皇位継承に制度的安定を

【正論】天皇の20年 東京大学名誉教授・小堀桂一郎 皇位継承に制度的安定を
2009.1.1 02:58

平成21年といふ新しい年を迎へて、我が国が官民挙げて取り組むべき重要な国家的課題は
何々であらうか。是非に且(か)つ緊急に解決しておかなければならぬ懸案は次々と思ひ
浮かぶのだが、昨年12月19日に今上(きんじょう)天皇御在位20年奉祝の式典が
執行(とりおこな)はれ、本年11月12日には平成2年の即位の御大典挙行から
20年目といふ奉祝行事が開催されるといふ予定に鑑(かんが)みても、次の一事こそ
本年といふこの機会を捉(とら)へて何とか解決に漕(こ)ぎつけたい喫緊の大事である。

即(すなわ)ち、平成18年9月6日、秋篠宮家に待望の皇位継承権を保有せられる男児として
悠仁(ひさひと)親王殿下が御誕生になつたことは、文字通りに暗夜に曙光のさし初(そ)めた如き
慶(よろこ)びを国民にもたらしてくれたのであつたが、反面、皇位継承といふ国家最大の重儀の末
長い安定をと志して展開されてゐた国民運動の熱気が、御慶事を契機に急速に冷却して
しまつたといふ事態がある。

≪危機の回避には至らず≫

顧みれば、平成17年12月に小泉内閣が召集した「皇室典範有識者会議」の面々の
統一見解であると伝へられた、国体の破壊を企(たくら)む典範改悪の方向に危険を感じた
一部民間有志の研究組織たる「皇室典範研究会」(本「正論」欄の執筆員である大原康男、
百地章、八木秀次の諸氏もその成員である)は、度々の声明発表や集会決議を通じて、
典範改悪への策謀の阻止を訴へ、警告を発してきた。18年2月7日の秋篠宮妃殿下御懐妊の
朗報を以(もっ)て、典範改悪の謀議は一朝にして事実上瓦壊したのだが、この会は
その後に於(お)いても、皇位継承の危機回避・制度的安定のための最大の鍵は、
一皇族男子の御出生のみを以てしては到底覆ひきれない深層に存するとの見解を持して、
引続いて特別立法案の研究を進めていた。

この研究は18年秋の悠仁親王殿下御誕生により一般の危機意識が楽観的観測に転回した後にも
当初の腹案に特段の変更を加へることなく、数へてみれば平成14年6月以来20年10月に至るまで
6年の歳月を費して検討を続けてきた。

共同研究の成果としての報告書はかなり長く、且つ詳細にわたるものであり、又事の性質上
手軽に御紹介はできないが、題して「皇位の安定的継承をはかるための立法案」、その説明として
「元皇族の男系男子孫による皇族身分の取得について(案)」といふ文書であるので、
その性格を大凡(おおよそ)推知して頂けよう。

なにぶん一篇の「立法案」なのであるから、報告書をまとめただけでは未だ何事も始動するわけではない。
研究会はこれを超党派の組織である「皇室伝統を守る国会議員の会」の世話人方と20年
10月下旬に接触の上、報告書についての研究会側の著作権めいたものは一切考慮不要として、
文書の含む資料・情報・提案の全てを当該国会議員諸氏の自由な利用に委ね、具体的な
立法措置の検討に取りかかつて頂くこととした。謂はば、皇位継承の重儀の制度的安定化といふ
重大問題を、歴史的論理的研究の段階を漸(ようや)く通過せしめ、実践的政治的実現の
段階へと移行させる準備を辛うじて終へたところである。

≪陛下への最大のお慰め≫

問題は、冒頭に一言した如く、現在の政界があまりにも多事多端で、解決すべき緊要の
課題が目前に山積してゐるといふ状況の中で、立法府の議員諸氏がこの様な選挙での得票には

つながり様もない雲の上の問題にどれほど関心を持ち、その政治力を傾注して下さるか、である。
仄(ほの)かに承るところによれば、今上陛下の御健康状態は必ずしも好転されてをらず、
宸襟(しんきん)を悩し奉る御身辺の坎坷(かんか)も跡を絶たないといふことである。
蒼生(そうせい)の一人として畏(おそ)れながら憂慮に堪へないと言はないわけにゆかない。

比較的御高齢での即位を果された今上天皇が、既に御在位の期間20年に達せられたといふことは
実にめでたい次第であり、昨年中に奉祝式典を企画・実行された人々、本年秋の御即位20周年
奉祝行事を予定してゐる民間諸団体、臨時祝日の制定に向けて動いてゐる立法府議員諸氏の祝意に
水をさすつもりは毛頭ない。

然し、御加齢と御心労による御憔悴(しょうすい)が明らかに看て取れる両陛下にとつて、
現在最も肝要なお慰めの料(れう)は、皇室の将来について、制度的にも真の御安心を頂くための
法的政治的施策に、少くとも近々に着手することではないのか。あの愛らしい悠仁親王殿下が
愈々(いよいよ)御践祚(せんそ)といふ将来の或る日に、周囲に所謂(いわゆる)皇室の
藩屏(はんぺい)が皆無といつた状況が生じる可能性は現に有るのだ。そんな深刻な事態を
何としてでも避けたい。

本年こそその対策に立ち向ふべき決断の秋(とき)である。

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平成21年(2009年)1月7日 産経新聞

次代への名言

私の健康について皆が心配してくれてありがとう。
どうか今年もより年であるように希望します。(昭和天皇)

この言葉から約1年後、昭和64年のきょう午前6時33分、東京・吹上御所で昭和天皇は崩御した。
ちょうど20年前にもかかわらず、闘病の間の国民の祈り、
そして崩御当日の悲痛とあわただしさの記憶がいまなお鮮明に残っている人も多いと思う。
いまいちど、昭和天皇を偲び、考えるために筆者はある先人のことばを紹介したい。
「天下より視れば人君(天皇)程尊き者はなし。人君より視れば人民(国民)程貴き者はなし」―。
幕末の志士、吉田松陰の胸には、天皇と国民が同じように尊び合う世界が広がっていた。
また、司馬遼太郎は言う。
「マッカーサーが、天皇様に、『私は人間である』といってもらったのはきわめて政治的なことで、
史的真実からいえば、やはり神です。神であるがために、人民に無害でした。
天皇の日常は、今でもそうですが、いかなる神主より神主で、神に仕える祭事がじつに多く、
どんな神主より忙しいですね。少なくとも(平安時代中期の)摂関政治以降は、
神もしくは神主である性格がより濃厚になった」
2人が説くところの象徴、それゆえの苦悩と悲劇を併せもった存在。
それが昭和天皇だった―と思えてならない。

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「瀬音」あとがきより

元女官長・松村淑子氏

東宮御所はゆかしさの中にも、明るい活気に満ちた御所でございました。
お三方のお子様方は、それぞれの個性をもってご成長になっており、
皇后様は限られたお時間の中で、一生懸命に宮様方をお育てでございました。
ご公務や宮中の祭祀は、全てに優先されておりましたから、お子様方には何度となく、
母宮さまにいらしてお頂きになれぬ卒業式や遠足、運動会などがおありになりました。
皇后様はこのような時、ご自身のお寂しさがお子様方のお悲しさを増幅しないよう、
いつも行き届いた配慮をなさっており、また、このような機会を捉え、
公人としての義務のあり方を、ごく自然にお子様方にお教えになっていらっしゃいました。
このように皇后様のお心が定まっていくご経験の一つとして、
昭和三十七年、熊本慈愛園訪問をお詠みになった、

 吾子遠く置き来し旅の母の日に母なき子らの歌ひくれし歌

を拝見することが出来るように存じます。陛下のご配偶、宮様方の母宮となさり、
皇后様のこれまでに遊ばしていらしたことは、実に地味なご努力の積み重ねであったと思われます。
豊かな天分に恵まれ、繊細さと共に、華ある大きな格を備えたお方でいらっしゃいましたが、
そのご日常を支えておりましたのは、全てを受け入れる謙虚な忍耐と、
何十年変わることなく国とご家族に向け続けられた深いご愛情であったと思われてなりません。

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貞明皇后の生涯 工藤美代子

国母の気品―貞明皇后の生涯 工藤美代子著 清流出版 (2008/07)

十五歳でのちの大正天皇と御成婚。四人の皇子の母となり、
病気がちの大正天皇を支えて激動の時代を生き抜いた。その波瀾の人生を豊富な資料と丁寧な取材で描ききる。

目次
第1章 利発な姫君(幻の伝記/ 九条家の謎/ 幼児体験/ トレビアン/ ご婚約内定/ 破談のドミノ/
皇太子の立場/ 長い長い一日)/
第2章 聡明な皇后(新婚の日々/ 親王御降誕/ 皇室の伝統/皇太子妃という仮装/ 結婚十年後の病/
明治天皇崩御/ ある噂/ 裕仁親王妃内定/ 宮中某重大事件/ 皇太子の外遊/ 遠眼鏡事件/ 質素の範/
大地震発生/ 未曾有の大祝典/ 皇后の役割/ 九条武子夫人/ 秩父宮のお妃選び)/
第3章 国民のおばばさま(天皇の病勢報道/ 皇太后になった瞬間/ 皇太后の熱意/ 嫁教育/
銀のボンボニェール/ 第三皇子の結婚/ 皇子単行/ 皇太后と皇后/ 皇室外交の先駆者/ 母として/
戦勝ムード/ 防空壕での暮らし/ 両陛下との話し合い/ 悲母観音の相/ 皇太后の覚悟/ 六十七年の生涯)


「外交官とはなにも語学が堪能で高学歴であることが条件ではない。
むしろ相手の懐に飛び込むような思いやりや優しさを備えた人が優秀な仕事を残す」

あとがき
「貞明皇后の志操は、香淳皇后、そして美智子皇后へと受け継がれていった。
しかしこの先ははたしてどうだろうか。
自分の実家の価値観しか持たず、
すべてにおいて自己の欲望ばかりを優先させるような皇后が誕生したら
国民は尊崇の念を失い、天皇制度の存続もあやういものとなるだろう」

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那須の教育林 ゴヨウツツジ立ち枯れ

ボランティア募り周辺樹木を伐採へ
那須町の中大倉山自然観察教育林(131ヘクタール)に群生する
シロヤシオ(ゴヨウツツジ)の立ち枯れが増えている。
周辺の樹木が茂って日照が遮断されていることが原因とみられ、林野庁塩那森林管理署は、
シロヤシオを保護するため、ボランティアを募り、20日に周辺樹木の伐採作業を行う。
シロヤシオは、皇太子ご夫妻の長女、愛子さまの「お印(しるし)」としても知られる。
三本槍岳ふもとの標高1300〜1600メートル一帯に広がる同教育林には、
ミズナラ、ブナなどに交じって約3万本が群生。直径20センチ、
樹高5メートル以上の樹齢300年の古木もある。
しかし、同署が今年7月、現地調査したところ、数百本が立ち枯れ状態だった。
一帯のミズナラなどが薪炭の需要減で伐採されなくなって生い茂り、
シロヤシオに日照が届かなくなったことが考えられるという。
このため同署は、専門家などと相談し、
特に株数の多いマウントジーンズスキー場近くの群生地約6ヘクタールについて、
周辺樹木を伐採することにした。
(2008年11月6日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tochigi/news/20081105-OYT8T00872.htm

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高野槙:もういたずらはやめて 

高野槙:もういたずらはやめて 
悠仁さまの「お印」再度植樹−−善通寺市役所 /香川
12月27日16時2分配信 毎日新聞

◇成長祈り
善通寺市役所(同市文京町)玄関前の緑地に26日、秋篠宮家の長男悠仁(ひさひと)さまの
「お印」に選ばれた高野槙(こうやまき)が植えられた。同市と歴史友好都市を結ぶ
和歌山県高野町の町木で、2年前の9月、ご誕生を祝い両市町で記念植樹したが、
今年5月に何者かに折られたため、同町から再度譲ってもらい植え直した。
高さ約1・2メートルの若木。成長すると10メートル以上になるという。
この日、宮下裕市長や山田省三・市議会議長らが丁寧に植え付けた。
市では、不法投棄監視用に使っている防犯ビデオを近くに設置し、
折られたりしないよう警戒するという。 
宮下市長は「市民とともに成長を見守りたい」と話した。【松田学】
最終更新:12月27日16時2分
(2008)

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小川東洲

北海道新聞 2008年2月13日 夕刊

『私のなかの歴史 命の証を尋ね求めてM』 書家 小川東洲さん

ショコラとおイネ
一昨年の夏のある日、軽井沢にある小和田恒さんの別荘へ向かう途中でのことでした。
雅子様もかわいがっていた小和田家の愛犬、ヨークシャーテリアのショコラは、もはや失明し、
はったままでしたが、ご夫婦は何度も運転の手を休めては介抱にこれ努めているのです。
見るに見かねた私が、「これでは(オランダに)持ち帰れますか」と声を掛けますと、
「いいえ、連れて帰るのです」と、小和田さんはなんともかよわい声で話すのです。
実はショコラを「持ち帰る」と話したのはそれなりに理由があってのことでした。
このときの老ショコラが首の出るトウで編んだ手提げかごに入っていたからで、
私どもには「持ち帰る」がこのときに合った言葉に思えたのです。
(略)

財団法人 美術文化振興協会
http://www.finearts.or.jp/riji.html
理事 小和田 恆 財団名誉会長 国際司法裁判所判事
   小川 東洲 財団常務理事 書家

小川東洲氏
愛子さまの書道について
「これはすごい!」とうなるような完成された書を4歳で書く と発言
「私がハーバードの客員教授になれたのは小和田氏のおかげ」とも
ハーバードでも雅子さまの師
雅子さま結婚前、小和田一家とともに北海道旅行へ


数学者の広中平祐氏が主催する、「数理の翼」セミナー
このセミナー第4回に小川東洲氏も参加
このセミナー第1回目の開催場所:栃木県那須の創価学会栃木研修道場
広中平祐氏とは…
著書
「子供の教育と親のかかわり」 著者名:広中平祐/著 広中和歌子/著 出版社名:聖教新聞社
「創造的に生きる」 著者名: 広中平祐/著出版社名:聖教新聞社

小川 
私があちらへ行った年のご入学でしたが、雅子様は一年の時から優秀で卒業時には
学生最高のマグナ・クム・ラウデ賞を受けておられます。

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「プリンセス・マサコ」ベン・ヒルズ 政府・宮内庁は抗議

フライデー2006年8月18日号 ベン氏インタビュー記事
「結婚当初、皇太子夫妻に子供ができないことを案じた天皇と皇后が毎月、雅子妃に『生理があったか』と聞くなど、
皇居の住人は彼女に屈辱的なプレッシャーを与え続けました。
雅子妃はそれに抗えずに不妊治療に取り組むことを決めましたが、
不妊対策のホルモン治療は肉体的にも精神的にも非常に辛いものです。
これが彼女の体調不良の原因のひとつになったと、私は考えています」
私は愛子様が体外受精で誕生したことを確信している。

結婚直後に子供ができなかったにもかかわらず、妊娠の可能性が低くなる高齢になってから、
愛子内親王が誕生したため疑問を持っていました。複数の専門医も同様の意見です。
実際、皇太子の精子と雅子妃の卵子を受精させる試みが2−3回行われたという、具体的な情報も得ています。

04年5月の<人格否定発言>の直後、皇太子は退位の可能性について雅子妃と話し合いました。
しかし、最終的にはそれが不可能だという結論に達したのです。
当時は皇室典範改正が議論され、愛子内親王が天皇に即位する可能性がありました。
自分たちが退位したら愛子内親王の天皇教育はどうなるのか、
愛する娘を手放さなければならないのではないか、皇太子夫妻はそう危惧したのです。

また、小和田家は<皇太子妃の実家>という立場を非常に誇りに思っています。
退位した場合、その原因を作った雅子妃とその実家に非難が集中する。
その影響を考えれば退位などできないというのが夫婦の考えでした

宮内庁は雅子妃を海外に出さずに皇居内に<軟禁>し、『適応障害』という本来の病名とは異なる発表をしました。
そして皇室はそれを黙認しています。
これらの時代錯誤な態度が海外での日本のイメージを悪くしていることに、日本人は気付くべきでしょう。
特に女系天皇や、皇族が外国人と結婚することを認めない制度は、
日本人が(女性や外国人に対する)差別主義者であるという認識を強めています。
私の著作が、皇室について議論する契機になれば良いと思っています。

週刊朝日2006年11月17日号
元東京特派員ベン・ヒルズ本抜粋と作者インタビュー
皇籍離脱→「人格否定発言」のあと雅子妃と皇太子が考えるも、「小和田家の不面目になる」ことと、
「当時後継者とみられていた愛子内親王を連れて行けない」ため断念。
愛子さま出生の秘密は「人工授精。まわりは皆怒って否定するが」。
堤医師が去った後不妊治療は行われず。
宮内庁の画策した「離婚」 宮内庁は雅子妃は皇后に相応しくない、
皇太子は再婚すれば男児を得られるかもと離婚を検討。
皇室の人々も宮内庁も、この結婚は「間違いだった」と認識。
しかしただひとり皇太子だけが雅子妃を愛し支えようとしている。
彼の愛情が深いため、この問題を両者で話し合ってはいない。
また、皇室離脱すると、東宮を離れ東京の片隅かボストン、オックスフォードなどで一般市民として暮らす。
雅子妃の結婚「古代から続く閉鎖的な家に嫁ぐことはしたくなかったが、家族、国に対する義務感もあって応じた」
雅子妃の関係者は当初から危惧。
友人はみな否定的で、「ショックのあまり」一人は披露宴出席せず。
両陛下は招待者全員の資料に目を通し、100人以上と言葉を交わす一方、
雅子妃は「興味のある分野の人」とは話が弾むが、
相手によっては「何を話していいかわからず、戸惑った表情を見せることも」。
2002年にはサッカーの日本代表選手に愛子さまのユニホーム姿写真を見せて話が弾んだ)
雅子妃は「見つめられるのが負担」(宮内庁東宮職)で、
雅子妃にとっては「もっともハードルの高い公務」(宮内庁記者)が園遊会。

週刊朝日2006年11月24日号
雅子さま国民に明かされていない本当のご状態
元東京特派員が書いた「プリンセス・マサコ」の衝撃
ベン・ヒルズ氏へのインタビュー第二段
雅子さまが表にでなくなったころ
「午前2時か3時まで経済書を読んだり、一人で楽器を弾いたりしてすごしていた。
話す気力も失い、時にはドアの隙間からメモを差し出して職員たちと意思疎通していた」
同(2005年ごろ)では、同級生との陽気な茶会の翌日は壁に寄りかかって一人では立っていられない様子
情報源は?の問いにベン「皇太子の友人、皇太子夫妻に近い日本人ジャーナリスト
詳しくは明かせない情報源もある。東宮職員の関係者も当然含まれている」
ベン「マサコさまの状態は適応障害とはいえない」
アダム・ロバート卿(オックスフォード時代の雅子さまの指導教官)
「退屈と言うべきではないだろうが孤独な様子。女官たちも疲れ果てていた。
雅子さまは彼女たちのおせっかいに我慢がならないようだった。
結婚を決めたのはご自身である
ベン「病気の原因は結婚。宮内庁が雅子さまにいくばくかの基本的自由を認めることをしないがために
彼女の人生は台無しになっている」
世界の王室と比較して日本の皇室の閉鎖性を指摘、それをさせているのは宮内庁

週刊文春2006年12月14日号
「12月1日午後に行われた定例会見でも、野村一成東宮大夫は週刊朝日の問題について、
かなり熱く『大変遺憾だ』などと話していましたよ」(前出・宮内庁担当記者)だが、
(注:ペン・ヒルズ本で週刊朝日が<皇太子夫妻が皇籍離脱も考えていた>と報道した事)
ベンヒルズの本は「皇室の名誉を傷つけるもの」として、千代田側のほうが深刻に受け止めている。
ベンヒルズの本には鎌田勇による言葉として
「皇太子はマザコン」「皇太子はゲイでも不能でもない」と書かれているが、
鎌田氏は「そんな失礼なこと言うはずない」と完全否定。
雅子さまはベンヒルズの本について知らないらしい。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「プリンセス・マサコ」

米国大使館に日米半導体交渉のためにやってきたマサコは
資料ブリーフィングをされておらず、準備不足だった。
米国側が厳しい態度で交渉にでたところ、マサコは突然涙をこぼし、
泣きながら大使館から交渉を放棄して退去してしまうという事件があった。
このため、日本の外務省は米国側に陳謝する対応を取らなければならなくなった。

ジョンソンが例に挙げたのは、以前にべつの西洋人ジャーナリストからも聞いた話だ。
それによると、ある日マサコは米大使館側との半導体交渉の席に呼び出され、
ワシントンから派遣されてきたさる交渉相手と対した。
ところが、マサコはろくに事前のすりあわせを受けていなかったため、
相手に「ギタギタにのされて」しまった。
相手への雅子の対応は、わっと泣き出し、席を立ってそのまま大使館を出てきてしまう、
というもの。そのせいで日本外務省は後にアマコスト米大使に非礼を陳謝するはめに陥った。

エリック・ジョンストン(ジャパンタイムズの現副編集長)が語ってくれたところによると、
マサコは自分に対する一切の批評(仕事の進め方、アドヴァイスもろもろ)を受け付けない性格である。
結婚の為の退省のときには、あからさまに同僚の一部は廊下で踊りだしかねない位喜んだ。
かれらはマサコが誰とも打ち解けず誰の言うことも訊かず、
高飛車で、人間味がなく、さらに無能だったからである。
そんな女がほんの駆け出しの時期に身に余る重責を担わされたのである。

ハーバードでのクラスメートだった韓国系アメリカ人 
カルロスとデビッドカオはボーイフレンド。
デビッドは何も無かったはずという話、
カルロスには母国のプエルトリコに呼んでもらって旅行をした。

マサコの婚約発表後、新潟県村上市では市をあげて盛大なお祭りをして、
今後観光客が増えるのではないかと狂喜したが、
数ヵ月後小和田家の先祖の遺骨はひそやかに掘り起こされ他の地に移されてしまった。

父恒の評判は一様に悪い。外務省の元同僚は「何を考えているか理解しにくいタイプ。
非常に野心的だが、他者に対する忍耐や温かみに欠ける」
オックスフォードのアダムロバート卿は「感情面が欠落。批判に対し手厳しい」
エリックジョンストン(ジャパンタイムズ)は
「恒のことを正真正銘のa son of a bitch(畜生・糞野郎)と呼ぶ人もいる。
非常に有能だが情がなく冷淡だ。
男の子を切望していたにかかわらず授からなかったので、マサコは彼にとって息子だった。
結婚を含めすべてのことで父親を喜ばせようとしてきた雅子は、重症のファザコンだ。」

工藤雪枝「雅子さんのことを強い性格だと言う人がいるけれど、
私にとっては「流れる水」のような人。
世界中のいろいろな場所で育った人なので真のアイデンティティが無い。
彼女は順応性はあるけれども、彼女の性格は完全な発達を見ていない。
日によって変わるし、今日穴の開いたセーターとジーンズ姿だったと思えば次の日は
モリハナエのスーツでばっちりキメテいる。彼女は一貫性がなく安定性にも欠けている。」

マサコは中学時代、読売ジャイアンツのピンチヒッターの
ハラダハルアキのおっかけをしていて、彼の写真を持ち歩き、
彼と同じ、背番号8 を自分のソフトボールの ジャージにつけていた。
二人の少女たちは、十三、四歳のころから
世田谷の多摩川氾濫原にある巨人軍の練習場へ応援に行ったものであった。
練習の後で、彼女らはその選手と一緒に喫茶店で時間を過ごし、人目を忍んで
イタリア料理店で食事をともにし、そして時には(食事の)後で、
うらぶれた 六本木の 古いグリーン・ルームのようなナイト・クラブへ飲みに行ったりもした。
「(あの頃の)手紙をとっとけばなあ」と(ハラダは)感慨深げに言う。
「相当な価値があったろうになあ。」
ハラダは 田園調布にある Dolci Mari Risa という、
(マサコの)学校からそう遠くはない 、トレンディーなケーキ屋に座り、アイス・ティーをもてあそんでいる。
60歳近いが、日に焼けた顔は今も変わらずハンサムだ。がっしりした体格に白髪混じりの硬い髪。
ピンクのストライプ・シャツにスラックスといういでたちで、腕輪のように太目の金の腕時計をしている。
彼は 1979 年にジャイアンツが九州のトレーニング・キャンプへ行った折のことを懐かしんでいた。
バレンタインデーに、(九州キャンプにいた)彼のもとへ、
恋心に揺れる16歳のマサコがチョコレートとラブレターを送ってよこしたのだ。
「たった一枚のカードとかいうんじゃなくて、二ページか三ページの手紙ですよ。
彼女が僕の野球をどんなにすごいと思っているか。僕のことがどんなに好きか。
実は・・・、ただその、いろいろなことを。」彼は頬を赤らめんばかりである。
彼は(二人の)少女たちと一緒に撮った写真も持ってはいたが、
妻に誤解されることを恐れて、マサコが結婚するまではそれらの写真を壁に貼ったりはしなかった。
「野球選手のまわりには、いつも女の子が大勢群がってきます。
率直な話、こういうことを心配する親ごさんたちもいます。
(しかしほとんどの)女の子は親には内緒なんじゃないかな。僕の友人のなかには、
(そういうおっかけの女の子と)結婚したやつが何人もいます。ファンと結婚したわけです。」
(ハラダと二人の少女の)友人関係は、十年間続いた。
折に触れて会うという感じで、時にはハラクミがボサノヴァを歌うのを
(連れだって)聞きに行ったりした。

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原久美
「雅子様の両親は幸福よりもステイタスに重きを置いて雅子様を育てた。
彼らは強烈な出世志向タイプで家の中はいつも厳格で緊張感が漂っていた。
卵の殻を割らないようにソロソロと歩かなければならないような、
そういう家庭の雰囲気だった。部屋の中は書物に溢れ、テレビもない。
彼女の両親は彼女に可能性を見出し、多大な期待をかけていた。」

母優美子は恒のモスクワ赴任が決まった時、書道の教授のポストを断って、恒について行った。
妻として恒の野心を優先させなければならなかった。

アイコの世話係の女官は、アイコが甘やかされてだめになると愚痴をこぼしている。
駄々をこねるし、プレゼントをもらうと礼儀正しく微笑んでありがとうと言う代わりに、
思ったことをはっきり言って、くれた人を傷つける、と言う。

試験管ベビーアイコの事実は、天皇の命を受けた宮内庁と日本政府により隠蔽された
プリンセス・キコが男児を産む可能性があるなら堕胎させるべき、と宮家が主張した。

天皇皇后が障害者施設へ赴くのは、幽閉から来るストレスを発散させるためである
障害者の手を強く握り、彼が苦痛で顔を歪めるシーンは日本のテレビでは放映されない。
正しい日本人は天皇制を打破して、”冤罪囚人”たる皇族を監獄から解放すべき。
日本では、天皇が中国皇帝・韓国皇帝の忠実なる使者として君臨していることは
6年間の基本教育で習う。日本では天皇制に疑問を持つ国民が7割を超えている。

ローマ法皇が天皇に会わなくなったのは、天皇はカルト宗教・神道の精神的指導者だから。
皇室を支えるために使われる費用だけでマレーシアとベトナムが買える。

皇太子学生の頃のホームスティ
宮内庁厳選だったはずのホストファミリーだが、ホストマザーの両親は大戦中に
シンガポールのチャンギ収容所に捕虜として収容され、日本軍にひどい仕打ちを受け
特に父親はその精神的ダメージから立ち直っていなかった。
当然ヒロノミヤをホストすることにも反対だった。
同じように豪の一般人の中でもまだ反日感情が激しく、
ホストファミリーには脅迫状が複数送り付けられていた。
到着直後に連れて行かれたサザンクロスホテルのブッフェで、ヒロノミヤは皿にカレーライスを大盛り。
キャンベラでの総督主催の公式晩餐会の後、ヒロノミヤは数々の著名人の前でヴァイオリンでショパンを演奏。
「ホームステイ」のはずだったが執事、世話人(毎朝着る服を準備)、
皇宮警察のボディーガードの3人が随行、その他日本大使館員、現地政府職員チーム、
複数の警備車などがついてまわる超厳重警備。
Macedon山の展望台を訪れたが濃霧で景色が見えなかった時にヒロノミヤの言った言葉は
"Kissinger's lookout"(キッシンジャーの展望)。
当時の日本における、キッシンジャーに対する反感
(彼は当時日本人をJapよわばりしていた反日派)を表す皮肉であるが、
皇族の政治的発言はタブーであり、ヒロノミヤの教育係がこれを聞いたら卒倒したであろう。
ヒロノミヤはゴルフをしたがったが、予定には無かった上に、
昭和天皇が「アメリカ的過ぎる」との理由で禁止していたスポーツなので宮内庁随行員からNGを出された。
しかしホストファミリーは遠方に釣りに行くとメディアを騙し、
滞在中の別荘の近くのゴルフコースに忍び込んでプレーを体験した。
クイーンズクリフのOzone Hotelで開かれた帰国前のお別れ夕食会の途中で
ヒロノミヤが失踪し大騒ぎになったが、実は一般のバーに忍び込んで居合わせた地元民達から
ビリヤードを習っていた。

マサコのハーバード時代のネタはSunhee Juhon-Hodgesという、
韓国系とみられる親友が大量提供。雅子が外務省で最初に配属されたのはOECD関連の部署。
ハーバードでの指導教授はJeffrey SachsはOECDの顧問だった。
Sachsに面談して雅子の「薄っぺらい」全99ページの卒論も見せてもらったが、
これは日本の政治経済界の著名人の協力を得た上で、
(当時の)日米間における日本の圧倒的な貿易黒字は二度のオイルショックが原因であり、
輸入障壁は全く関係ない、とする、日本の政治家の受け売りそのままの結論を出している。

Sachsに、彼女には父親のコネにより日本の上級官僚の協力を得たという不平等な
アドバンテージがあったのでは?と質問すると、
教授は「ハーバードは、有力者の助言や協力を求めるような優秀な学部生のためにある・・・
ハーバードでのトリックは、君が非常に優秀で野心にあふれる学生ならば、他人の助けを求める事だ。
」という当たり障りのない回答をしている。

ハーバード時代、院生だった男性(オーストラリア人で現在経済学教授)
「彼女は何か問題にぶつかると、夜中の1時とか2時というとんでもない時間に電話してきました。
私たち(彼と妻)は子供が生まれたばかりで、夜は大抵私が当番になっていたんです。」

宮内庁の役人たちは、もう1年以上も離婚という「解決策」を検討していた。
雅子は皇后になるのにふさわしくないし、離婚すれば皇太子は再婚をして男子の後継者をもうけることができる。
さらに、女系天皇を認める法改正も避けられると、宮内庁の代弁者たちは語った。

ハーバード卒業の頃、キャンパスでは米国の主要銀行、会計事務所、
金融機関などのリクルートフェアが開催された。
母親である優美子が友人に話したところによると、
雅子は高級外交官である夫の基本給よりも高額なオファーを提示されたという。
優美子は「私達(家族)はみな遊んで暮らせるかも」と冗談を言った。

オックスフォードでは最初は国際関係学のM. Phil(研究ベースの学位)コースにいたが
その後それよりも楽なM. Litt(講義ベースの学位)に変更したものの、それでも修論を仕上げられなかった。
後者は9ヶ月間講義を受け、夏の間に短い修論を書いて終了する。

オックスフォードでマサコは80年代におけるアメリカから日本への戦闘機の販売について研究していた。
そういうトピックは将来のお妃としては相応しくないので、皇室の面目を保つために
2年もかけて書き上げて来た修論を諦めた。
入内後に元アドバイザーが来日、別の当たり障りのないテーマで修論を仕上げないかと打診したものの実現せず。
国連大学でも研究室を与えられたものの研究再開のめどは立っていない。

エレナ王女のレセプション。
なぜそこに招待されたか、土壇場で手書きでリストに加えられたという説と、
旧ソ連大使でモスクワ時代の小和田家を知っていた上にナルヒトのオックスフォード留学中の
世話役の一人だった東大学閥のナカガワ・トオルという人物が便宜を図ったという説。

成婚時には街中のポスターや車内吊り広告にマサコの顔写真が掲載された。
大多数の日本男性は彼女のことを美人だと言うであろうが、
それはポップカルチャーにおいてもてはやされる
若い可愛いタレントの外見とは違う物である。
彼女の鼻と顎はやや大きすぎで、肌は古典的なアイボリー色よりも一段階黒く、
歯は並びが悪い(曲がっている)。
皇太子が魅了された点の一つがこの特徴的な顔立ちであることは間違いない。
大学時代に増えた体重を何キロも落としたため、
(成婚当時)29歳の彼女は運動選手のような健康的な体型である。
マサコは高校時代にソフトボールの選手として優勝経験があり、今もテニスとスキーが大好きである。

マサコに対する批判のソースは大きく分けると三つある。
宮内庁は海外で長年生活していたマサコを、本の伝統を継承するには充分日本的でないと思っている。
そして、彼女は思ったことを軽率に口に出しすぎる。
そこで、彼ら(宮内庁)は、雅子を陥れるため酷い策略を繰り広げた。
選ばれた数名のジャーナリストに、バーや喫茶店などで、
オフレコということで彼女に関する情報をリークした。
その結果、雅子の過去の男性関係についての悪趣味なストーリーが出回ったり、
彼女の家族がひどい公害スキャンダルにかかわっているという可能性が示唆されるという結果になった。

第二のソースは、公家と華族である。
これらの家系は、つい最近まで、皇室の嫁や側室を生み出すことのできる唯一の場所であった。
ところが、まずはアキヒトが、続いてアキヒトの二人の息子たちが平民の嫁をもらったという
前代未聞のできごとに公家や華族のメンバーは腹を立てていた。
彼らは真珠やツインセットなどを身に着けて頻繁にテレビに登場し、
マサコのマナー、そして外見などについて、見下したような批判を繰り返した。
そして最後に、皇族のメンバーや有力な家族の子息令嬢が教育を受けているエリート校学習院の、
(各界に)影響力あるOGの会がある。彼女らは、(学習院の)卒業生の中から、
皇太子の嫁となるにふさわしいとおぼしき方々のリストを手間隙かけて作成し、
コンピュータでプリントアウトして(皇太子サイドに)提供した。
それにもかかわらず、皇太子は、(リストにのっていた候補者を)全員拒否したため、OGの会は大いに憤慨した。
彼女らも、舞台裏で、そしてメディアで、アンチ・マサコキャンペーンを繰り広げているのである。

マサコに対する反感がどれほど根強いものかを示す例としては、
偉そうな態度の生きた化石、浜野実の言葉を聞くがよい。
雅子は、(結婚後の)計画や夢について(あらかじめ用意された原稿によらず)
自由に話したことによって、(婚約記者会見という)場に新鮮な空気を吹き込んだ。
それなのに、彼女を批判する連中は、彼女の話の内容には耳も傾けず、
かわりにストップウォッチで彼女を計ったのだ。彼らは舌打ちしてこう言った。
マサコは 9 分 37 秒もしゃべった。これは 皇太子よりも 28 秒長い、と。
夫となる男を立てるために自分は(おしゃべりを)遠慮して、
相手に自分の二倍ほどしゃべらせる。これが礼儀というものだ、という
暗黙の了解が(皇室には)あるらしい。
浜尾がこの会見について語ったのは、次のようなことだ。

――― (雅子様は)少々 でしゃばりが過ぎるように思われます。
何よりもまず、しゃべり過ぎです。質問されていないことまでお話しになっている。
アメリカ流ですね。西洋人が「レディー・ファースト」だと言うから、
雅子様も男性の前をお歩きになる。アメリカならそれでいいかもしれませんが、
日本ではもっと謙虚なふるまいを見せるべきだというのが、私の信ずるところです。

この時から 数年間、マサコは公の場で話すことを許されなかった。
宮内庁がストップをかけたからである。マサコが、この浜尾の無礼な言葉に
怒り心頭であったことは疑う余地もないが、
プライドを捨て、皇室のやりかたを学ぶよりほかに道はなかった。
結婚を放棄し、耐え難い不名誉を自分の家族にもたす(という不可能な選択)以外には---

これ以後、マサコが公の場で即興の受け答えをするということは、一切なくなった。
そして、(公の場では)あの貼り付けたような微笑みすら、
一瞬たりとも消すことができなくなった。そんなことをしようものなら、
(微笑みが消えた瞬間を)パパラッチに(カメラで)とらえられ、
(週刊誌などの)編集者たちがこぞって待ち望んでいた
『不幸な皇太子妃』という見出しを書く、格好の口実にされることは間違いないからだ。

帰国子女としての克服しがたいハンディーにもかかわらず、
マサコが日本で教育を受けた子供たちに追いつくのに、それほどの時間はかからなかった。
勉強もよくでき、ピアノやテニスを習って余暇を過ごす。
手芸部に所属しており、小学校六年生になると、(将来)は獣医になりたいと決意する。
放課後、彼女はうさぎ、鶏、魚、ハムスターやカメレオンなどの世話をした。
学校のプロジェクトで、一度はコジュケイ(小綬鶏)の解剖を行い、剥製を作ったこともある。
樽のなかで小ネズミを繁殖させており、これを学校が休みのときに家へ持ち帰ったが、
小ネズミたちが両親の住んでいたお上品な住宅街に逃げ出してしまったため、
近所でちょっとしたスキャンダルになったこともあった。
クラスメートたちに「オワ」というあだ名で呼ばれていた彼女は、なかなかの人気者であったようだ。
ややお転婆で、上流家庭で甘やかされている餓鬼というのとは違った。
彼女はいたずら者であった。とは言っても、日本で悪ふざけと思われるようなことは、
おそらくよそではそれほど悪いことだとは思われないだろう。
昼休みの前に弁当を食べたり、屋上に上がって)雪の玉を生徒仲間にぶつけたりした。
サイレンを録音したものを授業中に流したときには、
生徒たちがばたばたと建物から外へ避難するという大騒ぎになった。

日本の聖人伝記作家たちはマサコが一九八五年夏に優等賞(マグナ・クム・ラウデ)で
卒業したことを大々的に持ち上げた。
これは、アメリカの大学制度をよく知らない人には、
彼女がアイシュタインの生まれ変わりであるかのように受け取られている。


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「皇室」 紀宮殿下ご結婚記念号より

皇室Our Imperial Family第29号平成17年冬紀宮殿下ご結婚記念号 

秋篠宮妃、皇太子妃について紀宮様のご発言

秋篠宮妃に対して
「川嶋さんは本当にすんなりと私たち家族のなかに溶け込まれて、
このたびのお二人のご婚約は、大変自然なもののように感じました。
川嶋さんとお会いになった方は、あの温かな雰囲気に心が和むのをお感じになると思いますが、
同時に、芯に大変しっかりしたものをお持ちになり、物事を慎重に深く、お考えになる方だと思います。
これからご一緒に両陛下をお助けしながら仕事をしていく上でも、これからの生活の上でも、
私が川嶋さんから教えていただくものがたくさんあることでしょうし、
また、私の方でも何かお役に立つことがございましたならば、喜んでしたいと思っております」
(平成2年4月16日、21歳お誕生日の記者会見より)

「(秋篠宮妃殿下のことは)上られる以前のお親しくしていた時期が長かったので、
普段は『紀子ちゃん』と、その頃の呼び方でお呼びしております」
(平成3年4月18日、22歳お誕生日の文書ご回答より)


皇太子妃に対して
「(雅子さんとは)まだゆっくりとお話をする機会はございませんが、
自分をしっかりと持っていらっしゃり、ユーモアのある楽しい方のように拝見しております。
頼もしい姉二人を持つことが出来て大変心強く思っております」
(平成5年4月18日、24歳お誕生日の文書ご回答より)

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秋篠宮両殿下婚約会見


礼宮さま・紀子さんの記者会見での一問一答

礼宮さまと川嶋紀子さんの記者会見は、12日午後3時から25分間、赤坂御所の「桧の間」で行われた。
一問一答は次の通り。

−−このたびは、ご婚約決定、おめでとうございます。

礼宮さま
「どうも、ありがとうございます」

−−質問に移らせていただきます。お2人は皇室会議で正式にご婚約決定となりましたが、
現在のご心境をお聞きしたいと思います。

礼宮さま
「皇室会議で承認していただきまして、いま、ホッとしているというか、そういう気持ちです」

紀子さん
「私も、礼宮さまと同じく、私どもの結婚に皆さまのお認めをいただき、まことにうれしく存じます」

◆ひかれた点 プロポーズ

−−お互い、どんな点にひかれたのでしょうか。

礼宮さま
「以前にもお話ししたことがございましたが、話をしていて楽しい人。
また、どことなく愛きょうがあるというか……」

紀子さん
「生物、例えば御所内で飼ってらっしゃるナマズやアヒルなどをかわいがっておられるお姿や、
熱心に魚類を研究しているお姿に強くひかれました。タイのお酒、メコンに誘われるまま、
先生やお友達と語り合い、またギターを弾かれたりするご様子、そんなところにひかれました」

礼宮さま
「付け加えると、(紀子さんは)非常に話題が豊富な方じゃないかと思っております」

−−ご結婚を決意されたのは、いつごろでしたか。礼宮さまからのプロポーズのお言葉と、紀子さんのご返事は。

礼宮さま
「決意は、だんだん、徐々に、そういう方向に固まっていったというところでしょうか」

紀子さん
「私も礼宮さまと同じく、徐々に気持ちを整理して参りました」

礼宮さま
「プロポーズは……そうですね、確か昭和61年の6月26日だったと思いますけれども、
『私と一緒になってくれませんか』と話した記憶があります」

紀子さん
「私は『よく考えさせていただけませんか』と申し上げました」

−−先ほど、お2人は両陛下のところにごあいさつされたと思います。
その時、両陛下はどんなことをおっしゃいましたでしょうか。

礼宮さま
「このたびの婚約をうれしく思います。いままで2人が培ってきたものをさらに伸ばし、
また、お互いに補いあい、よい家庭といいますか、
よき宮家を築いていくことを期待しているとのお言葉でございました」

紀子さん
「同じようなお言葉をたまわりました」

−−現在、(昭和天皇の)喪中で、ご自身も留学中のお立場ですが、
そういう時のご婚約決定をどうお考えになりますか。両陛下から反対はございませんでしたか。

礼宮さま
「現在、留学中、喪中ということでもありますが、ここ一、2年の間に
川嶋家の方にいろいろ問い合わせ等が多くなって、
私としても責任のあることですので、早い時期に公にしたいと判断いたしました。
そうなりますためには、本日もございました皇室会議を経なければいけないわけですが、
それにつきましては宮内庁としても特に異議はありませんでしたし、両陛下から反対もありませんでした」

◆結婚の抱負 新家庭像は

−−ご結婚の儀式はいつごろと考えていらっしゃいますか。新婚旅行のご希望は。

礼宮さま
「現在は喪中ですので、明年1月の喪明けを待ち、それから考えていきたいと思っています。
新婚旅行などは、今のところまだ考えておりません。
結婚の後は、伊勢神宮とか神武天皇陵などの参拝もございます。
また、昭和天皇のご生前にお耳に入れることができませんでしたので、
武蔵野陵に参り、ご報告したいと思っています」

−−ご結婚されると、独立され、宮家を営まれるわけですが、
今後のご自身のあり方、抱負というものがございましたら、うかがいたいと思います。

礼宮さま
「新しい経験となるわけですけれども、いろいろな方からお導きいただきながら、
2人でいい家庭を築けたら幸いと思っております。皇族としての抱負といたしましては、
天皇をお助けする立場でございますし、与えられた皇族としての仕事をひとつひとつ、
大切に果たしていくつもりでおります」

−−皇太子さまより先に結婚が決まりましたが、ご感想は。
宮内庁は皇太子さまのご結婚をできるだけ早くと考えているようですが、
お近くにいてどのような雰囲気でしょうか。

礼宮さま
「兄の皇太子が早く決まればそれに越したことはなかったわけですし、
私もそのことを強く望んでいましたが、先ほども申したような事情もございまして、
私の方が先になってしまったということでございます。
雰囲気? 以前に30歳までにできれば上出来というふうに申しましたけれども、
やはり30歳までにできれば上出来なのではないかと私は思っております」

−−暗い見通しですね。

礼宮さま
「暗いと言いますか……。私もわかりませんけれども」

−−紀子さんは一般の家庭から皇室に嫁ぐことになりますが、これから皇族の一員になられるお気持ちは。

紀子さん
「私は礼宮さまと4年にわたり親しくさせていただき、礼宮さまのお人柄、
お考えから多くのことを学ばせていただきました。また両陛下、東宮殿下、それから紀宮さまが、
明るい中にも責任あるお立場をご自覚になり、ご生活なさっているお姿を拝見させていただきました。
ありがたく、まことに心強いことでございました。
皆さまのお教えを賜りながら一つ一つ学んでいきたいと思っております」

−−紀子さんにお尋ねいたします。ご結婚されたら、どんな家庭を築いてゆきたいとお考えでしょうか。
また、お子さまは何人ぐらい、お望みでしょうか。

紀子さん
「礼宮さまとご一緒にのんびりと明るく、和やかな家庭を築けたらと思っております。
後の質問についてでございますが、それについても、これからゆっくりと考えていきたいと思っています」

−−初めて結婚の話が出た時、(紀子さんの)ご両親は何とおっしゃっていましたか。

紀子さん
「父は『自分の人生は自分の責任や判断で決めることが望ましい。
よく考え、よく悩んだ上で、結論を大切にしなさい』と申しておりました。
また、母は『紀子ちゃん、よく考えてみましょうね』と申しまして、
そのあとで『はたち前半のころは豊かな経験をすると同時に、よく勉強し、
ライフワークの基礎を作る重要な時期ですよ』と申しておりました」

◆勉学の見通し 今後の計画

−−これから結婚の日まで、学業など日々の生活についてどのように考えていらっしゃいますか。

紀子さん
「私は現在、大学院生でございますが、礼宮さまは大変ご理解があるようで、そのご理解のもとに、
時間の許す限り勉強を続けたいと思っております」

礼宮さま
「私も、まだイギリスの方でやりたい仕事、研究と申しますか、たくさんありますので、
このことが一段落つきましたら、できるだけ早い機会にイギリスへ参りまして、
前と同じような研究生活に戻れればと考えております」

−−(11日の)誕生日に礼宮さまから何かプレゼントがあったとうかがっておりますが。

礼宮さま
「私からお答えさせていただきますと、何というか、写真立てみたいなものなんですね。
ちょうど2人の人が入るような、そんなものをプレゼントいたしました」

−−中に写真は入っていたのでしょうか。

紀子さん
「これから思い出深い写真を入れて、飾っておきたいと思います」

−−どこで求められたものなんですか。

礼宮さま
「日本で」

−−紀子さんはご結婚後、大学院での勉強をどうなさいますか。

紀子さん
「今後どんな生活を送るか、ちょっと分かりませんけれども、
時間が許す限り勉強はずっと……一生続けたいと思っております」

−−失礼な質問ですが、お2人は長い交際を続けていらっしゃいますが、
けんかなどというのはなさったことはございますか。

礼宮さま
「けんかの度合いにもよりますが、双方、からかったり、そんなことはいたしましたけれども」

−−涙を流したようなことはございましたか。

紀子さん
「みなさん、ご存じだと思いますが、(礼宮さまが)英国にいらっしゃった日でございます」

−−プロポーズの場所はどこだったのでしょうか。

礼宮さま「場所は目白近辺。夕方、集まりがありまして、私が(紀子さんを)送って帰る途中、
ちょうど横断歩道のところで信号待ちをしている間に、ついつい長話になって、その時に」

−−結婚までにお2人でタイへ出かけるとか、イギリスへお連れになるというお考えは。

礼宮さま
「まだ、そういうことにつきましては全然考えておりません」

−−先ほどのプロポーズの話ですが、紀子さんは「よく考えさせていただきます」と答えられ、
そのあとはどんな展開だったのでしょうか。

紀子さん
「先ほど申しあげたように、徐々に気持ちを確かめあいながら、きょうになりました」

−−紀子さんは礼宮さまが初恋の人ですか。

紀子さん
「そうでございます」

 −(学習院大構内の)本屋で最初の出会いがあったとお聞きしていますが、その時の第一印象は。

礼宮さま
「こちらのお父さまを前から存じ上げていたんですが、非常にお父さまの話し方と似ているなと思いました」

紀子さん
「私はお友達と話してらっしゃるお姿を拝見して、思ったより気さくな方という印象を受けました」

−−ご婚約に至るまでに障害のようなものは感じられませんでしたか。

礼宮さま
「私といたしましては、ほかからの反対は一切なかったと思っております」

−−皇太子さまの方から祝福のようなお言葉はございましたでしょうか。

礼宮さま
「おめでとうということですね」

−−前回、イギリスに礼宮さまが行かれた時、涙を流されたということですが、
また礼宮さまはイギリスに戻られます。ご婚約が決まられたことで気持ちはだいぶ楽になりますか。

紀子さん「これからは以前よりも親しくさせていただくことができるとうれしく思っておりますが、
やはり、心に通じ合うものがございましても、距離が離れますと寂しいものでございます。
おたちになる日はしんみりと涙を流すことになるのではないかと思いながらも、
笑顔でご出発を送りたいと思っておりますが」

−−きょうはありがとうございました。お幸せに。
(1989年9月13日 読売新聞)
引用元 http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89091303.htm

http://princefamily.gooside.com/konyakukiji10.html

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