「生前退位」は「歴史の書物にない表現」 皇后さま違和感表明 NHKの反応は…

「生前退位」は「歴史の書物にない表現」 皇后さま違和感表明 NHKの反応は…
楊井人文 | 日本報道検証機構代表・弁護士
2016年10月22日 7時8分配信

皇后さまは10月20日、お誕生日の談話を宮内庁を通じて発表した。
その中で、7月中旬に「天皇陛下が生前退位の意向を示された」と一斉に報道されたことについて、
「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。
それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、
一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感があったことを明らかにした。
天皇陛下が意向を関係者に示されたときに実際に使った言葉は「譲位」だったことが明らかになっている。
しかし、現在も各メディアは天皇陛下の意向を「生前退位」という表現で報道しており、見直しの動きは出ていない。

NHKは7月13日午後7時のニュースで、「独自 天皇陛下『生前退位』の意向示される」と字幕をつけて第一報を流した。
この後、主要各紙や放送各局も一斉に後追い報道したが、全てのメディアが「生前退位」という表現を使っていた。
ただ、「生前退位」という表現には、当初から疑問の声が一部の識者などから出ていた。
宮内庁関係者が「天皇陛下は生前退位という言葉を使われたことはない」と指摘していたとされる。
6年前に天皇陛下からご意向を聞いていたという東京大学名誉教授の三谷太一郎氏が
「天皇陛下は『譲位』という言葉を使われた」も証言している。

日本報道検証機構は、皇后さまの談話を受け、受け止めや「生前退位」という表現が適切だったかどうかについて、
NHKをはじめ主要新聞各社に質問した。NHK広報部からは
「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、視聴者に意味が伝わりやすいよう、
この表現を使っています。ニュースの文脈に応じて、『譲位』という言葉も含め、適宜使い分けています」
との回答があった。今後も使い続ける方針かどうかも質問したが、明言しなかった
(新聞各社の回答が出そろい次第、追記予定)。


<視点>「生前退位」は「真意」を反映した表現だったか 〜スクープ記者の寄稿を読み解く〜
7月中旬以降、この国のメディア空間には「生前退位」という四字熟語が連日のように駆け巡ってきた。
当初からこの表現に違和感をもった人もいと思う。
…そもそも「退位」という言葉自体に「生前」の意味は含まれているから、
「生前退位」は屋上屋を重ねた不自然な表現である。
「生前」は「死」を、「退位」は「断絶」を想起させ、不吉な予感を与える。…
しかし、メディアで当たり前のように繰り返し使われ、違和感が薄れつつあったかもしれない。
そんな状況のもとで、皇后さまの談話は一石を投じられた。
少なくないメディアも、「生前退位」という言葉を新聞1面で見た時の「衝撃」「驚きと痛み」に注目して報道した。
談話の英文をみると、その思いはより直接的に表されていた。

It came as a shock to me, however, to see the words seizen taii (in Japanese, literally,
abdicate while living) printed in such big letters on the front pages of the papers.
It could have been because until then I had never come across this expression even in history books that, along with surprise, I briefly experienced pain upon seeing those words.
出典:宮内庁

この皇后さまの率直な心情吐露に、報道関係者も「痛み」を感じなかっただろうか。
もちろん、皇后さまはそれに続けて「私の感じ過ぎであったかもしれません」
(Perhaps I might have been a bit too sensitive.)と付け加えておられる。
ご自分の言葉が報道の自由への干渉にならないようにと、慎重に配慮されたと思われる。
しかしそれでもあえて、強い表現で違和感を表明された事実は、重い。
その事実からは、皇后さまだけでなく、天皇陛下の思いもそれに近いものであったのかもしれないとの想像が働く。
もし「生前退位」という表現が真に「ご意向」を反映したものであれば、
皇后さまがこんなことを記されるはずがないからである。
2016年7月14日付各紙朝刊

もちろん「生前退位」報道は間違いでも誤報でもない。ただ、その報道ぶりが、必ずしも天皇皇后両陛下の
「真意」に沿ったものではなかった可能性に留意しておきたいのである。
そして人は誰であれ、その内面や意思が、自らの言葉ではなく他者の言葉を通じて安易に語られること、
使ったことのないフレーズで人口に膾炙していくことに苦痛を感じるものである、ということも。

***

メディアの先行報道がなされた当時、人々は、天皇陛下の知られざるご意向を「知った」と思ったかもしれない。
しかし、その時点で天皇陛下からご意向を直接聞いた報道関係者は、誰一人もいなかったであろう。
メディア・リテラシーの教えに従えば、ビデオメッセージ以前の報道は、天皇陛下の「ご意向」そのものではなく、
報道記者が取材で知り得た間接情報に基づいて推測された「ご意向」にすぎなかった。

結果として、メディアが推測して報じた「ご意向」は、8月8日の天皇陛下のビデオメッセージにより裏付けられ、
間違いでないことがはっきりとした。振り返ってみると、
NHKの第一報は次のように「ご意向」をかなり的確に把握していた。

天皇陛下は、「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせるものが天皇の位にあるべきだ」と考え、今後、年を重ねていくなかで、大きく公務を減らしたり、
代役を立てたりして天皇の位にとどまることは望まれていないということです。
出典:NHKニュース7(2016年7月13日)

しかし、事前報道によって、私たち国民が白紙の状態で天皇陛下のメッセージを聞く機会は失われてしまった。
メディアが報じた「生前退位の意向」を天皇陛下がどのような言葉で裏書きするかに、注目が集まってしまった。

虚心坦懐に「おことば」を読み解けば、その最大の主眼は「退位」そのものではなかったことがわかる。
天皇陛下が「ひとえに念じ」ておられるのは「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、
安定的に続いていくこと」であった。途切れさせてはならない「象徴天皇の務め」とは
「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくこと」であった。
そして、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」も「象徴天皇の務め」のうちの「大切なもの」である、と。
そうした考えを前提とすれば、論理必然的に「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、
生涯の終わりに至るまで天皇であり続けること」だけは、何としても避けなければならない。
健康なうちに円滑に天皇の地位を次世代に引き継ぐ選択をしなければならなくなる。
歴史に「イフ」はないが、もし、私たち国民が白紙の状態で天皇陛下のメッセージを聞く機会が持てたなら、
メディアもその日おそらく、(継続性よりも断絶性を想起させる)「生前退位」や「退位」という言葉ではなく、
(継続性や未来への展望を想起させる)「譲位」という言葉で報じていたかもしれないと思う。

***

NHKの「天皇陛下『生前退位』の意向」のスクープは、今年の新聞協会賞(編集部門)に輝いた。
その栄誉を勝ち取った橋口和人氏(宮内庁キャップ、社会部副部長)が、受
賞記念に日本新聞協会の月刊誌『新聞研究』(2016年10月号)に寄稿している。
それによると、天皇陛下の「生前退位」の確たる意向を耳にしたのは「寒い季節」で、
取材を続けていた皇室関係者から「天皇陛下は譲位を望まれている」
「数年内に皇室が大きく変わるかも知れない」という話を聞いて衝撃を受けた、という。
橋口記者が天皇陛下のご意向を伝え聞いた言葉も「譲位」だった。
寄稿には「他社に抜かれたくない」という”記者本能”による日々の葛藤が、率直に描かれていた。

それからの重圧はすさまじかった。天皇の未公表の意向が明らかになること自体珍しく、
今後の日本の社会や憲法のあり方に与える影響も大きい。日本中に激震が走るニュースになるだろう。
「どんな段階で、どんな書き方なら放送に出せるのか」。当局サイドに悟られぬよう慎重に動きながら、
取材が進む度に予定稿を書き直した。スクープしても抜かれても歴史に残ることになる。
長年皇室行動に携わり、50歳の今も取材の現場を任されている者として、負けるわけにはいかない。
金メダルしかない勝負の世界で、この話で先を越されるのは耐えられないと感じていた。
他社が動いている気配はなかったが、天皇陛下の意向だけでも大ニュースだ。突然どこかが報じてしまわないか、
連日強い不安に襲われた。最後の数か月は、午前4時まで眠らず、新聞各紙の朝刊をチェックする日が続いた。
一方で、これだけの話、相当の確証を得ない限りどこも報道いは踏み切れまいーーと、
自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。
出典:橋口和人「重圧に耐えてタイミングを探る」『新聞研究』2016年10月号
「新聞研究」2016年10月号

橋口氏は、スクープとして報じるにあたって「報道が、憲法をないがしろにする形で、
天皇の退位を助長する結果になりはしないか」という点や、スクープ報道のあと当局が否定して他社も追随せず
誤報のそしりを受ける可能性も検討したと記している。
それらは、天皇陛下の意向表明が憲法違反にならないとの解釈が示され、
8月上旬にもお気持ち表明を行うとの情報を得ることでクリアし、発表にできるだけ近いタイミングを狙った結果、
7月13日の報道になったという。

発表前に報道をした意義は、お気持ち表明の理由や背景を事前に伝えることで
視聴者がメッセージをより深く理解できたことと、当局取材の原点は、あらゆる情報に「手が届く」ことで、
真実の隠蔽や歪曲を許さない抑止力であり続けることにあると語っている。
しかし、そうした意義は、事前取材で溜めておいた情報を発表直後に吐き出すことによっても果たし得る。
今回は、報道しなければ真実が闇に埋もれ明るみにできなかったという真正のスクープとは異なり、
いずれ発表される情報の「早いもの勝ち」スクープである。とはいえ、こんな重大な事実を知り得たら、
誰より早く報じたいと思うのが”記者本能”である。各社が一斉に追随し、世界中を駆け巡った、
歴史に残る第一級スクープであったことは、間違いない。

***

ただ、寄稿には、取材で伝え聞いた「譲位」ではなく「生前退位」という表現を使った理由については、
何も記されていなかった。
NHKの第一報を丹念に聞けば「数年内の譲位を望まれている」という表現も一部で使われていたが、
圧倒的なインパクトを与えた単語は「生前退位」であった。「未来」より「終末」を連想させる言葉だった。
それをあえて使う必然性はあったのだろうか。
NHKは「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、
視聴者に意味が伝わりやすいよう、この表現を使っています」と説明した。
スクープのあった7月13日以前の国会議事録を調べたところ、「生前退位」の4字熟語が戦後使われたのは3回。
いずれも国会議員が質問するときに使ったもので、政府側答弁では皆無だった。
「生前の退位」という表現も国会議員の質問で2回、政府側答弁で2回、使われたことがあるにすぎなかった
(昭和59年4月17日内閣委員会・山本悟宮内庁次長、平成3年3月11日予算委員会第一分科会・宮尾盤宮内庁次長)。
これまで政府が制度論の文脈で一般的に使ってきたのは、「退位」という表現である。
一方、メディアは、かつてローマ教皇ベネディクト16世の退位のときも、「生前退位」という表現で報道していた。
「生前退位」という表現はたしかに分かりやすくインタパクトが強い。だが、「譲位」や「退位」が、
意味の伝わりにくい表現だとも思えない。NHKは、ナレーションで「天皇の位を皇太子さまに譲る
『生前退位』」と説明を使っており、同じように「天皇の位を皇太子さまに譲る『譲位』」と言えば
十分に意味は伝わる。結局、ニュースの視聴覚的インパクトを最大限考慮して選ばれた表現が「生前退位」だった、
ということではないだろうか。その副作用が、天皇陛下の真意とずれた「終末/断絶」を想起させるイメージであり、
それが一部に強い反対論を惹起させ、当事者にも「驚きと痛み」をもたらしたのだと思う。
私個人としては、天皇陛下の「ご意向」を表すときは「譲位」、
制度論の文脈では「退位」という表現がふさわしいのではないかと考えている。

いずれにしても、メディアはえてして一度決めた用語に固執して使い続けがちだが、
より適切な表現に改めることができないわけではない。
言葉遣いにもっと敏感になり、この機会に立ち止まって再考することを期待したい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20161022-00063507/

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国家の象徴とは 河西秀哉さん、瀧井一博さん

(耕論)国家の象徴とは 河西秀哉さん、瀧井一博さん
2016年10月14日05時00分
天皇の生前退位への道を開くかどうか。政府の有識者会議が17日、初めての会合をもつ。
憲法の最初の条文が記す国の象徴、国民統合の象徴としての天皇に私たちは何を求めるのか。
国民的議論が深まらないなか、あえて天皇が投げかけた問いに、考えを巡らすときだ。 

■本来は国民が決めること 河西秀哉さん(神戸女ログイン前の続き学院大学准教授)
昭和天皇と今上天皇では、「象徴天皇」としての意識がかなり違っていると思います。
昭和天皇は、「象徴としての君主」という意識が強かった。
実は戦前の立憲君主から、あまり変わっていなかったのではないかという気がします。
自分には権威があり、その権威によって国民は統合されるという感覚をずっと持ち続けていた。
戦後の巡幸も、自分が行くことで国民が励まされるという発想だったのでしょう。
対照的に、今上天皇は「象徴として国民とともにある」という意識だと思います。
率先して被災地を訪問するのも、上から国民を励ますというより、
一緒に苦楽を分かち合うという感覚が強いのではないでしょうか。
昭和天皇は、戦後の「人間宣言」に「五箇条の御誓文」を引用することにこだわったように、
明治天皇からの連続性を強く意識していました。今上天皇は、もっと過去の天皇からの連続性を意識しています。
皇太子時代の1984年には、記者会見で「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、
象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています」と述べています。

今年8月の「お言葉」は、憲法に書かれている国事行為より、
各地を訪れて国民とともに過ごすことを重視しているようにさえ読める。それこそが「象徴」の務めであり、
天皇制本来の伝統だと考えているのだと思います。そうした務めを増やしてきたことに、強い自負があるのでしょう。
こうした象徴天皇観を持つようになった背景には、皇太子時代、特に結婚の前後に、
国民から強い関心を向けられ続けてきたこともあったと思います。自分が国民やメディアからどう見られているか、
何を期待されているかを常に意識してきたことが、「国民とともにある象徴」という意識を形成する上で
非常に大きかったのではないでしょうか。
一方で、東日本大震災の後のビデオメッセージや今回の「お言葉」など、自らメディアを通じて
象徴天皇像を作り上げてきた部分もあると思います。
戦後50年あたりから、重要な節目にはかなり踏み込んだことを話すようになっていますが、
自分の言葉がどう報道されるかを常に意識している感じがします。

「お言葉」は、ある意味で、天皇が政府や国民に向けて投げたボールだと思います。
「自分は象徴としてこうした仕事をしてきた。それをどう思うのか」という問いを投げかけ、
「いまの象徴のあり方を維持していくことを考えてほしい」と言っているわけです。
この70年間、われわれは、象徴天皇制というものを漠然と受け入れてきました。
「象徴とはどうあるべきか」「象徴の務めとは何か」を真剣に考えてこなかった。
憲法9条については議論しても、1条の話はしませんでした。
「象徴」とは何なのかを、誰よりも真剣に考えてきたのは今上天皇ご自身ではないでしょうか。
「お言葉」でも「象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」と言っています。
その思索の結果が「国民と苦楽をともにする」という象徴天皇観であり、生前退位することで、
それを次代に受け継がせたいという強い思いが読み取れます。
天皇が自ら問題提起すること自体は、象徴天皇制からは逸脱している部分があります。
しかし、これまで政府や国民は、天皇をめぐる問題には触れようとせず、後回しにしてきました。
それをずっと見てきて、今回あえてボールを投げたのでしょう。「国民統合の象徴」とはどういう存在か、
その務めとは何なのかは、本来は国民が決めるべきことです。ボールをしっかり受け止め、
いまこそ真剣に議論すべきだと思います。

かわにしひでや 1977年生まれ。専門は日本近現代史。
著書に「『象徴天皇』の戦後史」「明仁天皇と戦後日本」、編著に「戦後史のなかの象徴天皇制」など。

■憲法秩序を外から支える 瀧井一博さん(国際日本文化研究センター教授)
明治憲法下の天皇は、絶対君主のような存在だったと思われがちです。
しかし実際には、明治憲法下においても、天皇はある種の象徴として存在していました。
明治憲法の字面だけ読むと、天皇が統治権の総攬(そうらん)者とされ、
あらゆる政治権力が集中するかたちになっている。とはいえ、自分では権力を行使せず、
権力を分け与えられた者たちが、天皇の名代として政治を行うというのが、現実の運用でした。
こうした天皇のあり方のレールを敷いたのは、明治憲法制定を主導した伊藤博文です。
天皇の親政を否定し、憲法の下に置く立憲君主制を採用して、国民統合の象徴にしようとした。
明治天皇自身も伊藤に全幅の信頼を置いて、立憲君主としてふるまい、
政治的なことに対して自分の意思を表明しようとはしなかった。
伊藤は、旧皇室典範により天皇の生前退位も認めませんでした。
天皇の自由な意思を認めれば、政治が混乱すると考えたからです。
天皇から「私」的なものを徹底的になくし、完全に「公」の存在にしようとしました。
実際に明治憲法の下で政治が動き出すと、政府と議会が対立したときに宥和(ゆうわ)を促したり、
大津事件で負傷したロシアの皇太子を見舞ったりと、天皇が政治的な機能を担うようになります。
それでも、あくまでも中立的な調停者という立場でした。
昭和期になると、天皇の政治的側面が突出してきました。張作霖爆殺事件で田中義一首相を叱責(しっせき)する、
軍部と距離をとる姿勢を見せるなど、政治的な立場を明確にするようになる。
立憲君主のあり方が大きく変質していきました。
敗戦、日本国憲法の制定で、天皇はそうした政治的機能をすべてはぎ取られ、「象徴」とされます。
日本国憲法が当初想定していた象徴天皇は、力を持たない、空っぽな存在でした。
戦後の天皇制の歩みは、本来は空であった象徴という役割に、
どういう積極的なものを入れることができるかという試行錯誤だったと思います。
戦争や災害の犠牲者を慰霊し、苦難にある人々を慰撫(いぶ)し、国民生活の平安を祈る。
特に今上天皇は、被災地を訪れ、体育館でひざをついて被災者と話すことで、
憲法を普通に動かすだけでは解消できないこの国の傷を、ある程度回復させてこられた。
本来ネガティブだった日本国憲法下での象徴のあり方を、ポジティブなものに転換させたといえます。
戦前と戦後の「象徴」は、もちろん違いのほうが大きい。しかし、明治憲法下でも日本国憲法下でも、
実際に天皇が果たしてきた役割は、まさに国民統合を行う象徴でした。
憲法秩序を、いわば外側から支える役割を天皇が担ってきたという意味では、連続している部分も大きいのです。
天皇のあり方は憲法にしたがって設計され、時々の環境や必要性に応じて決められるべきだという観点から、
生前退位はきわめて難しい問題をはらんでいます。
今上天皇の個人的意思によって、今後の天皇のあり方が規定されることは禍根を残しかねません。
天皇が老いていかれることに国民が思いを致し、お隠れになった場合にそれを悼み服喪するということも、
象徴に伴う重要な機能と考えられます。ひとつの象徴が去り、新たな象徴が誕生する一連の出来事は、
悲しみから新たな時代の自覚へと国民の意識に再生を促す作用を果たしうるからです。
そういったことも念頭に置きながら、今回の天皇の「お言葉」を、
国のかたちにいかに反映させていくか考える必要があります。退位を認めるとしても、
特別立法で片づけるのでは意味がありません。
「お言葉」が、皇室制度のあり方を総体的に考え直すきっかけとなることを願っています。

(聞き手はいずれも尾沢智史)

たきいかずひろ 1967年生まれ。専門は比較法史、国制史。
著書に「文明史のなかの明治憲法」(大佛次郎論壇賞)、「伊藤博文」(サントリー学芸賞)など。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12606481.html

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64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か

64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か
9月6日(火)8時55分配信
真紅のブレザーに白のスラックス。1964年の東京オリンピック開会式で
日本選手団が着用した「日の丸カラー」の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、
服飾デザイナーの石津謙介がデザインしたとされてきた。
「石津デザイン」の記述は、現在もJOC(日本オリンピック委員会)や公的機関のホームページに掲載されている。
ところがその通説とは異なり、実際にデザインしたのは
東京・神田で店を構えていた望月靖之という洋服商だという資料や証言が数多くある。
望月とは誰か。なぜ石津デザイン説が広まったのか。(服飾史家 安城寿子/Yahoo!ニュース編集部)

「石津謙介デザイン」という通説
JOCのホームページには、東京オリンピックの公式服装に関する記事が掲載されている。
そこには「公式服装を手がけた服飾アーティスト」として石津謙介の名前が明記されている。
国立博物館・昭和館の2008年の企画展「オリンピック 栄光とその影に」の告知ホームページには、
「日本選手団の公式服装はブレザーが赤、帽子とズボン・スカートが白という
鮮やかな『日の丸カラー』であった。デザインはデザイナーの石津謙介氏が担当した」と紹介している。
石津謙介(1911-2005)は、メンズアパレルブランド「VAN」を手がけ、ちょうど、東京オリンピックの頃に、
「アイビールック」(アメリカン・トラッド、スタイルの一つ)のブームに火を付けたことで知られる人物である。
秩父宮記念スポーツ博物館のホームページには、「VANを創設した石津謙介のデザインで、
アイビー調のユニホーム」とある。2014年に江戸東京博物館で開催された「オリンピックと新幹線」展では、
「石津謙介デザイン」というキャプションとともにユニフォームの実物が展示されていた。
2015年8月1日(夕刊)の『日経新聞』に掲載された「日の丸カラー超えて 五輪ユニホーム、
デザインに歴史」という記事には「デザインを考案したメンバーには
『アイビールック』生みの親の石津謙介さんも」という記述がある。
さらに、2016年6月18日の『産経新聞』の記事「『2020年、日本のデザイン力を世界に示せ』デザインが
表舞台に躍り出た昭和39年の高揚」では、写真のキャプションに、「開会式で行進する日本選手団。
石津謙介らが手掛けたおそろいのブレザーなど、デザインは東京五輪の成功を支えた」と書かれている。
東京オリンピックの公式服装をデザインしたのは石津謙介というのが通説になっているようだ。

当時の資料にはどう書かれているか
しかし、当時の資料を紐解いてみると、石津ではなく別の人物がデザインを手がけたという記述が
いくつも見つかる。
東京オリンピックの公式服装の生地を提供した大同毛織(現ダイドーリミテッド)には、
一冊のアルバムが所蔵されている。そこには、あの赤と白のユニフォームが飾られたショーウィンドーを映した
何枚もの写真が貼られている。東京オリンピックの開催を記念し、1964年に全国のデパートで行われた
ウィンドーディスプレイの様子を収めたものだ。どの写真にも、「デザイン望月靖之」
「製作ジャパンスポーツウェアクラブ」「生地大同毛織」と書かれたプレートのようなものが映っている。
1964年10月16日の『読売新聞』には次のようにある。
「東京大会のブレザー製作に活躍した望月さんは、かねがね日本独自の色をと念願していたそうで、
赤と白を大胆に分けたこんどのブレザーは、これまでのものと比べると、まさに画期的。
自信をもって日本のナショナルカラーが打ち出せたと自信たっぷりです。赤は情熱、白は清潔のシンボル。
ぬけるような秋空にはためく日の丸そのものの美しさなのです」
1964年10月号の業界専門誌『日繊ジャーナル』も、「ブレザーの色は日の丸と同じ朱色であるが、
これは望月氏の四年越しの念願。氏は『東京大会には是非、朱色でいこうと思い
ローマ大会をみにいったが各国ともその70%がナショナルカラーを服装に表現している。
日本も国旗の日の丸でいくべきとハッキリ決めたわけです。朱は情熱に燃える若人の心と愛をあらわし、
配する白は清潔感を象徴したもの』と熱をこめて説明する」と報じている。

望月靖之とは誰か
東京オリンピックの公式服装をデザインした人物として多くの資料に登場する望月靖之とは何者なのか。
山梨県富士川町にある「富士川町スポーツミュージアム」には、それを知るための手がかりが多く残されている。
町営のこぢんまりとした資料館だが、中に入ると、デザイン画、通行証、記念の盾、
近親者だけに配られたという望月の自伝など、彼のたどった足跡を伝える貴重な品々が展示されている。
望月は、1910年にこの町に生まれた。自伝によると、10代の終わりに上京して洋服商となり、
弱冠20歳で独立開業したという。
望月とオリンピックの関わりは、日本が戦後初めての参加を果たした1952年のヘルシンキオリンピックにまで
さかのぼる。この時、望月は、公式服装の仕事を自分に任せてもらえないかと
日本体育協会(1988年までJOCの上位団体)に申し出た。もちろん、何のあてもないところに手を挙げたわけではない。
東京・神田にあった望月の洋服店は、戦前から、日本大学の制服を仕立てる指定商だった。
当時の日大と言えば、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた水泳選手の古橋廣之進をはじめ、
多くのスポーツ選手を輩出していた大学である。日大水泳部出身で日本水泳連盟会長を務めた林利博さん(79)
によれば、22種目ほどあった日大の運動部のうち、18種目が学生選手権を制覇するほどの勢いで、
日大からは続々とオリンピック選手が誕生していったという。林さんは当時を次のように振り返る。
「その後JOCの役員になった人もいたな。ボクシング部の柴田勝治さんとかね。OBも含めて、
お互いあだ名で呼び合う親しい付き合いをしていました。その輪の中に望月さんがいたことは確かです。
皆、卒業しても望月さんの店で洋服を作るのが当たり前になっていました。
望月さんの五輪ユニフォームの仕事はそういう絆の中で出てきたものだと思います」
こうして、望月は、ヘルシンキ大会において、デザインを含む公式服装に関する仕事の一切を任されることになった。
この時、生地を提供したのは東京大会と同じ大同毛織だが、同社は古橋廣之進が1951年に就職した会社でもある。

きっかけとなった秩父宮の言葉
先に引用した1964年10月号の『日繊ジャーナル』の記事には、「ブレザーに関心の深い秩父宮殿下から
『ヘルシンキ大会のはブレザーでなくユニフォームだ』といわれたことに痛く恐縮し、
だからこそ一念発起『心血を注いで』ブレザー作りにかけることになったという望月氏である」とある。
また、望月自ら、同年10月1日に関係者一同を集めて行われた
「日本代表選手団ブレザーコート完納祝賀パーティ」の挨拶の中で、「想えば秩父宮ご在世のみぎり、
遠征する選手団の服装には気を配ってやらねばならない旨のお言葉を承って以来、
殿下のお言葉が耳から離れない」と語っている(『洋装ジャーナル』1964年10月1日号)。
秩父宮は昭和天皇の弟であり、秩父宮ラグビー場や秩父宮記念スポーツ博物館といった施設に
その名が謳われているように、日本のスポーツ振興に多大な功績を遺したことで知られる。
その秩父宮から賜った言葉が望月の原動力となっていたようだ。
望月がヘルシンキ大会のためにデザインしたのは、紺色のブレザーとグレーのズボンだった。それが「ブレザーでなくユニフォームだ」という秩父宮の言葉はどういう意味だろうか。
ブレザーは、19世紀前半、ケンブリッジ大学のボート部の部員たちが、オックスフォード大学との対抗試合で、
ジャケットの色を彼らのカレッジカラーの燃えるような赤(blazing red)で統一したことに起源があると言われる。
それは本来、ある集団にとって特別な意味を持つ色でなければならない。紺色は日本を象徴する色ではないし、
望月も何か意味があってそれを選んだわけではなかったから、日本選手団にふさわしいブレザーであるとは言えない。
秩父宮はそのことを指摘したのだと望月は理解した。
望月の自伝によると、さらに、「よく日本の歴史を調べて日本の色をブレザーに表してみてはどうだろう」という
激励を賜り、この時から、望月は、日本のナショナルカラーを探し始めた。
日大図書館長だった法学者の斎藤敏に古文書の調査を依頼したり、
身延山久遠寺に大僧正を訪ねて法衣(僧侶が身に着ける衣)の色の由来を聞いたり、様々なことを試みたようである。

日之本の国(ヒノモトノクニ)の赤と白
ある時、望月は、歌舞伎の鑑賞中に、「我が日之本の国(ヒノモトノクニ)は」という台詞に耳を奪われた。そして、日本と太陽の強い結び付きを発見する。望月の自伝にはこんな一節がある。

◇◇◇
 「そうだ日本のマスコットは桜の花ではない、富士山でもない、『太陽』だ、真赤に燃えた太陽だ
 だから我々の先祖は太陽を国旗に取り入れたのだと思う。
 世界各国の国旗を見ても、ほとんど星で、丸い太陽を取入れ国旗に表わしたのは世界で唯一日本だけだ。
 例えば日時でも、日本が正午と仮定すれば台湾は11時、バンコックは10時、フランスは午前4時、
 更に日付で日本が10日と仮定すれば、アメリカはまだ9日だ、
 日出ずる国のマスコットは世界に誇れる太陽だ、その太陽の深紅の色だ」
(望月靖之『ペダルを踏んだタイヤの跡』栄光出版社、1985年)
◇◇◇

ヒノモトノクニ。太陽。日の出。日の丸。さらに、祝い事に紅白を用いる日本の伝統にも思い至った。
こうして、望月は、赤と白こそ日本のナショナルカラーであると考えるようになったという。
そして、それぞれの色に、日本の若き選手たちの「情熱」と「清潔」という意味を込めた。
しかし、こうして見つけたナショナルカラーを公式服装に取り入れようとする望月の提案は
なかなか受け入れられなかった。実は、望月は、1956年のメルボルン大会でも、赤いブレザーを提案しており、
後年の回想で、「JOCの理解が得られず、派手な紺の色となりました。
しかし赤と白のまいたテープをブレザーの襟につけました」と語っている。
(「オリンピック日本代表選手のブレザーの由来」日本体育協会編『体協時報』1988年11月号)
さらに、次のローマ大会(1960年)でも、望月の挑戦は続けられた。1960年3月26日の『東京中日新聞』の見出しには、
「清潔か情熱かあなたはどちらを?服装委員会は白を採用」とあり、
「望月靖之氏がこんどもローマ大会用のブレザーをつくった。そのデザインの基調になったのは
日本の特色を生かして日ノ丸の赤と白の二色を使い、しかもよく目立つものということだ」という文章とともに、
二種類のデザインの写真が掲載されている。
一方は襟に白い縁取りのある赤のブレザー。もう一つは襟に赤い縁取りのある白のブレザー。
いずれも下は白のズボン。望月は、ローマオリンピックのために、二つのデザイン案を提出していたが、
派手な赤には難色を示すJOCの委員が多く、白の上下が採用されたというのである。
東京オリンピックの赤いブレザーは、8年ごしの念願がかなってようやく実現されたものであった。

「貧乏人の注文服」批判
1964年6月4日、『読売新聞』に一つのコラムが掲載された。タイトルは、
「貧乏人の注文服:東京オリンピックのブレザーコート」。
アメリカ選手団の公式服装が既製服であることを引き合いに、
アメリカよりも経済力の劣る日本の選手が高価な注文服の公式服装で開会式に臨むことを批判したものだ。
「入念な仕立てであるということは、この一着を長く着よう、古くなれば裏返しをして着る。
あげくの果ては、子供のものにでも改造して、孫子の代まで活用しようとする日本の貧困性からうまれた、
衣服の考え方にほかならぬ。(中略)見せびらかしのために着るたった一着のよそ行きだから、
無理しても、身分不相応でも、金を惜しまぬという悲しい習慣から生まれたものに相違ない」
随分と手厳しいこの批判の主は誰であったか。
他でもない、石津謙介である。
当時、服飾評論家としても活動していた石津は、この記事の前半で、ブレザーを赤にするという選択は
「賢明だった」という評価を与えつつも、それが高価な注文服であることを批判したのだった。
この公式服装をデザインしたのが石津であるなら、自分の仕事をこうして論評するということはあり得ないだろう。
一方で、石津は、東京オリンピックと全く無関係というわけでもない。
1965年に東京オリンピック組織委員会がまとめた資料によれば、石津は、森英恵や芦田淳とともに、
「大会の運営に従事する者の制服」の指名コンペに参加している。審判、通訳、誘導、
警備などのスタッフ用ユニフォームである。審査の結果、作業員と用務員の男性が身に着けるユニフォームに
石津のデザインが採用された。こちらは、注文服ではなく、サイズ展開のある既製服として制作されたようだ。

いつ?どうして?−−「石津デザイン説」の誕生
1964年当時は「望月デザイン」と報じられていた東京オリンピックの公式服装だが、
いつ頃、どのようにして、「石津デザイン説」が広まったのだろうか。
「石津デザイン説」の初出は定かではない。1995年にパルコから出版された
『ストリートファッション1945-1995:若者スタイルの50年史』という本に、
「VANの石津謙介が東京オリンピックの男子選手用のブレザーをデザイン」とあることから、
遅くとも、この頃までには、「石津デザイン説」が通説化していたものと考えられる。
1980年、モスクワオリンピックの年には、「石津デザイン説」の端緒となりそうな情報が発信されている。
1980年1月31日号の『週刊文春』の記事によると、この年、石津は中国から、
同国の公式服装のデザインの依頼を受け、五星紅旗(中国の国旗)の赤を取り入れたユニフォームを
デザインしている。結局、それは、ソ連との関係が悪化した中国がオリンピックへの参加を見合わせたため、
日の目を見ずに終わった。同記事には、「国家的規模の行事ではね、東京、札幌オリンピックと
万博のときの制服のデザインを日本政府に頼まれてやりました」という石津の発言が掲載されている。
確かに石津は、東京オリンピックの作業員と用務員のユニフォームをデザインしていたわけだが、
何の予備知識もなくこれを読んだら、公式服装のことだと誤解しかねない。
同年2月号の『NUC情報』という機関誌にも、同趣旨の石津の文章が掲載されている。こうした情報の発信が
きっかけとなって、徐々に「石津デザイン説」が通説化していった可能性は否定できないだろう。
1964年の東京オリンピックの公式服装のデザインは、石津ではなく望月−−。こ
うした資料や証言があることについて、石津事務所はどういう見解なのか。事務所の広報担当者によると
「監修者としてデザインに関わったが、デザイン画は描いていないと聞いている」と説明した。
しかし、当時の公式服装のデザインの監修者として石津謙介の名前が記されている資料は見つからなかった。
望月靖之は2003年に他界している。彼はこうした事態を把握していたのか、把握していたとすれば、
それに対して何か抗議をしなかったのか。
東京オリンピックの前年から望月のもとで働いてきたという男性(75)はこう話す。
「そりゃ怒ってましたよ。でも、知ってる人は知ってるからいいんだということで過ごしていたんです」

安城寿子(あんじょう・ひさこ)
1977年東京生まれ。服飾史家。JOA(日本オリンピック・アカデミー)会員。学習院大学文学部哲学科卒。
お茶の水女子大学大学院博士後期課程単位取得満期退学。博士(学術)。
文化学園大学、横浜美術大学、上田安子服飾専門学校ほか非常勤講師。専門は日本の洋装化の歴史研究。
共著に『ファッションは語りはじめた――現代日本のファッション批評』(フィルムアート社、2011年)がある。

http://news.yahoo.co.jp/feature/342

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天皇陛下、卓球の腕前を披露

(皇室トリビア)天皇陛下、卓球の腕前を披露
宮内庁担当・島康彦
2015年10月22日11時15分
「ちょっと、やりましょうか」。卓球の練習を見守っていた天皇陛下が、
ラケットを手に卓球台に向かいました。
予定になかった「飛び入り」参戦に、居合わせた人たちからどよめきがあがりました。
相手は、パラリンピックを目指している宿野部拓海(しゅくのべ・たくみ)選手(23)。
海外の大会で優勝経験のある実力者です。
天皇陛下はスーツの上着を着たまま、宿野部選手と向き合いました。
宿野部選手の球を、天皇陛下は着実に打ち返していきます。
山なりの球ではなく、低い弾道で速い球のラリーが続きました。
2球目、3球目……。天皇陛下は無駄な動きをせず、どっしりと構えて、相手の球を確実に打ち返すスタイル。
真剣な表情の天皇陛下に、宿野部選手もこたえるように激しい球を返します。
卓球台のすぐ横で見守っていた皇后さまは、楽しげに笑みを浮かべ、脇にそれた球を拾う場面も。
計7球にわたった試合が終わると、会場から大きな拍手があがりました。
10月4日。大分県別府市にある社会福祉法人「太陽の家」での一コマです。
この施設は半世紀にわたり、障害者の就労を支援してきました。
長年にわたり心を寄せてきた天皇、皇后両陛下は、施設の創立50周年記念式典の節目に、ぜひ訪問したいと希望。
施設で働きながら、パラリンピック出場を目指す選手たちの練習を見て回ったわけです。
「やりましょうか」。天皇陛下は、宿野部選手の練習相手だった男性にも声をかけ、再び卓球台に向かいました。
先ほどにも増して、激しいラリーが続きます。今回も試合は計7球行われ、最後の1球は長いラリーの応酬。
天皇陛下が得点すると、皇后さまはうれしそうに拍手を送っていました。
80歳を超えているとは思えないラケットさばき。汗もかかず、息があがった様子もありません。
20代〜40代が大半の報道陣からは「とても勝てそうにない」と驚きの声があがったほどでした。


実際、天皇陛下の卓球の腕前はどうだったのでしょう。
宿野部選手によると、天皇陛下はフォームがきれいで、球に角度があったそうです。
「お上手でした。ラケットを持たれた時は真剣で、ボールをとってやるという卓球でした」と話していました。
実は、天皇陛下は古くから卓球に親しんできました。学習院中等科1年生だった1946年12月、
東京・小金井にあった寄宿舎で卓球をする写真があります。
テニスや乗馬などスポーツを楽しむ中で、卓球は長くプレーされていたようで、
85年11月には、鳥取県のろう学校を訪れた際、練習中の生徒を相手に卓球を楽しみました。
今回と同様、飛び入りでの参加だったようです。現在は皇后さまとテニスをプレーすることが多いですが、
雨の日などに皇居内で卓球をすることもあると聞きました。

太陽の家の創始者、故・中村裕さんは「障害者スポーツの父」と呼ばれています。
障害者は表には出ず、家で生活することが多かった時代に、中村さんは「保護より機会を」の理念を掲げ、
障害者の働く場の確保に努めました。また、障害者の自立にはスポーツが必要と訴え、
1964年の東京パラリンピックを提唱。日本選手団長を務めました。
東京パラリンピックの開催に向けては、皇太子ご夫妻時代の両陛下も実現にむけて関係者を励まし続けました。
中村さんや選手をお住まいの東宮御所に招き、ここでも天皇陛下が選手と卓球をする場面もありました。
62年8月、ロンドンで開かれた第10回身体障害者オリンピックに出場した卓球の伊藤工、
吉田勝也両選手の訪問を受け、プレーの実演を観戦した写真も残っています。
大会で天皇陛下は名誉総裁を務め、皇后さまとともにたびたび競技会場を訪れました。
この大会では、皇后さまも開催を後押ししました。大会には各国からたくさんの選手団が来日しましたが、
五輪ほどの予算がなく、通訳や介助を担う人たちの確保が懸案でした。そこで、ボランティアで担う案が浮上。
皇后さまと旧知の関係だった日本赤十字社青少年課長の橋本祐子さん(故人)が奔走し、
後の語学奉仕団となる「通訳奉仕団」を結成しました。
「東京パラリンピックが若い工夫と、温かい心のゆきわたった大会になりますよう祈っております」。
奉仕団の結成式で、皇后さまはあいさつでそう呼びかけました。
関係者によると、皇后さまは通訳の勉強会にも出席したそうです。

東京パラリンピックが終わった後、両陛下は東宮御所に関係者を招き、こう語ったといいます。
「身体障害者の方々に大きな光明を与えたことと思います。このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」。
大会の運営委員会会長(当時)はその場で
「今後、毎年国体のあとを追いかけて開催したい」と返答。このやりとりが、翌1965年、
岐阜県で「全国身体障害者スポーツ大会」の全国大会開催につながったといわれています。
両陛下は毎年、この大会の開会式に出席。競技会場を回り、選手をねぎらってきました。
即位後の90年以降は皇太子さまに引き継いでいますが、
その後も世界大会で活躍した選手たちを皇居・宮殿での茶会に招いてきました。
関係者は「障害者スポーツがここまで発展したのは、天皇陛下の提案があったからだと思う。
大会は選手たちの生きがいにもなっています」と話していました。
宮内庁幹部によると、障害者スポーツに長年心を寄せてきた両陛下にとって、
太陽の家の創立50周年式典への出席は、ぜひ出席しなければと心に決めていたといいます。
パラリンピックは以前はオリンピックに次ぐものという位置づけでしたが、
今では、東京オリンピック・パラリンピックと併記されるまでに広く知れ渡ったと、
天皇陛下は周囲に話していたそうです。(宮内庁担当・島康彦)

http://www.asahi.com/articles/ASHB9513CHB9UTIL032.html

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天皇陛下の疎開先をたどる 栃木・益子

朝日デジタル
(皇室トリビア)天皇陛下の疎開先をたどる 栃木・益子
宮内庁担当 島康彦
2015年9月24日11時48分

益子焼で知られる栃木県益子町。地元の観光協会によると、窯元は約260、陶器店は50を数えます。
そんな芸術の街に、天皇陛下が70年前の1945年8月15日、
戦争終結を伝える昭和天皇の「玉音放送」を聞いた部屋が残されていると聞き、記者がたずねました。

益子駅から車で10分ほどにある「つかもと」。
子焼の販売や陶芸体験、飲食店などを手がける同社の敷地内に、その建物はありました。
小高い丘に立つ2階建ての和風建築。普段は公開されていませんが、お願いして中を見せてもらいました。
重厚感のある玄関を入り、玉ねぎを逆さまにしたような形の装飾物「擬宝珠(ぎぼし)」がついた階段を上がると、
下の両側に計7部屋が並んでいます。その一番左奥の部屋に「天皇陛下ご疎開の間」と表示が掲げられていました。
ここが天皇陛下が玉音放送を聞いた部屋です。
45年7月21日から終戦後に帰京する11月7日まで過ごしました。
手前から8畳、10畳、5畳に分かれ、天皇陛下が玉音放送を聞いたのは8畳間。
壁側に机が置かれ、普段は勉強部屋として使われていたそうです。
「しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた」。
当時の状況を、学習院軍事教官として立ち会った高杉善治さんが著書に残しています。
居間として使われていたのが、隣の10畳の部屋。
中央のテーブルには、向かい合うように座椅子とふたがついた湯飲み茶わんが二つずつ置かれていました。
天皇陛下は1996年、地方産業視察のために益子町を訪れ、皇后さまとともにこの部屋で昼食をとりました。
この時、案内役を務めた「つかもと」会長の塚本純子さん(81)は
「(天皇陛下は)疎開当時を非常に懐かしがられた様子で、
『お部屋の雰囲気は変わりませんね』」と話したそうです。
その奥の5畳間の柱に、数本の横線の印が残されているのに気付きました。
「真偽は不明ですが、陛下の身長を記したものだと言われています」。そう教えてもらいました。
ちょうど真下にあたる1階の部屋も同じ間取りです。10畳の部屋が寝室。
8畳間の壁の一部には穴が空けられ、庭の防空壕(ぼうくうごう)につながっていたと言われています。
「つかもと」によると、この建物はもともと栃木県日光市の奥日光、
湯ノ湖そばに建っていた「南間(なんま)ホテル」です。
江戸時代から続いた由緒あるホテルでしたが、その後、廃業。
1973年に建物ごと「つかもと」が引き取り、今の場所に移築したそうです。
ホテルや宴会場として利用されましたが、いまは使われていません。
つかもと社は「天皇陛下が疎開生活を送られた大切な場所」と今後も管理していく方針ですが、
補修などで多額の維持費がかかっているといいます。中を見たいという声もあるようです。
栃木県や益子町などが歴史的遺産として公的に管理することを検討するのも一つの道かもしれません。

天皇陛下が最初に疎開したのは1944年5月15日。当時10歳、学習院初等科5年生でした。
静岡県沼津市の沼津御用邸で生活し、近くの沼津遊泳場にあった建物で同級生と授業を受けました。
その一人、明石元紹(もとつぐ)さん(81)によると、
当初は松林で相撲大会を開いたり、遠足へでかけたりするなど平穏な日々が続いたといいます。
しかし、7月7日にサイパンが陥落すると状況は一変。
近くの岬に敵国の潜水艦がいるという情報が寄せられ、翌8日に帰京。
そのわずか2日後の10日には、栃木県日光市の田母沢(たもざわ)御用邸に移りました。
秋篠宮さまは昨年11月の誕生日会見で、天皇陛下にとってサイパンがとりわけ印象に残っていると紹介したうえで、
天皇陛下から「沼津の疎開中に、ある日学校の授業から帰ってきたときに、
お付きの人からサイパンが陥落して、危ないので日光の方に場所を移しますということを言われて、
それでサイパンが陥落したということが大変なことなのだと強く印象に残っている」と聞いたと明かしました。
日光田母沢御用邸は1899年に大正天皇の静養先として造営されました。
大正、昭和、現在の天皇陛下と3代にわたり利用されましたが、1947年に廃止され、
現在は記念公園の一部として有料で公開されています。
合計で106の部屋があり、天皇、皇后向けの南側の奥向き(23室)と、
それを補佐する臣下向け(83室)に区分されています。
天皇陛下は1944年7月10日から終戦後に帰京する11月7日まで、
大正天皇の妻・貞明皇后のために造られた皇后宮で生活しました。
もともとは日光出身の実業家小林年保(ねんぽ)の別邸として明治20年代初頭に建てられ、
当時の民間の建物としては質が高く、京風の様式を意識した優美な造りが特徴でした。
1階の皇宮御座所を居間として使い、2階の御学問所で勉強したそうです。
御学問所も普段は非公開ですが、特別に見せてもらいました
畳敷きの部屋の床柱はイチイの角柱で、室内の釘隠しには折り鶴がデザインされています。
両陛下は1996年7月、およそ50年ぶりにこの部屋を訪れました。「あのあたりにあったイチイは?」。
地元関係者によると、2階から庭を見ていた天皇陛下は庭の地面を指さして、そうたずねたそうです。
後に調べたところ、天皇陛下の疎開中、まさにその場所にイチイの木があったことが分かりました。
このことがきっかけで2001年7月、両陛下が再びここを訪れ、イチイの木をお手植えしました。
今は3メートルの高さに成長しています。
管理事務所の鈴木孔二主査に庭を案内してもらいました。目を引いたのが、4カ所にある防空壕(ごう)の入り口。
天皇陛下が利用したかどうか、構造はどうなっているのかなど、はっきりしないことが多いとのことです。
今年8月、職員が中に入ったところ、腰ぐらいまで水がたまっていたそうです。
天皇陛下は疎開中、同公園に隣接する植物園(現・東京大学大学院付属植物園日光分園)内の教室に通学し、
同級生と授業を受けました。その教室は火事で焼失しましたが、再建され、今は研究場所となっていました。
天皇陛下が通学中に通った「通御橋(かよいみはし)」、2カ所に防空壕が残っています。
天皇陛下が初めてスキーをしたという坂もありました。
この園内には日本の高山や温帯から亜寒帯に生育する種などが集められ、
自生も含めるとシダ植物約130種、裸子植物約70種、被子植物約2千種が生育しているそうです。
園内は有料で開放されていますが、見どころがたくさんあってオススメです。

終戦後の1945年11月7日。天皇陛下は同級生とともに東京に戻ります。
国鉄日光駅から特別列車に乗り、原宿の皇室専用の駅へ。同級生の明石さんは「どこをみても焼け野原で、
あったはずのものがなくなっていた」と振り返る。
天皇陛下も皇太子時代の会見で「東京に戻ってきたとき、まず、びっくりしたのは、何もないということですね。
建物が全然ない。原宿の駅に。これがいちばん印象に残っています」と話されています。
(宮内庁担当 島康彦)
http://www.asahi.com/articles/ASH9P36LKH9PUTIL001.html

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公務の定義

(いちからわかる!)天皇陛下や皇族の活動、何を公務と呼んでるの?
2015年8月11日05時00分

◇国事行為(こくじこうい)や国内外への訪問など。実は、明確な定義はない
コブク郎:天皇陛下(へいか)や皇族方の活動は「公務(こうむ)」と言われるけど、公務って何?

A:実は「公務」に明確な定義はないんだ。天皇陛下の活動をみると、
(1)首相の任命(にんめい)、国会召集(しょうしゅう)など、憲法で定めた
「国事行為(こくじこうい)」(2)国内外各地への訪問、式典出席といった
「公的行為」(3)プライベートな外出や宮中祭祀(さいし)などの
「私的行為」に分けられる。国事行為と公的行為を合わせて「公務」と呼んでいるよ。

コ:区別しにくいね。

A:秋篠宮(あきしののみや)さまは会見などで、天皇陛下の国事行為のみを
「公務」とみなす考えを示している。皇族の場合には「規定のある公務というものはないと
考えていいのだと思います」とも述べ、最近は、自らの活動にも公務という表現を
使っていない。皇族方の間でも認識が分かれているようだ。

コ:皇族方の公的な活動はどうやって決まるの?

A:行事や式典の主催者側からの「願い出」が前提になる。宮内庁によると、
日程や訪問先の内容などを踏まえ、偏(かたよ)らないように訪問歴も参考にするという。
天皇、皇后両陛下の場合、お二人が一緒の三大行幸啓(ぎょうこうけい)と呼ばれる「全国植樹祭」
「国民体育大会」「全国豊かな海づくり大会」など、毎年恒例の行事も少なくない。

コ:被災地訪問や戦没者慰霊(いれい)も数多いね。

A:両陛下や皇族方の意向を踏まえ、宮内庁側から先方に話を持ちかけることも少なくない。

コ:負担を軽くすることも検討されているの?

A:宮内庁が昭和天皇と天皇陛下の公務を同じ年齢で比べたところ、都内や地方への訪問は
約2倍、赴任する大使との面会などは約5倍だった。天皇陛下が「象徴天皇」を模索(もさく)し、
国事行為以外の公的行為を幅広く積み上げてきた結果だろう。
でも、皇后さまとともに80歳以上の高齢で、体調も万全ではない。宮内庁も対策を検討中だ。

(島康彦)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11909497.html

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佳子さま人気から考える日本のプリンセス - 渡邉みどり

2015年05月13日 17:28
佳子さま人気から考える日本のプリンセス - 渡邉みどり

「ミッチーブーム」を想起させる熱狂ぶり
現在の秋篠宮佳子内親王への国民の熱狂ぶりは、
1958年に現在の天皇陛下と皇后美智子さまの結婚が決まったころの「ミッチーブーム」に重なるものがある。
正田美智子さんは史上初の民間出身で、天皇家に新たな風を運んでくれた。
時のメディアは総力を挙げて美智子さまの特集を組み、
多くの女性たちは彼女の美と聡明さに未来への希望を感じていた。
そして今、平成のこの時代に、佳子さまの言動もまた伝統を守りつつ
新しい風を運ぶことにつながっていると思う。
彼女の「文化財級」の気品に国民は大きな希望を見いだしている。

2015年1月佳子内親王一般参賀デビュー
2015年1月2日、皇居で行われた新年一般参賀に、
20歳の誕生日を迎えたばかりの佳子内親王が初めて参加された。
すでに昨年「下見」もお済ませになっていた佳子さまの登場は多くの国民の関心を集めており、
この日は8万人を超える人出であった。これは平成になってからは3番目に多い数である。
成年皇族としてのご公務デビューの内親王は、薄化粧で気品あふれる印象であった。
姉君の眞子内親王も留学中一時帰国され、
お二人はおそろいのお長服で長和殿バルコニーにお出ましになった。
そのお姿は、未来の陛下のお姉さま方として天皇家を背負って立つにふさわしく、
訪れた人々へ未来への希望をアピールするかのようであった。
「天皇家は日本一の旧家であり、みんなで守る文化財」だと私は思う。
年の初めに皇居宮殿松の間で行われる「宮中歌会始の儀」。
皇室メンバーが集まって国民とともに詩を詠むという文化の薫り高い行事が存在する国は、
世界中どこを見ても日本のほかにはない。
さて、今、美しさと聡明さで人気の秋篠宮佳子内親王。晴れの歌会始の儀には、
黄味がかったクリーム色のお長服と、おそろいの髪飾りでご出席なさった。
お題は「本」。

弟に本読み聞かせゐたる夜は旅する母を思ひてねむる
この御歌には、弟や母が詠み込まれ、温かなライフスタイルが浮かんでくる。
幸福な家族の肖像を国民に向けて発信するのが天皇家の大切な仕事である。

「頂いた仕事、大切に」
2014年12月29日に20歳の誕生日をお迎えになった秋篠宮佳子内親王。
ご成年を迎えるにあたっての記者会見では、
「頂いた仕事を一つ一つ大切にしながら取り組んでいくべきだと考えております」とコメントされた。
これまでの女性皇族で、公務を「頂いた仕事」と表現されたのは、佳子さまが初めてだと思う。
利発で控えめで人をお立てになる佳子さまは内親王(未来の天皇の姉君)という
ご自身の立場を自覚していらっしゃるとお見受けした。
ご自分の性格について、「短所は、父と同じように導火線が短いところがありまして、
家の中ではささいなことで口論になってしまうことも…」という佳子さま。
記者団からの結婚についての質問には「将来的にはしたい」、
理想の男性像については「一緒にいて落ち着ける方」とお答えになった。
ここからも、ご家族との結びつきの強さや家族というものに対するお考えがうかがえる。

美しい姿勢、フィギュアスケートの賜物
今後佳子内親王は、天皇家の一員として多くの公務にお力を尽くさなければならない。
それは一般市民の想像よりもはるかに難しい。
しかし、佳子さまはお小さい時から、天皇皇后両陛下の皇居で行う稲作や、
歴代の皇后がお仕事として手掛けてこられた御親蚕もお手伝いしてこられた。
また、趣味のフィギュアスケートやダンスを通じて集中力も養われ、特にフィギュアスケートについては、
2007年に「スプリングトロフィー・フィギュアスケート競技大会」
ノービスB女子小学6年以上の部で優勝している。
今日の佳子さまの美しい姿勢はフィギュアスケートの賜物であろう。
伝統を守りながらも新たな風を吹き込む存在の佳子さまは活発なプリンセスとして知られ、
稀有な行動力の持ち主だ。昨年はご自身で学習院大学の中退をお決めになり、
国際基督教大学にご入学。
理由は幼稚園から大学まで学習院という変化のない環境を変えたかったからだという。
2015年4月2日、入学式の前に行われた会見では、濃紺のブレザースーツに白いブラウス。
「新しい学生生活を始められることに感謝しつつ、有意義に過ごしていきたい」と語った。

身近な女性をお手本に気品を身につける
気品とは、ただ良家に生まれたからといって備わるものではなく、
身近なお手本と厳しい教育のもとに醸成されるものだと思う。
今年は秋篠宮ご成婚25年。6月末には銀婚式をお迎えになる。
振り返ってみると、婚約発表は昭和天皇の喪中であった1989年9月。
川嶋紀子さんのご両親の記者会見を思い出す。
そのとき、父の川嶋辰彦・学習院大学教授は「オールウェイズスマイルで自由闊達に育てた」と語り、
母である和代夫人は「あまり自由すぎるのはどうかと存じます。
私はある程度の規制をもって育ててまいりました」とおっしゃった。
母上のこのお言葉こそが今日の紀子さまの控え目の美につながっている。
佳子さまは母である紀子さまを大変尊敬なさっており、
佳子さまの「お仕事を頂く」という発言も、おそらくご自分一人で考えたものではなく、
ご両親の意見を発言に取り入れられたのだろう。

影響を与える二人の「プリンセス」・叔母と姉
よく「娘は母の作品である」というが、佳子さまは、母である紀子さまはもとより、
祖母の皇后美智子さま、叔母さまの黒田清子夫人、
姉である眞子さまなど身近な女性をお手本にすることで自ら気品が備わってきたと思う。
姉である眞子さまは、国際基督教大学在学中に博物館学芸員の資格を取得し、
現在は英国レスター大学の修士課程で博物館学を学んでいらっしゃる。
意志が強く、佳子さまにとっては頼りになるお姉さまである。
姉上のひたすら前進する姿は佳子さまの身近なお手本といえよう。
叔母さまの黒田清子さん(元紀宮さま)は、初めて公務に取り組まれた内親王だ。
紀宮さまの成年以降の15年間で、宮殿や御所での行事ご出席は国内740回、海外8回に及ぶ。
阪神・淡路大震災6周年の「ひょうごメモリアル・ウォーク」に参加の際、
「スタート地点まで車で」と促すスタッフに、「それでは意味がない。歩くために来たのです」と、
被災者と共に暗い夜道を歩き通し、誠実な姿勢を貫いた。
眞子さまも佳子さまも叔母さまを「ねえね」と呼んでお慕いになり、
公務に積極的な姿勢をお手本として成長された。

皇后美智子さまの精神を受け継いで
皇后美智子さまは、1955年、聖心女子大学2年生の時、
読売新聞の成人の日の記念論文「はたちのねがい」に応募して、4185人中2位入賞を果たした。
しかも美智子さまは、その賞金2000円のうち半分を読売新聞に、
残りの半分を母校聖心女子大のマザー・ブリット学長に奨学資金として寄付なさった。
この事実は史上初の民間出身の皇太子妃としてメディアに登場する2年も前のこと。
その精神はあまりにも高貴で、今の皇后の原点といえる。
おばあさまのお気遣いは孫たちにも伝えられている
。東日本大震災の折には、学生であった眞子さま佳子さまも、
夏休み中現地に泊まり込み、ボランティア活動に励まれたのである。
5年後の東京オリンピックでは、語学堪能なプリンセスの御活躍が期待される。
佳子さまは、姉上とともに国民に一層元気を与える存在になるであろう。
日本一の旧家として伝統を守りながらも、国際社会に向けて新しい風を発信する存在になるのが楽しみだ。
(2015年4月17日 記)
http://blogos.com/article/112044/
http://www.nippon.com/ja/currents/d00173/?pnum=1

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皇室とディズニーランドの深いつながりとは?

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舞浜新聞
皇室とディズニーランドの深いつながりとは?
2015・01・25

1月15日、外務省は1975年の昭和天皇の米国訪問に向けた、
政府内での事前協議などに関する外交文書ファイルを公開しました。
外務省は作成から30年経った外交文書を原則公開しており、今回もその一環として行われました。
今回公開された外交文書の中には、昭和天皇とディズニーランドに関するものも含まれていました。
今回の記事では、そんな日本の皇室とディズニーランドとの深いつながりについて、見ていくことにしましょう。

両陛下がディズニーランドを訪問
1975年9月30日から10月14日にかけて、昭和天皇は歴代の天皇では初めてアメリカを公式訪問しました。
実は米国訪問に先立って、1971年に昭和天皇は欧州を歴訪したのですが、
ベルギーなどでは生卵を投げつけられたり、ロンドンの新聞では
軍国主義を連想させるような漫画が載せられたりするなど、
友好的なムードで受け入れられたわけでは決してありませんでした。
欧州歴訪がそんな悲観的な状況だったことから、外務省は同じ失敗は繰り返さないという強い決意で、
この米国訪問へ臨むことになります。
1月16日の読売新聞朝刊では、米国訪問に関する外交文書について、以下のように報じています。

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一方、日本政府は昭和天皇のイメージ向上につながるよう、訪米時の立ち寄り先も慎重に選んでいた。
在米日本大使館は5月12日、天皇のロサンゼルスでの訪問日程に関連し、
「暴力と悪のイメージが結びつきやすいハリウッドではなく、子供の世界であり、
HAPINESS(幸せ)やJOY(喜び)を連想させるディズニーランドの方が圧倒的によい」
とする米国人の印象を外務省に伝えた。
天皇は10月8日、ディズニーランドを訪れ、子供と一緒に手をたたきながらパレードを見た。

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外務省が米国訪問を成功させるために、アメリカ人に親しまれているディズニーランドを訪問先に選んだことが、
今回の外交文書から分かります。

昭和天皇の87年間の生涯をまとめた「昭和天皇実録」には、
ディズニーランド訪問について、以下のように記述されています。

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昭和50年10月8日
(米カリフォルニア州のディズニーランドで観覧した建国200年祭記念パレードで)
天皇は、次々と御座所の前を(山車などが)通過するのを御覧になり、拍手を送られる。
これに寄せて詠まれた歌は次のとおり。

二百年のすぎゆきを示すアメリカのパレードを見つ少年らとともに

なおこの日、園内には約1万6千名の一般入場者がおり、各所で拍手などによる歓迎があった。
また同園より非公式にミッキー・マウスの腕時計が贈られ、以後数年間御愛用になる。

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昭和天皇と香淳皇后の訪問のとき、ディズニーランドは貸し切りではなく、一般の入園者もいました。
アメリカの一般市民とディズニーランドで交流する姿は、日米友好を象徴する一コマになったでしょう。
特にパレードを見ているときに、現地の男の子「マイケル君」が香淳皇后に寄り添ってきて、
一緒に楽しんでいる様子は、特に印象的な場面になりました。
外務省や宮内庁の尽力もあり、昭和天皇の米国訪問では目立った反発は起きず、
友好的なムードの中で終了しました。


昭和天皇とミッキーマウスの腕時計
ディズニーランド訪問では、ウォルト・ディズニー・カンパニーから昭和天皇に、
ミッキーマウスの腕時計が贈られました。
この腕時計はウォルト・ディズニーが、腕時計メーカーのインガーソル社に
「腕が針になって動くミッキーマウスの時計を作れないか」と提案したのがきっかけで作られたものです。
ファーストモデルは、1933年にシカゴ万国博覧会で販売され人気を集めます。
そのファーストモデルを忠実に再現したリモデル版を、ディズニー社は昭和天皇に贈ったのでした。
昭和天皇はこの時計を密かに愛用していたのですが、1978年に高知県で全国植樹祭が開催されたときのこと。
陛下の袖口からこのミッキーマウスの腕時計が顔をだし、その写真が新聞で報道されてしまったのです。
「陛下がミッキーマウスの腕時計をなさっている」ということで、世間の関心を集めました。
その後、壊れても部品を取り寄せて修理するなど、昭和天皇はミッキーマウスの腕時計を愛用しました。
それは1981年に三洋電機を視察したときに、太陽電池式の腕時計を贈られるまで続いたのでした。

実は「昭和天皇実録」では、昭和天皇が日米開戦後の1942年4月に、
ディズニー映画『ミッキーの捕鯨船』を鑑賞していたことも記述されています。
陛下はミッキーマウスがお好きだったのかもしれませんね。


皇太子明仁さま・美智子さまもディズニーランドを訪問
実は昭和天皇の米国訪問からさかのぼること15年、1960年9月22日から10月7日にかけて、
当時の皇太子明仁さまと美智子さま(現在の天皇・皇后両陛下)もアメリカを訪問しています。
これは日米修好通商100周年を記念して、米国政府から招待を受けたものでした。
訪問先では官庁や学校、美術館、博物館などを視察したほか、日系人や日米協会の関係者とも交流しました。
特に、当時日系人が約7万人暮らしていたロサンゼルスでは、空港に4,000人が押し寄せ、
リトル・トーキョーでは約1万人の日系人が日米両国旗をもって両殿下を迎えたのです。
また、ディズニーランドでは、なんとウォルト・ディズニー自らがパーク内を案内して、
日本の花火が打ち上げられるなどの歓迎を受けました。
すでにこのときから、日本の皇室とディズニーランドは深く結びついていたのですね。

皇太子徳仁さまもディズニーランドを訪問
昭和天皇、そして今の天皇陛下もアメリカ・カリフォルニアのディズニーランドを訪問しています。
実は今の皇太子さまも私的にディズニーランドを訪問しているのです。
1985年11月、オックスフォード大学への留学と、それに伴う視察の中で
私的にディズニーランドを訪問されています。
この訪問については、公式なものではなかったため、詳しい資料が残っていないようです。

皇太子ご一家で東京ディズニーリゾートを訪問
私的にディズニーランドを訪問された皇太子徳仁さま。
実は2006年3月13日に、皇太子さまと雅子さま、愛子さまは一家そろって
東京ディズニーランド・東京ディズニーシーを訪れています。
このときはご一家そろってということで、パーク内は厳戒態勢に。
一部のエリアやアトラクションは貸し切りとなり、混乱がないように配慮されました。
宮内庁はこの訪問について
「学習院幼稚園入園前に、愛子さまに同世代の子供と同じような体験をしてもらうため」と発表しています。
このときの訪問では、午前中はディズニーシー、午後にはディズニーランドを回られました。
ランドの「ミッキーの家とミート・ミッキー」では、講談社ラウンジで休憩のあとミッキーとご対面。
「プーさんのハニーハント」や「イッツ・ア・スモールワールド」などのアトラクションも楽しまれたようです。

昭和天皇や今の天皇陛下が日米友好のためにディズニーランドを訪問したのに対して、
皇太子ご一家は、あくまでも「思い出づくりのためのテーマパーク訪問」になっています。
皇太子さまとしても、自分が味わった経験を愛子さまに体験させてあげたかった、
という思いがあったのかもしれません。これも時代の流れなのでしょうね。

ほかの皇族方もディズニーランドを訪問
一般にはあまり報道されませんが、皇族方も東京ディズニーリゾートを訪れることがあります。
1986年6月9日、紀宮さま(今の黒田清子さん)がディズニーランドを訪問したことがありました。
このときは学習院女子高等科の学友と一緒に訪問、SPは女性の警護官一人だけで、
それ以外の身辺警護は東京ディズニーランドのセキュリティが担当しました。
2007年4月2日には、三笠宮彬子さまが友人の大学生とともに東京ディズニーシーを訪れたときの様子が
『週刊朝日』に掲載されました
これらの訪問はいずれも公式訪問ではなく、あくまでも「お忍び」週刊誌の記者などが写真を撮り、
記事にすることはありますが、基本的にはあまり大きく報道されません。
実際は表に出ている情報以上に、皇族方が東京ディズニーリゾートを訪れている可能性もあります。
最近では『週刊文春』が、愛子さまの東京ディズニーシーお忍び訪問が、
台風のために中止になったことを報じています。

皇室とディズニーランドのつながり
こうして見てみると、日本の皇室と、アメリカ文化の象徴でもあるディズニーランドが
深く結びついていることがよく分かります。
今では日本文化とも強く結びついているディズニーランド。
皇室の皆様は、なかなか自由に訪問することは難しいでしょうね。

http://maihama.hateblo.jp/entry/2015/01/25/094139

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御料車

withnews
2015年01月08日
天皇、皇后両陛下の乗る「御料車」 普段はどこに? ナンバーは?

全部で10台、普段は皇居に
御料車は全部で10台、ナンバープレートの場所には金色の菊の紋章がついています。
紋章の近くに「皇1」などと書かれた直径10センチの円形プレートが設置されており、
これが皇室専用のナンバープレートとして使われています。
その他に、品川ナンバーのものもあり、プライベートな用事で使われます。
普段は、宮内庁が東京の皇居内で管理しています。

御料車に秘められた両陛下のお心遣い
御料車にはリムジン型とセダン型がありますが、両陛下は特別なことがない限り、セダン型を多く使っています。
なぜ、セダン型を使うのか。そこには、沿道の人々と目線を同じ高さにしたいという両陛下の意向が現れています。

「お召し列車」で全国へ
列車にも両陛下の専用車両があり、「お召し列車」と呼ばれています。
JR東日本がE655系「なごみ」を所有しており、両陛下が利用する特別車両を外せば一般客も利用可能です。
両陛下は新幹線を利用することも多く、その場合は臨時専用列車として全車両を貸し切るのが基本です。

陛下の愛車は24年落ちのホンダ車
ちなみに天皇陛下の愛車は、1991年式のホンダ・インテグラ。排気量1600ccのマニュアル車です。
当時の価格で約120万円。長年にわたって大切に乗り続けています。
陛下は皇居内の運転であっても、免許証は必ず携帯するといいます。
車に乗ってから免許を忘れたことに気づいて、御所に引き返したこともあるそうです。
http://withnews.jp/article/f0150108004qq000000000000000G0010401qq000011351A

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両陛下、思い出の品々に弾む会話

(皇族方の素顔)両陛下、思い出の品々に弾む会話
宮内庁担当 中田絢子、島康彦
2014年11月22日01時25分

三つのエプロンの前で、天皇、皇后両陛下が足を止めました。
幼稚園時代の皇太子さま、秋篠宮さま、黒田清子さん(紀宮さま)が
皇后さまのために絵を描いたエプロンです。
皇太子さまはオレンジ色などで乗り物のような絵を、
秋篠宮さまは元気いっぱいに暴れ回っている怪獣のような絵を、黒田さんは色とりどりの草花の絵を。
それぞれの個性あふれる作品を前に、両陛下からは「ふふふ」と笑い声が聞かれました。
皇后さまは「みんなそれぞれで」と話し、
黒田さんのエプロンについて「ポケットだけ後で縫い付けたの」と振り返っていました。

10月22日、両陛下は東京中央区の日本橋高島屋で開催されていた
特別展「天皇皇后両陛下の80年―信頼の絆をひろげて」を鑑賞されました。
皇后美智子さまが10月20日に80歳の誕生日を迎え、
両陛下そろって80歳の傘寿の節目となったことを記念したものです。
宮内庁侍従職監修のもと、これまでの歩みを約170点の写真、
初公開を含む約130点のゆかりの品々で振り返る内容で、
両陛下が国民やご家族、海外の国々などと結んできた絆をたどるものでした。

両陛下はまず、1階フロアで、皇后さまがお住まいの御所で演奏していたハープや、
ピアノなどを鑑賞しました。その後、8階の展示フロアに移動し、場内をめぐりました。
お二人が育った過程を紹介するコーナーでは、学習院初等科時代に天皇陛下が背負っていたランドセルや、
自身の書道作品「平和國家建設」などが紹介されていました。
皇后さまはランドセルを前に「かわいいランドセルが残っていましたね」と目を細めたそうです。

「ウミモノガタリ」と題された図画は、1941(昭和16)年に天皇陛下が書かれた図画。
魚に吹き出しがついた絵が書かれた4枚の図画で、
天皇陛下は「あれはマイルカかな」「イルカも好きだったんだね」などと皇后さまに紹介していました。
他の展覧会では、関係者からの説明にじっくり耳を傾けることが多い天皇陛下ですが、
今回は自ら皇后さまにこまごまと説明され、それは心温まる様子でした。
案内した関係者によると、魚類学者の顔も持つ天皇陛下は、
当時から魚が好きだったことや、クジラの百科事典をよく見ていたことなどを皇后さまに説明されたそうです。



皇后さまの歩みをたどる展示では、聖心女子大時代に取得した中学、高校の英語の教員免許も並び、
天皇陛下はめがねをかけてじっくりと見入っていました。

皇后さまが教員免許を取得していたことはあまり知られていません。
ただ、当時皇后さまは必ずしも教員の道に進もうとしたわけではないそうです。
側近によると、教職課程に興味がある授業があったこと、
将来何か役に立つ場合があるかもしれないとも思ったことが主な理由だったそうです。
教育実習についても、とてもいい経験として記憶されていると聞きました。

聖心女子学院高等科1年の皇后さまが、リレーの第1走者として順番を待つ写真もありました。
天皇陛下が満面の笑みで「聖心の記録に?」と言いかけると、
皇后さまが珍しく何度も首を振られ、「走ることだけが好きで」と控えめにお答えになる場面もありました。



天皇、皇后両陛下の出会いの場として知られる長野・軽井沢でのテニストーナメント。
1957(昭和32)年の夏のことです。なんとのその際の対戦表が残されており、
パネルとして展示されました。両陛下は別々のパートナーとともに、ダブルスのトーナメントに出場。
それぞれ勝ち上がって4回戦で対戦しました。
皇后さまと外国人少年のペアは、2時間近くにも及ぶ熱戦の末、天皇陛下のペアから勝利を挙げました。

両陛下はパネルを感慨深そうに見つめ、
皇后さまは「1回戦で消えるはずでしたもの」などとつぶやきました。おそらくご自身のことでしょう。
皇后さまの言葉からも、両陛下の出会いが全くの偶然だったことを改めて感じました。

両陛下の互いへの贈り物も公開されました。金色に輝くトレド細工の小さなブローチ。
これは、天皇陛下が結婚の発表日に皇后さまに贈ったもので、初めて公開されました。
天皇陛下は1953(昭和28)年、19歳で欧米を訪問された際、
スペインで母・香淳皇后、妹君、そして未来の妻のために三つのブローチを買い求めたそうです。
昭和の時代のご一家の記者会見録を皇室記者がまとめた「新天皇家の自画像 記者会見全記録」によると、
皇后さまは1984(昭和59)年、ご結婚25周年に際した会見で、思い出の品として、
昭和天皇からの小鳥のブローチや、お子さま方からの手作りの品などとともに、
このブローチを挙げています。同書には、どういうものかという記者の問いかけに、
天皇陛下が「今日それをつけてくればよかったのに」とおっしゃり、
一同の笑いの中で皇后さまが「大事にしまってあります」と話されたことが記されています。
この特別展、高島屋日本橋店ではすでに終了していますが、
来年1月21日〜2月2日、京都高島屋でも開かれるそうです。



「みなさまにサプライズがあります」。そう紹介され、テントの中から姿を見せたのは、
天皇、皇后両陛下でした。周囲から拍手と歓声がわきあがり、腕を組んだ両陛下は実にうれしそうでした。

10月21日の昼下がり、皇居・東御苑で開かれた皇宮警察音楽隊ランチタイムコンサートでの出来事です。
この前日は、皇后さま80歳の誕生日。昨年12月に天皇陛下は80歳の誕生日を迎えており、
お二人の傘寿を祝福する曲目が用意されました。天皇陛下はスーツ姿。
皇后さまはチェックのロングスカート姿。最前列の席で、集まった350人の観客と演奏に聴き入りました。

1曲目は、東京オリンピックのファンファーレ。1964(昭和39)年10月10日、
皇太子ご夫妻時代の両陛下も出席した開会式で披露された曲です。
4人の音楽隊員が当時使われたトランペットを演奏。高揚感を誘う高らかな音色に、
両陛下は盛んに拍手を送っていました。

2曲目は「歌声の響(ひびき)」。両陛下が思いを寄せるハンセン病の
国立療養所「沖縄愛楽園」(沖縄県名護市)に贈った曲です。
1975(昭和50)年、両陛下が同園を訪問した際、
療養所の人たちが「だんじゅかりゆし」(旅行きを祝う沖縄の歌)を歌ってお二人を見送りました。
その思い出を、天皇陛下が沖縄の短歌「琉歌」に詠み、皇后さまが曲を付けました。
1999年4月、皇居内の音楽ホール「桃華楽堂」で開かれた
両陛下の結婚40周年「ルビー婚」を祝う音楽会でも、メゾソプラノの永井和子さんが熱唱しました。


今回のランチタイムコンサートでは、「琉装(りゅうそう)」と呼ばれる沖縄の伝統衣装をまとった男性が
三線(さんしん)を演奏しました。皇宮巡査の高橋弘治さん(30)。
琉球大学に入学後、三線を学び始め、沖縄でのコンクールでグランプリを獲得したという腕前。
独特の響きに合わせ、皇宮警察学校の学生たちが歌いました。

次が「祝典行進曲」。両陛下の結婚を祝して作られた曲で、
1959(昭和34)年4月の結婚パレードで披露されました。熊本県の民謡「五木の子守歌」と続きました。

そして、予定曲の最後が、東日本大震災の復興支援ソング「花は咲く」でした。
司会から観客も一緒に歌うよう呼びかけられると、
両陛下も歌詞が書かれた紙を見ながら口ずさんでいました。
特に皇后さまは口を大きく開けて歌っていましたが、
記者席は離れていて残念ながら歌声を聞くことはできませんでした。
アンコール曲の「365歩のマーチ」で、両陛下は演奏に合わせて手拍子をしていました。

演奏終了後、両陛下は音楽隊の渡辺浩二楽長(53)に近づいて声をかけました。
渡辺楽長によると、天皇陛下は「懐かしい思い出がある曲を演奏してくれてありがとう」、
皇后さまは「本当にありがとう。隊員のみなさまによろしく」と話したそうです。

両陛下は続いて、三線を演奏した高橋巡査にも「今日は本当にありがとう」
「今後も頑張ってください」とねぎらいました。
高橋巡査は取材に「緊張して頭が真っ白になりました」と感想を話してくれました。
(宮内庁担当 中田絢子、島康彦)
http://www.asahi.com/articles/ASGBQ4RXMGBQUTIL020.html?ref=wmailm_1128_12

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