悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問

悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問
半藤一利スペシャルインタビュー
2019年06月21日

https://friday.kodansha.co.jp/article/53220

「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、
『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、
わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。
だって相手は小学校6年生の坊やですよ。
そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。
だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」
秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。
その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。
秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「終戦記念日」だったのは、偶然ではないのだろう。
平成から令和へと新時代を迎えた今、半藤氏がその日のことを本誌に明かした。
「最初に秋篠宮父子にお会いしたときに言ったんです。
私は東京下町生まれなものですから、”ひ”と”し”が上手く発音できません。
だから悠仁っていう御名前はすごく言いづらい。
『しさしと』になっちゃうんで、今日は殿下、と呼ばせていただきます、ってね。
持ち時間は2時間半だったんだけど、太平洋戦争についてさわりの部分で1時間話しました。
私が話したことのひとつは、私たちの国は、”内陸に乏しい”ということです。
北の北海道から南の沖縄まで、長〜い海岸線を持っていて、
海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。
ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、
国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。
そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。
要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。
さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。
こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。
こう話したら、同席していた父の秋篠宮が、幼い殿下に『地政学』とはこう書くんだよ、
と紙に書いて教えてあげていましたね」
休憩時間になり、紀子妃が淹(い)れてくれたお茶を飲みながら半藤氏が「質問がありますか?」と聞くと、
悠仁さまは手を挙げて「アメリカはなぜ広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?」と質問した。
「質問を受けて、これはなかなか難しいぞ、と思いながらも丁寧に答えましたよ。
細かいことは忘れてしまいましたが。
あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。
ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています」

父・秋篠宮からも質問が
悠仁さまへの説明を終えた時、今度は父の秋篠宮が「私からも、質問をいいでしょうか?」と切り出した。
「彼は私の著書を読んでいて、統帥権(とうすいけん)について、
もう少し詳しく教えてください、と言われたんです。
統帥権は非常に難しい概念です。日本国憲法施行までの大日本帝国憲法は、明治22年に公布されています。
ですが、『軍人勅諭』の原形ができるのは明治11年。憲法より11年も前なんです。
そこには大日本帝国陸海軍は大元帥である天皇直属の軍隊である、とあり、
大元帥(=天皇)の指揮権を統帥権と言ったのです。
つまり、軍隊は後から成立した憲法の埒(らち)外にあると、少なくとも一部の軍人どもは考えた。
明治から戦前の時代は、一人の中に天皇陛下と大元帥陛下という二つの役割があり、
これが日本という国を非常に難しくしていたんです。
統帥権にまつわるややこしい話、当時のさまざまな事例を理解してもらうため、
結局、後半の1時間半は、私と父宮との会話になりました。
それでも殿下は、居眠りもせずじっと傍らで聞いていましたよ」

このように秋篠宮父子が近現代史の教師役として半藤氏を招いた背景には、
半藤氏が戦争体験者として過酷な少年時代を過ごしたことも影響しているだろう。
半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれている。
その翌年には満州事変が勃発、次第に日本は軍靴の音が高く鳴り始めていった。
昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。
「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。
「そんな父の影響もあって、旧制中学に進学しても、私は軍人の学校には一切行かないと決めていた。
周囲はやれ陸軍幼年学校だ、少年航空兵だと熱に浮かされていたので、
『オマエは非国民だ』とよく罵(ののし)られたものです」
半藤少年の思惑をよそに戦況は悪化の一途をたどる。そして14歳だった昭和20年3月10日。
東京大空襲で下町は、すさまじい火炎に包まれた。
「焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。
空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。
防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。
蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。
それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。
これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。
そうやって死体を運び出していたら、2時間ぐらいで警防団の大人たちに
『お前たち、もうやめろ。これは大人の仕事だ。帰れ』と追い払われた。
帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。
ただ、もっと死体処理を続けていたら、今でいうトラウマになったかもしれません。
だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、到底口にできませんでした。
話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を聞くようになったからです。
旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、
それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。
初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。
ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、
コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。
それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。
それで言い返すようになった。
『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。
そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。
戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かなりの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。
本人が言っているんだから間違いない、なんてことはないんですよ。
誰だって自分を守りたい。それを忘れちゃいけません。
私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。
気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、
人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。
あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。
麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。
ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。
最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」
半藤氏は自戒をこめて、こう語る。

国際連盟を脱退して以来、日本には外交なんて一度もない
戦争をしてはならない、と繰り返す半藤氏は、同時に戦争へと引きずられないためにいかに外交が必要かを説く。
「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。
昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、
日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。
昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。
それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、
もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。
だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。
北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、
樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、
実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。
『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。
俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。
千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。
榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。
榎本が行ったことこそが外交というものです」

太平洋戦争から74年。昭和から平成へと、曲がりなりにも日本は平和を保ってきた。令和の世はどうなるのだろう。
「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。
『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? @アメリカ Aドイツ B旧ソ連 Cオーストラリア』
そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。
次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。
しかもその一人が手を挙げてこう言った。
『で、どっちが勝ったんですか?』
こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。
これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」
『FRIDAY』2019年6月28日号より

新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」

2019.06.01
新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」
二重権力、三重権力が現れる可能性
原 武史

新天皇・皇后の地方公務デビューが、6月2日に愛知県尾張旭市で開催される「第70回全国植樹祭」だ。
この行事から読み解ける「令和流」の天皇像とは、いかなるものなのか?
令和の幕開けに際し、放送大学教授・原武史氏が「象徴天皇」の過去と未来について語る特別インタビュー。
(取材・構成:伊藤達也)

早くも示された「平成流」との違い
徳仁天皇は今回、雅子皇后と共に6月1日に東海道新幹線で愛知県入りし、
あま市の伝統工芸施設を視察。翌日に全国植樹祭の式典に出席した後、
肢体不自由児などの医療・療育施設を視察し、帰京するという日程になっています。
私は改元前から、新天皇として初めての地方訪問がどのようなかたちで行われるか注目していました。
毎年5月ないし6月の植樹祭への出席は、明仁天皇が昭和天皇から引き継いでいた恒例行事ですから、
おそらくそれが初めての地方訪問になると考え、情報収集も行っていました。

その上で、前述の日程が判明したとき、以前から抱えていたある予測に確信を得ました。
つまり、新天皇は、「平成流」をそのまま引き継ぐことはしない――ということです。
まず私が得心したのは、この地方訪問が、1泊2日の日程で行われるという事実についてです。
「平成流」においては、式典への参加を目的とした天皇皇后の地方訪問は、
社会福祉施設などへの訪問とセットであり、それは令和でも引き継がれるようです。
ただし従来であれば、この日程なら2泊3日か3泊4日が通例でした。
例えば明仁天皇の最後の植樹祭訪問としてニュースになった、昨年の第69回ふくしま植樹祭への参加は、
6月9日から11日の3日間で日程が組まれていました。
このときは福島での開催ということもあり、植樹祭の前後には復興住宅への訪問や震災慰霊碑への訪問、
供花などの公務も行っています。福島ゆえに3日間だったわけではなく、
平成の間の植樹祭訪問は、平成元年の徳島開催、平成8年の東京開催、平成23年の和歌山開催を除けば、
すべて3日以上の日程が組まれています。

もちろん、平成になって初めての植樹祭訪問も1泊2日でしたので即断は避けるべきでしょうが、
今回の日程は、新天皇皇后の初めての地方訪問にして、早くも平成との違いを示しているように見えます。
宮内庁はそのことを承知しているからこそ、
5月の発表時に「皇后さまのご負担を考慮した」とわざわざ説明したのです。

明仁天皇と徳仁天皇の「性格の差」
天皇・皇后は6月1日に新幹線で愛知県に入り、2日には中部国際空港から特別機で帰京する予定になっています。
専用車で中部国際空港まで直接行き、羽田空港から再び専用車に乗り、赤坂御所に帰るとすれば、
名古屋から東京まで新幹線に乗るのと比べて、国民の目に触れる機会も自然と限られてきます。
平成に比して、国民に接する時間はきわめて短くなっていると言えるでしょう。

単純に考えれば、その違いは、美智子皇后と雅子皇后の体調面での違いに起因するでしょうし、
もちろん、良し悪しを判断すべき性質のものでもありません。
ただし、令和においては「平成流」がそのまま受け継がれるわけではないであろう、
ということは確かに言えるのです。

もうひとつ私が着目しているのは、明仁天皇と徳仁天皇との「性格の違い」です。
明仁天皇の言動は、倫理的で実直です。
「平成流」の天皇像が、国民の敬意によって裏付けられていたのは、こうした性格ゆえもあるでしょう。
ただ、ユーモアがある印象は薄い。
口数の少なかった昭和天皇ですら、園遊会で柔道家の山下泰裕氏に
「柔道は骨が折れますか」と尋ねるようなユーモアがありましたが、
明仁天皇にはそうしたエピソードがあまりありません。
また、地方訪問で国民と対話する姿が印象に残っていますが、
実はこの「天皇と国民が相対する」状況を作り上げるには、膨大な警備コストがかかっていました。
「親しみやすさ」を担保するために、その裏では厳戒態勢が敷かれていたのです。
徳仁天皇はそれに比べると、普段の言動にもユーモアが感じられます。
柏原芳恵のファン、ウルトラセブンが好き――そのようなエピソードが
このひと月あまり頻繁に報道され、徳仁天皇を身近に感じた人も多いでしょう。

「軽やかな天皇」の前例
象徴的なのが、徳仁天皇の「登山好き」です。テレビでも盛んに映像が流されていましたが、
雅子妃や愛子内親王と連れ立って那須御用邸周辺の山に登り、すれ違う一般の登山客と気さくに挨拶を交わす。
上皇になってからも、厳重な警備の上での「お忍び」が報じられている明仁上皇とは、かなりの違いがあります。
天皇ともなれば、そんな気軽な言動は難しいのでは――と思われるかもしれません。

しかし、明治以降の天皇の歴史を眺めてみれば、
軽やかな「人間らしさ」を持った天皇もいたのです。
大正天皇です。
政治状況もあって在位時から「神格化」が推し進められた明治天皇に対して、
大正天皇は皇太子の時から、自由な言動を繰り返しました。
旅行好きでもあった大正天皇は、皇太子時代に沖縄県を除く全道府県と大韓帝国を回り、
それに伴って福島県の霊山や京都府の成相山、香川県の屋島や象頭山など、各地の山にも登っています。
また兵庫県では軍事演習の合間に突然旧友の家を訪問するなど、スケジュールも気にしなかった。
天皇になってからも、皇后と一緒に葉山や日光の御用邸に1ヵ月も2ヵ月も滞在し、
ヨットや馬に乗る生活を続けました。
しかしこの「大正流」は、天皇の権威を求める人々には都合が悪かった。
明治天皇と同様の天皇の役割を押し付けられた大正天皇は、次第に体調を崩してゆき、
最終的には引退させられました。
その後「大正流」が引き継がれることはなく、
昭和になると逆に天皇の神格化が図られた経緯は、ご存知のとおりです。

もし「大正流」が引き継がれていたら、天皇像は大きく変わっていたでしょうし、
もしかすると昭和の歴史も大きく違っていたかもしれません。
しかし、昭和の反省から「平成流」を徹底した明仁天皇が、「大正流」に倣ったかといえば、そうではなかった。
あくまでも自らの考えに基づいて「象徴」を定義したものの、それは大正流の「人間らしさ」とは異なるものでした。
でなければ、2016年の「おことば」を受けて
「これは天皇の人間宣言だ」などという世論の反応は生まれなかったはずですから。

「令和流」の鍵を握る雅子皇后
私には、上皇亡きあとに本格的に現れるであろう「令和流」の天皇像が、
「平成流」よりはむしろ「大正流」に近いものになるのではないかという予感があります。
「平成流」を引き継ごうにも、雅子皇后の行幸への完全同行の難しさ、
また宮中祭祀へのコミットメントの低さもあり、必ずしも平成と同じ「象徴としての務め」が果たせるとは限らない。
そうした制限の中で、新時代の「象徴天皇」を自分で作り上げるという意識が、
徳仁天皇にはあるのではないかと思うのです。

その意味で、今後の地方訪問、宮中祭祀には注目しています。
今回の植樹祭に続いて注目すべきは、新天皇・新皇后として初めての定例の宮中祭祀となる、
6月16日の香淳皇后例祭です。
代替わりはしたものの、宮中祭祀の体系は平成と基本的に変わらないようですが、
皇太子妃から皇后へ立場が変われば、祭服も変わるなど、負担も違ってきます。
ここに雅子皇后が出席するか、そしてどう祭祀と向き合うか。
より突っ込んだ議論をするのであれば――
むしろこうした歴史的事実がここまでないがしろにされていることのほうが問題なのですが――
宮中祭祀の中には、皇室に代々受け継がれてきた伝統ではなく、明治以降の「作られた伝統」も少なからずあります。

例えば神武天皇祭は、歴史上は実在しない神武天皇の命日である4月3日と定められている。
歴史学者でもある徳仁天皇や、外務省のキャリア官僚だった雅子皇后が、
そこに疑問を呈してゆく可能性も考えられます。
「良妻賢母」の役割を担い続けた美智子上皇后と、キャリア官僚を経て皇太子妃となり、
皇室に入ったあと「適応障害」に苦しんだ雅子皇后とでは、考え方や人生観も大きく異なるはずです。
それに、女性の権利向上がこれほど叫ばれる時代に、世の女性たちや世論がこの先も黙っているでしょうか。
この論点は、これから徳仁天皇と雅子皇后がどのような「令和流」を打ち出すか、ということとも関係してきます。

グローバル化と登山
まず想定されるのは、皇室のグローバル化です。
まだ体調の問題があるとはいえ、元外交官という雅子皇后の経歴から言っても、
海外訪問はいずれ行いたい行事の一つでしょう。
明仁天皇と美智子皇后は、太平洋戦争末期に米国と戦って敗れた南方の島々への
「慰霊の旅」を戦略的に行ってきましたが、こうした点でも違いを出してくるかもしれません。

例えば地方訪問に合わせて、式典や施設訪問の合間に登山の予定を入れ、
そこで一般国民と交流を行えば、「平成流」との違いは明らかになります。
こうした「平成流」との違いがどのようなタイミングで打ち出され、またどのような世論の反応を生むのか。
ここでひとつ懸念されるのは、徳仁天皇が登山した場合、保守派に利用されるかもしれないことです。

一見すると登山はカジュアルな趣味に見えますが、天皇が行う場合は「国見」、
つまり「高い所から国土を望み見る」という古代天皇の行為になぞらえることもできるからです。
歴史や素朴な信仰が絡み合って、保守派の期待を裏付けるような論説も今後出てくるかもしれません。
もちろん、新天皇が築いてゆくであろう令和の新たな「象徴天皇」像をどう評価するかは、国民にかかっています。
ただ、正しい評価をするためには、「平成流」を作り上げた明仁上皇・美智子上皇后の足跡や意図、
また明治以降の天皇の歴史について今一度振り返り、考察を深める必要があります。

どうして天皇や皇室について深く考えなければならないのか。
それは、令和の時代には、皇室内部の権力構造が大きく変化することが予想されるからです。

上皇と天皇「権力の二重性」
明仁上皇が、改元前日の4月30日に発表した天皇としての最後の「おことば」は、非常に簡潔な内容でした。

〈今日を持ち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。
象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、
ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります〉

必要最低限の言葉を並べただけにも見えますし、世論はその簡潔さを讃えもしました。
しかし私は、この言葉には「新天皇に『象徴としての務め』を引き継いでほしい」という願いだけでなく、
「退位して上皇になっても、私は『象徴としての務め』のひとつである
『国民の安寧と幸せを祈ること』をずっと続けてゆく」という思いが込められているのではないか、とも感じます。

もし、雅子皇后が公務を十分に果たせないまま、
上皇上皇后が「祈ること」の一環として八王子市の武蔵陵墓地を参拝したり、
私的な外出を続けたりすれば、「平成」と「令和」の区別は曖昧になります。
「平成流」に慣れ親しんだ国民からは、天皇皇后に対する疑問の声があがるかもしれない。
雅子皇后にとっては、美智子上皇后と比較されるプレッシャーが、皇太子妃時代よりますます強くなる恐れもある。
こうして上皇・上皇后への敬意が高まってゆくとすれば、そこには「権力の二重性」が現れることになります。

秋篠宮とのバランス
加えて、徳仁天皇と比べても、「宮中祭祀と地方訪問」という
「平成流の象徴としての務め」に親和的なのが、皇嗣となった秋篠宮です。
秋篠宮は昨年、宮中祭祀について「大嘗祭は国費ではなく皇室の私的活動費を使うべき」と述べ、
さらにこの問題について宮内庁が皇室の意見に耳を傾けなかったことに
「すっきりしない」「非常に残念」と強調するなど、積極的に発言しています。
言うまでもなく、秋篠宮は皇位継承順位第1位の皇嗣であり、その長男である悠仁親王が同第2位です。
いまでこそ眞子内親王の件でバッシングを浴びていますが、
天皇皇后よりも「平成流」を踏襲しているように見える皇嗣皇嗣妃や、
現在のところ「未来の天皇」である悠仁親王に、しだいに国民の期待が集まってゆくという事態も予想できます。
さらに複雑なことに、ここには天皇皇后が「将来、皇室典範を改正し、
愛子内親王に天皇になってほしい」と考えるかどうか、ということも絡んできます。
つまり遠からぬ将来、「天皇・皇后」「上皇・上皇后」「皇嗣・皇嗣妃」という、
「三重権力」の構造がこの国に現れることも、十分に考えられるのです。

その時に国民は冷静な議論ができるのか。識者は質の高い論説を提供できるか。
学者ですら大半が天皇の政治性や権力という側面に目をつむり、
語ろうとしない現状はあきらかにおかしいし、危険であると私は考えています。
「お祝いムード」に浮かれるのではなく、歴史の境目にいる今こそ、
日本人は自らの天皇観を見つめ直すべきだと思うのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64834

秋篠宮家バッシングは陰謀か?「愛子天皇」待望論者のカンちがい

秋篠宮家バッシングは陰謀か?「愛子天皇」待望論者のカンちがい
倉山満
2019年05月27日 08時30分 SPA!

― 連載「倉山満の言論ストロングスタイル」―

◆皇室を考える大原則は三つ。先例、男系、直系だ。この順番を間違えてはならない
明治以来、改元の年には政変がある。既に、不穏な空気が漂っている。
日本が日本であるとはどういうことか。皇室が存在することである。
公称2679年、一度も途切れることなく皇室は存在してきた。
昨日と同じ今日を続けてきた。これを明日も続けるかどうか。
13歳の少年にのしかかっている。命の危険にさらされながら。

新帝践祚直前の4月26日、悠仁親王殿下がお通いになる中学校で事件が起きた。
賊が教室に侵入し、殿下の机に刃物を置いていった。
皇室の歴史を少しでも知っている者なら直感したはずだ。
殿下を脅迫している、と。「お前は皇位を辞退しろ」との脅迫だ。

これは散々、藤原氏がやり尽くした手口だ。藤原氏は権力を維持するために、
あらゆる手段で意に添わぬ天皇を引きずりおろした。また、皇太子の地位も、拝辞させた。
三条天皇などは藤原道長に痛めつけられて遂には失明にまで追い込まれ、退位を余儀なくされた。
刃物を突き付けるなど序の口、日本を亡ぼしたい勢力は今後も悠仁親王殿下に圧力を加え続けるだろう。

昨年から、秋篠宮家バッシングが勢いを増している。
同時に、女系・女帝・女性宮家への流れを作ろうとしている。
きっかけは「お婿さん問題」だが、本質は違う。皇位を秋篠宮家に渡さない陰謀だ。

◆「女帝」と「女系」の違いもわかってない
現状では、天皇の皇位継承順位第一位は秋篠宮殿下、第二位は悠仁親王殿下だ。
何十年後か、悠仁親王殿下が即位あそばされた暁には、これまで一度も例外なく守られてきた男系継承は続く。
問題はその時に他の皇族がいなくなるので御世継問題が重要となるのだが、それは別の話。
ところが、悠仁親王殿下がおわすのに「愛子天皇」待望論を唱える輩が後を絶たない。
一知半解の論者が「女帝は先例があるから良いではないか」などとゴリ押しするが、そういう問題ではない。

皇室を考える大原則は三つ。先例、男系、直系だ。この順番を間違えてはならない。
仮に「愛子天皇」が実現したとしよう。かつて「即位を男女で分けず年齢順とすべし」との提言がなされた。
それに従えば、悠仁親王殿下の皇位継承順位は、
「愛子天皇」が実現した場合は眞子内親王と佳子内親王に次ぐ第三位に落ちる。
のみならず、愛子天皇の次の皇位はどうなるのか? 同世代の四人のどの系統の方が継がれるのか?

仮に「愛子天皇」のお子様が継がれたとしよう。皇位の直系は愛子天皇の家系に移る。
配偶者が民間人の場合、その子が継げば王朝交代である。
これが女系天皇だが、こんなことが許されるなら弓削道鏡は称徳天皇と結婚して、
自分の子供を天皇にすればよかったことになる。皇室の歴史では一度も許されなかった先例破りだ。
こういう掟を無視するから、女系論は論外なのである。
女系論者は、先例と男系を無視して、直系だけ言うから意味不明になる。

◆秋篠宮家から皇位をとりあげようとする陰謀?
なお見落とされがちだが、「愛子天皇」の配偶者が皇族だった場合にも問題がある。
現に、旧皇族家の子孫の方々に親王宣下し、愛子様と結婚していただこうとの声もある。
確かにその場合、愛子様と親王殿下のお子様には皇位継承資格がある。
だが、悠仁親王殿下がおわすのに、何を差し置いて「愛子天皇」待望論なのか?
その子に皇位を継がせようとは、秋篠宮家に皇位を渡さない陰謀ではないか。

女系は論外としても、悠仁親王がおわす時点で女帝を言うとは、秋篠宮家から皇位をとりあげようとする陰謀だ。
皇位の直系は今上陛下から悠仁親王殿下に移る。
その時、皇族が一人もいなくなるので、愛子様、眞子様、佳子様、
そして親王宣下が待たれる旧皇族家の方々が一丸となって皇室を支えねばならないのだ。
令和の時代に再び壬申の乱を起こすような真似は慎むべきだ。
今の時点で女帝を言うのも既に悠仁親王殿下に対して失礼なのだが、
皇室の歴史において論外の女系論が勢いを増している。

◆一部、男系論者のカルトぶりがエスカレート
これは、男系論者の一部に責任があると断定せざるを得ない。
ある者は、日本国憲法と外国の王室だけで皇室を語っている。皇室の歴史など無視だ。
長い皇室の歴史を持ち出せば、官僚がやりたい放題できる今の「天皇ロボット説」が否定されるからだ。
こういう者は衣の下から鎧が透けて見えるので、普通の日本人からは白眼視される。

またある者は、皇室の尊さの根拠を「Y染色体遺伝子」に求める。
真顔で「男系とはY染色体遺伝子の継承だ」などと言い出す。正気ではない。
皇室の歴史は遺伝子の発見どころか、アルファベット以前からだ。
ついでに言うと、すべての女帝に「Y染色体遺伝子」は無い。
こんな人物が男系継承派の代表としてテレビに露出するなど、女系派の陰謀ではないかと勘繰りたくなる。
これでは、男系論がいかがわしく思われてしまう。

しかし、一部男系論者のカルトぶりは、留まるところを知らない。
インターネットでは、「皇太子(今上陛下)よりも皇室の血が濃い男系男子がいる」
などと拡散している御仁がいた(ジャーナリストを自称している)。
最初は何を言っているのか理解できなかったので、
日本語の意味だけを読んで「皇太子殿下は天皇陛下の実子ではない」と言いたいのかと思ったが、
その失礼さは予想の斜め下だった。
父母及び四人の祖父祖母が全員皇族であり(母方の祖父が昭和天皇)、
母方の曽祖父が明治天皇である東久邇宮信彦殿下のことを言いたかったらしい。
要するに、信彦様の子孫が「皇太子(今上陛下)より血が濃い」のだそうだ。
この人物、自分で「男系絶対」を言いながら、美智子皇太后陛下が皇族の出身ではないからと
今上陛下は「血が薄い」と貶めているのだ。論理破綻だ。

そして、SPA!に東久邇家の系図を載せたのを「自分の本から盗用した」と扶桑社にまで抗議電話をかけてきた。
東久邇宮家の家系図は自分の持ち物だと言いたいのか。

なお管見では、この家系図の初出は、所功・高橋紘『皇位継承』(文春新書、1998年)である。
同書は皇室論議のきっかけとなった話題作である。また、この家系図は、その後も何人もの論者が使用している。

女系天皇は論外だが、一部男系のカルトがマトモな人間をそちらに追いやっているのは、由々しき事態だ。

【倉山 満】

https://news.nifty.com/article/magazine/12193-286891/

「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか
2019/05/01
倉山満(憲政史家、皇室史学者)

まず、皇室に関して最も大事な三つの原則を確認しておく。
一つ目の原則は、皇室は先例を貴ぶ世界だということである。
わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。
風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。
幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。

皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。
ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、
「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。
神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。
毎日、同じ御食事を神様に捧げる。
昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。

京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。
その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。
叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、
1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。
毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。

しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。
いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。
不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。

歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。
そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。
いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、
電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。
そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。

そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。
変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。
もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。
ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。

古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。
これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。
貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。
歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。
ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。

もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。
歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。
法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。
日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。

幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。
元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。
ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。

どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。
たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。
大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。
殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。
元号が制定されたのもこのときである。
実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。

承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、
時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、
即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。
「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。
なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。
史上初の「天皇になっていない上皇」となった。

敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。
その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。

いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。
もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は
現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。
一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。
皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。

二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。
八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。

現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。
その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。
いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。
それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。

蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、
皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。
この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。
せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。
男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。
男系継承は、皇室が皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。

三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。
二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。
この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。
しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。

不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? 
そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。

平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。
これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。
皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。
あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。

ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。
理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。
女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」
「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。
その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。

いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ?
ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。
言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。
「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。
なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。
こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。

最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。
皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か?

最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が
(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。
先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。

小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。
特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。

しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。
今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。
この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。
皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。

ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。
その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。

そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。
「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。
男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。
この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。

一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、
いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。

男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。
そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。
今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。
当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、
閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。

しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。
東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。
東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。

ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。
血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。
「五世の孫」の原則があるからだ。

皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。
定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。
第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。

宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。
生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。
元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、
皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。

ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。
かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で
元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。

では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。
どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。
身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。
女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、
東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。
むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。

東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、
父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。
「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。
男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。

本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。
古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。
そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。
継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。
なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、
直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。

ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。
継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。
むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。

その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。
第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と
弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、
自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。
天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。
天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。

ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。
この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。
もちろん、民間人の天皇など認められず、
皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。
ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。
これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。

ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。
第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。
よって、女系では天智天皇の子孫である。
しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。
草壁皇子は天武天皇の息子である。
女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。
皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。

そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、
いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。
それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。

このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。
第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。
この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。

自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。
それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。
鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。
そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。

北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。
皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。
しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。
後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。

戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。
むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。
江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇
室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。
後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、
光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。
陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。

先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。
今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。
将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。

さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、
今の皇室の直系をなんと心得るか。
いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。

それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。
直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。

もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。
今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。
悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。
https://ironna.jp/article/12479

大正元年 白洋舎 ボア事件

1912年に白洋舍が皇太后の襟巻を溶かした「ボア事件」時の神対応の真相
2017年3月20日 22時0分

街のクリーニング屋さんとして知られる白洋舍(はくようしゃ)=東京都大田区=。
国内のドライクリーニングの先駆けとして2017年で創業111周年を迎える老舗ですが、
創業6年目に一大事件を乗り越えています。

1912(大正元)年、明治天皇の妃だった昭憲皇太后から預かった白鳥の羽毛製の高級襟巻(ボア)を、
誤って溶かしてしまったのです。
この出来事について、2月3日にあるユーザーがTwitterに投稿したことから再び注目が集まりました。

当時の対応について、同社に確認しました。

通称「ボア事件」
くだんの一件は「ボア事件」として社内で語り継がれています。
創業者・五十嵐健治氏(以下、健治)が自伝「恩寵(おんちょう)の木漏れ日」で詳細を語っています。
明治天皇が崩御して4カ月ほどの11月のある朝。
お墓である伏見桃山陵(京都市)を昭憲皇太后がお訪ねになるのに合わせ、
宮内省から「白い襟巻を黒く染めてほしい」という電話が、
かねてからシーツなどの洗濯を請け負っていた健治宛にありました。

期限はわずか3日間。少しためらったものの、染色の勉強もしていたこと、
何より急ぎの要件だったため引き受けることにしました。
自宅に丁重に持ち帰った襟巻を前に「責任がなかなか重大である」と感じ、
なじみの染物店に作業を見守ってほしいと頼みます。
これが思わぬ事態を招きます。

どうして待ってくれなかった
翌日、健治は部下に品物を持たせて先に染物店に行かせ、自分は所用を済ませてから向かいました。
到着すると、なんと店の主人はすでに大釜で襟巻の煮染めを始めているではありませんか。
直感的に不安を覚えた健治は、棒を差し入れて襟巻の端をすくい上げます。

“……指先で羽毛をつまんで見ると、芯がなくっていて、たわいもなく切れてしまう。
よく見ると羽毛は全くとけてしまっていて、質を失っている。
ああたいへんなことになった。
(五十嵐健治自伝「恩寵の木漏れ日」より)


原因は、色づきを良くするための薬剤の間違い。
どうして私が来るまで待たなかったのか……
ため息を吐きつつ、溶けた襟巻をバケツに入れて帰宅しました。

“こんなことになるなら、人に頼まず自分でやればよかったと後悔するのみである。
その晩、まんじりともせずに、煩悶の中に夜を明かした。


「申し訳のために自決しよう」
考えた末、健治は「とにかく代わりとなる襟巻を探そう」と、日が昇りきらぬうちから街に出ます。
東京市内の洋服店や横浜の外国人居留地、はては神戸の商館に電話を掛けて羽毛の襟巻を探し続けました。
しかし、見つかったのは東京・新橋の洋品店にあった短い2本のみでした。

“納期はいよいよ明日に迫っている。
しかるに代品を得る見込みさえなくなった。
絶望とはかかる時のことをいうのであろう。


健治は悩みます。期日を守れなければ、皇太后陛下だけでなく、
自分を頼ってくれた宮内省の担当者にも迷惑を掛けると。

“じつのところ一時絶望して、神経衰弱に陥り、
申し訳のために自決しようとさえ思い迫ったほどであったが……(後略)


キリスト教徒だった健治は、夜通し神に祈ることで気持ちを落ち着かせました。

神に祈り続けて冷静に
浅い眠りから目覚めた納期当日。祈り続けたおかげか「頭脳が鎮まってはっきり」してきました。
前日に見つけた新橋の襟巻2本をつなげ、1本にできるのではないか。
過去にやったことがないアイデアでしたが、「やってやれまいことはあるまい」と早速購入。
一度、“より”をほどいた襟巻の先端を切り、それぞれの芯を麻糸でがっちりと縫い付けてより直します。
そして、期待を上回る立派な1本の長い襟巻を作り上げました。

労作を慎重に黒色に染め、夕方、みごと約束の時間に納入したのです。

“皇后官職へお納めしたところ、見事の出来栄えであると御褒めの御言葉を賜り、
御菓子さえ頂戴して、大いに面目を施した。


のちに宮内省の幹部に「染色異変の事情」を詫びたところ、
幹部はひどく気の毒に感じて皇太后との間を取り繕ったそうです。

真の責任は自分にある
健治は実際に作業を誤った染物店について、わざと名前を伏せて書き残しており、
強い自責の念がうかがえます。
「この事件の原因を究明してみると、真の責任は自分にある」と断言した上で、
染物店の主人との意思疎通が不十分だったこと、本当に重要な品はみずから運ぶべきだったと述懐しています。

この「昭憲皇太后ボア事件」の項目は、自戒の言葉で締められています。

“世の中の間違いというものは、ささいの不注意からおこるものである。
ことばの不明確と、軽率な行為は、時に思わぬ大失敗を招くものであるから、つつしまねばならない。


通信技術や物流網が進化した現代でも、そのまま通じる姿勢です。
ボア事件以降も、健治は関東大震災や東京大空襲、会社乗っ取り事件など
幾多の障害を乗り越え白洋舍を存続させます。
彼の波乱万丈の生涯は小説「夕あり朝あり」(三浦綾子作、新潮文庫)で追うことができます。
企業や役所が不祥事を起こすと、その度合いに関係なく徹底的に叩きのめす風潮が強い昨今。
健治の懸命な事後対応と宮内省のおおらかな姿勢には、学べる部分があります。

http://news.livedoor.com/article/detail/12825262/

皇太子さま「ベレー帽を被ったら?」同窓会で見せたユーモア

皇太子さま「ベレー帽を被ったら?」同窓会で見せたユーモア
記事投稿日:2019/02/23 11:00 最終更新日:2019/02/23 11:00

2月23日に59歳の誕生日を迎えられた皇太子さま。
幼少期からのご学友である小山泰生(たいせい)さん(59)と乃万暢敏(のま・のぶとし)さん(59)、
学習院大学のゼミや音楽部で後輩だった竹内尚子さん(58)が、懐かしのエピソードを語り合った。

乃万「小山は幼稚園から殿下とご一緒だったわけだけれど、そのころから特別な方だと思っていた?」

小山「いや、実はそんな感覚はなかったんだ。
初めて東宮御所に招かれたときの話をよく聞かれるけれど、
だいたいほかの友達の家も大きいから、東宮御所だけが特別広いとも思わなかったよ」

――皇太子さまのことはなんとお呼びしていたのですか。

小山「幼稚園のときは『宮ちゃまとお呼びしなさい』と先生に言われました」

乃万「初等科では『宮さま』でした。中学になってからはすっと『殿下』ですね」


《少年時代は生真面目なご印象もあった皇太子さまが変わられたのは大学時代だったという》

小山「僕は大学は別でしたけれど、オックスフォードまで遊びに行ったこともあって、
殿下にとってイギリス留学は大きかったと思う。
オックスフォード大学から帰った殿下はずいぶんお変わりになって、リラックスした雰囲気だった。
あのころ、殿下と食事をご一緒したあと、よくみんなで東宮御所まで歩いたじゃない。
ああやって夜の街を歩くのは、オックスフォードのころの癖だったんじゃないかな」

竹内「なるほど」

小山「東宮御所の門まで行くと、いつもの御料車が待っているの。
歩いて帰ってきて、門に入ってから車に乗るわけで、あべこべなんだけど(笑)
何度も殿下の街歩きにはお付き合いさせていただきました。
殿下の大学時代については、乃万と竹内さんに話してもらいましょう」

竹内「乃万さんは、後輩の私たちから見ると『常に殿下のお隣にいる方』というイメージでした。
そのころから今の格好と同じ、ダブルの背広にきちんとしたネクタイで、
赤いポケットチーフをさしていらっしゃって。そんな学生いないでしょう」

小山「まさか殿下の同級生とは思わなかったでしょうね」

竹内「ええ。みんな『あの人は皇宮警察官よ』と言っていて、そう思い込んでいました(笑)」

乃万「実際に『週刊新潮』が『殿下はいつも皇宮警察の人を連れている』
『それは赤いポケットチーフでわかる』と書いていたんだ。まさしく僕のこと(笑)」

竹内「乃万さんが大学1年生のときからあの格好だったのですか?」

乃万「ええ、もちろん」

竹内「えーっ!」

小山「そうやって、殿下の『付き人』をあえて務めていたのは、
学校から『殿下の面倒をみてほしい』と言われたという経緯もあるわけだよね」

乃万「そう。殿下と同じ文学部史学科に入った男子学生の何名かが、
入学式の数日前に呼び出されて『殿下をサポートしてもらいたい』と言われて。
さらに『入学式では殿下の両脇に座ってほしい』と言うんですよ」

小山「ボディガード代わりでもあったのかな。あのころは過激な学生運動もまだ下火になっていなかったから」

乃万「もう覚悟を決めて殿下のお隣に座って。もちろん入学式は無事に終わったけれど、
今度は『これは大学が君たちに強制するものではないが、
できたら、殿下と同じ科目を履修してもらいたい』という話になった。
もう否応なくお付き添いすることになったのです」

《乃万さんたちは、療養中の雅子さまをお支え続けた皇太子さまのお姿も目撃していた》

乃万「’04年に殿下ご自身が、雅子妃殿下について
『人格を否定するような動きがあったことも事実』と会見で述べられました。
それから5、6年は相当な葛藤がおありだったのだろうと思います。
でも、それについて私たちがお聞きすることも、殿下が口にされることもありませんでした」

竹内「私のような後輩にも悩みなどはお話しになりませんが、
去年くらいから、殿下のとても明るく前向きなお気持ちを感じています。
『来年の一般参賀は、殿下が真ん中ですね』といったお話もしました。ただ、私は一度も行ったことがなくて……」


――皇太子殿下が即位されたら、一般参賀に行かれますか。

竹内「ええ。実は安田ゼミの同窓会でもそういう話題になり、
後輩が殿下に『大勢の参賀者の中から見つけてください!』とばかなお願いをしまして……。
そうしたら殿下が『ベレー帽なんかを目印にするのもいいかもしれない』と提案されたんです。
みんなで『何色がいいかしら』と話して、一番目立つ真っ白のベレー帽をお揃いで被りますと言ったら、
殿下も笑っていらっしゃいました。ゼミの同窓会には、殿下は毎年のように来てくださった、
私たちのたわいのない話にもお付き合いくださいます」

小山「ゼミのお仲間との交流を大切にしていらっしゃるのは、
今後も歴史学などの研究もお続けになりたいということなのでしょうね」

乃万「今年のお正月にも、私が殿下の『水問題』の研究についてお聞きしたら、熱心にお話くださいました」

小山「天皇陛下におなりになっても、ライフワークの研究はぜひ、続けていただきたいです」

https://jisin.jp/domestic/1714450/

週刊朝日2019年1月18日号 保阪氏×岩井氏

続く皇室からの発信 雅子さまに触れなかった意図は?
永井貴子2019.1.9 07:00

天皇陛下の涙の誕生日会見や秋篠宮さまの大嘗祭(だいじょうさい)発言など、
代替わりを目前に控えたいま、皇室からの発信が続いている。
歴史から皇室のあり方を読み解くノンフィクション作家の保阪正康氏と、
宮内庁取材の第一人者である元朝日新聞編集委員の岩井克己氏が語り合った。

■「長官は聞く耳を持たなかった」 秋篠宮さま発言に込められた深謀遠慮

保阪:あの会見で、秋篠宮さまは記者の質問に答える形ではなく、意図して大嘗祭の話題を切り出しました。
天皇陛下と皇太子さま、秋篠宮さまの三者会談で事前によく意思を確認し合っていた、という印象です。

岩井:そもそも、大嘗祭については、昭和天皇も私的なお金の内廷費を積み立てて行うべきものと考えていました。
さらに、弟の高松宮も「大嘗宮を建てなくても、毎年の新嘗祭(にいなめさい)を行っている
神嘉殿(しんかでん)でやればいいじゃないか」と話すなど、政教分離のけじめをつける前提で考えていた。

憲法の定める政教分離の原則に照らして、大嘗祭への国費支出が合憲かどうか、いまだ議論は尽くされていません。
前回、内閣法制局は「公的色彩のある私的行事」という強引でグレーなカテゴリーを作り、
大嘗宮建設などに22億円もの国費を支出した。批判は消えていないし、
大阪高裁も「違憲の疑いは一概には否定できない」と指摘しています。

保阪:なのに官邸は、前例踏襲で議論をしないまま進めてしまった。

岩井:秋篠宮さまの発言は、皇室内でもこうした意見があるのだと、
記録にとどめておこう、という意味の発信だった。

大嘗祭に反対というわけではない。既に大嘗宮の造営が決定している兄の即位儀式に波風を立てたいのではない。
将来、秋篠宮さまが即位する場合は、政教分離のけじめをつけたいという宣言だったのでしょう。

保阪:なるほど。ところで、山本信一郎宮内庁長官への「聞く耳を持たなかった」というのは、
普通であればケンカごしの強い言葉です。秋篠宮さまは、言葉の強さをどこまで意識していたのか。

岩井:あれは、秋篠宮流の深謀遠慮でしょう。

つまり、早々と「前例踏襲」の方針を固めていた官邸に対し、
山本長官がのっぴきならない立場に立たされないよう、あえて「長官にスルーされた」と発信し、
山本長官が「申し訳なかった」と応じ、官邸と皇室との「平行線」を印象づけたのだと思います。

■天皇誕生日涙の会見で皇太子妃に触れなかった理由/明確化したい雅子さまの皇室行事参加ルール

岩井:涙もろくなられた。沖縄の犠牲に触れたあたりから感極まられた。
沖縄については、退位後も心を寄せるとの気持ちまで述べられている。一生懸命やってこられたのだと感じました。

ぎょっとしたのは、30年を振り返る中で、
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」という一語が出てきたこと。
近現代4代の天皇のうち、在位中に戦争がないのは平成が初めてですが、「安堵」と表現したのが、すごいなと思いました。

保阪:生前譲位だからこそ、こうしたことが言えたわけです。
明治、大正、昭和の天皇が「生前譲位」をしていたら、どう言ったのだろうかと興味がありますね。

気になったのは、天皇は「安堵」の直前に、「先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、
このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、
戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切」と話した部分です。
つまり、戦争と犠牲、そして沖縄を忘れず、「正しい歴史」を継いで、若い人に理解してほしいというメッセージです。
一般的に「正しい」という主観的な表現がいいとは思わない。
しかし、この会見には自分でつくってきた天皇像への自負が込められており、
歴史的な透視力のあるプロパガンダだと理解できました。

天皇陛下は、誕生日のメッセージの終わりに、新しい皇室について、
「天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、
皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」
と皇太子さまと秋篠宮さまを出す一方で、皇太子妃である雅子さまについては、触れていませんでしたね。

岩井:伴侶の皇后について大変な支えであったと万感こもる感謝のことばを出しているのに。

保阪:あまり指摘されていないが、しっくりこないとの声もあるでしょう。本質的に重要なところだと思ったけれど。

岩井:触れると本人たちの負担になると、そう解釈するしかないですよね。

保阪:代替わり後のことだけど、雅子さまはどうなるのか。
たとえば宮中祭祀には、ほとんど出席なさっていませんね。
祭祀は、合理性や理屈では成立しない、近代知識で納得することが難しい面があるし……。
しかし、雅子さまは「どうして、こうする必要があるのか」と、頭で考えるタイプなんですね。
皇室の伝統や務めに対して。

岩井:最近、皇太子妃殿下も状態が良くおなりになって、
全国赤十字大会や「みどりの愛護」のつどいにもお出になったし、
15年ぶりに園遊会も最後まで出席なさったと報じられています。
ですが、皇太子さまお独りのものも含めても、皇太子ご夫妻が地方や外国にお出かけになるのは、
年間を通じて秋篠宮ご夫妻の半分ぐらい。そんな大勢はさほど改善されていない。

雅子さまは代替わりについて、「身の引きしまる思いが致します」とおっしゃっているけれども、
皇后の仕事のご負担は、量的にも質的にも、皇太子妃時代とは、ケタ違いに重くなる。
祭祀に至っては、長期療養に入ってからの15年間で皇太子妃の出番は300回くらいあったはずですが、
出席はわずか2回です。
このままでは、皇后は出ないが、皇嗣妃の紀子さまは出るという、深刻な問題が起きかねない。
東宮の機能不全が続いている現状について国民の理解を得ないままごまかして、
代替わりへと進めば、平成はじめの皇室バッシングのような批判が再び噴出しないとも限らない。
十分に承知した側近や宮内庁幹部が心してかかり、主治医が責任ある説明をていねいに重ね理解を求めないといけない。
まず今年、代替わりの重要な儀式を乗り越えられるか。
そしてその後の「新時代」にどのような軌道を敷いていくか。
皇后はあまり表には出ないというパターンをつくるならつくるで、はっきりさせることが重要だと思う。
ヨーロッパの王室のようにごくたまに国民の前に出てきて手を振るというのなら、それも仕方ない。

保阪:そんな時代になるのかもしれませんね。

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日  2019年1月18日号
https://dot.asahi.com/wa/2019010800044.html?page=1


「悠仁さまは2回、いまの天皇を救った」元朝日新聞編集委員が思う理由
永井貴子2019.1.11 06:00

平成皇室の30年が終わりに近づき、皇室のあり方などが議論されている。
歴史から皇室のあり方を読み解くノンフィクション作家の保阪正康氏と、
宮内庁取材の第一人者である元朝日新聞編集委員の岩井克己氏は、歴史の重みが継がれていくのか語り合った。

■過去の歴史の重みはどのように引き継がれるのか

岩井:保阪さんは昭和史の第一人者として、昭和の歴史、平成の歴史、その中で皇室についていろいろと取材し、
関係者の証言を積み重ねてこられました。
皇室側が歴史を正しく継承しなければならないと、皇太子家も秋篠宮家も子どもたちに聞かせたり
体験させたりしてらっしゃるが、こういう言い方をする人もいる。
「今の天皇はトランジットエンペラーだから昭和の負の遺産を清算するんだ。
そして次の世代は明るい屈託のない皇室であってほしい」と。
ですが、そんな軽いものではなく、過去にこんな重いことがあったのだ、
という事実を引き継がなければ皇室は成り立たない。そんな思いもあります。
ですが、そもそも引き継ぐことが可能なのでしょうか。

保阪:今の天皇は当然引き継いでいる。
記者会見で「私は昭和天皇の言うことがわかるようになりました」と述べていた。

今の天皇は自らにも、天皇の名前や地位、それ自体のなかにも戦争に伴う責任があるのだと、
直接、間接を問わず、思っているでしょう。やはりあの名前において、
何百万人も死んだ。直接命令したわけではなくとも、歴史的史実に対し、
父親である昭和天皇が責任を背負い込むのと同じように、今の天皇も感じていると思うんですよ。

岩井:両陛下がそうした問題について、自らができることは何だろうと日夜考え続けるのは本当に大変なことです。
ましてや死者たちの記憶を胸にとどめることがいかに大変なことか、察するにあまりあります。

保阪:昭和天皇は御学問所で教育を受けて帝王学を学んでいて、
「あなたの名前でいろんなことを行うけれど、それは国家の一機関として行うのであって、
あなたの人格や性格は関係ない、別問題なのだ」と言われ続けた。
今の天皇はそうした教育を受けていないから、天皇という名において行われること全体が、
自分の形として歴史を受け継ぎ、責任を背負い込むとのお考えだと思います。
だから追悼をする。それは心理的な清算なのだと思う。沖縄に行く、満蒙開拓平和記念館に出かける。
そして全国を島々まで回る。国民の声に耳を傾けたいと言うけれど、
国全体を戦争に巻き込んだことへの贖罪(しょくざい)意識があるのではないかと思えます。

ただ、沖縄やサイパンを訪問し、犠牲者のために祈るのは霊に対して祈るのか、
戦争に対する忌避の感情、憎しみ、繰り返してはいけないと誓うためなのか。
その考え方はまだ十分に知らされていない。

岩井:皇室としてそれをどうすべきか。次の天皇が考えていくのか。

保阪:考えるようになった瞬間、言葉と対応が違ってくるでしょう。
戦地に行って慰霊する意味を天皇は説明する義務があるわけです。
説明が単なる戦跡を訪ねて黙祷を捧げる、その行為だけで判断してほしいというだけでは済まないと思いますよ。
戦争の本質を天皇の人格やメッセージからどう読みとるか。

岩井:次の天皇となる皇太子さまは、天皇陛下、秋篠宮さまとの「三者会談」でどのように話し合われているのか。
近年、日本の繁栄は平和憲法によると繰り返しておられるが、それを引き継いでどのように実践するのか。
片鱗(へんりん)でもいいから胸中を国民に示していただきたい。
これから代替わりで発信する機会はいろいろとあるわけですから。その意識は孫の世代にまで伝わると思いますか。

保阪:孫に引き継ぐべきかという問題について僕は……。
そういえば、ある研究者が、秋篠宮家の悠仁さまに歴史について教えたことがあると聞きました。
6年生だけど、ものすごく勉強しているそうです。
悠仁さまは「どうして日本に原爆が落ちたのか」「どうして戦争になったのか」といくつも質問をしてきて、
その研究者はその経緯を易しく説明したそうです。
秋篠宮さまは、「統帥権」問題などについても質問し、紀子さまはそばでメモをとるなど、
親子で一生懸命勉強している様子がうかがえたようです。

岩井:悠仁さまは2回、いまの天皇を救ったと、僕は思っている。
ひとつは、小泉内閣で女性・女系天皇の論議が国論分裂に至ったタイミングで、生まれたとき。

保阪:悠仁さまが誕生したとたん、国を二分した議論は、ピタリと収まった。見事なほどでしたね。

岩井:2回目は、葉山の御用邸で陛下が孫の悠仁さまを和船に乗せたときです。
昭和天皇の和船に乗せて、一生懸命にこいで発作が起きたことで心臓病が明らかになり、
冠動脈バイパス手術で乗り切れた。そしてここまで、頑張れたのだと思う。

保阪:5月の代替わりまでわずか4カ月です。時代とどう向きあうか、
平成の天皇とどのような共通点があり、相違点があるのか。
皇統を守る「目的」のためにどのような「手段」が考えられていくのか、名実ともに問われていくように思います。

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日  2019年1月18日号
https://dot.asahi.com/wa/2019010900048.html?page=1

秋篠宮さま「異例の疑義」に批判的な読売、理解を示した朝日


MAG2 NEWS
2018年12月03日 07:54
秋篠宮さま「異例の疑義」に批判的な読売、理解を示した朝日
53歳の誕生日を迎えられた秋篠宮さまの、大嘗祭への公費支出に疑問を呈されたご発言が波紋を呼んでいます。
「憲法上の問題」を巡り専門家の意見も大きく割れていますが、新聞各紙はどのように扱ったのでしょうか。
ジャーナリストの内田誠さんが自身のメルマガ『uttiiの電子版ウォッチ DELUXE』で詳細に分析しています。

秋篠宮さまの「大嘗祭への公費支出に疑問」を新聞各紙はどう伝えたか

◆1面トップの見出しから……。
《朝日》…「大嘗祭 国費支出「適当かどうか」」
《読売》…「『保存・修理・公開』一体に」
《毎日》…「仏、日本に首脳交渉要請」
《東京》…「大嘗祭 公費に異議」

◆解説面の見出しから……。
《朝日》…「秋篠宮さま『政教分離』発言 波紋」
《読売》…「徴用工 賠償判決の流れ」
《毎日》…「民間力導入 水道分岐点」
《東京》…「政府決定に異論 波紋」

【基本的な報道内容】
秋篠宮さまは53歳の誕生日を前に会見し、天皇の代替わりに行う皇室行事である大嘗祭について、
政府は公費を支出すべきではないとの考えを示した。
この考えを宮内庁長官らに伝えたが「聞く耳を持たなかった」として、「非常に残念なことだった」と述べた。
政府が決定した方針に、皇族が公の場で疑義を呈するのは異例。
秋篠宮さまは来年5月の天皇代替わり後、皇位継承順位1位で、皇太子待遇の「皇嗣」となる。

前回、90年に行われた大嘗祭では公費である宮廷費22億5000万円が使われたため、
「政教分離に反する」との批判があった。今回も政府は「宗教的性格」を認めつつ、
「伝統的皇位継承儀式で公的な性格がある」として宮廷費から支出することを決めている。
秋篠宮さまは公費である「宮廷費」からではなく、私費である「内廷会計」で賄う、
「身の丈に合った儀式」にすべきとの考えで前回から同様の意見を述べていたという。
秋篠宮さまによれば、天皇陛下からは、即位関係の儀式などは皇太子さまとよく相談して進めるよう伝えられていて、
「ご理解を頂いて進めている」としている。
宮内庁の山本長官は「聞く耳を持たなかったと言われるとつらいが、
そのようにお受け止めになったのであれば申し訳ない」と話している。


秋篠宮さまの会見での発言の該当部分
具体的にもし言うのであれば、例えば、即位の礼は、これは国事行為で行われるわけです、その一連のものは。
ただ、大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。
私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、
これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、
その頃はうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。
今回も結局、そのときを踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。
ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています。
整理の仕方としては、一つの代で一度きりのものであり、大切な儀式ということから、
もちろん国もそれについての関心があり、公的性格が強い、ゆえに国の国費で賄うということだと。
平成のときの整理はそうだったわけですね。
ただ、今回もそうなわけですけれども、宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、
それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。
ただ、それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。
大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、
言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。
少なくとも皇室の行事と言っていますし。そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし、
そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。
ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。
そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。


渾身の問題提起
【朝日】は1面トップに2面の解説記事「時時刻刻」、33面会見要旨、35面にも。見出しから。
1面
大嘗祭 国費支出「適当かどうか」
「宮内庁 聞く耳を持たなかった」
秋篠宮さま、皇位継承行事巡り
2面
秋篠宮さま「政教分離」発言 波紋
大嘗祭 公費支出すべきでない
私費が妥当か なお賛否
「政治的発言」疑問視も
深まらぬ議論に一石(視点)
35面
婚約 現状では「できない」
眞子さま・小室さんめぐり 秋篠宮
「考えながら務めを」 皇嗣へ抱負

uttiiの眼
《朝日》は秋篠宮さまの発言に理解を示しつつ、様々な見方を伝えている。
2面「時時刻刻」は例によって“時系列”的な記述で、
秋篠宮さまの会見の周辺情報を伝えた後、専門家らの評価を書き並べている。
横田耕一氏は「大嘗祭は宗教儀式。公金を使うことは政教分離を定めた憲法に照らして許されない。
発言はもっともだ」という。

島薗進氏も「大嘗祭への公費支出は日本の立憲体制にそぐわない。
秋篠宮さまは皇室の神道行事が戦前のように国家行事的な性格を持つことを懸念し、
政府や国民に問題提起したのでは」と推量。
反対に批判的なのは所功氏で、「大嘗祭は皇位継承の伝統行事として、
公費を支出した前回の方法はおおむね国民の了解を得ている」と、
また「大嘗宮の建設だけでも莫大な費用が掛かり、内廷会計(私費)ではまかなえないのでは」とも。
また、秋篠宮さまの発言自体を「政治的発言」とみるかどうかについても議論が分かれている。
今回秋篠宮さまは、即位の礼など「国事行為」に意見を述べることはできないが、
「皇室の行事」である大嘗祭については「私の考えというものもあってよいのでは」と前置きして持論を述べている。
これについて河西秀哉氏は、「政府の決定に公の場で異論を唱えており不適切だ」と明確に否定している。

他方、横田耕一氏は「憲法の制約を受けるのは天皇のみで、皇族は政治的発言が可能」という。
しかも、今回の発言は決定済みのことについての意見で、問題ないとする。
山本宮内庁長官が「政治的発言ではない」としているのも同じ意味合いのようだ。
秋篠宮さまを含め、天皇家の人々は、まともな感覚を保持している人たちだなあとつくづく思う。
象徴天皇の代替わりという国家的な行事に対応するのは「即位の礼」であって、大嘗祭などの宮廷行事は宗教的な行為。
節約という意味はむしろ副次的で、本来の行事の伝統性を厳格に守るためにも、そ
のような切り分けが必要という面もあるだろう。
2面記事の末尾には皇室担当キャップ・島康彦記者による「視点」が付いていて、
それによれば、昭和天皇は生前、内廷費を節約して積み立ててはどうかと話したことがあり、
弟の高松宮さまなどは「大嘗宮を建てなくてもいいのでは」とまで言っていたらしい。
秋篠宮さまは、宮内庁が「聞く耳を持たなかった」と言ったが、
政府は戦後ずっと、天皇家の人々からの呼び掛けに「聞く耳を持たない」状態だったとは言えまいか。
このことこそ、そうした政府の姿勢こそ、天皇の「政治利用」と見做すことも可能だろう。
秋篠宮さま自身は、来年の天皇代替わりとともに皇嗣となる身。
今回の発言は、ほとんどラストチャンスと見定めての、渾身の問題提起だったのではないだろうか。

秋篠宮さまに対して「批判的」なトーン
【読売】は1面左肩に2面の関連記事、35面に会見要旨と特集、38面にも関連記事。見出しから。
1面
秋篠宮さま53歳
大嘗祭への公費支出 疑問視
2面
秋篠宮さま
異例発言 戸惑う宮内庁
公費支出 変更せず
38面
小室さん側へ「相応の対応を」
週刊誌報道 説明求める

uttiiの眼
1面記事は「本記」的な内容だが、気になる表現があった。
秋篠宮さまが大嘗祭は絶対にすべきだが「身の丈に合った儀式で行うのが本来の姿」だとし、
「聞く耳を持たなかった」宮内庁長官に苦言を呈したとした後、
「新天皇として大嘗祭に臨む皇太子さまは、公費支出を了解されている」と書いている。
これは、「了解している」と発言したという意味だろうか。
主催者である新天皇が、政府が決めた支出に対して「了解している」という意味の発言を
敢えて行うようなことがあったのではあれば、ニュースになっていると思うが…。

2面の記事は、秋篠宮さまに対する、かなり批判的なトーンの記事になっている。
まず、宮内庁長官は「大嘗祭は皇位継承に伴う重要な、伝統的な儀式で、
平成の代替わりで様々な議論を経て公費支出が決まったと、秋篠宮さまに説明してきた」として、
政府、宮内庁側の「努力」を強調。それに納得しない頑迷固陋の秋篠宮さまという印象が
文章の裏側に滲む書き方になっている。

さらに、平成の大嘗祭に対する訴訟は最高裁の判決が確定していて、
「憲法問題は決着済みだ」と畳みかける。平成の大嘗祭の費用は22億円かかり、
「秋篠宮さまが言及された内廷会計内の貯蓄を充てても、規模の縮小など、
大幅な見直しを迫られる」とする(秋篠宮さまは「身の丈に合った」という言い方で、
まさに規模の縮小を望んでいるのだが…)。

発言の政治性についての専門家の意見も、秋篠宮さまに「同情的」という小田部雄次氏を別とすれば、
政治的な発言として問題視するという八木秀次氏、
「憲法違反とまでは言えないが、皇族の行動規範がないため、こうした発言が問題になる」と指摘したという
「別の憲法学者」まで、批判的な評価が並んでいて、「問題ない」という有力な意見が全く紹介されていない。
全体にかなりバランスを失した記事内容になっている。

問題提起は8月から始まっていた
【毎日】は1面左肩と社会面30面に関連記事。見出しから。
1面
大嘗祭に公費 違和感
秋篠宮さま「宗教色強い」
小室さん側は相応の対応を
眞子さま結婚延期
30面
秋篠宮さま 問題提起
大嘗祭へ公費 国民負担増も懸念
皇族の言動 過去にも注目
紀子さま「見守りたい」
眞子さまへの思い語る

uttiiの眼
《毎日》は比較的サラッとした報道ぶり。
実は、今年8月末に、秋篠宮さまが大嘗祭に公費を支出するべきではないという考えを
宮内庁幹部に伝えていることが分かったというスクープ記事を掲載していた。
他誌の後追いはなく、続報もなかったが、今回と全く同じ話を《毎日》が報じていたわけだ。
1面記事は、秋篠宮さまの今回の発言について、
「皇族が政府の判断に否定的な見解を公言するのは珍しい」と書いていて、
こうしたケースではつい「異例」と書きたくなるものだが、「珍しい」という柔らかい表現を選んでいる。
30面記事の大見出しは「秋篠宮さま 問題提起」となっていて、発言に理解を示す、
《毎日》の姿勢が出ている。さらにリードには、大嘗祭への公費支出について
「懸念を抱いていることは、これまでも関係者への取材で明らかになっていたが、
来年5月に皇位継承順位1位の皇嗣となる皇族が公言する意味は重い」として、
発言の意義を積極的に捉えている。因みに、「これまでも関係者への取材で明らかになっていた」という部分が、
上記した8月末のスクープに対応している。
30面記事の後段はこれまでも注目された皇族の発言のなかから、
三笠宮さまが紀元節を「建国記念の日」として復活させることに反対したこと、
三笠宮さまの長男、寛仁親王が女性・女系天皇容認論に異を唱えたこと、
そして秋篠宮さまが天皇の定年制に言及したことを挙げている。
最後に今回の秋篠宮発言についての専門家の評価として、「問題とは思わない」という高橋和之氏と、
表現に配慮すべきだったとする所功氏の意見を紹介し、バランスを取っている。

憲法上の問題はないのか
【東京】は1面トップに2面の解説記事「核心」、6面に会見詳報、31面にも関連。見出しから。
1面
大嘗祭 公費に異議
秋篠宮さま「宗教色強い」
「宮内庁、聞く耳持たず残念」
平成大嘗祭 経費25億円
皇室行事 議論深める契機(解説)
2面
政府決定に異論 波紋
秋篠宮さま大嘗祭言及
「求められる中立 慎重に」
「皇族が発言 憲法上問題ない」
31面
大嘗祭発言に識者ら驚き・評価
前例踏襲 公的祭祀化を危惧
伝統儀式 政教分離抵触せず
秋篠宮さま会見
小室さん側は「きちんと説明を」
眞子さま結婚延期巡り

uttiiの眼
《東京》は、1面記事のリード末尾で、「皇族が公の場で、政府方針に異を唱えたのは極めて異例」としている。
また末尾に編集委員である吉原康和記者による「解説」があり、
記者は「憲法は天皇の国政関与を禁じているが、皇族についての明文規定はない。
皇族も天皇に準じて政治的発言は控えるべきだとの声はある。
だが、今回の発言は、皇室行事について皇族の立場から『身の丈に言った儀式が本来の姿』との考えを示したものだ。
本来、宮中祭祀を含む私的な皇室行事の中身については、皇室自身が決めるべきだ」と秋篠宮発言に理解を示している。
至極真っ当な考え方だと思う。
2面で注目されるのは次の記述。秋篠宮さまの発言は「税の使途に厳しい目を向ける庶民の感覚に近く、
歓迎されそうだ」としている部分。
バブル経済のただ中に、22億円超という巨費を投じて行われた前回の大嘗祭のようなものを否定し、
まさしく「身の丈に合った」ものを皇室の私的な行事として行いたいという感覚は、
やはり正常なものと言えるだろう。
また、秋篠宮さまの発言には、「節約」や、「公費支出を遠慮する」感覚を読み取ることも可能だろう。
勿論、それだけではないが。
2面記事は、この秋篠宮さまの発言が憲法上問題となるか否かについて、
対立する専門家の意見を紹介している。
南野森氏は、「天皇は政治的中立性が求められ、皇位継承順位が高い皇族も同様と考えられている」としなから、
「皇室の私的行事に関係者の1人として私見を述べたことは、ぎりぎり憲法上の問題はないとの評価も可能」」とする。
しかし同時に、「皇族が政府決定に異を唱えるようなことになると、
憲法の定める象徴天皇制との緊張関係が高まるため、発言は慎重であるべきだ」と指摘したというが、
否定から肯定へ、また肯定から否定へと評価が揺れていては、何が言いたいのか分からない。

一方、園部逸夫氏は秋篠宮発言が記者の質問に答えたものである点を捉え、
「所管や感想を述べることは当然あるし、発言すべきでないというなら会見する意味がない」と分かりやすい。
さらに、《朝日》も紹介していた横田耕一氏は「政治的権能を持たない象徴天皇とは違うので、
皇族が政治的発言をすること自体は憲法上の問題はない」と言い切っている。
《東京》が紹介している専門家は、リベラルに偏っているが、その中でもかなり厳しい意見の対立がありそうだ。
天皇制にかかわる議論の細部は、依然としてかなりの程度に論争的な分野になっていることが分かる。
今回の秋篠宮さまの発言は、天皇制を巡る様々な議論の、非常に微妙なところを抉ったということだけは言えそうだ。
https://blogos.com/article/342649/

庶民の暮らしを知るために… 美智子皇后「お忍び日記」

庶民の暮らしを知るために… 美智子皇后「お忍び日記」
2018年11月3日 7時0分 FRIDAYデジタル
https://friday.kodansha.ne.jp/other/106078

10月20日、84歳の誕生日に「おことば」を発表された美智子皇后。
退位を半年後に控えている今回が、皇后として最後の誕生日ご感想となるが、
そこでは、〈読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、
もう安心して手許に置けます。〉といった率直な気持ちが明かされている。

元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏は
「今回の文書回答を見て、皇后さまが映画試写会に来られた時のことを思い出しました」と語る。
「出演者との懇談で『子供の頃、三本立ての映画を見ましたが、(喜劇王の)エノケンもありました』と話され、
皇后陛下の口からエノケンという言葉が出てきたので、その場が和んだそうです」

もともと庶民派だった皇后は、天皇にも積極的に庶民の暮らしを体験してもらおうとした。
’10年夏、両陛下は群馬県中之条町の一般家庭を訪ねている。
その主・登坂昭夫さんは、皇居で育てられている天蚕(てんさん)を飼育している希少な養蚕農家だ。
登坂さんが言う。
「見学したいというご要望だったんですが、こんな山の中に両陛下が来るなんて畏れ多くて固辞したんです。
でも何度も連絡が来るし、警察がウチまで調べに来ちゃってねぇ。
クヌギ畑を見学した後、私の家でお休みになるっていうんで腰を抜かすほど驚きました」

掘り炬燵に二人で座って
’10年8月29日、両陛下を乗せた車が農道を上がってきた。登坂家に繋がる道は狭すぎて閉鎖されたので、
関係者以外は出迎えない"お忍び行幸啓"だった。
「陛下の車がセンターラインのない道を通ることは珍しいんですよ、と侍従の方が笑っていました。
畑を見学後、我が家の奥の間にご案内しようとしたら、居間の掘り炬燵を珍しがって、
皇后さまが『こちらのほうがよろしいですね』と。
両陛下がそこに腰を下ろされて、私たち夫婦らと気さくにお話しされました」

登坂さんが「蚕(かいこ)は触られますか?」とたずねたところ、
「私は大丈夫ですよ」と微笑まれた皇后に続けて、
天皇が「私は実は苦手でね……」と打ち明け、居間は笑いに包まれたという。

ノンフィクション作家の保阪正康氏はこう語る。
「私は作家の半藤一利氏と共に昭和史をお話しするため、皇居に伺ったことがあります。
話を聞く両陛下の様子を拝見して、ふだんから様々なことを二人で話し合われているのだろうと思いました。
美智子皇后の『誕生日のおことば』からは、社会のことに対する関心の広さがわかります。
しかも皇后は、世間で注目を集めていることではなく、むしろ国民が忘れがちなことを拾い上げて言及する。
今年の誕生日には拉致被害者のことを書かれたし、昨年は国連軍縮担当の中満泉さん、
そして’13年には明治期の市民憲法運動だった『五日市憲法草案』を取り上げるなど、
その幅広さと知識に驚かされます。
象徴天皇とは何か、そのスタイルを一から構築してきたのは間違いなく今上天皇であり、そして美智子皇后です」

天皇皇后両陛下は、夫婦で平成という時代を作ったのである。

http://news.livedoor.com/article/detail/15540821/

皇太子ご一家 映画試写会 猫逃げる

皇太子ご一家が映画鑑賞
2018.10.15 20:35
皇太子ご夫妻と長女の敬宮(としのみや)愛子さまは15日夜、東京・有楽町で、
映画「旅猫リポート」のチャリティー試写会に臨席された。
映画は作家の有川浩(ひろ)さんの小説を映画化したもので、人間と動物の強い絆を描いた作品。
主演を務めた俳優の福士蒼汰(そうた)さんらに出迎えられたご一家は、笑顔で言葉を交わされていた。
https://www.sankei.com/life/news/181015/lif1810150042-n1.html


皇太子ご一家が映画鑑賞 ネコが逃げ出すハプニング [2018/10/16/07:30]
皇太子ご一家が飼い猫との旅を描いた映画の試写会を鑑賞されました。
出演している猫がご一家の前から逃げてしまうハプニングもありました。
ご一家は15日午後7時ごろから、東京・有楽町で映画
「旅猫リポート」のチャリティー試写会を鑑賞されました。
この映画は猫と飼い主の旅を描いたもので、会場では日本動物愛護協会の募金活動も行われました。
鑑賞前に主演の福士蒼汰さんが出演した猫を抱いて出迎えましたが、
雅子さまや愛子さまが「可愛いですね」と猫をなでられると猫が福士さんの腕から逃げてしまい、
笑いが起こる場面もありました。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000138529.html

皇太子ご一家、チャリティー試写会を鑑賞
皇太子ご一家が、チャリティー試写会として上映された
青年と猫の絆を描いた映画「旅猫リポート」を鑑賞されました。
15日夜、皇太子ご一家が、東京・千代田区内の映画館を訪れると、
主演を務めた福士蒼汰さんが、映画に登場する猫とともに出迎えました。
ご一家は、笑顔を浮かべながら猫の口元を触り、
雅子さまが「ニャー」と猫の鳴き声で語りかける場面もありました。
映画「旅猫リポート」は、新しい飼い主を探す旅に出た青年と猫の絆を描いた作品で、
チャリティー試写会として上映されました。
皇太子ご一家は東宮御所で「セブン」という猫を飼っており、
主演した猫の名前が「ナナ」という名前だったこともあり、
上映後、愛子さまは福士さんに「お互い不思議な縁がありますね」などと話されていたということです。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3498983.html


福士蒼汰「とても光栄です」『旅猫リポート』試写会に皇太子ご一家がご臨席
2018/10/16 13:29Movie Walker
人気作家・有川浩の同名小説を、福士蒼汰主演で映画化した『旅猫リポート』
(10月26日公開)のチャリティ試写会が15日に東京・丸の内ピカデリーで開催。
皇太子殿下、皇太子妃殿下、内親王殿下がご臨席され、主演を務める福士らと共に映画をご鑑賞された。
本作は心優しいネコ好きの青年・悟と、彼に助けられた元野良ネコのナナの旅路を描いた感動作。
5年間一緒に暮らしてきたナナを、とある事情で手放さなくてはならなくなった悟は、
ナナを連れて新しい飼い主を探すための旅に出る。
ナナの声を高畑充希が演じるほか、広瀬アリスや竹内結子など豪華俳優陣の共演でも注目を集めている。
福士は主役ネコのナナと、メガホンをとった三木康一郎監督と共に
皇太子殿下ご一家のお出迎えをし、その際に福士が抱いているナナに興味を示された皇太子妃殿下と内親王殿下。
「可愛い」というお言葉と共にナナを優しくお撫でになる姿も見受けられた。
また皇太子殿下とご懇談した後、インタビューに答えた福士は
「このような機会はなかなかないので少し緊張しましたが、
一緒に映画を鑑賞することができてとても光栄です」と語る。
さらに福士は、上映前に内親王殿下から「ご自分がご出演されている映画を観るのはどんな気分ですか?」
と訊ねられたとのことで
「不思議な気持ちです。客観的に感情移入して観ることができた映画は本作が初めてだったので、
とても不思議な気分でした」と答えたという。
そして福士は上映終了直後に内親王殿下より「感動しました」とのお言葉を頂いたと明かす。
ご懇談の場では撮影時の苦労や楽しい思い出を語ったほか
「皇太子殿下ご一家が飼われているペットたちのお写真を見せていただきながらお話を伺いました」と振り返る福士。
ご一家が飼われているネコの名前が“セブン”と“みー”ということを聞き、
本作の“ナナ”と不思議な縁があることを感じたようだ。
文/久保田 和馬
https://news.walkerplus.com/article/165904/

福士蒼汰、皇太子ご一家と「旅猫リポート」鑑賞 猫トークで盛り上がる
2018年10月16日 14:30
[映画.com ニュース] 皇太子ご夫妻と長女の敬宮愛子さまが10月15日、
東京・丸の内ピカデリーで行われた映画「旅猫リポート」のチャリティ試写会にご出席された。
ご鑑賞には主演の福士蒼汰をはじめ、メガホンをとった三木康一郎監督も同席した。
本作は、「図書館戦争」シリーズや「植物図鑑」などで知られる有川浩氏の同名小説を原作に、
青年・悟(福士)が猫のナナとともに新しい飼い主を探す旅に出る物語。
ご鑑賞前には、福士と猫のナナ、三木監督によるお出迎えがあり、皇太子ご一家がナナを撫でる様子もあった。

福士は「このような機会はなかなかないので、少し緊張しましたが、
一緒に映画を鑑賞することができてとても光栄です」と感慨深げで、
「愛子さまはナナやほかの動物が登場するシーンでは笑顔になられているような場面がうかがえました。
皇太子妃殿下からは時折、笑い声も聞こえましたし、
映画の終盤では、涙をこらえているようなご様子もうかがえました」と伝えた。
鑑賞後には「愛子様より『感動しました』とおっしゃっていただきました。
そして、皆さんからは、ナナの猫の種類の話であったり、映画はどんな雰囲気の中で撮影したのかなど、
ナナの話を中心にたくさんのご質問をいただきました。
撮影の初めの頃は上手くいかないこともあり苦労したこと、
それでもナナとの仲を深めていくうちに撮影を楽しめた思い出などを話しました」と明かした。

また、皇太子ご一家が飼っている猫セブンの話題にもなったといい、
「お写真を見せていただきながらお話をうかがいました。
そして飼われている猫のお名前が『セブン』と『みー』というお話をうかがって、
愛子さまが本作の主演猫が『ナナ』なので、お互い不思議な縁がありますね、と話をしていただきました」と語った。
「旅猫リポート」は10月26日から全国公開。
https://eiga.com/news/20181016/11/