昭和22年皇籍離脱

昭和22年10月14日
天皇家と秩父・高松・三笠の直宮家を除く傍系11宮家がGHQの方針によって皇籍を離脱。

伊藤哲夫氏(皇室典範改悪阻止!「草莽崛起国民大会」平成17.11.18のスピーチ)
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そこで残念ながら十一宮家の方々が相談されて、まさにこれは占領軍の意図だったわけですが、
自ら皇籍離脱を希望するという形で皇籍を離れていかれました。
その時に、最後の最後まで抵抗されたのが昭和天皇でございました。
最後のお別れ会で昭和天皇は、
「残念ながら事ここに及んでしまった。しかし私の気持ちは変わらない。昔のままの付き合いをしていきましょう」
とおっしゃられたのであります。
そしてその時、加藤進(かとうすすむ)さんという立派な宮内庁次官の方がおられて、
恐らくこれは昭和天皇のご意向を受けての言葉だと思うのですが、
皇籍離脱される十一宮家の方々に対して、加藤さんはこうおっしゃった。
「このような形になったけれども、しかし万が一あなた方に皇位継承という話が出ないということはないんだ。
出る可能性は万が一のケースとして有り得るんだ。
だから、くれぐれも身をお慎みになってこれからの生活をしていって頂きたい」
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皇籍離脱
(外部サイト)


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日本の皇位継承の特徴

日本の皇位継承の特徴

朝日新聞平成17年10月28日
■三者三論 〜 女性天皇どう考える 現制度の方が皇室安定
長根英樹氏 きもの和文化プロデューサー

女性・女系天皇を容認すれば、神武天皇以来125代も続いてきたとされる皇位継承の根幹を変えることになる。
日本の皇位継承の特徴は「直系優先ではない」という点にある。
英国など欧州では直系の相続が主流。男子優先とされる英国王室でも基本的には直系の枠を超えた相続ではない。
これに対し、日本の皇位継承のルールでは直系に女子しかいない場合には、傍系男子が継ぐ。
自らの子に皇位を相続させたいと考えるのが自然な感情だが、それを認めない。
いわば天皇直系の家族だけでなく、傍系の親族の協力によって成り立っている。
背景には「皇位の由来は時の天皇本人にあるのではなく、先代から預かっているものだ」という意識がある。
直系優先、直系独占主義でないからこそ皇族の兄弟間、世代間のつながり、協力が機能する。
皇族全体で皇室の役割を果たす「和」が生まれてくるのだ。
直系から傍系に皇位が移ると、国民のなかには違和感を覚える人がいるかもしれない。
皇室典範の改正を進める有識者会議も、直系から傍系に皇位が移ることを「不安定」だとする。
しかし、むしろ現在の制度の方が皇室に「和」を育み、国民の皇室に対する意識を高め、
将来的に皇室を「安定」させることになる。
直系から傍系への継承は、国民が皇位がどのように受け継がれてきたかを改めて確認する機会になる。
自分たちの世代の都合だけで物事を考えてはいけないという意識を皇室も国民も共有できる。
皇位継承ルールを変えるということは、こうした考え方を含め、日本のあり方、日本の歴史を変えることになる。
非常に重く、厳粛なことだ。
男系男子の維持を唱えるときに「何代も長く続いてきた」と説明するだけでは不十分だ。
いまの制度に「和の心」や「互助」を重んじる日本の伝統が生かされており、
皇室の「無私の心」ともつながっている点を重視すべきだ。
私は、主宰しているホームページにもこうした論文を掲載しているが、
「男系男子に限られている理由や伝統の文化的価値がよくわかった。共感する」とのメールを頂く。
ところが、有識者会議は今年1月から14回程度の開催だけで、「女性・女系天皇を容認する」という結論を出した。
扱う問題の重みをあまりに軽視した姿勢ではないか。
秋篠宮殿下より敬宮愛子さまが皇位継承順位で上位にくるような議論を進めていることも問題だ。
生まれたときから継承順位で皇太子殿下に次ぐ立場にあり、
いつ何時、皇位を継ぐかもしれぬ覚悟と重責を背負ってきた秋篠宮殿下と、
またそうした期待のもとに何十年もの歳月を経てきた皇室と国民の営みをないがしろにする。
有識者会議は「帝王学」や日々の心構えの重さを、安易に考えていないか。
現在の皇位継承資格や継承順位には立ち入るべきではない。
この問題で政治家の発言が乏しいことも心配している。本来、国会議員全員が参加する特別委員会などを設け、
有識者を参考人として招いたり、全国で公聴会などを開き、数年間をかけて議論を展開したうえで、
国民総意による結論を得るべきだ。
明治の皇室典範の改正は、皇族会議と枢密院顧問によって行われるしくみだった。
現在は国会で改正できる法律だが、十分慎みをもって運用すべきで、見直しは皇室の考えをうかがうべきだと思う。
(聞き手・松田史朗)


長根英樹
和の国、和の心 ― 天皇陛下と日本(外部サイト)


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両陛下、愛情いまも 姉の眠る二尊院へ

両陛下、愛情いまも 姉の眠る二尊院へ
2009.11.20 13:19

京都を訪問中の天皇、皇后両陛下は19日、天皇陛下の姉である故鷹司(たかつかさ)和子さんの墓がある
小倉山二尊教院華台寺(二尊院、京都市右京区)を私的ご日程として訪問された。
両陛下が二尊院を訪問されるのは、平成3年5月以来。
両陛下は、早くに夫を亡くした生前の和子さんのことを常に気にかけておいでで、
和子さんが亡くなる直前には何度も病院へお見舞いもされていた。
和子さんの死去からすでに20年がたつが、両陛下の和子さんへの愛情は今も少しも変わらない。

鷹司和子さんは昭和4年9月、昭和天皇の三女として生まれた。幼少時の称号は孝宮(たかのみや)。
25年5月に元公爵の鷹司信輔氏の長男、平通(としみち)氏と結婚、皇籍を離れた。
しかし、41年1月、平通氏は知人宅で一酸化炭素中毒死、和子さんは若くして夫を失ってしまった。
和子さんは49年10月、伊勢神宮で祭事を主宰する神宮祭主に就任したが、
のちに乳がんと診断されるなど闘病生活を続け、
平成元年5月、心不全のため59歳の若さで亡くなった。昭和天皇の崩御からわずか4カ月半後だった。

和子さんの容体が悪化したころ、両陛下は何度も病院へ足を運び、お見舞いをされた。
天皇陛下は今年4月、ご結婚50年に際しての記者会見で、皇后さまがご結婚後、
陛下の家族を大切にされていることを述べる中で、次のように語られている。
「不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司神宮祭主のことはいつも心に掛け、
那須、軽井沢、浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。
姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが、
あるとき、昭和天皇から私どもと大変楽しく過ごしたと聞いたがどのように過ごしたのかという
お話があったことがありました」
皇后さまは、夫を亡くした和子さんのことを常に気にかけ、静養に誘っていらしたのだ。
夫に先立たれ、自身も還暦を前に亡くなった和子さんのことを気にかけてこられた両陛下。
今回は、和子さんの死去から20年という節目を迎えたことによるご訪問だった。
両陛下の側近によると、19日午後に二尊院を訪れた両陛下は、お二人で本堂で拝礼されたという。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091120/imp0911201321002-n1.htm


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雅子さまが受けられた小和田家の教育方針

雅子さまが受けられた小和田家の教育方針
上野 緑子 (更新日:2001年12月25日)
http://allabout.co.jp/gm/gc/184138/(外部サイト)


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

女性セブン2011年3月31日・4月7日合併号
■一に勉強、二に勉強、三に勉強
雅子さまの祖父、毅夫氏は、新潟各地の旧制中学で教鞭をとり、市の教育委員長を務めるなど、
一貫して教育者として活躍した人である。
この毅夫氏がいつも子どもたちにいっていたのが、「一に勉強、二に勉強、三に勉強」であったという。
恐らく雅子さまは、この祖父のことを、父、恒氏から聞き、人間として大切なことは、
勤勉と努力であることを、幼少のころから座右の銘のようにされたのではないだろうか。
その小和田家の教えこそが、雅子さまのなかにある“完璧主義”の精神を生み出しているのだ。
小和田家で約25年間、家政婦として働いた女性はかつて本誌にこんなことを明かした。
「雅子さまは、みなさんが想像するような決して強い性格のかたではなかった」
「雅子さまはご性格として大変な完璧主義でいらして、とにかく何事も120パーセント
頑張っていらっしゃるように見えました。例えば、皇太子妃に内定し、皇居に参内されて
“お妃教育”を受けられるその2週間ほど前から、ご自分でも予備知識の勉強をなさっているのには、
正直なところ驚きました。中途半端な気持ちでは不安だと思われたのでしょうが、
いかにも雅子さまらしいと思いました」(元家政婦)
「(小和田家は)家族揃って食事をされることはあまりなく、たまにあっても食事中は
淡々とされていて、会話がほとんどなく、とても静かなんです。冗談を言い合うこともないから
笑い声がないんです。そして食事が済むと、それぞれが食べたお皿を片付けて、
ご自分たちの部屋に行ってしまわれるんです。いま振り返ると、お嬢さまがたが、あまりに
しっかりされているのか、甘えたりなさることが少ない家庭でした。苦しいことがおありになったときに、
人に頼ったりすることが苦手である気がしてならないんです」(元家政婦)

雅子さまは父・小和田恒氏が外交官である関係で生後まもなく海外生活を余儀なくされた。
1歳8ヶ月、当時のソ連モスクワへ移住。まもなく母・優美子さんは妊娠。
優美子さんはモスクワでの出産に不安を感じ、恒氏が長期出張中のジュネーブへ行き双子の妹を出産。
一足早くモスクワへ戻った雅子さまは恒氏・お手伝いさんとの3人生活。
恒氏が「寂しいかい?」と聞いても「ううん」と答え、「お母さんと一緒にいたい」などとぐずることはなかった。
雅子さま4歳半の'68年5月、一家はニューヨークへ。
市立幼稚園に入園したものの英語がわからず誰とも会話しない日々。
4ヶ月ほど続いたある日、先生に初めて
「May I go to the bathroom?」(お手洗いに行ってもよろしいですか?) 
この日を境にそれまでが嘘のように次々と英会話を。
この沈黙の4ヶ月は雅子さまにとって頭の中のロシア語を追い出す期間で、
英語で話せる自信がついてようやく言葉にしたのではないかと言われている。
何事にも慎重で自分の力で忍耐強く物事に挑戦する雅子さまの原点が垣間見られる。
71年2月、7歳の雅子さま帰国。
公立小に編入するが優美子さんのたっての希望で田園調布雙葉小の編入試験を受ける。
試験後、優美子さんに「入学式って何?運動会はいつ?魚の背びれ・尾びれって何?」と質問した雅子さま。
日米文化の差に苦しみこの年の受験は失敗。
3年生の時、雙葉小へ編入したが当時まだ帰国子女という存在が珍しく
雅子さまも少なからずいじめを体験。優美子さんは厳しく接する。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


山下悦子『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』
洋泉社 2006年7月
…一方、雅子妃は、まさに「均等法」世代であり、外交官だっただけに、当然、プライドも高い。
彼女のプライドの高さ、キャリア・ウーマンとしての自負の根拠となっているのは、以下の経歴である。
1979年7月、外交官である父の転勤で渡米、マサチューセッツ州立の名門ベルモントハイスクール2年に編入、
最優等生選ばれた。1981年9月にハーバード大学経済学部に入学、1985年6月、マグナム・クム・ラウデ
(優等賞、一説によれば、上位三分の一の人が全員もらえる)で、卒業、
卒業論文は「輸入価格ショックに対する対外調整」。
アメリカの学校は、親が学者だったり、外交官だったりすると入学しやすい。
ハーバード大学の場合は特にそうだ。父親が有名な政治学者だった私の女友達は、
楽勝でハーバード大学に進学した。その後、どうなったかは知らないが。大学院に入学する日本人は多いが、
大学から入学し、4年で卒業する日本人は少ないときく。英語を母国語とする人でも卒業するのは大変というから、
いずれにせよ雅子妃の英語力は相当なものだったと思われる。しかし、その分、日本語力が落ちるのは否めない。
というのは、敬語の使い方がおかしい、メリハリのないダラダラした日本語などと批判されたこともあるからである。
私の知り合いの編集者は「雅子さまお可哀想ではなく、可哀想な日本語力」といっている。
大学在学中の1982年にはドイツ、1983年にはフランスの大学の夏期コースに参加している。
『毎日グラフ』は雅子妃の学歴プロフィールにこの夏期コースを入れているが、いわゆるサマーコースは
誰でも参加できる遊びをかねたような講習だから特筆すべきことではない。
日本に帰国後、1986年4月、東京大学法学部に学士入学、10月外交官試験の合格、1987年3月東京大学を中退、
4月に外務省入省経済局国際機関二課に配属、1988年3月、イギリスロンドンの日本大使館外交官補になり、
7月、研修のためイギリスへ。オックスフォード大学ベリオールカレッジ国際関係論修士課程入学、
1989年夏にはフランス・ブザンソン大学の夏期コースに参加。
修士課程は修了されていない。なぜなのかなと素朴な疑問がわくが、この頃から
皇太子妃候補のことで周囲が騒然とし始め、落ち着いて勉強できなくなったからといわれている。
1990年6月帰国。7月、北米局北米二課配属。1993年1月6日婚約内定一斉報道。
1993年7月の宮中晩餐会ではクリントン米大統領と通訳抜きで歓談したことは有名。
先に述べたような経歴の持ち主であれば当然のことだが、インテリでも英会話力の苦手な
人が多い日本では、特筆に値することと一部のマスメディアやフェミニストの賞賛をかった。
しかし、こういった経歴に対し、「少々眉唾である」という声もある。
八幡和郎は「時事解説」二七回「皇太子妃雅子さまにおける悲劇の本質と打開策」という
エッセーの中で「キァリア・ウーマンとしての虚像」について述べている。
「まず、雅子妃は、東大に学士入学で編入されているのであって、世間の人が思い浮かべる
『東大入試』に合格されたのではない」。確かに東大はハーバード大卒であれば、
学士入学できるから入学試験に合格したのとは違うという指摘は正しい。
また外交官試験は外務省独自の試験で、客観性に乏しいという。
「ほかの省庁の事務次官の子女の場合でも、事務次官ないしはその候補者の子どもが受験した場合に
それを落とす勇気のある人事担当者はほとんどいないと思うが、
少なくとも人事院が主催する公務員試験を通らないと各省庁の試験は受けられない。
だが外交官の場合はそうではない」というのだ。「合格者に外交官の子どもが異常に多いことは
よく知られている通りであり、事務次官一歩手前だった小和田恒氏の娘が
これに合格したものが実力だけによるものであったかは立証しようもない」。
いわゆる世間一般でもよく行われている「縁故」「コネ」による就職である。
外交官の特権はまさに世襲制で、再生産されていくという点にこそあったわけだから、
このようにいわれてしまう部分はあっても致し方ない。今現在は、公平になったと聞くが。
また採用後も事務次官の娘として特別扱いをされていたことは、
英国留学、北米局北米二課という配属を見ればわかる。
八幡は「誰もがうらやむ最大限に優遇された居心地のよい人事」
「社長の娘が一般職で採用されてぴかぴかに美味しいポストばかりで働いているのと同じで、
いささか特殊な環境である」と厳しい指摘をしている。
雅子妃に限らず、エリート官僚の娘で親のコネを使い、バリバリ活躍しているキャリア・ウーマンは
珍しくないらしい。それにしても父親が事務次官である役所で働く女性という意味では、
霞ヶ関でも初めての存在だったとか。マスコミによって作られた雅子妃のイメージ、
「自立したバリバリのキャリア・ウーマン」像は、実態は父親の庇護下ですくすくと育ち、
フツーの女性より優秀な努力家で勤勉だが世間知らずの「お嬢様」ということになろうか。
結局、キャリア・ウーマンといっても父親の社会的な権力や保護があるわけで、
「均等法世代」の女性たちやキャリア・ウーマン系のフェミニストは雅子妃にエールを送ったが、
荒波にもまれて苦労したたたきあげの働く女性像とはまったく違う、「身分差」があることを自覚するべきだろう。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

雅子さま経歴
1963年、東京都・虎ノ門病院にて誕生
1966年、モスクワ市立保育園に入園
1968年、ニューヨーク市立第81キンダガーデン(幼稚園)に入園
1969年、ニューヨーク市立第81パブリックスクールに入学
(1971年、※2〜3月頃 田園調布雙葉学園小学校の編入学試験に不合格) 
1971年3月、目黒区立原町小学校1年に転入
1971年5月、新宿区立富久小学校2年に転入
1972年、田園調布雙葉小学校3年生に転入(1973年、双子の妹たちが同小学校に入学)
1977年、田園調布雙葉中学校入学
1979年、田園調布雙葉高等学校入学
1979年、高校一年生の一学期、父小和田恒の転勤に伴い米国ボストンへ転居、
      ベルモントハイスクール(11年生(日本の高二))へ編入


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

拾い物
華麗なる?経歴とキャリア

●幼稚園入園時・小学校入学時は海外(ロシア〜アメリカ)
小1の3学期に帰国してまず近くの公立小学校に編入。
2年次に雙葉編入試験を受けたが不合格。 2年生からは別の公立学校に転校。
2回目は母優美子さんの知り合いの雙葉の先生を家庭教師にして猛特訓した結果3年次に編入試験を受けて合格

●小和田恒氏の赴任に伴いボストンの公立高校ベルモント・ハイスクールに編入 (1979年)
ESL(英語を母国語としない人の教室)の一番学力の低いクラスに入れられるが
雅子さん自ら校長に直談判してクラスを替えてもらう。 (「素顔の雅子さま」より)
1981〜1985年:ハーバード大学経済学部(17〜22歳) 
→恒氏1979年〜1983年、ハーバード客員教授。教員子弟枠あり。
指定枠の他、ハーバードは寄付金枠、アジア人枠(被差別枠)も有り

正規入学の可能性は低い
また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人が卒論作成の手助けをしている。
(他に入るのはラドクリフ→出たのはハーバードと言う説もあり※真偽不明)
(ラドクリフはハーバードとひとつになり、今はハーバード女子部の別称としてラドクリフが残っている)

※恒氏のハーバードの客員教授のポストについて
外務省一種職員で回される持ち回りポスト
ハーバード卒業率は97%。
卒業論文は恒氏の知り合いの政財界の著名人のインタビュー
(論文作成手伝い人の存在が明らかにされている)
卒業時の優等号と言っても、最優等ではなく、学年で4割がもらえるmagna cum laude
ハーバードで専攻科目ごとに与えられるEnglish Honorは取れていない。

●1985年:東大法学部(22歳)
→学士入学3年次編入(英語・小論文・面接のみ…形式的なもの)
共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。
小和田恒氏は*東京大学で25年間にわたり*国際法、国際機構論を教える。
1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、
通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。
向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?
父親のコネでゼミの教授の推薦(外務省に入省させるために「入っておく」ことが必要だった)
その時受けたのは、3人。 全員が合格。
3人とも親族が外交官。試験も形だけともいわれている。 学内での立場は聴講生的なもの。
ほとんど通学していなかった。経歴に記入するだけの目的。
東大学士入学は、試験の成績で公平に決まるというわけではない。
父小和田氏の経歴、帰国子女でハーバード出という学歴、
というあたりが物を言った可能性が限りなく高い。(東大関係者)

※恒氏の東大入学は無試験の時代

●当時の外交官試験はあってないようなもの、二代目、三代目がスルスルと入省していた
雅子さんが受験した時代 国家1種は無し。
そうした不正が横行していたからこそ、 外交官試験が廃止されて国家1種に一本化された。
国家1種や外交官試験自体は学部3年生が合格することも多い試験。
各省庁への採用が難しいといわれるのは、試験後の面接等で人気省庁が競争になるから。
(そこにコネが発生する)
面接で出身大学やコネがあるかによって差が出てくる。
そして、外交官のキャリアなどとまくしたてているが外務省員であって外交官ではない。
外務省勤務は6年間、その間研修期間があり実質勤務は2年。
 
●1988年〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。修士資格を取れずに帰国。
(後にマスコミに追いかけられたためと言い訳。オックスフォードには外務省に呼び戻されたと言い訳)
恒氏は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

恒氏も国費留学するも修士はとれなかった。

帰国子女の定義は「義務教育期間を海外で生活した者」なので
厳密に言えば、小中を日本で過ごした雅子さんは帰国子女ではない。


証言
ベルモント高校時代は一時期優等生扱いされていた。
突然「理数系が得意」ということになっていたのは
アメリカの高校で習う事を当時の日本では小中で終わらせていたから。
成婚の儀の後の祝賀会にアメリカ時代の友人として呼ばれた二人はいずれもベルモントの同級生。
アメリカ人ご学友のインタビューは放送できない。

ライシャワー夫人は外国育ちの彼女に皇室の生活は無理、といった趣旨の発言。

オックスフォードではご学友から幼い、立ち回りがうまい、
典型的アメリカンガール、アンフェアではない(含みのある言い方)とか
イギリス的解釈では悪口としか取れないコメント。
たまに持ち上げているのはやはり日本人元留学生のみ。

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ベルモント高校は雅子妃が通った高校で、ご成婚発表時には日本のマスコミが大挙して押し寄せた。
校長や担任の先生達は雅子妃のことを、よく記憶に残っている等と日本のマスコミに語っていたが、
実際の所はESLの先生以外は誰も覚えておらず、
日本のテレビに出たいがために皆が必死になって過去の記録を探していた状態だった。

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『消えたお妃候補たち』
「週刊誌やスポーツ紙を読むと、タフな交渉をこなしてきたキャリアウーマンと持ち上げていますが、
彼女は他の女性キャリアと比べて特に突出していたわけではありません。
交渉を前に行き詰ったり、どちらかといえば実力はいま一つというのが、北米二課の見方でしたよ。
だいたい外交官としての資質を決めるといわれる在外公館勤務が未経験では、
将来は大使か局長かなどと判断できません」

ある教師
雅子さんの実力では東大どころか有名私大も無理。
あの国語力のなさ、英語スピーチの下手さを見れば、歴然。

雅子さんが優秀という客観的な事実はない。
TOEFLやTOEIC何点とか、学年何位、偏差値などの話は一切聞こえてこない。
英検すら1級並の実力という表現。

高校で日本からアメリカへ行っているが
当時の数学のカリキュラムは同年齢では日本の方が進んでいた。
だから渡米直後は数学に関しては、クラスメートよりできたであろう。

アメリカのクラスメートの証言「雅子さんはいつも数学の問題を解いていた」

外務省時代の評判
職場で周囲に誰がいようが「お父様〜!」を連呼。「お嬢」と呼ばれていた。

週刊読売1993年1月25日号 臨時増刊“麗しのPrincess”
外務省研修所での研修に遅刻、小走りで駆け込む雅子さまの写真

後輩や同僚に、「こんな事もわからないの!」高飛車に命令して嫌われていた。

動作がすべてゆっくりで、30分おきくらいにトイレへ(喫煙?・化粧直し?)をしに行くので、
周りは苛々させられた。(外務省勤務者談)

風邪のようなもで欠勤が多く、仕事の進捗に影響がでることも。
同僚は「小和田待ち」と呼んでいたという

別の省庁の官僚と仕事をしたとき、関係ない英文資料もドサドサ渡し、捨て台詞を吐いた。
別の省庁の官僚が外務省に会議に来て資料が足りずコピーを取っていたら、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「高慢ちきな鼻持ちならない女」と外務省担当記者の評判。
営業時間外に外務省内の食堂に来て「コーヒーぐらい出せるでしょう!」 と吐き捨てた。
オックスフォード留学中は奔放に過ごされたとのこと(男性関係)
仕事が滅茶苦茶遅いのに、やたらプライドだけ高くて頑固と言われて、嫌われていた。
夜になると張り切るので「小和田タイム」と言われていた。

外務省関係者の証言によると一言で言えば「使えない奴」
”お父様”がいるので叱るわけにもいかず
英語訳を頼まれたら、「私は通訳じゃありません!」と怒鳴る
外務省でのあだ名はブラックボックス 何を考えていて突然何をいいだすか予測不可能
省内では落ちこぼれ(同期の下位)だったが、父恒氏の威光で、本人はそれに気が付かなかった

通訳するには相手方の国の言葉以上にそれを即座に最適な日本語に置き換えられる日本語力が必要だが
雅子さんの日本語能力(語彙の無さ、無知)を知って外務省にいてもまともな通訳など
務まらなかっただろうなというのが一般的な見解だった。
日米首脳会議の通訳は、皇太子妃になる方に華を持たせるためにお膳立てされたもの。
「小和田雅子さん」をアピールするための映像
雅子さんをカバーする人間が(本人にはそれと気づかれない様)きちんとフォローしていた。

外務省筋でご成婚に協力した人の多くは、ボスである父親を支持していた訳ではなく、
職場から彼女がいなくなることを希望していただけ、と。
精神的(人格障害あるいは統合失調症)に問題ありという見解も外務省時代からあった。

気が強く議論が長引くと、口論することも多かった。
自分の非を認めない性格から長々と電話で我を主張する。
雅子さんは物事を冷静に考えられないそうで、わきまえることも知らなくて困った同僚もいた。

入省当時から皇太子妃候補と報道されていたから
実質的には資料整理と雑談程度の通訳ぐらいしかやってない。
英語ができるのは当然で、知的能力の高さの証明にはならない
語学は皇后陛下や紀子妃殿下もおできになる。
久子妃や華子妃もおできになる。
雅子さんだけが特別に優秀ということはない。
雅子さんは自力で試験を受けたことは一度もない。
実力で作り上げたものではなく、すべてコネにまみれた優秀伝説。

以上、拾い物


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


かつて、外務省のドンといわれた小和田恒・元外務次官の娘の皇太子妃・雅子様が外務省試験を受けた際、
面接官のほうが緊張して震えたというエピソードがある。
採用に際しては、幹部の子弟が優遇されている疑いが濃い。
http://www.elneos.co.jp/0705sf1.html



☆頑張りすぎる雅子さま&上の人に口答えする雅子さまエピソード

女性セブン別冊御成婚記念「皇太子さま雅子さま」(平成5年6月30日)
(ソフトボール部時代)
雅子さまは、練習中に捻挫されてしまう。
練習を指導していた先生は、回復が遅れることを心配してだろう、
「今日は練習をやすみなさい」と、いった。
しかし、雅子さまは、うなずかなかった。
「休みません。ぜひ、練習を続けさせてください」
こういって、譲らない。
「治ったらすぐ参加してもらうから」
「いいえ、練習は続けたいんです」
雅子さまと先生の押し問答が続く。しかし雅子さまは考えを変えない。
これには、友人たちがびっくりしてしまった。
「雅子さまが先生の考えに反対の意見をいうなんて、誰も思っていなかったから……」
声をうわずらせることもなく、自分の考えを主張する雅子さま、説得に努める指導の先生−
見ていたチームメートには、泣き出す人も出始めた。

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缶切りを至急もってこい


缶切りを至急もってこい
外務省の研修生は、ロジスティックス、すなわち閣僚たちの滞在期間中の世話役を行うそうです。
ちなみにロジスティックスとは、軍事用語で、輸送、宿営、糧食などの後方支援を意味する言葉です。
物流会社では「ロジ」と略称されています。
「ロジ」と呼ばれるものはサミットなどの要人往来の際の重要な裏方の仕事となっています。
研修生は「ロジ」の仕事のため、ホテルの一室に設けられた事務局に当番として詰めていると、
寝静まった午前零時過ぎ、福田赳夫外務大臣の秘書官である小和田恒から電話がかかってきた。
雅子皇太子妃の実父です。用件は「缶切りを至急もってこい」です。
缶きりぐらいホテルのルームサービスに頼めばいいのですが、
部下に仕事を言いつけるのが官僚の習性だそうです。
ホテルのボーイに缶切りをもらい、外務大臣の部屋に飛んで行き、ドアをノックしても返事がなく、
再びノックしてみると、ドアが少し開き、その隙間から眼鏡越しに小和田さんの目が覗いたそうです。
「遅くなりました。缶切りを持参しました」というと、小和田さんはドアの隙間から顔を半分だけ覗かせ
研修生をしばらく眺めてから蚊の鳴くような声で「その缶切り試したかい」と言ったそうです。
研修生は「試してはいませんが、切れると思います」と答えると
小和田さんは一言も発せずに研修生の顔を見つめた後、ドアを閉めてしまったそうです。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「さらば外務省」天木直人
小和田恒については、出張先で夜中「缶切りをもってこい」と要求があり、
持っていくと「その缶切りを試したかい」と質問があり「試してない」と答えると、
そのままドアを閉めてしまったという、ただそれだけである。
いったい何?詰めの甘さを指摘されたということだし、
一事が万事なのだろうが、それにしても次元の低い話だ。
(略)
小和田氏は「ありがとうという言葉が言えない人間」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

天木直人・メディアを創る ( 5/15) 広島平和研究所長の浅井さん
投稿者 天木ファン 日時 2005 年 5 月 15 日 12:17:53: 2nLReFHhGZ7P6
5月15日―メディアを創る
広島平和研究所所長に就任した浅井基文さん
15日の毎日新聞「ひと」欄に浅井基文さんの記事が出ていた。
この4月から、広島市立大の広島平和研究所所長に就任した、その紹介記事である。心から祝福したい。
と同時に今後の活躍を期待してやまない。
浅井さんは私が尊敬し、評価するただ一人の外務官僚である。
私よりも7年先に外交官試験に合格し入省した文字通り大先輩にあたる。もう今から18年も前のことだ。
外務省の国際協定課長、中国課長という要職を経験した浅井さんが、
日米安保条約を最優先する外交政策に異を唱えて外務省を辞した事を知って、本当に驚いたことを覚えている。
実は私は彼が辞めた直後に一回だけ会ったことがある。外務省の米国重視一辺倒の外交に疑問を持っていた私は、
大先輩の浅井さんに、外務省を辞める決意をした勇気に感動した私の気持ちを伝えたかったからだ。
電話で面会を求めた私に、彼は極めて丁寧に対応してくれた。自分は外務省から敵視されている、
その自分と会っていることが分かれば君の為にならないと言って、面会場所をわざわざ指定してくれた。
今でも覚えている新宿界隈の薄暗い喫茶店だった。
彼はその時、外務省を辞めた後の厳しさをさり気なく語り、まだ若い私に早まったことをするなと諭してくれた。
その時の彼の言葉の中で鮮明に覚えている事が二つある。
その一つが小和田外務次官(あるいは当時は官房長だったかもしれないが)が浅井さんに対して、
「辞めたあと外務省に弓を引くような事をしたら、外務省は省をあげて君を潰しにかかるから」と言ったという言葉である。
もう一つは、自分は外務省の若い連中から、「浅井が外務省に近づいてきたら石をぶつけて追い返せ」と
言われているらしいと苦笑しながら語った言葉である。その時私は、外務省という組織の度量のなさと、
外務官僚の卑しさを感じたものだ。2年前に外務省を去った私は、改めてその時の浅井さんの言葉の正しさを
身をもって感じている。と同時に浅井さんの当時の勇気に感心し、圧力に負けずに信念を貫き通し、
平和外交の重要性を訴え続けてきた浅井さんの苦労に頭が下がる思いだ。今度の広島平和研究所所長就任は
そんな浅井さんへの勲章である。広島平和研究所もこれ以上ない人を獲得したといえる。
今の外務省をみるがいい。米国追従の外交が完全に行き詰まり、米軍再編への協力を迫られる小泉政権は
平和憲法を放棄させられようとしている。歴史的な過ちの淵に立たされている。浅井基文さんの主張の正しさが
見事に証明されつつある。
私は浅井さんに不義理をしてしまった。あの時以来、お礼の連絡もしないまま今日に至っている。
外務省を辞めた後も、気に懸けてはいたがまだ挨拶できずにいる。毎日新聞に出ていた写真の笑顔は
浅井さんの穏やかな人柄をよく表していた。元気そうで何よりだ。是非とも新しい任務にその能力を
発揮してもらいたい。できるだけ早い機会に私は広島を訪れて、あの時以来の非礼をお詫びしたいと思っている。
そして浅井先輩のあとをついて日本の平和外交実現の手助けをさせてもらいたいと思っているのである。
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/325.html

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

対談

外務省は天皇の国璽を勝手に押している
天皇陛下の署名がないのに国璽が押されている免官状がある

藤原 この免官状はどこがあなたに出したものなの?
内閣という署名があるから内閣官房のはずだが、印鑑が押してないというのは奇妙ですよ。
天木 内閣でしょう。ただ、そこは事務処理の問題としては内閣のものとして、
外務省が作成したのでしょう。
藤原 いずれにしても、私はひと目でこれは偽造文書の仲間だと感じました。
天木 外務省の仕事というのはその程度のものなのですよ。
藤原 国璽としての天皇の印鑑管理に関しての問題であり、
ハンコを勝手にペタペタと押していいのかということです。そうじゃないですか?
天皇に会って実態を知らせるべき大問題であり、
「あなたのハンコが勝手に押されているが、そんないい加減な扱いを政治家や役人に許すのか」と聞く必要があります。
藤原 機密費の上納と流用の問題を調べていけば、雅子妃の父である小和田恒が
外交機密費の責任者であったときもあるし、過去に遡れば大勲位や勲一等旭日大綬章を
もらった連中が、国家を食い物にした悪党だったと分かってしまい、
悪党どもが勲章で飾り立てていたことまでバレてしまう。
しかも、官房機密費問題が皇室に及ぶのを恐れたのでうやむやにして、
国民をごまかしたというのが実態ですよ。今まではそういう.悲行の限りを尽くしても
外務省は安泰だったし、 自民党は政権を維持して潰れずに来たわけだからね……。
天木 それほど根が深いから、口が裂けても認めることができないのです。
報道陣もみんなその余得に預かってきたわけだし、書くことができない……。
藤原 日本のジャーナリストは記者クラブで飼われていて、皆が官房機密費から
「お車代」なんかをもらっているし、サラリーマンだから真相を書けないのですよ。情けないですよ……。
天木 今の日本の報道界の実情を観察して思うのは、ジャーナリズムは何をしているのか
という嘆きと共に、人間はやはり食っていかなければならないし出世もしたい、
「そんなことを言うのであれば、明日から記者クラブを追い出す」と言われれば、
何も言えないし書けないという現実もあります。

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盆栽見学で大笑い

皇太子ご夫妻、盆栽展見学=7カ月ぶり、そろって公務
皇太子ご夫妻は16日午後、東京・上野の東京都美術館を訪れ、
「第80回国風盆栽展」を見学された。皇居や東宮御所での公務を除き、
ご夫妻での外出は昨年7月の愛知万博視察以来、7カ月ぶり。
焦げ茶のパンツスーツ姿の雅子さまは、皇太子さまとともに、
主催の日本盆栽協会の竹山浩理事長から説明を受けながら、熱心に盆栽を鑑賞して回った。
雅子さまは梅の盆栽を見ながら「実はなるのですか」と質問したり
ご夫妻で時折顔を見合わせ笑い声も交え話したりと、元気な姿を見せた。 
(時事通信) - 2月16日18時1分更新

TVニュースの中で協会の人
「盆栽の実は1度落ちてしまったが、展示のために無理にくっつけた・・
というような話をしましたら、とてもお笑いになられて・・」

※この日予定されていた両陛下との夕食会を雅子さまはドタキャン
週刊現代2006年2月?日号
2月16日木曜日、国風盆栽展に二人で出席した皇太子夫妻。
しかしその日に予定されていた皇居での天皇皇后両陛下との夕食会をまたも雅子妃はドタキャン。



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さるさる日記 - 御茶ノ水盆栽倶楽部
草花と日本橋高島屋が好きなDentistのブログ(現在は無し)
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=464104&log=200602
2006/02/16 (木) 皇太子殿下と小和田雅子さん見学
国風盆栽展には皇太子殿下と小和田雅子さんが見学に来たそうです。
皇太子ご夫妻は16日午後、東京・上野の東京都美術館で開催された
「第80回国風盆栽展」を訪れ、盆栽を観賞された。
病気療養が続く雅子さまも皇太子さまとともに、約1時間半にわたり会場を見て回り、
満開の花を付けた樹齢100年以上の緋梅(ひばい)の前では
「たくさん咲いているんですね。実は付けるのですか」と笑顔で話していた。
ご案内は会長の宮沢喜一ではなく理事長がしたそうです。
その場に立ち会った隠れ御茶ノ水から皇太子殿下が来たとリアルタイムで連絡があったので、
お二人の靴のヒールの高さを確認するように伝えました。
皇太子殿下は小和田雅子さんの方が背が高いので二人で出かけるときは、
ヒールが5cmほど高い靴をお履きになるのです。
しかし、最近は小和田雅子さんの条件闘争のための気まぐれ(本人は適応障害だと主張中)がはげしく、
行くと言っていたのに出発直前で行かない!と言ったりすることが多いので、
確実に行くと決まった時以外は、歩くのに楽なヒールの低い靴をお履きになっているのだそうです。
しばらくして、隠れ御茶ノ水から情報があり、皇太子殿下は普通の靴、
小和田雅子さんは5cmくらいのヒールの高い靴をはいており、
二人の身長差は10cmくらいもあって大女に小男の風貌で、
皇太子殿下が貧弱に見えた、ということでした。
小和田雅子さんは皇太子殿下が小さく見えないように、
昔はヒールの高い靴は履かなかったのに、
今はもう皇太子殿下のことはどうでもよくなったのだな、と感じました。
しかも、皇太子殿下も小和田雅子さんは来ない、という準備で来たということは、
この二人の間にはもうなんの疎通も愛情もなく、
秋篠宮に注目が移る中で、廃太子か離婚かの選択を皇太子殿下が選ばなければならない日が
近くなっていることを感じました。
それにしても
「盆栽の見学をして、あれだけ無意味に笑える人もおらんね。元気なんやね。」
という小和田雅子さんへのある理事のコメントはたいへん興味深く、
小和田雅子さんの病気の真実がかいま見えたような気がしました。
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小和田恒氏

■「九〇年代の日本外交と国連−小和田氏は何をしたのか−」
『軍縮問題資料』2001年10月号 
河辺一郎
http://www.geocities.jp/kawabe_ichiro/papers/048.html

■青年の旗 185号(1993年3月15日)
http://assert.jp/data/1993/18503.htm

■岡田克也
2006年8月29日週刊ビデオメッセージ
日韓フォーラム
実はこれから、淡路島に出掛けます。淡路島で今日から「日韓フォーラム」というものが開催されます。
この日韓フォーラムというのは、日本と韓国の有識者、政治家であったり経済人であったり、
あるいは学者であったり、日韓のそういう有識者が集まって、日韓の課題について議論するということで、
大変権威のある、そして中身のある会議です。
私は数年前までこの会議に毎年参加していました。日本と韓国で交互に開催されてきたわけです。
当時、日本側の議長は外務省OBの小和田さん、皇太子妃雅子さまのお父さん、が非常にリーダーシップを発揮されて、
中身のある会議が開催されていました。少し前になりますけれども、
ワールドカップサッカーの日韓共催を最初に提案したのも、この会議の場です。
しばらく忙しくて遠ざかっていましたが、久し振りに参加させていただき、
日韓を取り巻くいろいろな問題、例えば国民感情の問題、あるいは領土の問題、
そして共に世界のために協力できる分野、そういったことについて、率直に意見交換をしてきたいと思っています。
この結果は、後ほど皆さんにこの場でもご報告したいと思います。
http://www.katsuya.net/message/2006/08/29.html


■2007.8/17朝日
大使公邸「35億円大使公邸 お荷物?」
日本政府が99年に35億円で入購入した「国連大使公邸」老朽化で修繕に膨大な費用がかかる上、
地理的な使い勝手が悪いとして前大島大使が外務省に意見書を送ったが外務の反応は消極的。
これは、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す日本にふさわしい建物をと
小和田恒・元大使の在任当時に購入を決断。24億円で購入し、11億円かけて改修した。
他国が実用性重視のビルを所有しているのに比べ、この公邸はあまりにも不便。
購入当時も実用性ビルを購入の話は出たが、予算の関係上、「実用性よりもステータス」
を重視する決定が下されたという。

■ゲンダイネット2007年8月18日掲載記事
35億円大使公邸は幽霊ビル
かねて「幽霊ビルに35億円!」と批判を浴びていた
ニューヨークの「国連大使公邸」に対し、
とうとう身内からも「売却すべきだ」という声が上がり始めた。
日本政府が99年に購入した国連大使公邸は、改修費を合わせると総額35億円の大豪邸。
朝日新聞によると、今月退任したばかりの大島賢三前大使が
「売却を検討すべきだ」という意見書を外務省に送ったという。
国連大使公邸は、鉄骨石造りの地上5階、地下2階建て。
99年1月、当時、住宅では史上最高額の2100万ドル(24億円)で購入した。
その後、11億円かけて改修している。
ところが、地元では“幽霊ビル”と呼ばれているという。
「建物は築100年以上。配管が腐っていたため買い手がつかず、
10年以上も売れずに放置されていた。
それを『歴史的な建物だ』と相場の2割高で購入したのです」(関係者)
老朽化で修繕費に膨大なカネがかかるうえ、国連本部からも遠いため人が寄りつかず、
利便性や活用性が極端に低い。とうとう大島前大使は今年春、
外務省の塩尻官房長に「不便が多々あり、客足も鈍りがち」
「当時の関係者の判断に強く疑問を感じる」
「売却するオプションを排除すべきではない」と意見書を送ったという。
当時の国連大使は小和田恒氏だ。
外務省は「大島前大使から文書が送られたかどうか、お答えできません」というが
事実だとしたら、とんでもない税金のムダ遣いじゃないか。



■雑誌正論2008年1月号
佐々淳行
カンボジア総選挙国際監視団に日本の文民警察を派遣するとき、装備として拳銃と若干の小銃、
それに防弾チョッキを持たせようと提案したら、外務省の小和田恒が、
「丸腰で行け! 装備をもたせると、帰るときに売っぱらい、武器輸出三原則に違反するから」と言い放った。
日本の警察をバカにしたような発言に驚いた。
「皆がお前(小和田)と同じことをやってると思ってんのかっ!!」

■防衛省OB太田述正メルマガ
「小和田恆さんいい加減にしなさい。」
皇太子殿下の嫁の実父という立場にある君は恐れ多くも、皇太子殿下を利用し、
次から次と悪事を働いて来ましたね。
ある時は、後藤田正晴氏と組んで想像も付かないような恐ろしい悪事を企てましたね、
元日銀総裁の三重野康氏を使って実行した事は
日本国の信用を著しく損ねたのみならず、皇室の尊厳を著しく傷つけました。
それに懲りずに今度は武藤敏郎日銀副総裁(当時)、飯島勲(元小泉総理秘書)、等と組んで
小泉純一郎氏を巻き込み某国の大統領にまで手を延ばして、恐ろしい事をしましたね、
その時も恐れ多くも、皇太子殿下を欺いて利用しましたね。
http://archive.mag2.com/0000101909/index.html

■↑と同じ内容
第32報  小和田恒さんいい加減にしなさい。
君は外務事務次官を退官した後国連大使になりましたね、
外務次官経験者は恒例として駐米大使になることになっていたのに異例の事と受け止められました。
この時から既に君はある恐ろしい野望を持っていたのですね。
この事は、その後君がオランダハーグの国際司法裁判所の判事に強引になった事でも裏付けられました。
この時は既に日本は安全保障理事会の非常任理事国のポストが決まっていたのを横槍を容れ、
それを放棄させ引き換えに奪い取ったポストでしたね。
皇太子殿下の嫁の実父という立場にある君は恐れ多くも、
皇太子殿下を利用し、次から次と悪事を働いて来ましたね。
ある時は、後藤田正晴氏と組んで想像も付かないような恐ろしい悪事を企てましたね、
元日銀総裁の三重野康氏を使って実行した事は日本国の信用を著しく損ねたのみならず、
皇室の尊厳を著しく傷つけました。
それに懲りずに今度は武藤敏郎日銀副総裁(当時)、飯島勲(元小泉総理秘書)、等と組んで
小泉純一郎氏を巻き込み某国の大統領にまで手を延ばして、恐ろしい事をしましたね、
その時も恐れ多くも、皇太子殿下を欺いて利用しましたね。
この辺で誠実で純心無垢な皇太子殿下を悪用する事を止めないと君に天誅が下ると思いますよ。
山路信義
http://blogs.yahoo.co.jp/yamajinobuyoshi/4718714.html                                 

■「日銀総裁の座を狙っていた小和田恆氏」
何故小和田氏は日銀総裁の座を狙ったのか、それは国連大使、
オランダハーグの国際司法裁判所判事と歩んできた最後の仕上げであった。
今、小和田氏は武藤総裁を実現して最後の賭けに出ようとしている、
これは皇室に災難をもたらす、あまりにも無謀な恐ろしい暴挙であると
言わざるを得ない。小和田氏自身のみならず皇太子殿下にも災難が及ばないとも限らない。
美智子皇后の御尊父の爪の垢でも飲ませたいものです。
このうえは天皇陛下の御英断を煩わせる他にないのか?
小和田氏はかねてソヴィエットロシアの大使館に勤務していた時、北朝鮮の工作員と接触しましたが、
その時利益供与を受けたという疑いが某国の諜報機関に持たれています。
いづれにしても、小和田氏の信用と評価はアメリカでは最悪であり、EU諸国に於いても最低だと言われています。
自らの立場を猛省されて身を処されたらよいのではないか。
http://yamaji.iza.ne.jp/blog/entry/520966/

■罠にはまった小和田氏?
チャンネル桜にて瀧澤一郎氏がそれらしい事をほのめかす
平成のはじめ頃ロシアが貧窮して国民生活が脅かされてるという事が
よく報道されていたが、氏がロシア国内をバイクでくまなく回ったところ、全くそういう事はなく、
誰一人飢えている人はいなかった。
これはロシアに国際援助を引き出す為の工作であり、NHKが積極的に宣伝した。
当時は某国立大の教授が「ロシアからボートピープルが来るかもしれない。
その前に援助した方が安上がりだ」と中央公論に書いたりもした。
そして小和田外務次官も積極的にその宣伝工作をやっていた。

■新潮
OVOD=小和田氏が行為を撮影された。
>OVODというコードネームを持つ外務省職員の記述は生々しい。
>モスクワ勤務時代、彼は二回ハニトラに引っかかり工作員にされた。
>誘惑したのはロシア語教師。これで私は一生KGBから逃げられませんね、と語った。
スパイになってしまった日本人にコードネームが付けられていると書かれている。
(アナグラム)
佐藤保はATOS、伊藤茂はGRACE、石田博英はHOOVERなど

■産経 正論
産経ニュース「正論」2008.10.10
政治家・官僚にお願いしたい事 上智大学名誉教授・渡部昇一
(一部)
戦後を体験した人間として不思議に思うのは、敗戦直後の日本の政治家が、
チャイナやコリアに卑屈でなかったことである。
それが講和条約締結から時間が経(た)つにつれて、
だんだん卑屈度が増してきているという印象があるのだ。
その理由としては、ハニー・トラップやマネー・トラップ(女性やお金の誘惑)が
利いているのだと推測する人も少なくない。
それも少なからぬ効果を発揮しているのだろうが、もっと深いところで、
サンフランシスコ講和条約第11条についての外務省の解釈がいつの間にか変わってきたことに、
日本政府を卑屈にさせる根本原因があると考えられるのである。

「裁判」と「判決」の混同
その第11条は、「日本は東京裁判の諸判決(Judgments)を受諾し、それを遂行する」という
主旨(しゅし)のものである。
ところが、外務省はいつの間にか「裁判」と「判決」を混同し、
それを政治家にレクチャーし続けているのだ。
たとえば今を遡(さかのぼ)ること23年前の昭和60年11月8日の衆議院の外務委員会において、
外務省見解を代表した形で、小和田恒氏(当時の条約局長)は土井たか子議員の質問にこう答えている。
「…ここで裁判(極東国際軍事裁判=東京裁判)を受諾しているわけでございますから、
その裁判の内容をそういうものとして受けとめる、そういうものとして承諾するということでございます」
この時点で日本の外務省の正式見解は、裁判と判決をごっちゃにしているという
致命的な誤りを犯しているのである。
例の第11条を読んでみたまえ。そこには「諸判決Judgments)を遂行する」としている。
もしJudgmentsを「判決」でなく「裁判」と訳したら、
日本政府が遂行できるわけはないではないか。
東京裁判を遂行したのは連合国である。その裁判所は死刑の他に無期刑やら有期刑の諸判決を下した。
その諸判決の期間が終わらないうちに講和条約が成立し、
日本が独立したので、「その刑期だけはちゃんと果たさせなさいよ」ということである。
東京裁判は、いわゆるA級戦犯の誰も受諾、つまり納得していない。
たとえば東条英機被告の『宣誓口述書』を見よ。受諾したのは判決のみである。
他の被告も同じだ。これは敗戦国の指導者たちとして捕虜状態にあるのだから逃げるわけにゆかないのだ。

東京裁判の誤った評価
裁判と判決の区別を小和田氏はしていない。小和田氏を代表とする外務省の見解は日本政府の見解として、
政治家を縛っているのだ。
裁判受諾と判決受諾は全く別物であることを示している古典的な例で言えば、
岩波文庫にも入っている『ソクラテスの弁明』である。
東京裁判はマッカーサーの条例で行われたものであるが、
後になって彼自身がアメリカ上院で日本人が戦争に突入したのは主として
「自衛」のためだったと証言しているから、「侵略」戦争の共同謀議という
A級戦犯の罪状のカテゴリー自体も消えていることを外務省に知ってもらいたい。

■WiLL2009年8月号増刊
「村山談話」は「外務省談話」だ
渡部昇一 上智大学名誉教授
P232―P233
小和田発言から始まった
(略)
真珠湾五十周年の国会決議案は幻となって消えましたが、これは「村山談話」と同じ主旨ですから、
つまりは「村山談話」は外務省の下書きと一致しているということになります。
そしてその外務省の「日本断罪」史観はいつ始まったかと考えると、それは『WiLL』11月号に
谷沢永一氏が詳しく述べられたように昭和60年11月の政府委員としての小和田恒氏の発言です。
その頃から、外務省は「日本断罪」、つまり東京裁判の検事側の論告を丸飲みしていたということです。
その中で小和田氏は「東京裁判を受諾して日本は国際社会に復帰した」という主旨の表現に終始しています。
しかし、東京裁判というのはキーナン主席検事が何度も言っていたように、日本人や日本国を裁くものではなく、
“日本国を悪に導いた”個人を裁くものでした。個人は死刑になったり無期禁固刑になったりしましたが、
これは後に無茶な判決であったということで、サンフランシスコ講和条約11条後半の条文に基づき、
みな無罪になっています。死刑になった人は生きかえらせることができなかっただけです。
東京裁判の個人に対する判決はこの一事を見てもわかるように内容のないものでした。
いわんや、日本国は最初から裁かないと言っているのです。
一番わかりやすい例を一つだけ挙げると、A級戦犯として判決を受けた重光葵氏は鳩山内閣で外務大臣に復帰し、
日本が国連に加盟した時に出かけていって「日本は東西の架け橋になる」という有名な演説をして喝采を浴びました。
重光氏は帰国して間もなく亡くなりましたが、それを聞いた国連は黙祷したのです。
こんなことも当時の外務省は知らなかったのか。無視したのか、不思議で仕方がない。
ともあれ、小和田恒氏の発言以来、外務省は「反日」と言えるほどの韓国、中国べったりの意見を言い、
政治家は「外務省の言うことだから」とそれを政府の意見としてしまう悪習が続いている。
そして「村山談話」を出した時には、外務省は全ての大使館に対して、「これは閣議決定であるから
重視するように。そのつもりで各国に説明するように」という主旨の指示を出しているのです。
私は「村山談話」は「外務省談話」と言ってもいいと思います。


読売新聞2014年7月2日
時代の証言者
日本外交とともに 岡崎久彦 22
(略)
《天皇、皇后両陛下が即位後初めての海外訪問として、91年秋東南アジア諸国を
 歴訪されることが決まった。最初の訪問国がタイになった》
外務省本省から、バンコクで予定されていた天皇陛下のお言葉として、
真っ先に先の戦争で日本のした行為を謝罪する案が来た。私は反対でした。
タイには日本に謝罪を求める気持ちなどないことを知っていましたから。
タイ外務省に確認し、何も謝ってもらう必要はない、とのタイ側の意思を本省に伝達しました。
抵抗していたら小和田恒次官が、これで勘弁してくれって言ってきたのは、
天皇陛下が、まず日本とタイがいかに仲がよかったかと、お言葉をずっと述べられる。
そして最後に、全東南アジアに向けての発言として、
「先の誠に不幸な戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう平和国家として生きることを決意」
という言葉を述べていただくことにした、という。
この箇所は、タイではなく全東南アジアに向かって言う部分なのだから、タイ大使としては反対しにくい。
私は一時、、辞表を書いて抵抗することも考えたけれど、それで黙っちゃった。
最初の案を書き直させただけでも意味があったのかなあ。
(編集委員 三好範英)


[054/112] 103 - 衆 - 外務委員会 - 1号
昭和60年11月8日
○小和田政府委員 極東国際軍事裁判所の条例で「平和に対する罪」というものが規定されまして、
それに基づいて被告が起訴されたわけでございますけれども、
その中で訴因の第二十七というのがそれに当たりますが、中国に対して侵略戦争が行われた、
これが「平和に対する罪」を構成するという規定がございます。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

■国際司法裁判所:所長に小和田恒氏
2009年2月7日
毎日
国際司法裁判所:所長に小和田恒氏 日本人初
外務省は6日、オランダ・ハーグにある国連の国際司法裁判所(ICJ)所長に
小和田恒(おわだひさし)判事(76)が互選で選出されたと発表した。
任期は同日から3年間で、日本人がICJ所長に就任するのは初めて。
ICJは国連憲章で1945年に設立が決まった。
国連総会と安全保障理事会で選ばれた15人の裁判官(任期9年)が国際法に基づき、
国家間の紛争の平和的解決を図る目的で活動している。
提訴は国家に限られ、08年8月にはグルジア政府がロシアによるグルジア人迫害の即時停止を求める
仮保全措置を申請。96年には核兵器の違法性について「使用と威嚇は国際法の原則に一般的に反する」
と判断しつつ、「極端な状況下での国家の自衛のための核使用・威嚇は合法か違法かの結論は出せない」
と最終判断を回避した。
小和田氏は外務事務次官や国連大使などを歴任し、03年2月からICJ判事。
長女は皇太子妃雅子さま。
日本出身のICJ判事は小和田氏のほかに、海洋法の専門家で76〜03年に務めた
東北大名誉教授の小田滋氏▽61〜70年に務めた元最高裁長官、田中耕太郎氏の2人がいる。
戦前の国際連盟時代、ICJの前身にあたる常設国際司法裁判所(PCIJ)では、
外務省出身の安達峰一郎判事が1931年から3年間、所長を務めた。

NHK
国際司法裁判所長に小和田氏
2月6日22時26分
オランダにある国際司法裁判所の所長に外務省の元事務次官の小和田恒氏が、
日本人として初めて選ばれました。
中曽根外務大臣は「小和田氏のさらなる活躍を期待する」という談話を発表しました。
国家間の紛争を平和的に解決する国際司法裁判所は、
国際社会で最も権威のある国連の司法機関で、所長選挙は、日本時間の6日、
15人の裁判官による投票で行われ、小和田恒氏が過半数を得て、
日本人として初めて所長に選ばれました。
小和田氏は76歳。外務省の条約局長や事務次官を経て、
平成14年から、国際司法裁判所の裁判官を務めており、所長としての任期は3年間です。
これについて、中曽根外務大臣は「小和田氏の今後のさらなる活躍を期待する。
日本は、今後も国際社会における法の支配の推進に積極的に貢献していきたい」という談話を発表しました。


■小和田氏の後任決まる 国際司法裁判所長にトムカ氏
2012年2月8日0時9分
オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は6日、小和田恒所長(79)の任期の満了に伴う互選投票を行い、
後任にスロバキアのペテル・トムカ副所長(55)を選んだ。任期は3年。小和田氏は昨年11月、
ICJ裁判官選挙で再選(任期9年)しており、引き続きICJの裁判官を務める。
小和田氏は皇太子妃雅子さまの父親で、外務事務次官などを経た後、2003年からICJ裁判官。
09年2月、日本人初のICJ所長となった。ICJは国家間の紛争を裁くための国連の主要な司法機関。(ブリュッセル)
http://www.asahi.com/international/update/0207/TKY201202070688.html
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論壇

◆論談 目安箱 平成18年02月06日
官邸が狙う 「女系天皇」 を陛下が憂慮 投稿者: 匿名

私は宮内庁に勤務する職員、すなわち内閣府事務官であります。
このところ、皇室典範改正の是非についての意見が政治家から相次いでいますが、
宮内庁内において極めて憂慮すべき事態が起きております。
内部告発のような形となることの非礼は承知しておりますが、
迷いに迷った末、敢えて文書にしました。
匿名でなければ申し上げられない状況にあることもお察しください。

宮内庁では、女性天皇及び女系天皇を認める皇室典範改正が
いかにも當然の流れというような雰囲気が漂っていますが、
決して宮内庁内部が一枚岩ということではありません。
昨年末も、ある者が内部の会合で、小泉首相をトップとする
現在の官邸主導の動きを暗に批判したところ、
羽毛田長官が別席で厳しく叱責するという事態が起きました。
また、長官の直属の幹部は 「陛下に迷惑をかけることになるぞ」と
半ば強迫めいた言動でこれを撤回せよと迫りました。
この人物は4月人事で左遷させられるのではないかと見られています。
しかし、現在の動きに疑問を持っているのは少数ではありません。
いわば官邸 = 羽毛田長官という密接な連携の中で、
まっとうな意見が言論封殺されている状況です。
しかも、「これは陛下のご意思である」というような正に偽装された「事実」が、
今日の流れを作り出しています。

侍従職の関係者に聴いても、決して両陛下は、政府が提出しようとしている
改正案に賛成されているというわけではありません。
陛下は、「国民の声をよく訊いて、人々が望むならそれでいい」
「よく研究して、なるべく早く結論を出すのが望ましい」とは話されていますが、
それ以上の発言は一切ありません。官邸=羽毛田長官は、
陛下が仰せの「国民の声」を「内閣府の世論調査」の結果に依拠し、
「なるべく早く」を「国民的人気のある小泉政権の手で」と
都合よく解釈しているにすぎません。
従って、宮内庁の慎重派の意見は、羽毛田長官からは陛下には一切報告されておらず、
官邸サイドの情報だけが上奏されているのが実情です。

現に、陛下は側近に対して、「政治家はあまり歴史を知りませんからね」とか、
有識者会議のメンバーについても「政治家が選んだのでしょう?」と尋ねておられます。
これだけでも、現在、陛下がどういう状況に置かれているかがわかると思います。
寛仁殿下の各種マスコミでのご発言についても、陛下は決して怒ってはおられません。
むしろ、女系容認が既成事実化していることを憂慮しておられ、
政治家の横暴を糾す援軍と考えておられるようです。
ただ、皇族が政治的な発言をすることを憂慮されているだけであって、
これを逆手に羽毛田長官らは、寛仁殿下のご発言について、
宮務課や宮内庁幹部ばかりか新聞記者に対しても「あんなのは無視すればいいんです」と
極めて不敬な発言を繰り返しています。

先日の週刊新潮(2月9日号)に、自民党の武部幹事長が、典範改正の内容について
「陛下の意思」とし、ある皇族をご落胤だと発言したことが記事になっていましたが、
この記事は翌日、側近から陛下のお手元に届けられています。
これに慌てた羽毛田長官が、これを否定する(武部さんは言ってないとの)
ご説明をしたようですが、なぜ自民党の幹事長の発言の是非を
宮内庁トップが説明する必要があるのでしょう。
官邸からの指示としか考えられません。武部幹事長は1月中旬、宮内庁OBに対し、
法案提出に関して、「細田さん(前官房長官)が言っていたが、陛下は容体がよくないらしい。
とにかくいそがなくちゃならんよ。内容なんかどうでもいんだ」とまで言っています。
こうした不敬極まりない虚偽の事実を根拠にした発言が平然となされていることは
恐ろしいことです。
どうか、拙速な結論を出して禍根を残さないよう、良識ある国民の皆さま、
政治家の方々のご尽力をお願いいたします。

平成18年2月 宮内庁内閣府事務官

http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060206-9.html

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皇室の伝統を守ろう!日本武道館・一万名大会


神風はなぜ吹いたか 金美齢

我が「悠」への想い


【吉備野庵】
zenmz.exblog.jp
http://zenmz.exblog.jp/4145425

2006年 09月 13日
【6246】 我が「悠」への想い
★ 去る6日の親王ご誕生に続き、昨日12日午後はご命名。
この1週間、マスコミは“ロイヤルベビー”慶祝と、その”あやかり”エピソードの報道に突っ走っています。
6日に目立ったのはほぼ同時刻に生まれた男児掘り起こし。
そして昨日は、「悠仁」同名者のご登場。我が家も沸きました。一番下の孫の名が「悠」なのです。

★ 芸能人や英雄にあやかる。先月も甲子園の優勝投手のあやかりハンカチブームが去った後の第二波。
どちらかと言うと、こうした報道には斜に構えて批判的な私ではありますが、
今度のご命名あやかり騒ぎは我が家を包み込みました。
たまたまテレビで速報を見た娘が「悠だって!」と素っ頓狂な叫び声をあげ、
早速、ケイタイを掛けまくり、盛り上げていました。

★ 「悠」 テレビは、この漢字一文字を大きく掲げ、学者、評論家が登場して
微に入り細をうがった解説がなされていました。私も、16歳、高校2年生になった我が孫が生まれた時、
その父母と共に額を寄せて命名協議をしたことを思い出しました。
「遊にしたい」と言う長男に「ダメだ。名字を繋ぐと、”銭持って遊ぶ”感じになる。”悠”にしろ」

★ 結局、長男が私のアドバイスを取り入れて「悠」を選びました。
「なっ、良かっただろう。親の言うことには従うものだ」 
50になった男にそんな軽口を叩くと、
「オヤジもそろそろ、老いては子に従う境遇だろう」と言い返して来てアイコ。
まあ、楽しくひとときを過ごしました。

★ しかし、“ロイヤルベビー”ご命名にあやかり、改めて「悠」の字義を確かめました。
「”名は体を表す”と言うだろう。我らの願いを1字に込めろ」 
16年前にも父母・祖父母4人が字典を前に額を寄せ合って、
この子の行く末にありったけの思いを乗せたものでした。
因みに長男の子どもは3人いますが、全員、1字の名にしています。

★ 字義について言えば、やはり白川静先生に教えを請うのが一番です。
「悠」の字の上の部分は人の背中に水をかけて滌(あら)う形でみそぎをするという意味。
先生のご著書「常用字解」(平凡社)にはこう説明されています。
「みそぎによって身心が清められ、心がゆったりと落ち着くことを悠といい、
『ゆるやか、のどやか』の意味となる」

★ 念のため先生渾身の名著『字統』で確かめると、
「みそぎを終えて心の伸びやかとなった状態を悠という」といい
「心が安らかであればその想念も悠(はる)かである」。16年前の情景が甦ってきました。
「ゆったりと、のどかに、そしてのびのびと・・・元気でそだて、悠よ」 赤子に呼びかけた最初の言葉でした。

★ 折角の機会です。私は、この「悠」の字に特別の思いがあります。
この語を選ぶ過程で、この漢字は、戦後の”拙速な”国語改革の中で、
一旦、抹殺された文字であることを知りました。国民の強い復活の願いが実って、
戦後初めて「人名用漢字」に復活したいくつかの”抹殺漢字”のひとつが「悠」でした。
蘇ったのはちょうど30年前の1976年のことでした。

★ もし、この復活がなければ、今日の親王のお名前「悠仁」は絶対にあり得なかったのです。
かつて国家が抹殺した言霊の籠もる貴重な漢字を民衆が取り戻し、今、皇室がそれを拾い上げられた・・・
その重要な意味を、今、私は思い起こしています。そして孫に教えたいと思います。

★ 「悠よ、君の名前は復活の象徴。無謀な国家の文化破壊の後、民衆が忘れずにその命を匿い、
復活させた言霊。この一字はその抵抗のシンボルだ。
そして、皇室が今、民族待望の親王のお名前に、この復活文字を選ばれた。
悠よ、この一文字はもう消えることはない。今、復活して、自らを体現した」

★ 占領軍の指導の元で行われた拙速な民主主義は、日本の伝統文化を大きく毀損しました。
アメリカに迎合した実用主義的文教政策は国家主導による組織的な伝統文化の大破壊を起こしました。
その結果は、貴重な古典との断絶を引き起こしたのです。
我々、昭和ヒトケタ族から下の年齢層は、その被害者と言わねばなりません。
この思いはかつて、このブログでも書いたことがあります。ご参照頂ければ幸甚に存じます。
http://zenmz.exblog.jp/4145425

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