悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問

悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問
半藤一利スペシャルインタビュー
2019年06月21日

https://friday.kodansha.co.jp/article/53220

「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、
『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、
わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。
だって相手は小学校6年生の坊やですよ。
そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。
だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」
秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。
その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。
秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「終戦記念日」だったのは、偶然ではないのだろう。
平成から令和へと新時代を迎えた今、半藤氏がその日のことを本誌に明かした。
「最初に秋篠宮父子にお会いしたときに言ったんです。
私は東京下町生まれなものですから、”ひ”と”し”が上手く発音できません。
だから悠仁っていう御名前はすごく言いづらい。
『しさしと』になっちゃうんで、今日は殿下、と呼ばせていただきます、ってね。
持ち時間は2時間半だったんだけど、太平洋戦争についてさわりの部分で1時間話しました。
私が話したことのひとつは、私たちの国は、”内陸に乏しい”ということです。
北の北海道から南の沖縄まで、長〜い海岸線を持っていて、
海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。
ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、
国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。
そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。
要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。
さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。
こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。
こう話したら、同席していた父の秋篠宮が、幼い殿下に『地政学』とはこう書くんだよ、
と紙に書いて教えてあげていましたね」
休憩時間になり、紀子妃が淹(い)れてくれたお茶を飲みながら半藤氏が「質問がありますか?」と聞くと、
悠仁さまは手を挙げて「アメリカはなぜ広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?」と質問した。
「質問を受けて、これはなかなか難しいぞ、と思いながらも丁寧に答えましたよ。
細かいことは忘れてしまいましたが。
あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。
ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています」

父・秋篠宮からも質問が
悠仁さまへの説明を終えた時、今度は父の秋篠宮が「私からも、質問をいいでしょうか?」と切り出した。
「彼は私の著書を読んでいて、統帥権(とうすいけん)について、
もう少し詳しく教えてください、と言われたんです。
統帥権は非常に難しい概念です。日本国憲法施行までの大日本帝国憲法は、明治22年に公布されています。
ですが、『軍人勅諭』の原形ができるのは明治11年。憲法より11年も前なんです。
そこには大日本帝国陸海軍は大元帥である天皇直属の軍隊である、とあり、
大元帥(=天皇)の指揮権を統帥権と言ったのです。
つまり、軍隊は後から成立した憲法の埒(らち)外にあると、少なくとも一部の軍人どもは考えた。
明治から戦前の時代は、一人の中に天皇陛下と大元帥陛下という二つの役割があり、
これが日本という国を非常に難しくしていたんです。
統帥権にまつわるややこしい話、当時のさまざまな事例を理解してもらうため、
結局、後半の1時間半は、私と父宮との会話になりました。
それでも殿下は、居眠りもせずじっと傍らで聞いていましたよ」

このように秋篠宮父子が近現代史の教師役として半藤氏を招いた背景には、
半藤氏が戦争体験者として過酷な少年時代を過ごしたことも影響しているだろう。
半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれている。
その翌年には満州事変が勃発、次第に日本は軍靴の音が高く鳴り始めていった。
昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。
「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。
「そんな父の影響もあって、旧制中学に進学しても、私は軍人の学校には一切行かないと決めていた。
周囲はやれ陸軍幼年学校だ、少年航空兵だと熱に浮かされていたので、
『オマエは非国民だ』とよく罵(ののし)られたものです」
半藤少年の思惑をよそに戦況は悪化の一途をたどる。そして14歳だった昭和20年3月10日。
東京大空襲で下町は、すさまじい火炎に包まれた。
「焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。
空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。
防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。
蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。
それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。
これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。
そうやって死体を運び出していたら、2時間ぐらいで警防団の大人たちに
『お前たち、もうやめろ。これは大人の仕事だ。帰れ』と追い払われた。
帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。
ただ、もっと死体処理を続けていたら、今でいうトラウマになったかもしれません。
だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、到底口にできませんでした。
話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を聞くようになったからです。
旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、
それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。
初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。
ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、
コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。
それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。
それで言い返すようになった。
『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。
そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。
戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かなりの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。
本人が言っているんだから間違いない、なんてことはないんですよ。
誰だって自分を守りたい。それを忘れちゃいけません。
私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。
気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、
人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。
あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。
麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。
ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。
最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」
半藤氏は自戒をこめて、こう語る。

国際連盟を脱退して以来、日本には外交なんて一度もない
戦争をしてはならない、と繰り返す半藤氏は、同時に戦争へと引きずられないためにいかに外交が必要かを説く。
「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。
昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、
日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。
昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。
それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、
もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。
だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。
北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、
樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、
実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。
『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。
俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。
千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。
榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。
榎本が行ったことこそが外交というものです」

太平洋戦争から74年。昭和から平成へと、曲がりなりにも日本は平和を保ってきた。令和の世はどうなるのだろう。
「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。
『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? @アメリカ Aドイツ B旧ソ連 Cオーストラリア』
そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。
次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。
しかもその一人が手を挙げてこう言った。
『で、どっちが勝ったんですか?』
こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。
これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」
『FRIDAY』2019年6月28日号より

秋篠宮家バッシングは陰謀か?「愛子天皇」待望論者のカンちがい

秋篠宮家バッシングは陰謀か?「愛子天皇」待望論者のカンちがい
倉山満
2019年05月27日 08時30分 SPA!

― 連載「倉山満の言論ストロングスタイル」―

◆皇室を考える大原則は三つ。先例、男系、直系だ。この順番を間違えてはならない
明治以来、改元の年には政変がある。既に、不穏な空気が漂っている。
日本が日本であるとはどういうことか。皇室が存在することである。
公称2679年、一度も途切れることなく皇室は存在してきた。
昨日と同じ今日を続けてきた。これを明日も続けるかどうか。
13歳の少年にのしかかっている。命の危険にさらされながら。

新帝践祚直前の4月26日、悠仁親王殿下がお通いになる中学校で事件が起きた。
賊が教室に侵入し、殿下の机に刃物を置いていった。
皇室の歴史を少しでも知っている者なら直感したはずだ。
殿下を脅迫している、と。「お前は皇位を辞退しろ」との脅迫だ。

これは散々、藤原氏がやり尽くした手口だ。藤原氏は権力を維持するために、
あらゆる手段で意に添わぬ天皇を引きずりおろした。また、皇太子の地位も、拝辞させた。
三条天皇などは藤原道長に痛めつけられて遂には失明にまで追い込まれ、退位を余儀なくされた。
刃物を突き付けるなど序の口、日本を亡ぼしたい勢力は今後も悠仁親王殿下に圧力を加え続けるだろう。

昨年から、秋篠宮家バッシングが勢いを増している。
同時に、女系・女帝・女性宮家への流れを作ろうとしている。
きっかけは「お婿さん問題」だが、本質は違う。皇位を秋篠宮家に渡さない陰謀だ。

◆「女帝」と「女系」の違いもわかってない
現状では、天皇の皇位継承順位第一位は秋篠宮殿下、第二位は悠仁親王殿下だ。
何十年後か、悠仁親王殿下が即位あそばされた暁には、これまで一度も例外なく守られてきた男系継承は続く。
問題はその時に他の皇族がいなくなるので御世継問題が重要となるのだが、それは別の話。
ところが、悠仁親王殿下がおわすのに「愛子天皇」待望論を唱える輩が後を絶たない。
一知半解の論者が「女帝は先例があるから良いではないか」などとゴリ押しするが、そういう問題ではない。

皇室を考える大原則は三つ。先例、男系、直系だ。この順番を間違えてはならない。
仮に「愛子天皇」が実現したとしよう。かつて「即位を男女で分けず年齢順とすべし」との提言がなされた。
それに従えば、悠仁親王殿下の皇位継承順位は、
「愛子天皇」が実現した場合は眞子内親王と佳子内親王に次ぐ第三位に落ちる。
のみならず、愛子天皇の次の皇位はどうなるのか? 同世代の四人のどの系統の方が継がれるのか?

仮に「愛子天皇」のお子様が継がれたとしよう。皇位の直系は愛子天皇の家系に移る。
配偶者が民間人の場合、その子が継げば王朝交代である。
これが女系天皇だが、こんなことが許されるなら弓削道鏡は称徳天皇と結婚して、
自分の子供を天皇にすればよかったことになる。皇室の歴史では一度も許されなかった先例破りだ。
こういう掟を無視するから、女系論は論外なのである。
女系論者は、先例と男系を無視して、直系だけ言うから意味不明になる。

◆秋篠宮家から皇位をとりあげようとする陰謀?
なお見落とされがちだが、「愛子天皇」の配偶者が皇族だった場合にも問題がある。
現に、旧皇族家の子孫の方々に親王宣下し、愛子様と結婚していただこうとの声もある。
確かにその場合、愛子様と親王殿下のお子様には皇位継承資格がある。
だが、悠仁親王殿下がおわすのに、何を差し置いて「愛子天皇」待望論なのか?
その子に皇位を継がせようとは、秋篠宮家に皇位を渡さない陰謀ではないか。

女系は論外としても、悠仁親王がおわす時点で女帝を言うとは、秋篠宮家から皇位をとりあげようとする陰謀だ。
皇位の直系は今上陛下から悠仁親王殿下に移る。
その時、皇族が一人もいなくなるので、愛子様、眞子様、佳子様、
そして親王宣下が待たれる旧皇族家の方々が一丸となって皇室を支えねばならないのだ。
令和の時代に再び壬申の乱を起こすような真似は慎むべきだ。
今の時点で女帝を言うのも既に悠仁親王殿下に対して失礼なのだが、
皇室の歴史において論外の女系論が勢いを増している。

◆一部、男系論者のカルトぶりがエスカレート
これは、男系論者の一部に責任があると断定せざるを得ない。
ある者は、日本国憲法と外国の王室だけで皇室を語っている。皇室の歴史など無視だ。
長い皇室の歴史を持ち出せば、官僚がやりたい放題できる今の「天皇ロボット説」が否定されるからだ。
こういう者は衣の下から鎧が透けて見えるので、普通の日本人からは白眼視される。

またある者は、皇室の尊さの根拠を「Y染色体遺伝子」に求める。
真顔で「男系とはY染色体遺伝子の継承だ」などと言い出す。正気ではない。
皇室の歴史は遺伝子の発見どころか、アルファベット以前からだ。
ついでに言うと、すべての女帝に「Y染色体遺伝子」は無い。
こんな人物が男系継承派の代表としてテレビに露出するなど、女系派の陰謀ではないかと勘繰りたくなる。
これでは、男系論がいかがわしく思われてしまう。

しかし、一部男系論者のカルトぶりは、留まるところを知らない。
インターネットでは、「皇太子(今上陛下)よりも皇室の血が濃い男系男子がいる」
などと拡散している御仁がいた(ジャーナリストを自称している)。
最初は何を言っているのか理解できなかったので、
日本語の意味だけを読んで「皇太子殿下は天皇陛下の実子ではない」と言いたいのかと思ったが、
その失礼さは予想の斜め下だった。
父母及び四人の祖父祖母が全員皇族であり(母方の祖父が昭和天皇)、
母方の曽祖父が明治天皇である東久邇宮信彦殿下のことを言いたかったらしい。
要するに、信彦様の子孫が「皇太子(今上陛下)より血が濃い」のだそうだ。
この人物、自分で「男系絶対」を言いながら、美智子皇太后陛下が皇族の出身ではないからと
今上陛下は「血が薄い」と貶めているのだ。論理破綻だ。

そして、SPA!に東久邇家の系図を載せたのを「自分の本から盗用した」と扶桑社にまで抗議電話をかけてきた。
東久邇宮家の家系図は自分の持ち物だと言いたいのか。

なお管見では、この家系図の初出は、所功・高橋紘『皇位継承』(文春新書、1998年)である。
同書は皇室論議のきっかけとなった話題作である。また、この家系図は、その後も何人もの論者が使用している。

女系天皇は論外だが、一部男系のカルトがマトモな人間をそちらに追いやっているのは、由々しき事態だ。

【倉山 満】

https://news.nifty.com/article/magazine/12193-286891/

「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか
2019/05/01
倉山満(憲政史家、皇室史学者)

まず、皇室に関して最も大事な三つの原則を確認しておく。
一つ目の原則は、皇室は先例を貴ぶ世界だということである。
わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。
風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。
幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。

皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。
ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、
「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。
神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。
毎日、同じ御食事を神様に捧げる。
昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。

京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。
その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。
叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、
1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。
毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。

しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。
いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。
不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。

歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。
そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。
いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、
電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。
そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。

そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。
変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。
もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。
ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。

古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。
これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。
貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。
歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。
ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。

もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。
歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。
法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。
日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。

幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。
元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。
ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。

どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。
たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。
大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。
殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。
元号が制定されたのもこのときである。
実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。

承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、
時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、
即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。
「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。
なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。
史上初の「天皇になっていない上皇」となった。

敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。
その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。

いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。
もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は
現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。
一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。
皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。

二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。
八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。

現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。
その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。
いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。
それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。

蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、
皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。
この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。
せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。
男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。
男系継承は、皇室が皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。

三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。
二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。
この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。
しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。

不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? 
そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。

平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。
これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。
皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。
あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。

ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。
理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。
女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」
「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。
その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。

いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ?
ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。
言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。
「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。
なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。
こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。

最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。
皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か?

最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が
(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。
先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。

小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。
特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。

しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。
今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。
この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。
皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。

ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。
その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。

そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。
「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。
男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。
この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。

一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、
いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。

男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。
そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。
今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。
当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、
閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。

しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。
東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。
東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。

ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。
血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。
「五世の孫」の原則があるからだ。

皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。
定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。
第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。

宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。
生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。
元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、
皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。

ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。
かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で
元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。

では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。
どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。
身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。
女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、
東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。
むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。

東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、
父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。
「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。
男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。

本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。
古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。
そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。
継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。
なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、
直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。

ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。
継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。
むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。

その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。
第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と
弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、
自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。
天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。
天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。

ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。
この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。
もちろん、民間人の天皇など認められず、
皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。
ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。
これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。

ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。
第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。
よって、女系では天智天皇の子孫である。
しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。
草壁皇子は天武天皇の息子である。
女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。
皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。

そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、
いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。
それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。

このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。
第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。
この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。

自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。
それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。
鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。
そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。

北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。
皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。
しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。
後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。

戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。
むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。
江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇
室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。
後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、
光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。
陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。

先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。
今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。
将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。

さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、
今の皇室の直系をなんと心得るか。
いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。

それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。
直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。

もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。
今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。
悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。
https://ironna.jp/article/12479

大正元年 白洋舎 ボア事件

1912年に白洋舍が皇太后の襟巻を溶かした「ボア事件」時の神対応の真相
2017年3月20日 22時0分

街のクリーニング屋さんとして知られる白洋舍(はくようしゃ)=東京都大田区=。
国内のドライクリーニングの先駆けとして2017年で創業111周年を迎える老舗ですが、
創業6年目に一大事件を乗り越えています。

1912(大正元)年、明治天皇の妃だった昭憲皇太后から預かった白鳥の羽毛製の高級襟巻(ボア)を、
誤って溶かしてしまったのです。
この出来事について、2月3日にあるユーザーがTwitterに投稿したことから再び注目が集まりました。

当時の対応について、同社に確認しました。

通称「ボア事件」
くだんの一件は「ボア事件」として社内で語り継がれています。
創業者・五十嵐健治氏(以下、健治)が自伝「恩寵(おんちょう)の木漏れ日」で詳細を語っています。
明治天皇が崩御して4カ月ほどの11月のある朝。
お墓である伏見桃山陵(京都市)を昭憲皇太后がお訪ねになるのに合わせ、
宮内省から「白い襟巻を黒く染めてほしい」という電話が、
かねてからシーツなどの洗濯を請け負っていた健治宛にありました。

期限はわずか3日間。少しためらったものの、染色の勉強もしていたこと、
何より急ぎの要件だったため引き受けることにしました。
自宅に丁重に持ち帰った襟巻を前に「責任がなかなか重大である」と感じ、
なじみの染物店に作業を見守ってほしいと頼みます。
これが思わぬ事態を招きます。

どうして待ってくれなかった
翌日、健治は部下に品物を持たせて先に染物店に行かせ、自分は所用を済ませてから向かいました。
到着すると、なんと店の主人はすでに大釜で襟巻の煮染めを始めているではありませんか。
直感的に不安を覚えた健治は、棒を差し入れて襟巻の端をすくい上げます。

“……指先で羽毛をつまんで見ると、芯がなくっていて、たわいもなく切れてしまう。
よく見ると羽毛は全くとけてしまっていて、質を失っている。
ああたいへんなことになった。
(五十嵐健治自伝「恩寵の木漏れ日」より)


原因は、色づきを良くするための薬剤の間違い。
どうして私が来るまで待たなかったのか……
ため息を吐きつつ、溶けた襟巻をバケツに入れて帰宅しました。

“こんなことになるなら、人に頼まず自分でやればよかったと後悔するのみである。
その晩、まんじりともせずに、煩悶の中に夜を明かした。


「申し訳のために自決しよう」
考えた末、健治は「とにかく代わりとなる襟巻を探そう」と、日が昇りきらぬうちから街に出ます。
東京市内の洋服店や横浜の外国人居留地、はては神戸の商館に電話を掛けて羽毛の襟巻を探し続けました。
しかし、見つかったのは東京・新橋の洋品店にあった短い2本のみでした。

“納期はいよいよ明日に迫っている。
しかるに代品を得る見込みさえなくなった。
絶望とはかかる時のことをいうのであろう。


健治は悩みます。期日を守れなければ、皇太后陛下だけでなく、
自分を頼ってくれた宮内省の担当者にも迷惑を掛けると。

“じつのところ一時絶望して、神経衰弱に陥り、
申し訳のために自決しようとさえ思い迫ったほどであったが……(後略)


キリスト教徒だった健治は、夜通し神に祈ることで気持ちを落ち着かせました。

神に祈り続けて冷静に
浅い眠りから目覚めた納期当日。祈り続けたおかげか「頭脳が鎮まってはっきり」してきました。
前日に見つけた新橋の襟巻2本をつなげ、1本にできるのではないか。
過去にやったことがないアイデアでしたが、「やってやれまいことはあるまい」と早速購入。
一度、“より”をほどいた襟巻の先端を切り、それぞれの芯を麻糸でがっちりと縫い付けてより直します。
そして、期待を上回る立派な1本の長い襟巻を作り上げました。

労作を慎重に黒色に染め、夕方、みごと約束の時間に納入したのです。

“皇后官職へお納めしたところ、見事の出来栄えであると御褒めの御言葉を賜り、
御菓子さえ頂戴して、大いに面目を施した。


のちに宮内省の幹部に「染色異変の事情」を詫びたところ、
幹部はひどく気の毒に感じて皇太后との間を取り繕ったそうです。

真の責任は自分にある
健治は実際に作業を誤った染物店について、わざと名前を伏せて書き残しており、
強い自責の念がうかがえます。
「この事件の原因を究明してみると、真の責任は自分にある」と断言した上で、
染物店の主人との意思疎通が不十分だったこと、本当に重要な品はみずから運ぶべきだったと述懐しています。

この「昭憲皇太后ボア事件」の項目は、自戒の言葉で締められています。

“世の中の間違いというものは、ささいの不注意からおこるものである。
ことばの不明確と、軽率な行為は、時に思わぬ大失敗を招くものであるから、つつしまねばならない。


通信技術や物流網が進化した現代でも、そのまま通じる姿勢です。
ボア事件以降も、健治は関東大震災や東京大空襲、会社乗っ取り事件など
幾多の障害を乗り越え白洋舍を存続させます。
彼の波乱万丈の生涯は小説「夕あり朝あり」(三浦綾子作、新潮文庫)で追うことができます。
企業や役所が不祥事を起こすと、その度合いに関係なく徹底的に叩きのめす風潮が強い昨今。
健治の懸命な事後対応と宮内省のおおらかな姿勢には、学べる部分があります。

http://news.livedoor.com/article/detail/12825262/

秋篠宮さま「異例の疑義」に批判的な読売、理解を示した朝日


MAG2 NEWS
2018年12月03日 07:54
秋篠宮さま「異例の疑義」に批判的な読売、理解を示した朝日
53歳の誕生日を迎えられた秋篠宮さまの、大嘗祭への公費支出に疑問を呈されたご発言が波紋を呼んでいます。
「憲法上の問題」を巡り専門家の意見も大きく割れていますが、新聞各紙はどのように扱ったのでしょうか。
ジャーナリストの内田誠さんが自身のメルマガ『uttiiの電子版ウォッチ DELUXE』で詳細に分析しています。

秋篠宮さまの「大嘗祭への公費支出に疑問」を新聞各紙はどう伝えたか

◆1面トップの見出しから……。
《朝日》…「大嘗祭 国費支出「適当かどうか」」
《読売》…「『保存・修理・公開』一体に」
《毎日》…「仏、日本に首脳交渉要請」
《東京》…「大嘗祭 公費に異議」

◆解説面の見出しから……。
《朝日》…「秋篠宮さま『政教分離』発言 波紋」
《読売》…「徴用工 賠償判決の流れ」
《毎日》…「民間力導入 水道分岐点」
《東京》…「政府決定に異論 波紋」

【基本的な報道内容】
秋篠宮さまは53歳の誕生日を前に会見し、天皇の代替わりに行う皇室行事である大嘗祭について、
政府は公費を支出すべきではないとの考えを示した。
この考えを宮内庁長官らに伝えたが「聞く耳を持たなかった」として、「非常に残念なことだった」と述べた。
政府が決定した方針に、皇族が公の場で疑義を呈するのは異例。
秋篠宮さまは来年5月の天皇代替わり後、皇位継承順位1位で、皇太子待遇の「皇嗣」となる。

前回、90年に行われた大嘗祭では公費である宮廷費22億5000万円が使われたため、
「政教分離に反する」との批判があった。今回も政府は「宗教的性格」を認めつつ、
「伝統的皇位継承儀式で公的な性格がある」として宮廷費から支出することを決めている。
秋篠宮さまは公費である「宮廷費」からではなく、私費である「内廷会計」で賄う、
「身の丈に合った儀式」にすべきとの考えで前回から同様の意見を述べていたという。
秋篠宮さまによれば、天皇陛下からは、即位関係の儀式などは皇太子さまとよく相談して進めるよう伝えられていて、
「ご理解を頂いて進めている」としている。
宮内庁の山本長官は「聞く耳を持たなかったと言われるとつらいが、
そのようにお受け止めになったのであれば申し訳ない」と話している。


秋篠宮さまの会見での発言の該当部分
具体的にもし言うのであれば、例えば、即位の礼は、これは国事行為で行われるわけです、その一連のものは。
ただ、大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。
私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、
これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、
その頃はうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。
今回も結局、そのときを踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。
ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています。
整理の仕方としては、一つの代で一度きりのものであり、大切な儀式ということから、
もちろん国もそれについての関心があり、公的性格が強い、ゆえに国の国費で賄うということだと。
平成のときの整理はそうだったわけですね。
ただ、今回もそうなわけですけれども、宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、
それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。
ただ、それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。
大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、
言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。
少なくとも皇室の行事と言っていますし。そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし、
そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。
ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。
そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。


渾身の問題提起
【朝日】は1面トップに2面の解説記事「時時刻刻」、33面会見要旨、35面にも。見出しから。
1面
大嘗祭 国費支出「適当かどうか」
「宮内庁 聞く耳を持たなかった」
秋篠宮さま、皇位継承行事巡り
2面
秋篠宮さま「政教分離」発言 波紋
大嘗祭 公費支出すべきでない
私費が妥当か なお賛否
「政治的発言」疑問視も
深まらぬ議論に一石(視点)
35面
婚約 現状では「できない」
眞子さま・小室さんめぐり 秋篠宮
「考えながら務めを」 皇嗣へ抱負

uttiiの眼
《朝日》は秋篠宮さまの発言に理解を示しつつ、様々な見方を伝えている。
2面「時時刻刻」は例によって“時系列”的な記述で、
秋篠宮さまの会見の周辺情報を伝えた後、専門家らの評価を書き並べている。
横田耕一氏は「大嘗祭は宗教儀式。公金を使うことは政教分離を定めた憲法に照らして許されない。
発言はもっともだ」という。

島薗進氏も「大嘗祭への公費支出は日本の立憲体制にそぐわない。
秋篠宮さまは皇室の神道行事が戦前のように国家行事的な性格を持つことを懸念し、
政府や国民に問題提起したのでは」と推量。
反対に批判的なのは所功氏で、「大嘗祭は皇位継承の伝統行事として、
公費を支出した前回の方法はおおむね国民の了解を得ている」と、
また「大嘗宮の建設だけでも莫大な費用が掛かり、内廷会計(私費)ではまかなえないのでは」とも。
また、秋篠宮さまの発言自体を「政治的発言」とみるかどうかについても議論が分かれている。
今回秋篠宮さまは、即位の礼など「国事行為」に意見を述べることはできないが、
「皇室の行事」である大嘗祭については「私の考えというものもあってよいのでは」と前置きして持論を述べている。
これについて河西秀哉氏は、「政府の決定に公の場で異論を唱えており不適切だ」と明確に否定している。

他方、横田耕一氏は「憲法の制約を受けるのは天皇のみで、皇族は政治的発言が可能」という。
しかも、今回の発言は決定済みのことについての意見で、問題ないとする。
山本宮内庁長官が「政治的発言ではない」としているのも同じ意味合いのようだ。
秋篠宮さまを含め、天皇家の人々は、まともな感覚を保持している人たちだなあとつくづく思う。
象徴天皇の代替わりという国家的な行事に対応するのは「即位の礼」であって、大嘗祭などの宮廷行事は宗教的な行為。
節約という意味はむしろ副次的で、本来の行事の伝統性を厳格に守るためにも、そ
のような切り分けが必要という面もあるだろう。
2面記事の末尾には皇室担当キャップ・島康彦記者による「視点」が付いていて、
それによれば、昭和天皇は生前、内廷費を節約して積み立ててはどうかと話したことがあり、
弟の高松宮さまなどは「大嘗宮を建てなくてもいいのでは」とまで言っていたらしい。
秋篠宮さまは、宮内庁が「聞く耳を持たなかった」と言ったが、
政府は戦後ずっと、天皇家の人々からの呼び掛けに「聞く耳を持たない」状態だったとは言えまいか。
このことこそ、そうした政府の姿勢こそ、天皇の「政治利用」と見做すことも可能だろう。
秋篠宮さま自身は、来年の天皇代替わりとともに皇嗣となる身。
今回の発言は、ほとんどラストチャンスと見定めての、渾身の問題提起だったのではないだろうか。

秋篠宮さまに対して「批判的」なトーン
【読売】は1面左肩に2面の関連記事、35面に会見要旨と特集、38面にも関連記事。見出しから。
1面
秋篠宮さま53歳
大嘗祭への公費支出 疑問視
2面
秋篠宮さま
異例発言 戸惑う宮内庁
公費支出 変更せず
38面
小室さん側へ「相応の対応を」
週刊誌報道 説明求める

uttiiの眼
1面記事は「本記」的な内容だが、気になる表現があった。
秋篠宮さまが大嘗祭は絶対にすべきだが「身の丈に合った儀式で行うのが本来の姿」だとし、
「聞く耳を持たなかった」宮内庁長官に苦言を呈したとした後、
「新天皇として大嘗祭に臨む皇太子さまは、公費支出を了解されている」と書いている。
これは、「了解している」と発言したという意味だろうか。
主催者である新天皇が、政府が決めた支出に対して「了解している」という意味の発言を
敢えて行うようなことがあったのではあれば、ニュースになっていると思うが…。

2面の記事は、秋篠宮さまに対する、かなり批判的なトーンの記事になっている。
まず、宮内庁長官は「大嘗祭は皇位継承に伴う重要な、伝統的な儀式で、
平成の代替わりで様々な議論を経て公費支出が決まったと、秋篠宮さまに説明してきた」として、
政府、宮内庁側の「努力」を強調。それに納得しない頑迷固陋の秋篠宮さまという印象が
文章の裏側に滲む書き方になっている。

さらに、平成の大嘗祭に対する訴訟は最高裁の判決が確定していて、
「憲法問題は決着済みだ」と畳みかける。平成の大嘗祭の費用は22億円かかり、
「秋篠宮さまが言及された内廷会計内の貯蓄を充てても、規模の縮小など、
大幅な見直しを迫られる」とする(秋篠宮さまは「身の丈に合った」という言い方で、
まさに規模の縮小を望んでいるのだが…)。

発言の政治性についての専門家の意見も、秋篠宮さまに「同情的」という小田部雄次氏を別とすれば、
政治的な発言として問題視するという八木秀次氏、
「憲法違反とまでは言えないが、皇族の行動規範がないため、こうした発言が問題になる」と指摘したという
「別の憲法学者」まで、批判的な評価が並んでいて、「問題ない」という有力な意見が全く紹介されていない。
全体にかなりバランスを失した記事内容になっている。

問題提起は8月から始まっていた
【毎日】は1面左肩と社会面30面に関連記事。見出しから。
1面
大嘗祭に公費 違和感
秋篠宮さま「宗教色強い」
小室さん側は相応の対応を
眞子さま結婚延期
30面
秋篠宮さま 問題提起
大嘗祭へ公費 国民負担増も懸念
皇族の言動 過去にも注目
紀子さま「見守りたい」
眞子さまへの思い語る

uttiiの眼
《毎日》は比較的サラッとした報道ぶり。
実は、今年8月末に、秋篠宮さまが大嘗祭に公費を支出するべきではないという考えを
宮内庁幹部に伝えていることが分かったというスクープ記事を掲載していた。
他誌の後追いはなく、続報もなかったが、今回と全く同じ話を《毎日》が報じていたわけだ。
1面記事は、秋篠宮さまの今回の発言について、
「皇族が政府の判断に否定的な見解を公言するのは珍しい」と書いていて、
こうしたケースではつい「異例」と書きたくなるものだが、「珍しい」という柔らかい表現を選んでいる。
30面記事の大見出しは「秋篠宮さま 問題提起」となっていて、発言に理解を示す、
《毎日》の姿勢が出ている。さらにリードには、大嘗祭への公費支出について
「懸念を抱いていることは、これまでも関係者への取材で明らかになっていたが、
来年5月に皇位継承順位1位の皇嗣となる皇族が公言する意味は重い」として、
発言の意義を積極的に捉えている。因みに、「これまでも関係者への取材で明らかになっていた」という部分が、
上記した8月末のスクープに対応している。
30面記事の後段はこれまでも注目された皇族の発言のなかから、
三笠宮さまが紀元節を「建国記念の日」として復活させることに反対したこと、
三笠宮さまの長男、寛仁親王が女性・女系天皇容認論に異を唱えたこと、
そして秋篠宮さまが天皇の定年制に言及したことを挙げている。
最後に今回の秋篠宮発言についての専門家の評価として、「問題とは思わない」という高橋和之氏と、
表現に配慮すべきだったとする所功氏の意見を紹介し、バランスを取っている。

憲法上の問題はないのか
【東京】は1面トップに2面の解説記事「核心」、6面に会見詳報、31面にも関連。見出しから。
1面
大嘗祭 公費に異議
秋篠宮さま「宗教色強い」
「宮内庁、聞く耳持たず残念」
平成大嘗祭 経費25億円
皇室行事 議論深める契機(解説)
2面
政府決定に異論 波紋
秋篠宮さま大嘗祭言及
「求められる中立 慎重に」
「皇族が発言 憲法上問題ない」
31面
大嘗祭発言に識者ら驚き・評価
前例踏襲 公的祭祀化を危惧
伝統儀式 政教分離抵触せず
秋篠宮さま会見
小室さん側は「きちんと説明を」
眞子さま結婚延期巡り

uttiiの眼
《東京》は、1面記事のリード末尾で、「皇族が公の場で、政府方針に異を唱えたのは極めて異例」としている。
また末尾に編集委員である吉原康和記者による「解説」があり、
記者は「憲法は天皇の国政関与を禁じているが、皇族についての明文規定はない。
皇族も天皇に準じて政治的発言は控えるべきだとの声はある。
だが、今回の発言は、皇室行事について皇族の立場から『身の丈に言った儀式が本来の姿』との考えを示したものだ。
本来、宮中祭祀を含む私的な皇室行事の中身については、皇室自身が決めるべきだ」と秋篠宮発言に理解を示している。
至極真っ当な考え方だと思う。
2面で注目されるのは次の記述。秋篠宮さまの発言は「税の使途に厳しい目を向ける庶民の感覚に近く、
歓迎されそうだ」としている部分。
バブル経済のただ中に、22億円超という巨費を投じて行われた前回の大嘗祭のようなものを否定し、
まさしく「身の丈に合った」ものを皇室の私的な行事として行いたいという感覚は、
やはり正常なものと言えるだろう。
また、秋篠宮さまの発言には、「節約」や、「公費支出を遠慮する」感覚を読み取ることも可能だろう。
勿論、それだけではないが。
2面記事は、この秋篠宮さまの発言が憲法上問題となるか否かについて、
対立する専門家の意見を紹介している。
南野森氏は、「天皇は政治的中立性が求められ、皇位継承順位が高い皇族も同様と考えられている」としなから、
「皇室の私的行事に関係者の1人として私見を述べたことは、ぎりぎり憲法上の問題はないとの評価も可能」」とする。
しかし同時に、「皇族が政府決定に異を唱えるようなことになると、
憲法の定める象徴天皇制との緊張関係が高まるため、発言は慎重であるべきだ」と指摘したというが、
否定から肯定へ、また肯定から否定へと評価が揺れていては、何が言いたいのか分からない。

一方、園部逸夫氏は秋篠宮発言が記者の質問に答えたものである点を捉え、
「所管や感想を述べることは当然あるし、発言すべきでないというなら会見する意味がない」と分かりやすい。
さらに、《朝日》も紹介していた横田耕一氏は「政治的権能を持たない象徴天皇とは違うので、
皇族が政治的発言をすること自体は憲法上の問題はない」と言い切っている。
《東京》が紹介している専門家は、リベラルに偏っているが、その中でもかなり厳しい意見の対立がありそうだ。
天皇制にかかわる議論の細部は、依然としてかなりの程度に論争的な分野になっていることが分かる。
今回の秋篠宮さまの発言は、天皇制を巡る様々な議論の、非常に微妙なところを抉ったということだけは言えそうだ。
https://blogos.com/article/342649/

皇太子ご一家 映画試写会 猫逃げる

皇太子ご一家が映画鑑賞
2018.10.15 20:35
皇太子ご夫妻と長女の敬宮(としのみや)愛子さまは15日夜、東京・有楽町で、
映画「旅猫リポート」のチャリティー試写会に臨席された。
映画は作家の有川浩(ひろ)さんの小説を映画化したもので、人間と動物の強い絆を描いた作品。
主演を務めた俳優の福士蒼汰(そうた)さんらに出迎えられたご一家は、笑顔で言葉を交わされていた。
https://www.sankei.com/life/news/181015/lif1810150042-n1.html


皇太子ご一家が映画鑑賞 ネコが逃げ出すハプニング [2018/10/16/07:30]
皇太子ご一家が飼い猫との旅を描いた映画の試写会を鑑賞されました。
出演している猫がご一家の前から逃げてしまうハプニングもありました。
ご一家は15日午後7時ごろから、東京・有楽町で映画
「旅猫リポート」のチャリティー試写会を鑑賞されました。
この映画は猫と飼い主の旅を描いたもので、会場では日本動物愛護協会の募金活動も行われました。
鑑賞前に主演の福士蒼汰さんが出演した猫を抱いて出迎えましたが、
雅子さまや愛子さまが「可愛いですね」と猫をなでられると猫が福士さんの腕から逃げてしまい、
笑いが起こる場面もありました。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000138529.html

皇太子ご一家、チャリティー試写会を鑑賞
皇太子ご一家が、チャリティー試写会として上映された
青年と猫の絆を描いた映画「旅猫リポート」を鑑賞されました。
15日夜、皇太子ご一家が、東京・千代田区内の映画館を訪れると、
主演を務めた福士蒼汰さんが、映画に登場する猫とともに出迎えました。
ご一家は、笑顔を浮かべながら猫の口元を触り、
雅子さまが「ニャー」と猫の鳴き声で語りかける場面もありました。
映画「旅猫リポート」は、新しい飼い主を探す旅に出た青年と猫の絆を描いた作品で、
チャリティー試写会として上映されました。
皇太子ご一家は東宮御所で「セブン」という猫を飼っており、
主演した猫の名前が「ナナ」という名前だったこともあり、
上映後、愛子さまは福士さんに「お互い不思議な縁がありますね」などと話されていたということです。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3498983.html


福士蒼汰「とても光栄です」『旅猫リポート』試写会に皇太子ご一家がご臨席
2018/10/16 13:29Movie Walker
人気作家・有川浩の同名小説を、福士蒼汰主演で映画化した『旅猫リポート』
(10月26日公開)のチャリティ試写会が15日に東京・丸の内ピカデリーで開催。
皇太子殿下、皇太子妃殿下、内親王殿下がご臨席され、主演を務める福士らと共に映画をご鑑賞された。
本作は心優しいネコ好きの青年・悟と、彼に助けられた元野良ネコのナナの旅路を描いた感動作。
5年間一緒に暮らしてきたナナを、とある事情で手放さなくてはならなくなった悟は、
ナナを連れて新しい飼い主を探すための旅に出る。
ナナの声を高畑充希が演じるほか、広瀬アリスや竹内結子など豪華俳優陣の共演でも注目を集めている。
福士は主役ネコのナナと、メガホンをとった三木康一郎監督と共に
皇太子殿下ご一家のお出迎えをし、その際に福士が抱いているナナに興味を示された皇太子妃殿下と内親王殿下。
「可愛い」というお言葉と共にナナを優しくお撫でになる姿も見受けられた。
また皇太子殿下とご懇談した後、インタビューに答えた福士は
「このような機会はなかなかないので少し緊張しましたが、
一緒に映画を鑑賞することができてとても光栄です」と語る。
さらに福士は、上映前に内親王殿下から「ご自分がご出演されている映画を観るのはどんな気分ですか?」
と訊ねられたとのことで
「不思議な気持ちです。客観的に感情移入して観ることができた映画は本作が初めてだったので、
とても不思議な気分でした」と答えたという。
そして福士は上映終了直後に内親王殿下より「感動しました」とのお言葉を頂いたと明かす。
ご懇談の場では撮影時の苦労や楽しい思い出を語ったほか
「皇太子殿下ご一家が飼われているペットたちのお写真を見せていただきながらお話を伺いました」と振り返る福士。
ご一家が飼われているネコの名前が“セブン”と“みー”ということを聞き、
本作の“ナナ”と不思議な縁があることを感じたようだ。
文/久保田 和馬
https://news.walkerplus.com/article/165904/

福士蒼汰、皇太子ご一家と「旅猫リポート」鑑賞 猫トークで盛り上がる
2018年10月16日 14:30
[映画.com ニュース] 皇太子ご夫妻と長女の敬宮愛子さまが10月15日、
東京・丸の内ピカデリーで行われた映画「旅猫リポート」のチャリティ試写会にご出席された。
ご鑑賞には主演の福士蒼汰をはじめ、メガホンをとった三木康一郎監督も同席した。
本作は、「図書館戦争」シリーズや「植物図鑑」などで知られる有川浩氏の同名小説を原作に、
青年・悟(福士)が猫のナナとともに新しい飼い主を探す旅に出る物語。
ご鑑賞前には、福士と猫のナナ、三木監督によるお出迎えがあり、皇太子ご一家がナナを撫でる様子もあった。

福士は「このような機会はなかなかないので、少し緊張しましたが、
一緒に映画を鑑賞することができてとても光栄です」と感慨深げで、
「愛子さまはナナやほかの動物が登場するシーンでは笑顔になられているような場面がうかがえました。
皇太子妃殿下からは時折、笑い声も聞こえましたし、
映画の終盤では、涙をこらえているようなご様子もうかがえました」と伝えた。
鑑賞後には「愛子様より『感動しました』とおっしゃっていただきました。
そして、皆さんからは、ナナの猫の種類の話であったり、映画はどんな雰囲気の中で撮影したのかなど、
ナナの話を中心にたくさんのご質問をいただきました。
撮影の初めの頃は上手くいかないこともあり苦労したこと、
それでもナナとの仲を深めていくうちに撮影を楽しめた思い出などを話しました」と明かした。

また、皇太子ご一家が飼っている猫セブンの話題にもなったといい、
「お写真を見せていただきながらお話をうかがいました。
そして飼われている猫のお名前が『セブン』と『みー』というお話をうかがって、
愛子さまが本作の主演猫が『ナナ』なので、お互い不思議な縁がありますね、と話をしていただきました」と語った。
「旅猫リポート」は10月26日から全国公開。
https://eiga.com/news/20181016/11/

宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実

宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実
2018.10.16 07:00
平成の時代があと半年で終わりを告げる。
皇室取材を30年続けてきた、朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、
皇室の「楽屋裏」から見た秘話を通じて、平成皇室の姿を語る。

──岩井さんが宮内庁担当となったのは1986(昭和61)年でした。

そうです。皇居の守りを固める最大の門である坂下門を閉門時刻を過ぎて出入りする際には、
皇宮護衛官が2人がかりで太いかんぬきを外し、全体重をかけて巨大な扉を開けてくれます。
「江戸城開門」を実感するこの場所は、1862(文久2)年1月、
開国を進める幕府の老中安藤信正を水戸藩士らが襲った「坂下門外の変」の舞台でした。
1945(昭和20)年8月15日。玉音盤を奪い降伏を阻止しようと
近衛歩兵を率いて乱入した青年将校が切腹したのも、このそばです。

86年の夏、初めて取材した国賓の歓迎晩餐(ばんさん)会。
宮殿の豊明殿で昭和天皇と皇族方がずらりと並ぶなか、
シャンデリアに照らされた高松宮宣仁親王殿下の頬がげっそりとこけて痩せておられるのに気づいた。

皇室の取材においては、天皇、皇后両陛下の私生活を支える侍従や侍医らへの取材は欠かせません。
すぐに、肺がんだとつかめた。しかし秋には、他社も気づきはじめ、
普段は誰も取材しなかった殿下の公務にわんさか記者が群がるようになってしまった。
ご本人は苦笑いしておられましたが、痛々しかったですね。

翌87(昭和62)年2月に逝去されると、いろいろと問題が持ち上がりました。
皇族の葬儀は53(昭和28)年の秩父宮以来34年ぶり。役人も記者も経験者がほとんどいない。
双方が手探りでしたね。土日はガラガラで当直しかいない役所ですが、
ある日曜日に幹部連中がひそかに集合していた。せわしげに打ち合わせに動きまわる幹部を捕まえて、
「何事ですか」と迫った。しぶしぶ答えてくれたのは、
「シルクハットに喪章を巻くやり方がわからない」。
元内舎人(うどねり)に知っている人がいたから、ようやく解決した、と。
とんでもない役所だと思ったのを覚えています。
つまりは儀式官庁なのですね。時代が昭和から平成に移ろうとも、
天皇制の議論や日々のご公務とは別に、しきたりや作法が重視され受け継がれる。
特に、天皇、皇族方の冠婚葬祭で歴史や伝統が顔をのぞかせる。

──平成に入ると、90(平成2)年の礼宮さまの結婚、
93(平成5)年には皇太子、徳仁親王の結婚で慶事が続きました。
一方、2000(平成12)年6月には昭和の象徴たる香淳皇后の逝去もありました。

香淳皇后が亡くなったときに、皇室に受け継がれるべき作法が十分に伝わっていない、と
問題になったことがあります。

葬儀の一連の儀式では、女性皇族はベールを被ります。
皇后は腰まである長いベール。皇太子妃はこの長さ、皇族妃はここまで、とご身位が重いほど長くなる。
6月の逝去から、通夜にあたる殯宮祗候(ひんきゅうしこう)をはじめ多くの儀式が続きました。
当初、雅子さまがとても短いベールを被って来られ、違和感を覚えたことがありました。
他の女性皇族のほうが長いベールでした。(※)

赤坂御用地にある東宮御所は、ある意味で離れ小島。
皇后さまが作法に通じたベテランの女官を配属する配慮をされたのですが、
新しい女官たちに煙たがられたのか、うまく継承されていなかったらしい。
皇后は、天皇陛下の母であり昭和の時代を象徴する香淳皇后の葬儀を、
完璧に営みたいと、不眠不休で頑張っておられた。
そうしたなかで、問題が起き、雅子さまが本葬に欠席するという事態にまでなってしまった。
ベールひとつとっても、特殊なもので、たまたま高松宮妃が生地をたくさん持っておられ、
何とか間に合ったという状況でした。厳格な作法が求められる一例です。

──来年4月の天皇退位まであと半年。思い起こされるのが、
昭和から平成への代替わり間もないころに起きた皇室バッシングです。
皇后さまは1993年10月20日の誕生日の朝に倒れ、声を失う事態となりました。

「私の天皇像とは、天皇制を遂行できる天皇である。もしそれができない天皇ならば退位してもらいたい」
いまの天皇の退位をめぐる議論ではありません。

93年の「諸君!」12月号に掲載された加地伸行・大阪大学名誉教授の論文です。
平成が本格的に船出し、東南アジアや中国を訪問した時期に、守旧派は平成の皇室に対する批判を強めました。
そして、バッシングは皇后に集中していったのです。

「皇后の役目は、ダンスでもなければ災害地見舞でもない」(加地氏)
天皇、皇后は傷つき、
「だれもわかってくれないのでは」
と孤立感を抱いたようです。
ただ、皇后が倒れ声を失ったのは、バッシング報道で自らを見失い、
くずおれたという単純なものではないと、私は思っています。
「最終的な引き金は、ある親しい人の周辺からの手紙だった」と聞いたからです。
皇太子妃決定過程に関連した人の手紙の一部に傷つくような表現があったとか。
「雑誌などの平成流皇室に対する批判に苦悩する最中、
心にかけていた相手側のメッセージだっただけに、強い衝撃と絶望感で倒れた」のだそうです。
差出人を見て、十分に中身を確かめずに手紙を届けた古参侍従は、自らを責め、後悔の涙を流した、とも聞きました。
皇后が倒れた朝に公表された誕生日の文書回答で、皇后はこう記していた。
「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)
批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、
繰り返し許される社会であって欲しくはありません」

言論の自由が萎縮してはならない、と述べたのです。
「皇室の務めは災害見舞いではない」「皇居の奥で祈るだけでよい」との守旧派の批判に、
天皇、皇后は耳を傾けつつも決して屈しなかった。
その後も戦争の犠牲、災害の犠牲に現地を訪れて祈りを捧げ、
国内外の人々とふれあい、絆を結ぶことに全身全霊で努め続けた。
生前退位も、こうした象徴のありようを十全な形で次世代に継いでもらいたいとの思いからでしょう。
(構成/本誌・永井貴子)
※週刊朝日  2018年10月19日号より抜粋

https://dot.asahi.com/wa/2018101200024.html?page=1

満身創痍の皇后陛下

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

ベール事件おさらい

週刊新潮2013年5月2・9日号
「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。
7月25日には豊島岡墓地で、一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、
案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)
これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代でお棺の側に詰める
「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。
その際、妃殿下は現場で行事におけるきまりごとについて、
皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、しきたりに関するものであったという。
が、「妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです。
大勢の皇族方や職員の前で自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、
雅子妃は欠席された。
実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、念のため儀式に携わった人たちに
当日の様子を確かめたところ、そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。 

皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言

皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言
2018.10.16 07:00
「平成」の終わりまであと半年。『宮中取材余話 皇室の風』(講談社)の著者で、
朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、30年の皇室取材で見た秘話を明かす。
──温厚なイメージの天皇ですが、違う顔もある。

昭和天皇もそうだったのですが、現天皇は端然としたたたずまいと温顔ばかり知られていますが、
実は内に頑固で激しい性格を秘めている面もある。
もちろん表に出すことは絶対にないが、長年取材していると、
側近らの蒼白(そうはく)な表情から垣間見えたのです。

1986年春、美智子さまの子宮筋腫に東宮侍医たちが気づくのが遅れたとき、
病状取材で退庁時に追いかけた東宮侍医は、電車を乗り継ぎ自宅に帰るまで、
終始沈痛な顔で物思いにふけり、とうとう話しかけることもできなかったのを思い出します。
97(平成9)年、ブラジル・アルゼンチン訪問で、過密日程で皇后が体調を崩し、
帰国後にヘルペスにかかったときです。
事前の記者説明の際に私が過密さを指摘すると「そうは思わない」と発言した幹部がいて、
相棒の記者がその発言を書いた。
天皇陛下はその発言を問題にし、当時の鎌倉節・宮内庁長官があいまいな答えをすると、
「真実はひとつです」
と、報道の訂正を求められて進退きわまったこともありました。
いずれも皇后が深刻な体調不良におちいったときでした。
長官がお召しで御所に行き、蒼白な顔で戻ってきたことも何度かありました。
皇室典範論争の際に長官が以前の発言と違うことを言うと厳しく問い詰められたと聞きました。

昭和天皇が張作霖爆殺事件で田中義一首相の食言を叱責(しっせき)したエピソードは有名ですが、
これを連想したものです。

南北朝時代、北朝初代光厳天皇が詠んだ歌がある。

 ことの葉のかずかず神の見そなはばのちの世までのしるべともなれ

「綸言汗のごとし」と言われるように、天皇はうそやごまかしは絶対にできない立場で、
歴代がおのずから帯びる冷厳さなのでしょう。
これを私は「天皇のリゴリズム(修道者的な厳格主義)」と名づけています。

──侍従長や宮内庁長官をはじめ、多くの人々が皇室に仕え、支えています。

天皇が幼少のころから東宮傅育官として仕えた東園基文氏。代替わりを取り仕切った藤森昭一・宮内庁長官。
後任の鎌倉節・宮内庁長官。そして、93年に声を失った皇后を支え、
その後も皇室医務主管として天皇の心臓のバイパス手術などを支えた金澤一郎氏。
それぞれ生半可でない覚悟で、皇室を支えていました。

昭和と平成の「二君に仕えた」山本悟侍従長も、印象深い人でした。

一本気で、ときには激烈な言葉を吐く。憲法論議をすると、
「オレなんか現行憲法の下で一刻も呼吸したくないんだよ」と挑発され語り合ったこともあった。

天皇の代替わりの難しい時期に、半世紀あまり仕えた徳川義寛侍従長から、後を引き継いだ。
本人は固辞していたが、宮家筋には「いいじゃないか」と推す声もあった。
昭和天皇の戦前からの“権威”に親しんだ旧世代には、新天皇、皇后の民主的な持ち味や公務ぶりに危惧を覚え、
歯にきぬ着せぬ剛直な性格の山本侍従長にお目付け役を期待する向きもあったかもしれません。

でも、本人には、つらい役まわりでした。

代替わり後、旧東宮職スタッフが新侍従として皇居に乗り込みました。
新天皇、皇后は昭和の旧慣を改め、一般国民とひざ詰めで語らい、積極的に外国を訪問しました。
山本侍従長が腕を振るう機会は、限られていたようでした。

93年6月、皇太子さまと小和田雅子さんが結婚しました。
それから半年も経たないころ、ひどく面食らう出来事がありました。

「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と話しかけたときのことです。
しばしの沈黙のあと、山本侍従長はこう答えたのです。
「この結婚は、失敗だった」
まだ新婚の時期だっただけに仰天しました。
山本侍従長は、何も説明しませんでした。

そのあと雅子妃の「適応障害」や「千代田と赤坂の溝」が取りざたされました。
あの絞り出すような、悲痛な声は今も耳に残ります。
山本侍従長は96(平成8)年、故・秩父宮妃の一周年祭のあと倒れ、脳梗塞(こうそく)で身体の自由を失いました。

2000年7月、豊島岡墓地で営まれた香淳皇后の葬儀には、車椅子で参列。
葬場殿で、起立して柩に拝礼しようと何度も何度も懸命にもがくも、果たせず倒れ込み、
悲痛な表情で天を仰いだ姿は忘れられません。
カミナリおやじみたいに懐かしい人でありました。

──16(平成28)年。天皇陛下は退位の意向を示し、
岩井さんは、天皇陛下の生前退位を検討する政府の有識者会議の専門家ヒアリングのメンバーとして、
意見を述べました。

幼少のころから、歴代天皇の足跡について考え続けてきた天皇の考えに、
政治家も国民も追いつけなかった、という思いはあります。

守旧派の人たちは退位に反対し、天皇は高齢になっても「存在するだけでよい」と言わんばかりでした。
先述の加地氏は、今度は「退位するとは何事か」と書きました。
天皇が高齢となれば、平成の皇室が幅広く紡いできた「人々との絆」が細り途切れてしまう。
「そうなってはいけない」というのが天皇、皇后の思いでしょう。
そしてその思いに国民の9割が共感したのだと思います。
現天皇、皇后が大きく翼を広げて展開してきた、気が遠くなるほどの国民との絆。
これを次の世代がどう受け継ぐか。新天皇、皇后が直面するわけです。

08(平成20)年12月。当時の羽毛田信吾宮内庁長官は、
「将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室に関わるもろもろの問題をご憂慮のご様子」と、
天皇の心労を明らかにしました。
そのなかで、公務や祭祀(さいし)については天皇、皇后は担当者と考え続けているが、
公務見直しを求める皇太子からはいまだに具体的な提案がない、とも述べました。
あれから10年。皇太子ご夫妻はあと半年で天皇、皇后となります。
しかし、雅子さまの「適応障害」はまだ完治せず、ご夫妻が新しい皇室をどうつくるのか、よく見えないままです。
そして、皇室が抱える課題も難しい。男系男子という皇統観念にどう向き合うか。
皇位継承の先細りをどのように乗り越えるか。皇室側も国民も来年の代替わりで、
いわば漂流の時代に入る覚悟をしなければいけないかもしれない。長年見てきた記者の予感です。

平成は来年4月30日をもって終わり、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が施行されます。
秋篠宮は「皇嗣」となり、対外的には「クラウン・プリンス」の称号となります。
皇太子にのみ許される、「黄丹(おうに)」の袍を着用し、「立皇嗣の礼」で、
皇太子の証しである壺切御剣(つぼきりのぎょけん)も授与されます。
新嘗祭(にいなめさい)など宮中祭祀でも、皇太子と同様に古装束姿で賢所の殿上で皇祖神に向かう。

秋篠宮とその長男の悠仁親王が継承者として法的に確定するわけです。
そのうえで、「過去」の象徴である上皇と上皇后。「現在」の象徴である新天皇、皇后。
そして「未来を担う」皇嗣家。
その三重奏あるいは三本の矢で、危機を乗り越えていくことになるのだと思います。

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日 2018年10月19日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2018101200025.html?page=1

秋篠宮摂政論

「秋篠宮摂政論」に皇室事情通「最も現実的な選択肢」と評価
2013.06.18 07:00
去る6月9日、皇太子殿下と雅子妃が成婚20年を迎えた際、
両殿下は文書で発表した「ご感想」の中で次のように述べた。
「雅子につきましては、療養が長くなり、ご心配をいただいていることと思いますが、
お陰様で、以前と比べ大分元気になったように思います」
当日のテレビ報道の多くは、雅子妃が11年振りの海外公式訪問となるオランダ訪問(新国王即位式への参列)
を果たしたことなどを取り上げ、回復ぶりを強調した。
だが、宮内庁周辺にはその祝賀ムードとは裏腹の動きがあると、宮内庁関係者が明かす。
「実は宮内庁内部や一部の宮家関係者などの間で、将来、両殿下が天皇皇后になられた際、
雅子妃の公務負担を軽減するため、秋篠宮殿下に摂政に就任していただくべきだとする意見が出ているのです」
皇室に詳しいジャーナリストは、その背景をこう説明する。
「オランダから帰国後、期待された雅子妃の公務による外出がただ一度に限られ
(故ェ仁親王喪儀墓所一周年祭の儀に参列)、被災地訪問の計画も先行き不透明な状況から、
やはりご病状の回復はなかなか難しいという認識がある。
その一方、精力的に公務に励まれる秋篠宮ご夫妻の存在感が、必然的に高まっている」
そうした現状を背景に浮上したのが「秋篠宮摂政論」である。皇室制度に関する有識者ヒアリングに出席するなど、
皇室に詳しい八木秀次・高崎経済大学教授は、「いま考えられる最も現実的な選択肢だ」と評価する。
「宮内庁内で検討課題になっていなければおかしい話ですが、
これまでは選択肢の一つとして話すこと自体、タブーとされてきました。
しかし、いまやこれに関する議論を避けてはいけない。
歴史上、天皇皇后両陛下が一緒に行動することは必須ではありませんでしたが、
その当時の皇后のお務めを果たしていた。たとえば香淳皇后も、
昭和天皇の巡幸や外国からの国賓を招いた晩餐会のときには同席されることがほとんどでした。
まして平成においては皇后陛下の存在感は増し、
被災地などへ両陛下揃ってのご公務というスタイルが定着し、国民から支持されています。
だとすれば、雅子妃が療養を続けたまま皇太子殿下が天皇に即位された時、ご夫妻が十分に天皇皇后として
お務めできるだろうか、という懸念が国民から出てくるのは当然です。
そのとき、秋篠宮殿下が摂政としてサポートできれば、状況はずいぶん改善されるのではないか」
例えば、ある国にはご夫妻で訪問するのに、別の国にはおひとりで訪問するとなれば、
相手国から見れば不公平との憶測も呼びかねない。
実際、皇太子夫妻でのオランダ訪問後、皇太子の単独訪問となったスペインのメディアは、
「皇太子はまた一人になった」「雅子妃は再び檻に戻り悲しんでいる」(エルパイス紙)などと書き連ねた。
「代わりに秋篠宮ご夫妻が訪問したとしても、一宮家の立場だと格が下がってしまう。しかし、
摂政宮とその妃という立場ならば重みが生まれ、相手国の受け止め方も変わってくるはずです」(前出・八木氏)
※週刊ポスト2013年6月28日号
http://www.news-postseven.com/archives/20130618_194660.html


秋篠宮摂政論への期待 皇室が近代では異例の状態にあるため
NEWS ポストセブン 6月19日(水)7時6分配信
いま宮内庁内部から「将来、両殿下が天皇皇后になられた際、雅子妃の公務負担を軽減するため、
秋篠宮殿下に摂政に就任していただくべき」とする意見が出ているという。
「秋篠宮摂政論」が論議される背景には、「天皇皇后の健康問題」という避けては通れない事情がある。
昨年2月に心臓の冠動脈バイパス手術を受けた天皇は「手術前より元気になられた」という見方もあるが、
79歳という高齢である。さらに最近、78歳になった皇后が公務を休まれるという異例の事態もあった。
「皇后陛下は大変我慢強く、極めて責任感の強いお方です。その皇后陛下が公務をお休みになる、
しかも当日になって発表されるのはよほどお辛かったからではないでしょうか」(宮内庁関係者)
その状況下で、一部ではさらに踏み込んだ意見も飛び出している。「今すぐ、秋篠宮殿下を摂政に」と唱えるのは、
元内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長で、昭和天皇の大喪の礼の警備担当実行委員も務めた佐々淳行氏である。
「本来、両陛下に代わって公務を行なうべきは皇太子ご夫妻ですが、残念ながら雅子妃はご病気のために
十分な役割を果たせず、皇太子殿下も雅子妃のご病気のことで目一杯になられている。ならば、雅子妃には
今は徹底して療養していただき、皇太子殿下もそれに専念なさるほうがいいのではないでしょうか。
その間、秋篠宮殿下に摂政をお任せしてはいかがでしょうか」
確かに天皇皇后の公務削減は喫緊の課題であるが、東日本大震災の被災地・被災者お見舞いをとってみても、
皇太子夫妻がこれまで5日(皇太子単独が2日)に対し、
秋篠宮夫妻は13日と、秋篠宮夫妻の公務への取り組みが目立っている。
だが、今すぐ――すなわち今上天皇から皇太子へ皇位継承が行なわれる前に、秋篠宮が摂政に就任するには、
就任の事由に加え、本来摂政になるべき順位で上にある皇太子との間で、就任順位まで変える必要が生じるなど、
さらにハードルは高まり、現実的には難しく、かつ反発も強い。
しかし、「秋篠宮摂政論」の是非や実現性はともかく、皇室の将来が皇室内外で真剣な議論を呼んでいる現実がある。
宮内庁担当記者が明かす。
「実は、昨年2月に天皇陛下が手術を受けて以降、月1回のペースで、皇居内で天皇陛下、皇太子殿下、
秋篠宮殿下の御三方に宮内庁長官を加えた会合が行なわれている。
そこで話し合われているのは、被災地のお見舞いスケジュールだけではないはずです。
皇太子殿下が天皇に即位した場合、雅子妃は皇后としてどれだけの活動ができるのか、あるいは秋篠宮殿下が
天皇となった皇太子殿下をどう支えていくのか、さらに今後の皇位継承や皇室の在り方をどうしていくか、
といった重大なテーマについても、話し合われているのではないでしょうか」
秋篠宮はあくまで兄である皇太子を陰から支える姿勢を一切崩していない。それでも周囲が摂政になるのを
期待してしまうのは、現在の皇室が近代では極めて異例の状態にあるからだ。
皇室に詳しい八木秀次・高崎経済大学教授が話す。
「将来の皇位継承者が悠仁親王しかいない以上、これまでの皇室制度とは違った前提の議論を展開する必要が
あるはずです。江戸時代の光格天皇(在位1780〜1817年)以降、父から子への皇位の直系継承が続いており、
兄から弟の系統に皇位が移るような傍系への皇位継承は、数百年ぶりになる。現状の皇室典範も皇室のあり方も、
父子間の継承しか想定されていない。議論の前提が変わったことを認識したうえで、
さまざまな選択肢を検討する必要があるのではないか」
皇室が歴史的な転換点に立っていることは間違いない。
今、皇室の将来について国民も真剣に考えるべき時がきている。
※週刊ポスト2013年6月28日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130619-00000011-pseven-soci

愛子さま高等科運動会

愛子さま 高校初の運動会「ドリブル競争」で悔し涙
2017.10.06 07:00

朝からさわやかな秋晴れが広がった9月30日、学習院女子中等科・高等科合同の運動会が開催された。
年に1度のイベントに胸を高鳴らせる生徒たちに交じって、愛子さまが登校されたのは午前8時20分頃。
髪を後ろで1つに結ばれ、通学かばんと手提げバッグを持たれた愛子さまは、
軽やかな足取りの一方、両ふくらはぎに巻かれたテーピングが目を引いた。
「9月上旬から、運動会に向けて始業前に練習が行われ、
愛子さまも、普段より1時間以上早く登校されていました。
猛特訓を積まれたため、少し足に負担もかかってしまったのでしょう。
昨年、愛子さまはこの時期に長期欠席されており、運動会に参加できませんでした。
それだけに、より強いお気持ちがあったのかもしれません」(皇室記者)

愛子さまに遅れること20分ほどで、皇太子ご夫妻も観戦のため到着。
グレー系のお召し物でトーンを合わされたご夫妻はテント席に着かれ、ちょうど9時に開会式がスタートした。
午前の部で愛子さまが出場されたのは、クラス対抗の玉入れだった。
「高校生になって初めての運動会とあって、愛子さまは大はりきり。身振り手振りをされながら、
クラスメートと楽しそうに作戦を練られていました。
ときおり、両手で『ゲッツ!』のようなポーズをされて、
ふざけ合っている様子も微笑ましかったです」(学習院関係者)

皇太子ご夫妻は、交互に双眼鏡を覗かれながら愛子さまに声援を送られていた。
お昼をはさんで、午後に愛子さまが登場されたのは「ドリブル競争」。
バスケットボールをドリブルし、ゴールを決めたらまたドリブルで戻って
次の人にパスするというリレー形式のレース。
各学年の代表者が20人ほど出場し、中等科1年〜高等科3年までの学年別6チーム対抗で
争うもっとも盛り上がる競技の1つだ。
「愛子さまは高1チームの11番目の走者としてパスを受けました。
トップも狙える位置につける接戦で、見事に1回でゴールを決めました。
うしろのメンバーにボールを託すと、愛子さまは祈られるような仕草を見せられていましたが、
チームはだんだんと遅れをとってしまい、結局4位でゴール。
その結果がよほど悔しかったのでしょう。愛子さまは、しゃがみこんで泣いていらっしゃいました。
それだけ練習を頑張ってきたということでしょう。
愛子さまは、一緒に涙を流すチームメートと手を握ったり、
背中をさすったりと、健闘をたたえ合われていました」(前出・学習院関係者)

1学期には授業を欠席されることもあった愛子さまだが、
夏休みが明けてからは、ほぼ毎日元気に登校されているという。
生活の充実ぶりは、学校行事以外でも見られた。
「9月26日、愛子さまは皇太子ご夫妻とご一緒に、
新任皇宮警察官の会釈に参加され、ご挨拶されていたようです。
体調やお気持ちが安定されていることが伝わってきます」(前出・皇室記者)
運動会の一日を、文字通り駆け抜けられた愛子さまの表情は、天の高い空のように晴れやかだった。
※女性セブン2017年10月19日号
http://www.news-postseven.com/archives/20171006_619084.html