天皇の20年 加地伸行

【正論】天皇の20年 立命館大学教授、大阪大学名誉教授 加地伸行
2009年01月06日 産経新聞 東京朝刊 オピニオン面
「天子に争臣七人有れば…」
皇室のことについて書くのは、正直言って気が重い。
それと言うのも、私が古い世代であるからだ。
もっとも、敗戦のとき、私は国民学校(今の小学校)3年生であったので、戦前・戦中派の最末席を汚すにすぎない。
しかし、先日、久しぶりのクラス同窓会でわれわれは当時の唱歌を大合唱した。
「勝ち抜く僕ら少国民、天皇陛下のおんために、死ねと教えた父母(ちちはは)の…」と。
昭和20年8月15日−暑い日であった。2週間後の9月、始業式のあと、私は作文を書いた。
「日本は科学(注…原爆のイメージ)で負けたので、これからは科学を勉強してアメリカをやっつけきっと勝ちます」と。
子どもごころに復讐(ふくしゅう)を誓ったのだ。
当時、学校はクラスの級長を軍隊式に小隊長と俗称していた。
私は桜組小隊長としてそう書くのが正しいとしたのは当然であった。
この文を読んだ教師たちはおそらく慌(あわ)てたことだろうと思うが、私には記憶がない。
それから茫々(ぼうぼう)60年余、この老骨、皇室への敬意は変わらない。
変わったのは、いや変わりつつあるのは、逆に皇室ではなかろうか。

≪皇室は無謬ではない≫
昨年、西尾幹二氏に始まり、現在の皇室について論争があった。
その詳細は十分には心得ないが、西尾氏は私より1歳年長であり、〈勝ち抜く僕ら少国民〉の心情は同じであろう。
皇室への敬意に基づく主張である。
その批判者に二傾向、(1)皇室無謬(むびゅう)派(皇室は常に正しいとする
いわゆるウヨク)、(2)皇室マイホーム派(いわゆるリベラルやサヨク)がある。
私は皇室の無謬派こそ皇室を誤らせると思っている。
歴代の皇室では皇族の学問初めの教科書に儒教の『孝経(こうきょう)』を選ぶことが圧倒的に多かった。
なぜか。
『孝経』は、もちろん孝について、延(ひ)いては忠について教えることが大目的であるが、もう一つ目的があった。
それは臣下の諫言(かんげん)を受け入れることを述べる諫争章を教えることである。皇室は無謬ではない。
諫言を受容してこそ安泰である。そのことを幼少より学問の初めとして『孝経』によって学ばれたのである。
諫言−皇室はそれを理解されよ。
一方、皇室のありかたをわれわれ庶民の生活と同じように考え、マイホーム風に論じる派がいる。
だいたいが、皇室の尊厳と比べるならば、ミーハー的に東大卒だのハーバード大卒だのと言っても
それは吹けば飛ぶようなものである。まして外交などというのは、下々の者のする仕事である。
にもかかわらず、そのようなことを尊重するのが問題の解決となると主張するマイホーム人権派もまた皇室を誤らせる。

≪「無」の世界に生きる≫
折口信夫は、天皇の本質を美事に掴(つか)み出している。
すなわち、歴代の御製(ぎょせい)を拝読すると、中身がなにもないと言う。
例えば「思ふこと今はなきかな撫子(なでしこ)の花咲くばかり成りぬと思へば」(花山天皇)。
このような和歌は庶民には絶対に作れない。庶民は個性を出そうとするが、
天皇は個性を消し去る。それは〈無〉の世界なのである(折口説の出典名を失念、読者諸氏許されよ)。
折口の天才的文学感覚は御製の性格を通じて、〈無〉という天皇の本質を的確に示している。
〈有〉の世界にいるわれわれ庶民は、やれ個性の、やれゼニカネの、やれ自由の人権のなどと
事(こと)物(もの)の雁字搦(がんじがら)めになっている。
そして〈有〉のマイホーム生活を至福としている。
皇室は〈無〉の世界に生きる。それを幼少からの教育によって培(つちか)い、マイホーム生活と絶縁するのである。
なお、皇室を神道の大本とするというのは一面的である。皇室は同時に日本仏教と深く関わるからである。
京都の泉涌寺(せんにゅうじ)に安置されている歴代天皇の位牌(いはい)は仏教者であることを示す。
皇族は、神道・日本仏教さらには儒教に深く関わり東北アジア諸文化を体現する。
日本の核にして〈無〉である以上、可能な限り、皇居奥深くに在(いま)され、
やれ国際学会の、やれ国連なんとかの開会式などといった庶民のイベントにはお出ましにならないことである。
陛下御不例(ごふれい)が伝聞される今日、皇太子殿下の責任−〈無〉の世界の自覚が重要である。
もしそれに耐えられないとすれば、残る道は潔(いさぎよ)い一つしかない。
『孝経』に曰(いわ)く「天子に争臣(そうしん)(諫言者)七人有れば…天下を失わず」と。

哲学者に思いを馳せて

京都・ものがたりの道:哲学者に思いを馳せて=彬子女王
毎日新聞 2014年05月11日 東京朝刊
新緑萌(も)ゆる5月。
柔らかな初夏の陽(ひ)ざしに照らされて、木々の若葉が輝く季節。
この時期の京都が、1年の中でも一番明るい雰囲気に満ち満ちている気がする。
その要因のひとつではないかと思うのが、ゴールデンウイークが明けた頃から日に日に増えてくる
若やかな修学旅行生たちだ。
勤務する慈照寺(銀閣寺)へと向かう途中、ふと気付くと哲学の道へ目を向けている。
熊野若王子神社から慈照寺の参道へと続く琵琶湖疏水(そすい)沿いの小路を、
カメラやガイドブックを手にした修学旅行生たちが楽しそうに談笑しながら行き来する。
その姿を見ると、私も高等科の時に同じようにこのあたりを歩いていたな、
といつもノスタルジックな思い出に浸ってしまうのである。
修学旅行というのは、数ある学校行事の中でも記憶に鮮烈に刻まれるもののひとつではないかと思う。
私自身、修学旅行で初めて訪れた慈照寺のお庭、きらきら輝く銀沙灘(ぎんしゃだん)から望む銀閣が
絵のように美しかったことを今でも鮮やかに思い出すことができる。
その慈照寺に今では職員として勤務しているのだから、
人生の歯車は思いもよらないところで回り始めているものだと思う。
私の友人に、修学旅行で初めて京都を訪れ、「将来絶対この場所に住む!」と心に決め、
その思いに駆られて京都の大学に入り、京都で就職し、今も暮らしている人がいる。
その話をきらきらした目で語る姿に、同じような表情で感動していたに違いない
少年の頃の彼の姿が見えるようで、何だかほっこり心あたたまるとともに、
少年の心を揺さぶり、突き動かした京都という土地の持つ不思議な力を感じたのだった。
夢を現実にする原動力となった修学旅行。哲学の道を歩く修学旅行生たちは、今何を思い、感じているのだろうか。
「哲学の道」という名前は、京都学派の創始者である哲学者の西田幾多郎(きたろう)が、
この道を散策しながら思索にふけったことから付けられたと言われている。
でも私は、英語での名称である‘‘Philosopher‘s Path’’のほうが
何となく道の雰囲気に合っているような気がして好きだ。
日本の哲学の世界を切り開いてきた西田博士の、悩み、考え続けてきた
人生の縮図がそこにあるような気がするからである。
哲学の道をゆく修学旅行生たちの中で、その偉大な哲学者に思いを馳(は)せる人は少ないだろう。
斯(か)く言う私もきちんと知ったのはごくごく最近のことであったりする。
でも、あの道を歩く人たちは必ず何かを感じるはずだ。川のせせらぎや鳥の声、
葉ずれの音に目にまぶしい艶(つや)やかな緑。五感を使いながら歩いていると、
この道を愛した哲学者の気持ちがよくわかる。知らず知らずのうちに、
私たちは西田博士の思いに同化しながらあの道を歩いているのかもしれない。
特別な史跡が間にあるわけではない。観光名所ではあるけれど、
朝夕は犬の散歩をする人やジョギングする人たちが行き交う日常の道だ。
疏水を眺めるベンチに座っていると、いつの間にか時間が過ぎている。
この道のほっと心落ち着く空気の流れは、昔も今も変わっていないに違いない。
この居心地の良さが、西田博士を誘い、今も多くの人を惹(ひ)きつける所以(ゆえん)なのだろう。

 人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり
西田博士が遺(のこ)した歌のように、哲学の道をゆく修学旅行生たち一人一人が、
自分の進むべき道を見つけ、力強く歩いていってくれたらよいなと風薫る季節に願う。
==============

 ■人物略歴
 ◇あきこじょおう
1981年、寛仁(ともひと)親王殿下の長女として生まれる。
学習院大を卒業後、オックスフォード大で日本美術を専攻。女性皇族として初めて博士号を取得した。
現在は、銀閣慈照寺研修道場美術研究員。
4月は、寛仁親王殿下が国際交流に尽力したトルコを訪問し、追悼コンサートなどに出席した。

http://mainichi.jp/shimen/news/m20140511ddm013040032000c.html


毎日新聞連載 彬子女王 京都・ものがたりの道 
https://mainichi.jp/articles/20160319/ddm/014/040/012000c

なぜ総理大臣が靖国神社に参拝してはいけないのか

「田母神塾」―これが誇りある日本の教科書だ― 
(2009年3月 双葉社)

なぜ総理大臣が靖国神社に参拝してはいけないのか

「A級戦犯が祀られている靖国神社に、総理大臣は参拝すべきではない」。
こうした意見は、歴史的事実を全く知らない人間の常套句です。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効をもって日本は晴れて独立を果たしました。
戦闘は45年8月15日に終わったわけですが、
講和条約の発効をもって初めて、国際法的に戦争が終わったとされるのです。
占領期間中、占領国は被占領国に恒久法を強制してはいけないと国際法では定められています。
ところが日本は、憲法改正に教育基本法改正、教育勅語廃止までやられてしまいました。
52年4月28日に正式に戦争が終了し、日本は独立したわけです。
この時点で、占領期間中に決められたことなど全部無効と宣言しても問題はない。
国際法上、なんら咎められる理由はありません。
GHQから独立すれば、ようやく戦争は終わりになる。
そうすれば「A級」「B級」「C級」と区別をつけられ
牢獄につながれていた「戦犯」たちは、当然即座に解放されるものと日本国民は考えていました。
しかし「戦犯」たちはすぐには家族のもとへは帰ってこられませんでした。
なぜでしょう。サンフランシスコ講和条約の第11条があったためです。条文にはこうあります。

《日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、
且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。》

懲役×年、禁固△年と定められた刑期を、日本政府の責任で守りなさいというわけです。
11条は次の条文へと続きます。

《これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について
刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。
極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の
過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。》

日本はサンフランシスコ講和条約第11条に従いながら、52年4月28日から約6年半かけて
「戦犯」と呼ばれる人たちを逐次解放していきました。最後の人が解放されたのは、58年8月30日のことです。
日本はサンフランシスコ講和条約違反はまったくしていない。律儀に守ったわけです。
本来であれば、独立後まで敗戦国を拘束するのは国際法違反です。
しかし、サンフランシスコ講和条約に調印する以外に、日本は独立しようがなかった。
仕方なく、条約に書いてあることを日本は守ったのです。
条約を律儀に守ったために、お父さんやお兄ちゃんが家族のもとへなかなか帰ってこられない。
そこで、戦犯釈放の署名運動が起きました。運動により、約4000万人もの署名が集まっています。
当時の日本の人口は7000〜8000万人でしたから、大人のほとんどが署名したということでしょう。
戦犯は釈放されるべきだという署名運動をリードしたのは日本弁護士連合会(日弁連)でした。
現在の日弁連は完全に左傾化しているため想像もつきませんが、当時の日弁連はまだまともだったわけです。
戦犯釈放のため、国会決議もなされました。共産党などのごく一部を除いてほぼ満場一致で、
「戦犯は釈放されるべきである」という国会決議がなされています。国会決議をすべく奔走したのは、
日本社会党(現在の社民党)の堤鶴代という女性議員でした。
この議員の活躍のおかげで、52年6月9日には参議院で「戦犯在所者の釈放等に関する決議」が、
同年12月9日には衆議院で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が採択されています。
同年4月30日には戦傷病者戦没者遺族等援護法という法律が制定され、
さらに6月20日には恩給法という法律が変更されました。
戦後軍人に支給された恩給は、犯罪人には払われないという決まりになっています。
弔慰金についても、犯罪者の家族には出さない。「戦犯」と呼ばれる人たちやその家族には、
恩給も弔慰金も払われなかったわけです。
しかし、戦傷病者戦没者遺族等援護法制定と恩給法改正により、
既に戦犯として処刑された人の家族にも、きちんと弔慰金が出されることが法律で決められました。
大橋武夫(法務院総裁=現在の法務大臣)は、国会で次のように答弁しています。

《いわゆる戦争犯罪人というものは、国内の犯罪とは性格的に違うものであります。従って、
その呼び方についても同じような呼び方をしないほうがいいと考えております。》

A級戦犯とかB級戦犯という呼び方は、適切ではないという答弁です。
こうした歴史的経緯があり、今に至っていることを知っておくべきでしょう。
現在も東条英機総理以下28名を「A級戦犯」と呼びたいのであれば、
そのための国会決議を通してからにしてもらいたい。
繰り返しになりますが、サンフランシスコ講和条約の発効時点で、
国際法上は「戦犯」など既に存在しないわけです。
戦後間もなく「戦犯」が収容さけていた巣鴨刑務所には、
彼らが気の毒だということで当時の芸能界の超一流どころが慰問に出かけています。(中略)
「A級戦犯はけしからん」と言うような人は、当時はほとんどいなかった。
そんなことを言っていたのは、ヘソが左側を向いた一部の人間だけです。
「戦犯には、戦争に負けた責任を取ってもらう必要がある。
日本人自身の手で戦犯を裁かなかったから、いろいろ問題が起きているのだ」という主張をする人もいます。
終戦直後の東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣は、日本が自分の手で東京裁判を開き、
連合国の手を借りて戦犯の裁判は行わないことを主張しました。
しかし、ソ連の反対もあってGHQでは認められなかった。
日本がGHQの占領下にあったため、東京裁判を日本人自身の手で開くことはできなかったわけです。
結果的に東条英機総理以下7人が処刑されるなど、「A級戦犯」はGHQの手によって裁かれてしまった。
今ごろになって「日本人自身の手でA級戦犯を裁くべきだった」などと主張しても、まったく意味がないのです。
日本には、「A級戦犯」も「B級戦犯」も「C級戦犯」も存在しません。
連合国の側が勝手にそういう呼び方をしていただけです。左翼が勝手にそう呼んでいるだけなのです。
「A級戦犯が祀られている靖国神社に、総理大臣が参拝するのはおかしい」。
これまで何度も繰り返されてきたこの主張が、まったくのお門違いだということをおわかりいただけたでしょうか。

目次5へ

石破茂氏「『元首』を超えた存在」

【憲法の焦点(3)】
天皇編・石破茂氏「『元首』を超えた存在」
2012.4.3 21:04
「元首」にはどうしても違和感がある。「(昨年殺害されたリビアの)カダフィ大佐と同列か」と思ってしまう。
「君臨すれども統治せず」の英女王でさえ、議会演説では「私の政府は…」という言い方をする。
ましてや米国やロシアなどの大統領はむろんのこと、元首はどうしても「権力」と無縁ではない。
天皇陛下は、例えば昨年の東日本大震災ではお住まいの電気も暖房も消され、
被災民と同じ暮らしをしようとされた。「私」を滅却される、わが国で唯一のご存在なのだ。
つまり、天皇とは、「権力」ではなく「権威」そのものなのではないか。故に尊い。
そういう天皇を外国の元首と同じ扱いにしていいのだろうか。
憲法に「元首」とわざわざ書かなければいけないのだろうか。
元首でないなら、どう表記したらいいか。いろいろな議論があるが、
やはり「象徴」という言葉以外に見当たらない。
英語を直訳した現行憲法では珍しく日本人の感性にあった文言だ。
権力を超えた権威たる天皇にふさわしい言葉は「象徴」なのではないか。
今、天皇陛下のご公務のあり方が問題になり、女性宮家創設の話まで出ている。ご負担を減らそうといっても、
それが陛下の大御心(おおみごころ)にどこまで沿ったものかも考えねばならない。
緊急事態条項は憲法に創設しておくべきだ。国家自体の存続と憲法秩序が危ういときに、
危機を脱するまで一時的に権力を集中させて事態を乗り切る体制は、あらかじめ想定しなければいけない。
明治憲法では天皇に非常大権があった。2・26事件と昭和20年の終戦は昭和天皇のご聖断がなければ
収まらなかった。権威の象徴でもあるが故に、
「本当に国が滅ぶか滅ばないかというときにはご聖断なるものがあって然るべき」というのが、
明治憲法起草者の知恵だったのだろう。
今は主権者は国民だ。その国民から選ばれた代表たる国会議員が首相を選ぶ。
仮にときの首相が非常に危うい人物だとしても、そこは「民主主義のリスク」としてやむを得ないだろう。
現行憲法は独立主権国家としての体をなしていない。前文や9条も変えなければならない。
自民党はそのためにできた政党だ。かつて後藤田正晴元官房長官は
「憲法改正はワシが死んでからにしておくれ」とおっしゃたが、これ以上時間を費やすべきではない。

いしば・しげる 鳥取県八頭町出身。慶応大卒業後、都市銀行勤務を経て、昭和61年に衆院初当選。
連続8回。防衛相、農水相、自民党政調会長などを歴任。安全保障政策に精通し、
著書に「国防」「職業政治の復権」などがある。55歳。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120403/plc12040321080025-n1.htm

日本よ「祭司たる天皇」

石原慎太郎エッセイ 日本よ
産経新聞2006年2月6日 

「祭司たる天皇」
最近になってにわかに天皇の皇位相続についての議論がかしましいが、この問題を論ずる前に国民にとって
そも天皇なるものはいかなるものなのかを考えなおす必要があるような気がする。
敗戦後から今日に至るまでの時代において、日本国民にとっての天皇の意味を示したものは主に憲法だろうが、
その第一条に『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』とある。

この起草者が日本の歴史と文化をどれほど確かに踏まえてこの文を綴ったのかは定かではないが、
象徴というわかるようでわからぬ言葉にこめられたもの、またこめなくてはならぬものについて、
今の日本という開かれた市民社会の中でもう一度確かめなおす必要があるのではなかろうか。

憲法に『国民統合の象徴』と唱われている限り、天皇制の存在は日本という国家社会にとってのいわば
アプリオリ(先天的)なのだろうが、ならば天皇は何ゆえに国民統合のための何の象徴なのか、
なぜに象徴足り得るのかを。

憲法には思想と信教の自由が保証されているが、国民の中には共産党やその共鳴者のように
天皇制そのものを否定してかかる者もいようがそれはさておいても、
個々人の信条に強く関わる信教に関しての自由が保証されている限り、
憲法の建て前からすれば天皇の存在は国民個々人の信仰の違いとは矛盾してはならない筈である。

しかしながら私は天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。
人類の歴史の中に同じものを探せば、古代エジプトのファラオに例を見ようが、現今の世界には他に例がない。
さらにいえば天皇は神道の最高の祭司に他ならない。ならば神道もまた宗教の一つではないかという反論があろうが、
私には神道は宗教というよりも日本人の心情、感性を表象する日本独特の象徴的な術だと思われる。

その根源は日本という変化の激しい特有の風土にまみえてきた古代人が、
自然への畏怖と敬意と賛仰をこめて編み出した、万物に霊性を認めるアニミズム(精霊崇拝)の上に
成り立ったシャーマニズム(予言など超自然的存在との交流による宗教現象)にあった。
そうした汎神論はたとえば那智の滝を御神体として祭った那智大社別宮飛滝権現神社であるとか、
三輪山そのものを祭った奈良の大神(おおみわ)神社の存在に如実に表れてい、その集大成が伊勢に他なるまい。

私はかつて、熱心なカトリック教徒である曽野綾子さんが伊勢を訪れた折の感動を記した文章に強い印象を覚えた。
彼女はその中で伊勢こそが日本人の感性、精神の原点だと悟ったと記していた。それは優れた芸術家の感性を証す、
宗派などという人間が後天的にものした価値観や立場を超えた、
人間たちの在る風土が育みもたらした人間にとって根源的なものへの真摯で敏感な認識に他なるまい。

日本の風土が培った独特の汎神論はその後伝来した、これまた他の一神教と異なり多様な聖性を許容する
仏教と容易に混交融和して今日の日本人独特の、決して宗教的なものにとどまらぬ、
いわば融通無碍(むげ)な価値観とさらにそれに育まれた感性をもたらした。

そしてそれについて、一神教がその大方を支配する今日の世界の狭量な価値観の対立と混乱を予測したのか
アインシュタインやマルロオのような優れた感性の識者は、日本人の価値に関する感性こそが
人類の救済に繋がるともいっている。そしてその感性の表象こそが神道なのだ。
その限りにおいて神道は宗教の範疇を超えた日本人の価値観の表現の様式であり、
民族としての自己表現の有効な一つの手立てに他ならない。

そしてさらに、天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて
日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない。過去の歴史の中で天皇はさまざまな形で
政治に組みこまれ利用もされてきた。武士台頭以前の時代には公家支配の核とされ、
近代にいたり軍閥跋扈の時代には大元帥として軍事の統帥者とされ、太平洋戦争時には人間ながら
現人神(あらひとがみ)にさえされてしまった。

それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、
神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。
そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。

私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、
日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。
戦後からこのかた皇室の存在感の在り方は、宮内庁の意向か何かは知らぬが、
私にはいささかその本質からずれているような気がしてならない。
たとえば何か災害が発生したような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、
宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、
はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか。
その限りで私にとって天皇が女性であろうとなかろうと関わりないことと思われる。

その故にも、以前にも記したが天皇陛下には是非々々とも靖国神社にお参りしていただきたい。
それは「靖国」が決して政治問題などではなしに、
あくまで日本の文化神髄の事柄なのだということを内外に示す決定的なよすがとなるに違いない。
http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no44.html

喪中ではない

秋篠宮さま 
江森敬治著 毎日新聞 1998年

ご結婚について
結婚前後、いろいろな批判報道も現れた。
皇太子さまより先に結婚するのはおかしいではないかという記事もその一つだった。
しかし、宮内庁関係者は、高円宮さまも兄の桂宮さまより先に結婚されている。
また、昭和天皇の喪中に婚約を発表したという批判があるが、
宮さまの場合には、昭和天皇崩御から八ヵ月後に皇室会議の決定として発表されたのに対し、
昭和の時代には池田厚子さん(天皇陛下の姉)の婚約が貞明皇后崩御から二ヶ月たらずで、
昭和天皇の御裁下により発表されており、いずれも先例があると、話す。
宮さまも一九八九年九月の婚約会見で昭和天皇の喪中や自身の留学中に婚約されたことについて、
「ここ一、二年、川嶋家の方に問い合わせなどが多くなり、早い時期に公にしたいと判断しました。
宮内庁も異議はなく、また両陛下からも反対はございませんでした」と答えられた。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

参考
秋篠宮様結婚まで
昭和64年=平成元年(1989年)1月7日 昭和天皇崩御
服喪150日→平成元年(1989年)6月6日に礼宮様喪が明ける(皇室服喪令)
平成元年(1989年)8月26日 礼宮と川嶋紀子嬢との婚約発表。(朝日のリーク)
天皇皇后両陛下もご婚姻に関する皇室会議などの手続きを進めるよう、
同日、藤森昭一宮内庁長官に指示された。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082601.htm

宮内庁サイトより
平成元年(1989年)9月12日 皇室会議で決議
平成2年(1990年)1月12日 納采の儀=正式に婚約
平成2年(1990年)6月29日 結婚の儀
※昭和帝が父母にあたる今上陛下は服喪期間が1年だが、祖父母にあたる秋篠宮様は150日。
皇室服喪令
第一章 総則
第一条 父、母、夫ノ喪ハ一年トス
第二条 祖父母、父ノ父母、妻ノ喪ハ百五十日トス
両陛下の喪明けは平成2年1月7日。正式な婚約はそれ以降のこと
婚約会見等に至った理由はマスコミの川嶋家への問い合わせが殺到し
生活に支障をきたさないようにとの配慮で検討され、公表された。

正式な儀式は全て喪があけた後(両陛下の喪も)
成婚に至っては昭和天皇崩御から2年以上経っていた。
公表はせめて1年経ってからという意見もあるだろうが、「喪中」ではない。

順宮(池田厚子さん)の婚約は貞明皇后の崩御から2ヵ月たらずで、
昭和天皇の裁下により発表されている。
皇太子殿下も昭和天皇が亡くなってすぐの平成元年2月には
「雅子さんではだめでしょうか?」と宮内庁に打診している。

毎日新聞 1989年9月12日
天皇陛下 4年前から見守られ  宮内庁幹部らに「前向きに検討を」
天皇陛下は四年前に、礼宮さまと紀子さんのおつきあいを認め、
紀子さんをお妃の候補者として前向きに検討するよう宮内庁に伝えられていた。
同庁によると、礼宮さまが紀子さんを知ったのは、紀子さんが学習院大に進学した昭和六十年四月。
同大構内の書店「成文堂学習院店」で、一緒になり、
店長の阿部俊郎さんが礼宮さまに「川嶋教授のお嬢さんです」と紀子さんを紹介した、という。
二カ月後の六月に礼宮さま主宰の「パレスヒルズテニスクラブ」、
同十二月にやはり宮さまが会長のサークル「自然文化研究会」がそれぞれ発足。
紀子さんは両方に入会し、その活動を通じてお二人は交際を深めていった。
同年十二月に両陛下と礼宮さまが神奈川県・葉山御用邸でご静養の際、川嶋家も葉山に滞在していた。
両陛下が海岸を散策された時や、油壺のマリンパークでご昼食の時などに、
礼宮さまは紀子さんを誘い、さりげなくご両親へ紹介の機会をつくられた。
両陛下は紀子さんのことをすでにご存じだったが、
こうした機会は礼宮さまが「恋人」としての紀子さんを改めてご紹介したかったため、と側近は推測している。
この結果、天皇陛下は同月下旬、同庁幹部に「前向きに二人のことについて検討してほしい」と話された、という。

二千円札「平和」に値打ち

日本経済新聞(平成21年12月28日)文化面

二千円札「平和」に値打ち
◇沖縄のシンボル守礼門描く、流通促進へ活動9年◇
湖城 英知

もうすぐお正月。子供たちが楽しみにしているお年玉は用意されただろうか。
景気のよくないこのご時世、1人に5000円や10000円は厳しいけれど1000円だとちょっと寂しい。
そう思う方は2000円はどうだろう。せっかく二千円札があるのだから、
ぜひお年玉に使っていただきたいと思う。
二千円札は沖縄の平和のシンボル、守礼門が描かれた、平和希求の意味を持つ紙幣だ。
悲惨な戦争を体験し、そして唯一の被爆国である日本にとって、この紙幣の意味は非常に大きい。
それは日本に限った話ではないはずだ。沖縄の経済界が中心となり設立された
「二千円札流通促進委員会」の委員長を務める私は、
かれこれもう9年も普及活動を続けてきた。
 
支払いのため常に携帯
私は財布にいつも二千円札を4、5枚入れている。タクシー料金も、色々な会合の会費も二千円札で払う。
観光バスの中で、二千円札に込められた平和希求の思いについて一席ぶつこともある。
二千円札が発行された2000年、私は沖縄海邦銀行の頭取をしていた。
発行直後は物珍しさもあって使われていた二千円札だが、
2、3ヶ月たつとあまり流通しなくなってしまった。
これではいかんと東京から沖縄に戻る飛行機の中で思いついたのが「1・2・3運動」。
1(沖縄)県民が、2千円札を、3枚ずつ持とう、というものだ。
ポスターを作って県民に利用を呼びかけたのが、私の運動の始まりだ。
海外にも二千円札の意義を訴えた。旅行などで海外に行けばチップとして二千円札を渡す。
02年にはモスクワに行き、ノーベル平和賞を受賞したゴルバチョフ元ソ連大統領に二千円札を贈った。
「あなたは平和を希求した指導者だが、我が国には平和希求の紙幣がある」。
そう言うと、ゴルバチョフ氏はいたく感心していた。
海外へ移民した人の多い沖縄では、5、6年に一度、
世界中から沖縄に由来のある人々が集まる「世界のウチナーンチュ(方言で沖縄人のこと)
大会」が開かれる。フィリピンなどのアジア、米州、欧州など世界中から参加者が集まる大きな催しだ。
こうした機会にも参加した人に二千円札を見せたり、記念にプレゼントしたりしてきた。
彼らが帰って、二千円札の意義を世界中に広めてくれればと願っている。
このように少しずつ活動をしてきたが、一個人、一企業ではなかなかうまくいかない。
ほかにも同様の活動をしている方や企業がいた。
そこで日本銀行の那覇支店長の方と話し合って、地元経済界が中心となったボランティア組織
「二千円札流通促進委員会」を05年に設立。
以来、私は委員長を務めている。

11万人超を「大使」認定
委員会では、飲食店や旅館などに二千円札利用者向けのお得なサービスを用意するよう呼びかけてきた。
また、「二千円札大使」制度を創設。
二千円札を自ら積極的に利用したり、周囲に呼びかけたりする人を「大使」と認定し、認定証を発行している。
現在、大使は11万人以上に上る。
こうしたかいあってか、沖縄では多少は出回るようになってきた。
だが今も、全国的に見ればまったく普及していないのが実情だ。
先日、東京に行った際にタクシー代を二千円札で払おうとしたら「まだあるんですね」と言われた。
私が二千円札の普及に努めている背景にあるのが戦争体験だ。祖父が、沖縄戦で亡くなった。
終戦時、私は11歳だった。私はその後、留学生扱いだったが、東京の日本大学に入学した。
戦争で消失した守礼門も再建された。平和のおかげだと思った。
この平和を絶対に守らなければいけないと思った。
だからこそ、二千円札なのである。お札は、大したコストもかけずに
海外へ「平和国家日本」をアピールする好機だ。生かさない手はない。
特に戦争を経験した世代は、二千円札を普及させられなかったら後悔するのではないかと思う。

節目の10年、勝負の年
二千円札発行を決めた小渕恵三元首相は発行前に急死された。
小渕さんは若いころ沖縄で戦争犠牲者の遺骨拾いをしたという。
私は面識はないが、小渕さんが二千円札に込めた思いはよくわかるつもりだ。
数年前、娘で衆議院議員の優子さんと会い、二千円札の意義を語らせてもらった。彼女も大使になってくれた。
二千円札も、来年で発行から10年を迎える。私の運動も10年になる。決して遊び半分でやってきたわけではない。
10年運動してダメなら、もうやめようかとも思う。政府に直訴してみようかとも考えている。
あるかないかわからないような状況のままなら、二千円札自体やめてしまった方がいい。
来年はそのくらいの覚悟で、節目の年の普及活動に取り組むつもりだ。
(こじょう・ひでとも=沖縄海邦銀行前頭取)

提論 明日へ

西日本新聞
2012年(平成24年)3月18日付 

提論 明日へ 古川貞二郎 元内閣官房副長官

女性宮家創設に向けて識者のヒアリングが始まった。現行のままだと未婚の女性皇族が結婚によって
皇族の身分を失うことになり、皇室の安定的活動に支障をきたす恐れがある。
政府は危機感を抱いたと理解される。
その意味では、女性宮家の創設は一歩前進とみることができよう。
ただこの問題は、日本国憲法が定める象徴天皇制と深くかかわる事柄であり、
議論が皇室活動のみにとどまるのであれば問題である。
この際、皇位継承について国民合意の形成へ、きちんとした議論をしておく必要がある。

私は2005年、政府に設立された皇室典範会議の委員を仰せ付かった。
その立場から幾つかの問題について整理してみたい。
会議の目的は、皇位の安定継承が危ぶまれている現状を踏まえ、
小泉純一郎首相からその方策を求められたことである。
安定継承が危ぶまれていないならば男系男子の現行制度を議論する必要は全くなく、
当該典範会議の設置もなかった。
この点、誤解があってはならない。

なぜ危ぶまれるのか。大きく二つの社会的背景がある。一つは晩婚化。
かつては社会一般がそうであったように、皇族の多くが20代で結婚され、
第1子誕生は妃殿下が10代後半か20代前半で、皇族の数も多かった。
その二は、側室制度の廃止。ちなみに江戸期以降400年の間に18代の天皇が即位されたが、
そのうち15人が側室からお生まれになった。
側室制度は皇位の安定継承を支える重要な役割を果たしていたともいえる。
今日その制度が認められないのは申すまでもない。

こうしたことから典範会議の報告書では、社会の変化に対応しながら象徴天皇制を維持するうえで、
皇位継承者の範囲を女子や女系の皇族に広げることが適当であるとされた。
女系天皇(女性天皇の男女を問わない)については種々議論があるが、
女性天皇を認めても女系天皇を認めないと、対象者が一代だけ加わるにすぎず、
皇位の安定継承を図る趣旨にそぐわない。

報告書は05年11月、小泉首相に提出された。
これを受け政府は翌年春の通常国会に法案を提出する準備を進めていたが、
秋篠宮妃殿下がご懐妊されたことにより静かな社会環境の中で慶事を迎えたいという心情が働いたことと、
その間、皇室制度について国民の理解が深まることを期待することなどから
法案提出が見送られたものと承知している。
皇位継承問題は依然、重要課題として残っている。

女性天皇・女系天皇に反対する立場の考えは、1947年に皇籍から離れた旧宮家の独身男性が
男系男子に当たるという理由から皇族に復帰させる案とか、その方々の中から皇族に養子を迎える案などがあるが、
誰をどう選ぶかという難問に加え、皇籍離脱から64年を経過していること、
現天皇の系統と約600年前に分かれていること、晩婚化などで早晩同じ問題が生ずること、
養子という人為的制度は皇位を選ぶのにふさわしくないことなど問題が多い。

何より象徴天皇制は、現天皇、皇后両陛下の日常のお姿を見ても分かる通り、
国民との相互信頼があってこそ成り立つものである。
男系男子というだけで国民の信頼が得られるかどうか。過去、皇籍離脱後に復帰、即位した例は、
平安時代に3年間離脱していた宇多天皇とその離脱中に誕生した醍醐天皇のみである。
旧宮家の場合、離脱後長く民間人として過ごしており、
国民感情として受け入れることはなかなか難しいと言わざるを得ない。
これからは抽象論ではなく具体的事実に即して考えていく必要があろう。

最後に申し上げたいのは、女性・女系に範囲を広げても、現在皇位継承の資格がある方が
先順位で皇位につかれることが皇位の安定継承の趣旨から考えて当然である。
女性・女系天皇の誕生はあるとしても先のことだが、今日対象範囲を広げておかないと、
結婚により対象となる女性がいなくなり、そのとき議論しようとしても手遅れになる。
国民合意の形成は急がれる。

今日の提論は、九州を含め日本の将来に深くかかわる重要課題として
国民一人一人に冷静かつ真摯に考えていただくため、あえて女性皇族問題を取り上げた次第である。

果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン

果てしなく美しい日本
ドナルド・キーン
足立康訳

生きている日本(1973年8月)より 伊勢の遷宮(第59回・1953年)についての記述

P113
神道のもっとも重要な聖地は伊勢の大神宮で、
それは世俗的な不信心者さえ神々への信仰が呼び覚されるようなすばらしい美景の地に位している。
そこを訪れると、先ず第一に、五十鈴川の流れが目に入る。
嵐の後でも清く澄み切ったその水で、巡礼たちは神社に近づく前に、禊を行う。
神社への道は、生い茂る壮麗な檜の大木に囲まれ、真っ直ぐに生い立った木々の素朴な壮大さは
日本的な理想を象徴しているかのようである。
建物自体は古くはないが、それらは古代の伝統の姿を、まったくありのままにとどめている。
二十年ごとに新しい建物が建てられ、古い建物と代えられるが、新しいものは古いものの完全な複製である。
1953年(昭和二十八)年、伊勢大神宮第五十九回目の遷宮の儀式が執り行なわれた。
新殿建築の費用が国庫によってではなく一般からの寄進によってまかなわれ、
また、儀式に招かれた客たちの中に、宗教界と政界の貴賓たちばかりでなく農民や主婦が含まれていた点で、
それは常にない儀式であった。
古代神道の礼式の伝統によって、儀式は日暮れまで始まらなかったが、
人々は午後三時までに参会しなくてはならなかった。
参拝者たちは地面に拡げられた薄い茣蓙の上に五、六時間もの間座っていなければならず、
ほとんど肉体的な忍耐力の離れ業だったにもかかわらず、一言の私語も交わされることはなかった。
そびえ立つ樹々はおのずから深い沈黙を強いているかのようで、微かに伝ってくる町の往来やラジオの音は、
あたかも別の世の出来事のように思われた。
日が暮れて提燈が灯されると(日本のあらゆる祭りに、提燈は不可欠である)、
最初の行列が旧殿から現われ、新殿に向かってゆっくりと移動した。
それは、大工や、屋根ふき職人や、その他実際に新殿を建築した労働者たちの列であった。
彼らはこわばった青い衣を身にまとい、
儀式における自分たちの役割に誇りを抱いて、重々しい足取りを進めていった。
後には、またいくつかの行列が続いた。
それぞれひとつずつの儀式の道具を捧げ持った全国のあらゆる大社の大神官たち。
天皇の勅使(モーニングとシルクハットに身を固めた彼の弟)。
そして、最後に、漆黒の闇の中、神官たちが捧げ持つ白絹のテントに包まれて、
他ならぬ天照大御神自身が、彼女の新たな神社へ伴われていく。
水を打ったような沈黙の中を、神官たちの衣のきぬずれの音と、
掃き清められた砂利の上の木沓の反響が、この世のものとも思われぬ鬼気せまる倍音を響かせた。
神がそこにおわしますことを信ずるのは、いとも易いように思われた。
そのとりわけ神(かむ)さぴた雰囲気ゆえに、伊勢神宮の遷宮は典型的な神道の祭典とはいいがたい。
(後略)
続きを読む

政府は先人へ感謝する建国記念式典を

日本時事評論
第1841号 平成28年2月5日
<天録時評>
安寧と繁栄に不可欠な愛国心の涵養
 政府は先人へ感謝する建国記念式典を

連国記念の日が祝日となってから五十回目を迎えるが、依然として政府主催の奉祝式典は開催されず、
子供たちの多くは意義すら教えられていない。国家の安寧と繁栄のためには愛国心や忠誠心が不可欠であり、
建国記念の日に、先人に感謝し、国の繁栄を祈念する行事を、国民こぞって祝うことが不可欠だ。
政府・自民党は憲法改正の実現のためにも政府主催の式典開催を決断すべきである。

屁理屈の反対理由
今年の建国記念の日は、昭和四十一年の祝日法改正で祝日になってから五十回目を迎える。
愛する祖国とそれを築いてきた先人に感謝し、この誇りある国をさらに発展させ、
子孫に伝える責任と努力に思いを致す大事な日だ。
しかし、建国記念の日の意義が、学校でもきちんと教えられていない。
他の国々の独立記念日のような政府主催の奉祝式典もなく、盛り上りが少ないことは、
誠に残念であると共に、我が国の行く末が懸念される。
これも占領行政と戦後の共産革命運動の後遺症から、われわれが未だに立ち直れていないことを示している。

わが国を占領し、独裁的権力を行使した連合国司令部(GHQ)は、昭和二十三年に祝日法を制定した。
この新法により、一月三日の元始祭、四月三日の神武天皇祭、十月十七日の神嘗祭、十二月二十五日の
大正天皇(先帝)祭と共にも二月十一日の神武天皇の即位を祝う紀元節を廃止した。
さらには、春季皇霊祭を春分の日、天長節を天皇誕生日、秋季皇霊祭を秋分の日。明治節を文化の日、
新嘗祭を勤労感謝の日に改称してしまった。
GHQが、わが国の文化と歴史的な破壊を目指したことがよく分かる。

これに対し、昭和二十六年頃から国家の誕生を祝う紀元節を復活させようという国民からの運動が高まってくる。
昭和三十二年に「建国記念日」制定に関する法案が提出されたが、
共産主義政権の樹立を目指す左翼勢力や野党の反対で成立には至らなかった。
その後、九回も法案提出をしたが、廃案とされ続けてきた。
その反対理由が「神武天皇の話は歴史的、科学的根拠がない」「軍国主義につながる」というものだった。
この反対理由は、日本を戦争の元凶と決めつけた東京裁判史観を従順に受け入れ、
神話の時代から続くわが国の誇りある歴史、文化を否定したものだ。古代に徐々に国が形成されたわが国は、
近代に誕生した国家と違っ何年何月何日に誕生したと言うことは不可能だ。
まさに神代から連綿と続く皇室をいただいていることがわが国の誇りである。
日本書紀や古事記に記されたことをもって、先人の思いを理解し、建国の日とすることは、
非科学的との批判は当たらない。神話には、科学的根拠がないものもあるが、
歴史的、文化的には大きな意味を持っているのである。

キリストや釈迦の誕生を巡る逸話も史実に基づくものではない。
しかし、史実が明らかでないからと誕生を否定しないし、
昔から何らかの事象や由来に基づいて記念の日を決めるのは、人間の知恵である。
新年の初日の出を拝み、新たな気持ちや決意を抱く人は多いが、大晦日の太陽と初日の出の太陽とでは
何ら変わっていないとケチをつける人はへそ曲がりでしかない。
屁理屈の反対理由に屈することなく、政府主催の奉祝式典を実施すべきである。

向上心が不可欠
敗戦以後、わが国の文化や伝統が軽視され、国家意識が希薄化し、
安全や福祉などのサービスを提供するのが国家の役割と錯覚している国民が増えている。
国家が安定的に運営されるためには、その構成員である国民の愛国心、忠誠心が不可欠である。
回る独楽が向心力を失えば、不安定になり、倒れるように、
国家を支えるという国民の忠誠心が希薄化すれば、国家は不安定になる。
愛国心を涵養し、社会への奉仕を養うために、国の誕生を祝うことは重要である。

戦後、学校現場では愛国心の言葉すら否定されていた。
戦後教育は、共産主義の到来が歴史的必然だとするマルクスの唯物的歴史観に支配され、
資本主義を否定し、権力者を悪とし、民衆を善と決めつけた、歪められた歴史教育が行われてきた。
1991年に共産主義国家ソビエト連邦が崩壊し、欧米では共産党が消滅した。
しかし、わが国では依然として日本共産党が存在するように、
歴史学界をはじめ、日教組など一部の頑迷固陋な人々が、唯物的歴史観を保持し、
わが国の歴史や文化を貶める教育を行っている。

最近では、経済のグローバル化が進展する中、国家を超えた世界市民を賛美して、国家の役割を否定し、
国民としての義務や責任を否定した教育をしている。
その結果「もし戦争が起こったら国を守るために戦うか」という2010年の世界価値観調査で
日本人で「はい」と答えたのは世界最低の15%であり、「いいえ」の答えが四割近くに達していた。
これを見ても、戦後の偏向した教育の結果は明らかだ。

豊かで安心安全な生活も様々な福利厚生も、国家が安定してこそ享受できる。
国家が不安定化し、あるいは政府が崩壊すれば、どうなるかは今の中東を見れば一目瞭然だ。
しかも、世界平和や地球上からの貧困や飢餓の撲滅という理想の実現は、
それぞれの国が自立し、安定した政権運営を行ってこそ可能になる。
国民自身が歴史や文化を誇りとし、先人に感謝をし、愛国心、忠誠心を涵養することが急がれる。

目次5へ