門興信所が4代前まで徹底調査(連載)
東京読売新聞朝刊1993年1月9日 1ページ
「確かに五年前、小和田さんの調査をしました」
皇室関係一筋の老調査員が都内の事務所で重い口を開いた。
宮内庁から直接、調査依頼を受けたのは東京・丸の内に事務所を構える大手興信所。
(略)小和田雅子さん(29)に関する分厚い調査報告書は、作成にまる一か月かかった。
直系は四代前までさかのぼり、大祖父、祖父の兄弟姉妹まで徹底的に調べた
両親については交友関係、勤務先、近所の評判も。肝心の本人は、さらに詳細をきわめた。
経歴、性格、趣味、素行、健康状態……。
結論は「優秀な家系に驚いたのを覚えています。もちろんご本人も申し分ありません
でした」。このベテラン調査員が手掛けたお妃候補は、実は雅子さんだけではない。
この五年間で十人以上にのぼる。雅子さんの調査書はその中でひときわ鮮明に記憶に残っているという。

皇室報道に対する抗議と申し入れ(1993年2月18日)
「皇太子妃内定」いらいの皇室報道について、
部落解放同盟中央本部は、マスコミ・報道各社に、2月18日、抗議し申し入れた。
-----------------------------------------
日頃よりの、マスコミ・報道関係者各位の人権尊重、差別撤廃のための取り組みに敬意を表します。
さて、私たち部落解放同盟は、部落差別はもとより、あらゆる差別を撤廃するために、
「部落解放基本法」制定をはじめ、「国際人権規約」「人種差別撤廃条約」の早期批准、
世界人権宣言の具体化や、「国際先住民年」など、国内外において、
さまざまな取り組みをすすめてきました。
しかしながらこうした平和と人権を守る取り組みの拡がりにもかかわらず、
今日においてもなお、結婚差別によって、自らの命を絶つという悲惨な差別事件を起きています。
また行政書士や社会保険労務士などによる戸籍謄本等不正入手横流し事件のほか、パソコン通信を利用して、
「部落地名総鑑」の一部や、差別文書を大量に送りつけるなど、いまだに差別事件が続発し、
悪質な差別調査ともいえる身元調査がおこなわれていることが明らかになっています。
この間、私たち部落解放同盟は、大きな社会問題ともなった「部落地名総鑑」差別事件をはじめ、
こうした悪質な身元調査による人権侵害の問題を取り上げ、
戸籍閲覧制限や身元調査おことわり運動などに取り組み、大阪においては、
興信所や探偵社の差別調査を法的に規制する、
部落差別調査等規制等条例が制定されるなどの成果をあげています。
しかしながら、本年1月6日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、
人権確立の立場から看過できない内容の報道が繰り返されています。
とくに、小和田家の家族の掲載や「家柄」賛美などの過熱ともいえる報道内容、
さらには、「皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が
4代前まで徹底調査などと、公然と身元調査が行われていることが報じられています。
こうした報道内容は、人権尊重というマスコミ、報道本来の使命に反するものであるばかりでなく、
差別を助長するものであり、強く抗議するものであります。
私たち部落解放同盟は、昨年、全国水平社創立70周年を迎え、
これまで取り組んできた国内外の反差別共同闘争を大きく発展させるとともに、
「貴族あれば、賤族あり」として、生涯、部落差別撤廃と人間解放に取り組んできた、
故・松本治一郎元委員長の取り組みに学び、差別なき社会の実現にむけて
戦いをすすめていくことを誓い合いました。
いうまでもなく、私たちは、こうした人権確立の取り組みをすすめるにあたって
マスコミ・報道関係者各位の果たされる役割に、大きな期待を寄せるものでありますが、
今回の一連の皇室報道の内容は、差別撤廃、人権尊重の姿勢に逆行するものであることを指摘せざるを得ません。
私たち部落解放同盟は、マスコミ・報道関係者各位が、今後の皇室報道において、
差別を助長する、これまでの過剰な報道を改め、差別撤廃と人権尊重の立場を明確にして
報道に取り組んでいただくように、強く要望します。
(解放新聞 93.3.8)

部落解放運動と「同和」行政の動き
解放同盟、抗議文書「皇太子妃報道差別助長する」(93.2.18)
部落解放同盟中央本部(上杉佐一郎委員長は)は
「一連の皇太子報道は人権尊重という報道の使命に反し、差別を助長する」との
18日付の抗議・申し入れ文書を全国の新聞、通信、テレビ各社に送った。
近く雑誌出版社にも申し入れるという。
文書は「解放同盟は部落差別撤廃に向け、戸籍閲覧制度や身元調査おことわり運動に取り組んできた。
その中で、家系図が掲載され家柄を賛美する報道が繰り返され、
公然と身元調査が行われている事が報じられている」と指摘。
過剰報道を改め、人権尊重の立場を明確にするよう、要望している。
(朝日 93.2.25)

皇太子妃決定にかかわる身元調査等の差別助長行為に対する抗議と申し入れ
1993.3.16(抜粋)
本年一月六日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から
看過できない内容の報道がなされています。小和田雅子さんの「家系図」の掲載や
「家柄」賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして「皇太子妃を選ぶにあたっては、
皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査」などと、宮内庁自らが公然と身元調査を
指示していたことが報道されています。
いうまでもなく、すべての国民は法の下に平等であり(憲法第一四条)、婚姻は両性の
合意のみに基いて成立する(憲法第二四条)ものです。したがって、私たちは、
こうした宮内庁の身元調査の指示というものが、差別を助長・拡大させるものであるばかりでなく、
憲法違反という重大な問題であると考え(略)強く抗議するものです。

東京読売新聞朝刊1993年3月20日
部落解放同盟(上杉佐一郎委員長)は十九日までに、
「皇太子妃決定に際し、身元調査が行われたことは結婚差別を助長する」として、
皇室会議のメンバーである宮沢首相や衆参両院の議長、最高裁長官の三権の長と
宮内庁長官あてに抗議文書を送った。

1993/04/21
第126回国会 大蔵委員会 第10号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/126/0140/12604210140010a.html
上田(卓)委員 ぜひとも前向きに検討していただきたい、このように思います。
次に、皇太子の結婚にかかわって身元調査のことが新聞などで今までにいろいろ報道されておるわけです。
(略)結婚や就職の際の身元調査や家系調査は差別につながるということで、
我々は法務省や労働省あるいは地方自治体、民間企業、宗教界の皆さんとともに
身元調査お断り運動というのですか、全国的に展開しておるわけでありまして、
大阪などでは部落差別を目的とした興信所や探偵社による
身元調査を規制する条例もできておるわけであります。
ところが、先ほど申し上げましたように、一月六日の皇太子妃内定以来、新聞、雑誌、テレビなどでは
江戸時代にまでさかのぼる小和田家の家系図を掲載して、家柄や家族などについて
過剰な報道をしておるわけでありまして、皇太子妃を選ぶに当たっては皇室専門の興信所員が
四代前まで徹底調査、こういうような報道もあるわけでございまして、
宮内庁みずからがそういう民間調査機関に指示して調査しておったのかどうか、
その点についてお聞かせをいただきたい、このように思うわけであります。
その前に、法務省と労働省の方がお見えでございますが、
一般的な身元調査についてどういう見解を持っているのかお答えいただきたい、このように思います。

『部落解放』1993年6月号
「皇太子妃決定に関わる身元調査等の差別助長行為にたいする抗議と申し入れ」記事
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228314129442.jpg

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

部落解放同盟系の研究者である上杉聡
マスコミが発表した小和田家の「優秀な家系図」の欺瞞性を指摘
『戸籍解体講座』 
上杉聰
小和田雅子の系図のトリック1

次の応用問題にいきたいと思います。お手元の資料の中に小和田雅子さんの系図が載っています。
この小和田雅子さんの系図が掲載された時、これは『朝日新聞』からとってきたんですけども、
海軍大将なんかのりっぱな家系の娘さんだということが盛んに言われました。
これに対して部落解放同盟が抗議をしました。
宮内庁が四代前まで徹底的な調査をすると言っていたことに対して抗議をしたということは、
やはり解放運動のおかげだというふうに思うんですけども。
この系図を見て、うっかりすると唸ってしまうといのもまた我々の性なんですね。
そこで、これまでの予備知識を踏まえて、私もちょっと動揺を押さえながら、これをじっくり見てみました。
そうすると問題点がだんだん見えてきたんですね。一番上を見ていただきますと、
小和田金吉、田村又四郎、江頭安太郎、山屋他人、この人たちは聖母マリア様でもあるまいし、
一人で子どもを生んでるという恰好になるんですね。
その下の段階になると男、女が確実に書かれてあるんですが、一番上の四人は配偶者なしなんですね。
一人で子どもを生んじゃってるんですね。これ、「処女懐胎」じゃなくて「童貞懐胎」っていうやつですかね(笑)。
これは何だ、というふうに考えれば、やはり先ほどの、
女は家系図から除かれる傾向を代表しているんだろうというふうに思うわけです。
それともう一つ。二段目になってきますと、右の方に静さんという人と、
それと一番左に寿々子さんという人がいますね。これ、肩書きがないんですよ。
さらに寿々子さんの下に優美子さんという人がいますが、この人は外務省のキャリア・ウーマンということで、
鳴り物入りで宣伝されたのもかかわらず、肩書きがないですね。
女性は一人として肩書きがないんですよ。これも問題ですね。みんな専業主婦だったのか。
まさかそうじゃないですね。これはやはり、女性は肩書きを除く傾向にある。
肩書きを除くまでして何で載せているのかと言えば、どうもそれは、
海軍大将の山屋他人から雅子さんまで引っ張ってこようとすると、
寿々子、優美子という二人の女性を経由してしかもってこれないわけですね。
そのために肩書抜きで載っけているわけです。
それからもう一つ思いますことは、たとえば山屋他人さんには配偶者がいるはずなんですが、
その子は一人っ子なのかということですね。さらにその下のチッソの社長と寿々子さんの間にできた優美子さん、
これも一人っ子になっているんですね。
それから右の方の田村又四郎さんも一人っ子で静さんを生んでいる。
小和田金吉さんも一人っ子の家庭だったのか、と。どうもおかしいんですね、これね。
これ、除かれているんだと思うんですよ。まず女性は徹底的に除いたんだろうと思います。
そして肩書きがとるに足りないと考えられた男性も。たとえば江頭安太郎さんの息子さんは三人おります。
隆さんと古賀博さんと豊さん。
豊さんが元チッソ社長というのが誇らしげな肩書きなのかどうかは問題がありますが、それはおいておきまして、
この中で隆さんは肩書きがないんですよ。何でかなと思ってよく見ると、その下にですね、
評論家の江藤淳がおるんですね。この江藤淳をもってきたいために隆さんを載っけてるんですが、
隆さんには肩書きがないんです。書くに足らないような肩書きだと判断したんだろうと思うんですね。
この系図から除かれた男、女性も惨めですが、名前だけ書かれて肩書きを除かれた男も惨めだと思うんですね。
女性差別は必ず男性差別にもつながるという典型的な例だろうと思います。
そうすると、果たしてこれでも系図と言えるのか、ということがだんだん見えてくるわけですね。
要するに、何とかして雅子さんと海軍大将とか江藤淳とかを関係づけたいために、
つないでみせたにすぎないわけですね。これはものすごい宣伝文書です。
彼女の血筋、家系がいかに立派かということを宣伝するための図です。家系図でも何でもないんですね。
それなのについ「なるほどね」と、私も含めて思いたくなるということです。
本来なら笑ってしまってもいいようなものが、大新聞に堂々と載せられて、我々も抗議すらしない。
我々の感性がいかに鈍ってしまっているのか、ということを思うわけです。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

皇太子妃雅子さま 河原敏明著(平成5年4月)
小和田家の系譜
ここで小和田家の戸籍系統図をみよう。本家は小和田岩夫氏といい、現在東京都下の小平市に住んでいる。
岩夫氏の5代前の群蔵から分かれた兵五郎が、雅子さんの直接先祖になる。
つまり 兵五郎―道蔵(匡利)―金吉―毅夫―恒―雅子の流れである。
その祖先が眠るという西真寺(さいしんじ)を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺で、
元和4年以来、ここで370年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、
毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、という話をしてくれた。
ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけで
(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。
高さが70cm、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。
ふつう移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」と住職夫妻も不審気だった。
昭和61年11月、恒氏が外務省官房長のとき、恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、
そのときも祖父、曽祖父が眠っているにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。
そこで小和田毅夫氏が村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。
外務省の小和田家にとって初代に当たる兵五郎の墓は寺にはありません。
私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓を
うちに移したということはまったく知りません」と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。
しかも泉性寺が明治十三年の大火で類焼しているので資料が乏しいという。
昭和五十五年に毅夫氏が、この泉性寺にある墓の台座だけを、よりよいものに直している。 
先の61年11月に新潟を訪ねた恒氏は夫人、両親とここの寺には墓参のため立ち寄っている。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

江藤淳『一族再会』
祖父
木原村
肥前国佐賀郡北川副村木原は、現在の佐賀市大字木原で、国鉄佐賀線の南佐賀駅にほど近い農村地帯である。
明治四十三年ごろ、祖父に連れられてはじめて佐賀に行った父は、
市中に田圃があるのにおどろいたのを今でも印象にとどめている。
そのとき祖父は、小学生だった父にむかって、
「おれの生まれた家はこの田圃のはるか向うのほうだった」といったという。つまりそれが木原である。
それから三年後に祖父は死んだ。
父の記憶にないところをみると、祖父はこの佐賀滞在を利用して
生家のあった木原を訪ねようとはしなかったらしい。
それが何故であったかは私にもよくわからない。当時木原にはすでに近親の残存者は皆無で、
裁判官になっていた祖父の兄も遠く東北の任地にあった。
しかし海軍少将で佐世保鎮守府参謀長の職に在った祖父が、
久しぶりの帰郷にあえて生家の跡をおとずれようとしなかったのは、
やはり彼に故郷に対する根強い嫌悪感があったからではないかと思われる。
彼はおそらく「錦を飾る」などというにはほど遠い心境だったのである。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

高原氏
小和田雅子さんの母方・江頭家は高祖父の江頭嘉蔵までは遡れます。
父方の小和田家は、曽祖父の小和田金吉までしか系譜は分かっていません。
3代前までしか遡れない小和田家の4代前を、
その調査員の方はどうやって調査したのでしょうか?
また、4代前まで遡って調査したはずなのに、
マスコミに公表された家系図の小和田金吉には職業や経歴は一切記されていないし、
金吉以前の系図が記されていないのは何故ですか?


小田桐誠 消えたお妃候補たち
指摘されたいくつかの問題点
宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両親の評判、
本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。
その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指摘されていた。
一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された一部週刊誌が指摘していたように、
小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、
代表的な公害企業・チッソの社長や会長を務めていたこと。
「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さまの訪問先で、
水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁幹部は懸念したのである。
(中略)
母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左翼系の学者がいることをマイナス要因にあげる者もいたという。
(中略)
ただハーバード時代にボーイフレンドがいたことも一つのネックになっているのでは、とみるマスコミ関係者もいた。
小和田雅子の母方の祖父に難点ありとして、富田宮内庁長官は浩宮に
「(小和田さんには)こういう問題が付随しますからね」と伝えた。
「難しいですか」
「はい」
「ああ、そう。それなら仕方ないですね」
二人の間でこのようなやりとりがあったといわれる。当時のことを富田は
『週刊朝日』(九三年一月二十二日号)でこう答えている。
「私が(小和田さんに)反対したことはありません。ただ、当時は、いわゆる『チッソ問題』の
被害者の方がまだ大勢おられました。加えて、批判勢力というか、社会運動派の人たちが
(チッソの)東京本社に、押し掛けたりもしていた。そういう状況でしたから、
もう少し様子をながめたほうがいいのではないかと、そう殿下に申し上げた。
殿下はそれを『わかった』といわれたのです。
『おやめなさい』といったのではなく『みつめましょう』といったのです」


皇太子妃・雅子を生んだ小和田家の犯罪ルーツを徹底追跡!
噂の真相 1993年4月号
現地水俣でも異変が……
それにしても、かつて自分たちを苦しめた加害者の孫娘が皇太子妃に選ばれたことを、
被害者である水俣の人々はどう感じているのだろうか。
マスコミは内定直後、宮内庁の言い分をあれだけたれ流しながら、
肝心の患者たちの生の声をほとんど取り上げようとしなかった。
「自主規制ですよ。わずかに共同通信熊本支局がきわめて当たり障りのない患者の声を配信しましたが、
それとて掲載した新聞はほとんどなかった」(大手紙・社会部記者)
そして、驚いたことにそうした自主規制のムードは水俣病の患者自身にまで広がっている。
実際、取材をしてもほとんどの患者たちはこの件については、何もしゃべりたがらないのだ。
「何をいっても慶事に水を差すととられかねない、という恐れをいだいてるんですよ」
と語るのは地元支局の記者。
ある患者がマスコミにコメントを求められ、ごく素直なお祝いの気持ちを話したらしいんです。
ところが、それが掲載されたとたん、右翼と称する人物から『結婚を台なしにするつもりか』
との脅迫電話がはいったらしい」
今なお残っている水俣病患者に対する差別構造。そして、その構造は天皇制という差別のシステムによって、
さらに増幅されていく。しかし、ひとりの患者がようやく重い口を開き、本音を語ってくれた。
「正直いって、江頭については今も怒りの感情は消えていない。が、だからといってあの男の孫が
お妃になることをどうこういうつもりもない。これはほとんどの患者がそう考えていると思う。
「ただ−」呼吸をおいて患者はこう続けた。
「許せないのは宮内庁だ。五年前、あの男の孫がお妃になれなかったのが水俣のせいだといわれて、
我々が周囲からどれだけ白い目でみられたか、ところが、宮内庁は今度はまるで
水俣病の問題が解決したようなことをいう。宮内庁にいったい水俣の何がわかるというんだ」

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天皇家の宿題 岩井克己著

天皇家の宿題 2006年10月発行 
岩井克己著 朝日新書

皇太子の「人格否定」発言は想定の範囲を超えるもの。
「キャリア」「人格否定」といった言葉は、
それまで親しんでいた彼の語り口からは考えられない類のぎらついた語彙であり、
真意をどう受け止めていいのか、しばらく悩んだ。
宮内庁のある幹部の感想。
「だれかに向かって『妻の人格を否定された』と言うことは、言われた方も人格を否定されることになる。
私が君の妻の人格を否定したというのなら証明してみせろとなる。
これはそういう類の、のっぴきならない、ケンカを売る時の言葉だ。
どのような意図で発言されたのか、世間がいぶかるのも無理はない」

皇太子の発言から三日後の五月一三日夜、湯浅長官、藤森昭一元長官、鎌倉節前長官らが御所に呼ばれた。
「皇位継承問題の大切さ、重さを、どうしたらもう少し国民に分かってもらえるか」という話も出たと伝え聞いた。
両陛下はとても心配していたという。
五月一七日、陛下は帰国した皇太子に国民に説明するよう意向を伝えた。
しかし、皇太子の追加説明の文書は、参加国訪問から帰国後もなかなか出てこなかった。
追加説明の文書が皇太子から出されたのはそれから3週間後の六月八日。
文書が出てこなかった裏には、皇太子と雅子妃の間で意見の食い違いがあったのではないか、と思われるふしがある。
皇太子は天皇から発言の説明を求められ、早々に応じる考えを示したのですが、
雅子妃は、説明する必要はないと考えていたというのです。
この頃、雅子妃が「皇太子妃をやめます」と言ったと、一部の週刊誌が最近書いています。
私も当時、その噂は聞きました。
「雅子妃が側近に、『説明文書を出すなら、皇太子妃をやめます』と激しい口調で言って、電話を切った。
その側近はこのため心労で体調を崩してしまったようだ」ということでした。
天皇、皇后の周辺は「宣戦布告か」と驚いた。
「そのことを公表すべきだ」との厳しい意見も出たと聞いて、私は「崖っぷちだ」と感じました。
さすがに公表は思いとどまられたようでした。
また、下書きの段階では皇太子は紀宮様にも相談し、両陛下にわびる趣旨が入っていたけれども、
発表された文書では「(両陛下に心配をかけてしまったことについて)心が痛みます」と変化。
紀宮様は驚かれたという。
両陛下の周辺は「恵まれない人々に対する気持ちの表明みたいだ」と困惑した。

後継者問題について
結婚後も夫妻は不妊治療に消極的であったため、高松宮妃が心配して
両陛下に「あなた方は親でしょう。なにをしているのですか」と問いかけたこともあった。
流産について
宮内庁は医師の意見を聞き、
「黄体ホルモンを注射したりして気をつければ大丈夫」と判断してベルギー行きを強行。
(知ったら止められるので)両陛下には報告せず。
帰国後に流産という結果になると、宮内庁は両陛下に報告していなかった気まずさもあり、
先手を打って朝日新聞を批判。

このころ、天皇は前立腺がん腫瘍マーカーPSAの数値が上昇し、ホルモン治療に入ることになり、
皇太子と秋篠宮を呼びました。がんの再発を告げ、いろいろ相談したかったようです。
しかし、皇太子は「都合がつかないので」と来ませんでした。
がん再発が発表されると、驚いた皇太子から急いで訪問したいとの意向が伝えられましたが、
今度は天皇のほうが厳しい態度で難色を示したようです。
(中略)
しかし、なかなか皇太子の御所訪問が実現しない状態が続きました。
間を取り持ったのが皇后でした。七月十日、天皇、皇后が毎年恒例のテニス会のため
赤坂御用地を訪れ東宮御所に立ち寄った際に、久しぶりに雅子妃も愛子内親王とともに顔を出しました。
皇后が雅子妃を抱きしめる場面もあったと聞きました。
八月十七日には、皇后が突然、一人で東宮御所を訪れました。滅多にないことです。
じかに話し合い気持ちを確かめることで、
天皇と皇太子夫妻の間の溝を埋めたのではないかと私はみています。
皇太子夫妻が、ようやくそろって御所を訪問したのは九月四日でした。
そして雅子妃の私的な外出が再開され、美術館鑑賞や買い物、親族宅への訪問などが動き出しました。


小和田雅子さんが外務省に入省した年の4月に高円宮家に深夜1時まで雅子さんがいたということで
雅子さんを取材。外務省内の部屋に通された。