悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問

悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問
半藤一利スペシャルインタビュー
2019年06月21日

https://friday.kodansha.co.jp/article/53220

「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、
『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、
わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。
だって相手は小学校6年生の坊やですよ。
そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。
だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」
秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。
その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。
秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「終戦記念日」だったのは、偶然ではないのだろう。
平成から令和へと新時代を迎えた今、半藤氏がその日のことを本誌に明かした。
「最初に秋篠宮父子にお会いしたときに言ったんです。
私は東京下町生まれなものですから、”ひ”と”し”が上手く発音できません。
だから悠仁っていう御名前はすごく言いづらい。
『しさしと』になっちゃうんで、今日は殿下、と呼ばせていただきます、ってね。
持ち時間は2時間半だったんだけど、太平洋戦争についてさわりの部分で1時間話しました。
私が話したことのひとつは、私たちの国は、”内陸に乏しい”ということです。
北の北海道から南の沖縄まで、長〜い海岸線を持っていて、
海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。
ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、
国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。
そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。
要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。
さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。
こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。
こう話したら、同席していた父の秋篠宮が、幼い殿下に『地政学』とはこう書くんだよ、
と紙に書いて教えてあげていましたね」
休憩時間になり、紀子妃が淹(い)れてくれたお茶を飲みながら半藤氏が「質問がありますか?」と聞くと、
悠仁さまは手を挙げて「アメリカはなぜ広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?」と質問した。
「質問を受けて、これはなかなか難しいぞ、と思いながらも丁寧に答えましたよ。
細かいことは忘れてしまいましたが。
あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。
ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています」

父・秋篠宮からも質問が
悠仁さまへの説明を終えた時、今度は父の秋篠宮が「私からも、質問をいいでしょうか?」と切り出した。
「彼は私の著書を読んでいて、統帥権(とうすいけん)について、
もう少し詳しく教えてください、と言われたんです。
統帥権は非常に難しい概念です。日本国憲法施行までの大日本帝国憲法は、明治22年に公布されています。
ですが、『軍人勅諭』の原形ができるのは明治11年。憲法より11年も前なんです。
そこには大日本帝国陸海軍は大元帥である天皇直属の軍隊である、とあり、
大元帥(=天皇)の指揮権を統帥権と言ったのです。
つまり、軍隊は後から成立した憲法の埒(らち)外にあると、少なくとも一部の軍人どもは考えた。
明治から戦前の時代は、一人の中に天皇陛下と大元帥陛下という二つの役割があり、
これが日本という国を非常に難しくしていたんです。
統帥権にまつわるややこしい話、当時のさまざまな事例を理解してもらうため、
結局、後半の1時間半は、私と父宮との会話になりました。
それでも殿下は、居眠りもせずじっと傍らで聞いていましたよ」

このように秋篠宮父子が近現代史の教師役として半藤氏を招いた背景には、
半藤氏が戦争体験者として過酷な少年時代を過ごしたことも影響しているだろう。
半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれている。
その翌年には満州事変が勃発、次第に日本は軍靴の音が高く鳴り始めていった。
昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。
「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。
「そんな父の影響もあって、旧制中学に進学しても、私は軍人の学校には一切行かないと決めていた。
周囲はやれ陸軍幼年学校だ、少年航空兵だと熱に浮かされていたので、
『オマエは非国民だ』とよく罵(ののし)られたものです」
半藤少年の思惑をよそに戦況は悪化の一途をたどる。そして14歳だった昭和20年3月10日。
東京大空襲で下町は、すさまじい火炎に包まれた。
「焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。
空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。
防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。
蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。
それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。
これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。
そうやって死体を運び出していたら、2時間ぐらいで警防団の大人たちに
『お前たち、もうやめろ。これは大人の仕事だ。帰れ』と追い払われた。
帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。
ただ、もっと死体処理を続けていたら、今でいうトラウマになったかもしれません。
だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、到底口にできませんでした。
話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を聞くようになったからです。
旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、
それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。
初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。
ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、
コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。
それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。
それで言い返すようになった。
『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。
そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。
戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かなりの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。
本人が言っているんだから間違いない、なんてことはないんですよ。
誰だって自分を守りたい。それを忘れちゃいけません。
私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。
気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、
人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。
あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。
麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。
ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。
最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」
半藤氏は自戒をこめて、こう語る。

国際連盟を脱退して以来、日本には外交なんて一度もない
戦争をしてはならない、と繰り返す半藤氏は、同時に戦争へと引きずられないためにいかに外交が必要かを説く。
「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。
昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、
日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。
昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。
それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、
もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。
だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。
北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、
樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、
実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。
『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。
俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。
千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。
榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。
榎本が行ったことこそが外交というものです」

太平洋戦争から74年。昭和から平成へと、曲がりなりにも日本は平和を保ってきた。令和の世はどうなるのだろう。
「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。
『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? @アメリカ Aドイツ B旧ソ連 Cオーストラリア』
そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。
次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。
しかもその一人が手を挙げてこう言った。
『で、どっちが勝ったんですか?』
こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。
これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」
『FRIDAY』2019年6月28日号より

新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」

2019.06.01
新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」
二重権力、三重権力が現れる可能性
原 武史

新天皇・皇后の地方公務デビューが、6月2日に愛知県尾張旭市で開催される「第70回全国植樹祭」だ。
この行事から読み解ける「令和流」の天皇像とは、いかなるものなのか?
令和の幕開けに際し、放送大学教授・原武史氏が「象徴天皇」の過去と未来について語る特別インタビュー。
(取材・構成:伊藤達也)

早くも示された「平成流」との違い
徳仁天皇は今回、雅子皇后と共に6月1日に東海道新幹線で愛知県入りし、
あま市の伝統工芸施設を視察。翌日に全国植樹祭の式典に出席した後、
肢体不自由児などの医療・療育施設を視察し、帰京するという日程になっています。
私は改元前から、新天皇として初めての地方訪問がどのようなかたちで行われるか注目していました。
毎年5月ないし6月の植樹祭への出席は、明仁天皇が昭和天皇から引き継いでいた恒例行事ですから、
おそらくそれが初めての地方訪問になると考え、情報収集も行っていました。

その上で、前述の日程が判明したとき、以前から抱えていたある予測に確信を得ました。
つまり、新天皇は、「平成流」をそのまま引き継ぐことはしない――ということです。
まず私が得心したのは、この地方訪問が、1泊2日の日程で行われるという事実についてです。
「平成流」においては、式典への参加を目的とした天皇皇后の地方訪問は、
社会福祉施設などへの訪問とセットであり、それは令和でも引き継がれるようです。
ただし従来であれば、この日程なら2泊3日か3泊4日が通例でした。
例えば明仁天皇の最後の植樹祭訪問としてニュースになった、昨年の第69回ふくしま植樹祭への参加は、
6月9日から11日の3日間で日程が組まれていました。
このときは福島での開催ということもあり、植樹祭の前後には復興住宅への訪問や震災慰霊碑への訪問、
供花などの公務も行っています。福島ゆえに3日間だったわけではなく、
平成の間の植樹祭訪問は、平成元年の徳島開催、平成8年の東京開催、平成23年の和歌山開催を除けば、
すべて3日以上の日程が組まれています。

もちろん、平成になって初めての植樹祭訪問も1泊2日でしたので即断は避けるべきでしょうが、
今回の日程は、新天皇皇后の初めての地方訪問にして、早くも平成との違いを示しているように見えます。
宮内庁はそのことを承知しているからこそ、
5月の発表時に「皇后さまのご負担を考慮した」とわざわざ説明したのです。

明仁天皇と徳仁天皇の「性格の差」
天皇・皇后は6月1日に新幹線で愛知県に入り、2日には中部国際空港から特別機で帰京する予定になっています。
専用車で中部国際空港まで直接行き、羽田空港から再び専用車に乗り、赤坂御所に帰るとすれば、
名古屋から東京まで新幹線に乗るのと比べて、国民の目に触れる機会も自然と限られてきます。
平成に比して、国民に接する時間はきわめて短くなっていると言えるでしょう。

単純に考えれば、その違いは、美智子皇后と雅子皇后の体調面での違いに起因するでしょうし、
もちろん、良し悪しを判断すべき性質のものでもありません。
ただし、令和においては「平成流」がそのまま受け継がれるわけではないであろう、
ということは確かに言えるのです。

もうひとつ私が着目しているのは、明仁天皇と徳仁天皇との「性格の違い」です。
明仁天皇の言動は、倫理的で実直です。
「平成流」の天皇像が、国民の敬意によって裏付けられていたのは、こうした性格ゆえもあるでしょう。
ただ、ユーモアがある印象は薄い。
口数の少なかった昭和天皇ですら、園遊会で柔道家の山下泰裕氏に
「柔道は骨が折れますか」と尋ねるようなユーモアがありましたが、
明仁天皇にはそうしたエピソードがあまりありません。
また、地方訪問で国民と対話する姿が印象に残っていますが、
実はこの「天皇と国民が相対する」状況を作り上げるには、膨大な警備コストがかかっていました。
「親しみやすさ」を担保するために、その裏では厳戒態勢が敷かれていたのです。
徳仁天皇はそれに比べると、普段の言動にもユーモアが感じられます。
柏原芳恵のファン、ウルトラセブンが好き――そのようなエピソードが
このひと月あまり頻繁に報道され、徳仁天皇を身近に感じた人も多いでしょう。

「軽やかな天皇」の前例
象徴的なのが、徳仁天皇の「登山好き」です。テレビでも盛んに映像が流されていましたが、
雅子妃や愛子内親王と連れ立って那須御用邸周辺の山に登り、すれ違う一般の登山客と気さくに挨拶を交わす。
上皇になってからも、厳重な警備の上での「お忍び」が報じられている明仁上皇とは、かなりの違いがあります。
天皇ともなれば、そんな気軽な言動は難しいのでは――と思われるかもしれません。

しかし、明治以降の天皇の歴史を眺めてみれば、
軽やかな「人間らしさ」を持った天皇もいたのです。
大正天皇です。
政治状況もあって在位時から「神格化」が推し進められた明治天皇に対して、
大正天皇は皇太子の時から、自由な言動を繰り返しました。
旅行好きでもあった大正天皇は、皇太子時代に沖縄県を除く全道府県と大韓帝国を回り、
それに伴って福島県の霊山や京都府の成相山、香川県の屋島や象頭山など、各地の山にも登っています。
また兵庫県では軍事演習の合間に突然旧友の家を訪問するなど、スケジュールも気にしなかった。
天皇になってからも、皇后と一緒に葉山や日光の御用邸に1ヵ月も2ヵ月も滞在し、
ヨットや馬に乗る生活を続けました。
しかしこの「大正流」は、天皇の権威を求める人々には都合が悪かった。
明治天皇と同様の天皇の役割を押し付けられた大正天皇は、次第に体調を崩してゆき、
最終的には引退させられました。
その後「大正流」が引き継がれることはなく、
昭和になると逆に天皇の神格化が図られた経緯は、ご存知のとおりです。

もし「大正流」が引き継がれていたら、天皇像は大きく変わっていたでしょうし、
もしかすると昭和の歴史も大きく違っていたかもしれません。
しかし、昭和の反省から「平成流」を徹底した明仁天皇が、「大正流」に倣ったかといえば、そうではなかった。
あくまでも自らの考えに基づいて「象徴」を定義したものの、それは大正流の「人間らしさ」とは異なるものでした。
でなければ、2016年の「おことば」を受けて
「これは天皇の人間宣言だ」などという世論の反応は生まれなかったはずですから。

「令和流」の鍵を握る雅子皇后
私には、上皇亡きあとに本格的に現れるであろう「令和流」の天皇像が、
「平成流」よりはむしろ「大正流」に近いものになるのではないかという予感があります。
「平成流」を引き継ごうにも、雅子皇后の行幸への完全同行の難しさ、
また宮中祭祀へのコミットメントの低さもあり、必ずしも平成と同じ「象徴としての務め」が果たせるとは限らない。
そうした制限の中で、新時代の「象徴天皇」を自分で作り上げるという意識が、
徳仁天皇にはあるのではないかと思うのです。

その意味で、今後の地方訪問、宮中祭祀には注目しています。
今回の植樹祭に続いて注目すべきは、新天皇・新皇后として初めての定例の宮中祭祀となる、
6月16日の香淳皇后例祭です。
代替わりはしたものの、宮中祭祀の体系は平成と基本的に変わらないようですが、
皇太子妃から皇后へ立場が変われば、祭服も変わるなど、負担も違ってきます。
ここに雅子皇后が出席するか、そしてどう祭祀と向き合うか。
より突っ込んだ議論をするのであれば――
むしろこうした歴史的事実がここまでないがしろにされていることのほうが問題なのですが――
宮中祭祀の中には、皇室に代々受け継がれてきた伝統ではなく、明治以降の「作られた伝統」も少なからずあります。

例えば神武天皇祭は、歴史上は実在しない神武天皇の命日である4月3日と定められている。
歴史学者でもある徳仁天皇や、外務省のキャリア官僚だった雅子皇后が、
そこに疑問を呈してゆく可能性も考えられます。
「良妻賢母」の役割を担い続けた美智子上皇后と、キャリア官僚を経て皇太子妃となり、
皇室に入ったあと「適応障害」に苦しんだ雅子皇后とでは、考え方や人生観も大きく異なるはずです。
それに、女性の権利向上がこれほど叫ばれる時代に、世の女性たちや世論がこの先も黙っているでしょうか。
この論点は、これから徳仁天皇と雅子皇后がどのような「令和流」を打ち出すか、ということとも関係してきます。

グローバル化と登山
まず想定されるのは、皇室のグローバル化です。
まだ体調の問題があるとはいえ、元外交官という雅子皇后の経歴から言っても、
海外訪問はいずれ行いたい行事の一つでしょう。
明仁天皇と美智子皇后は、太平洋戦争末期に米国と戦って敗れた南方の島々への
「慰霊の旅」を戦略的に行ってきましたが、こうした点でも違いを出してくるかもしれません。

例えば地方訪問に合わせて、式典や施設訪問の合間に登山の予定を入れ、
そこで一般国民と交流を行えば、「平成流」との違いは明らかになります。
こうした「平成流」との違いがどのようなタイミングで打ち出され、またどのような世論の反応を生むのか。
ここでひとつ懸念されるのは、徳仁天皇が登山した場合、保守派に利用されるかもしれないことです。

一見すると登山はカジュアルな趣味に見えますが、天皇が行う場合は「国見」、
つまり「高い所から国土を望み見る」という古代天皇の行為になぞらえることもできるからです。
歴史や素朴な信仰が絡み合って、保守派の期待を裏付けるような論説も今後出てくるかもしれません。
もちろん、新天皇が築いてゆくであろう令和の新たな「象徴天皇」像をどう評価するかは、国民にかかっています。
ただ、正しい評価をするためには、「平成流」を作り上げた明仁上皇・美智子上皇后の足跡や意図、
また明治以降の天皇の歴史について今一度振り返り、考察を深める必要があります。

どうして天皇や皇室について深く考えなければならないのか。
それは、令和の時代には、皇室内部の権力構造が大きく変化することが予想されるからです。

上皇と天皇「権力の二重性」
明仁上皇が、改元前日の4月30日に発表した天皇としての最後の「おことば」は、非常に簡潔な内容でした。

〈今日を持ち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。
象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、
ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります〉

必要最低限の言葉を並べただけにも見えますし、世論はその簡潔さを讃えもしました。
しかし私は、この言葉には「新天皇に『象徴としての務め』を引き継いでほしい」という願いだけでなく、
「退位して上皇になっても、私は『象徴としての務め』のひとつである
『国民の安寧と幸せを祈ること』をずっと続けてゆく」という思いが込められているのではないか、とも感じます。

もし、雅子皇后が公務を十分に果たせないまま、
上皇上皇后が「祈ること」の一環として八王子市の武蔵陵墓地を参拝したり、
私的な外出を続けたりすれば、「平成」と「令和」の区別は曖昧になります。
「平成流」に慣れ親しんだ国民からは、天皇皇后に対する疑問の声があがるかもしれない。
雅子皇后にとっては、美智子上皇后と比較されるプレッシャーが、皇太子妃時代よりますます強くなる恐れもある。
こうして上皇・上皇后への敬意が高まってゆくとすれば、そこには「権力の二重性」が現れることになります。

秋篠宮とのバランス
加えて、徳仁天皇と比べても、「宮中祭祀と地方訪問」という
「平成流の象徴としての務め」に親和的なのが、皇嗣となった秋篠宮です。
秋篠宮は昨年、宮中祭祀について「大嘗祭は国費ではなく皇室の私的活動費を使うべき」と述べ、
さらにこの問題について宮内庁が皇室の意見に耳を傾けなかったことに
「すっきりしない」「非常に残念」と強調するなど、積極的に発言しています。
言うまでもなく、秋篠宮は皇位継承順位第1位の皇嗣であり、その長男である悠仁親王が同第2位です。
いまでこそ眞子内親王の件でバッシングを浴びていますが、
天皇皇后よりも「平成流」を踏襲しているように見える皇嗣皇嗣妃や、
現在のところ「未来の天皇」である悠仁親王に、しだいに国民の期待が集まってゆくという事態も予想できます。
さらに複雑なことに、ここには天皇皇后が「将来、皇室典範を改正し、
愛子内親王に天皇になってほしい」と考えるかどうか、ということも絡んできます。
つまり遠からぬ将来、「天皇・皇后」「上皇・上皇后」「皇嗣・皇嗣妃」という、
「三重権力」の構造がこの国に現れることも、十分に考えられるのです。

その時に国民は冷静な議論ができるのか。識者は質の高い論説を提供できるか。
学者ですら大半が天皇の政治性や権力という側面に目をつむり、
語ろうとしない現状はあきらかにおかしいし、危険であると私は考えています。
「お祝いムード」に浮かれるのではなく、歴史の境目にいる今こそ、
日本人は自らの天皇観を見つめ直すべきだと思うのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64834

秋篠宮家バッシングは陰謀か?「愛子天皇」待望論者のカンちがい

秋篠宮家バッシングは陰謀か?「愛子天皇」待望論者のカンちがい
倉山満
2019年05月27日 08時30分 SPA!

― 連載「倉山満の言論ストロングスタイル」―

◆皇室を考える大原則は三つ。先例、男系、直系だ。この順番を間違えてはならない
明治以来、改元の年には政変がある。既に、不穏な空気が漂っている。
日本が日本であるとはどういうことか。皇室が存在することである。
公称2679年、一度も途切れることなく皇室は存在してきた。
昨日と同じ今日を続けてきた。これを明日も続けるかどうか。
13歳の少年にのしかかっている。命の危険にさらされながら。

新帝践祚直前の4月26日、悠仁親王殿下がお通いになる中学校で事件が起きた。
賊が教室に侵入し、殿下の机に刃物を置いていった。
皇室の歴史を少しでも知っている者なら直感したはずだ。
殿下を脅迫している、と。「お前は皇位を辞退しろ」との脅迫だ。

これは散々、藤原氏がやり尽くした手口だ。藤原氏は権力を維持するために、
あらゆる手段で意に添わぬ天皇を引きずりおろした。また、皇太子の地位も、拝辞させた。
三条天皇などは藤原道長に痛めつけられて遂には失明にまで追い込まれ、退位を余儀なくされた。
刃物を突き付けるなど序の口、日本を亡ぼしたい勢力は今後も悠仁親王殿下に圧力を加え続けるだろう。

昨年から、秋篠宮家バッシングが勢いを増している。
同時に、女系・女帝・女性宮家への流れを作ろうとしている。
きっかけは「お婿さん問題」だが、本質は違う。皇位を秋篠宮家に渡さない陰謀だ。

◆「女帝」と「女系」の違いもわかってない
現状では、天皇の皇位継承順位第一位は秋篠宮殿下、第二位は悠仁親王殿下だ。
何十年後か、悠仁親王殿下が即位あそばされた暁には、これまで一度も例外なく守られてきた男系継承は続く。
問題はその時に他の皇族がいなくなるので御世継問題が重要となるのだが、それは別の話。
ところが、悠仁親王殿下がおわすのに「愛子天皇」待望論を唱える輩が後を絶たない。
一知半解の論者が「女帝は先例があるから良いではないか」などとゴリ押しするが、そういう問題ではない。

皇室を考える大原則は三つ。先例、男系、直系だ。この順番を間違えてはならない。
仮に「愛子天皇」が実現したとしよう。かつて「即位を男女で分けず年齢順とすべし」との提言がなされた。
それに従えば、悠仁親王殿下の皇位継承順位は、
「愛子天皇」が実現した場合は眞子内親王と佳子内親王に次ぐ第三位に落ちる。
のみならず、愛子天皇の次の皇位はどうなるのか? 同世代の四人のどの系統の方が継がれるのか?

仮に「愛子天皇」のお子様が継がれたとしよう。皇位の直系は愛子天皇の家系に移る。
配偶者が民間人の場合、その子が継げば王朝交代である。
これが女系天皇だが、こんなことが許されるなら弓削道鏡は称徳天皇と結婚して、
自分の子供を天皇にすればよかったことになる。皇室の歴史では一度も許されなかった先例破りだ。
こういう掟を無視するから、女系論は論外なのである。
女系論者は、先例と男系を無視して、直系だけ言うから意味不明になる。

◆秋篠宮家から皇位をとりあげようとする陰謀?
なお見落とされがちだが、「愛子天皇」の配偶者が皇族だった場合にも問題がある。
現に、旧皇族家の子孫の方々に親王宣下し、愛子様と結婚していただこうとの声もある。
確かにその場合、愛子様と親王殿下のお子様には皇位継承資格がある。
だが、悠仁親王殿下がおわすのに、何を差し置いて「愛子天皇」待望論なのか?
その子に皇位を継がせようとは、秋篠宮家に皇位を渡さない陰謀ではないか。

女系は論外としても、悠仁親王がおわす時点で女帝を言うとは、秋篠宮家から皇位をとりあげようとする陰謀だ。
皇位の直系は今上陛下から悠仁親王殿下に移る。
その時、皇族が一人もいなくなるので、愛子様、眞子様、佳子様、
そして親王宣下が待たれる旧皇族家の方々が一丸となって皇室を支えねばならないのだ。
令和の時代に再び壬申の乱を起こすような真似は慎むべきだ。
今の時点で女帝を言うのも既に悠仁親王殿下に対して失礼なのだが、
皇室の歴史において論外の女系論が勢いを増している。

◆一部、男系論者のカルトぶりがエスカレート
これは、男系論者の一部に責任があると断定せざるを得ない。
ある者は、日本国憲法と外国の王室だけで皇室を語っている。皇室の歴史など無視だ。
長い皇室の歴史を持ち出せば、官僚がやりたい放題できる今の「天皇ロボット説」が否定されるからだ。
こういう者は衣の下から鎧が透けて見えるので、普通の日本人からは白眼視される。

またある者は、皇室の尊さの根拠を「Y染色体遺伝子」に求める。
真顔で「男系とはY染色体遺伝子の継承だ」などと言い出す。正気ではない。
皇室の歴史は遺伝子の発見どころか、アルファベット以前からだ。
ついでに言うと、すべての女帝に「Y染色体遺伝子」は無い。
こんな人物が男系継承派の代表としてテレビに露出するなど、女系派の陰謀ではないかと勘繰りたくなる。
これでは、男系論がいかがわしく思われてしまう。

しかし、一部男系論者のカルトぶりは、留まるところを知らない。
インターネットでは、「皇太子(今上陛下)よりも皇室の血が濃い男系男子がいる」
などと拡散している御仁がいた(ジャーナリストを自称している)。
最初は何を言っているのか理解できなかったので、
日本語の意味だけを読んで「皇太子殿下は天皇陛下の実子ではない」と言いたいのかと思ったが、
その失礼さは予想の斜め下だった。
父母及び四人の祖父祖母が全員皇族であり(母方の祖父が昭和天皇)、
母方の曽祖父が明治天皇である東久邇宮信彦殿下のことを言いたかったらしい。
要するに、信彦様の子孫が「皇太子(今上陛下)より血が濃い」のだそうだ。
この人物、自分で「男系絶対」を言いながら、美智子皇太后陛下が皇族の出身ではないからと
今上陛下は「血が薄い」と貶めているのだ。論理破綻だ。

そして、SPA!に東久邇家の系図を載せたのを「自分の本から盗用した」と扶桑社にまで抗議電話をかけてきた。
東久邇宮家の家系図は自分の持ち物だと言いたいのか。

なお管見では、この家系図の初出は、所功・高橋紘『皇位継承』(文春新書、1998年)である。
同書は皇室論議のきっかけとなった話題作である。また、この家系図は、その後も何人もの論者が使用している。

女系天皇は論外だが、一部男系のカルトがマトモな人間をそちらに追いやっているのは、由々しき事態だ。

【倉山 満】

https://news.nifty.com/article/magazine/12193-286891/

麗しき大和の国柄を守れ

麗しき大和の国柄を守れ 櫻井よしこ・国家問題研究所理事長
2019.5.1 01:05

日本よ、麗しき善き大和の国であれとの願いを込めた「令和」の時代が始まった。
十七条憲法の精神を引き継ぐとされる元号、令和の時代の課題は
聖徳太子が脱中華と大和の国造りを目指したように、日本の国柄を誇りをもって定着させることである。
平成の御代には多くのことが成された一方、積み残しの課題も多い。
その筆頭が日本の国柄とはおよそゆかりのない現行憲法の改正である。

敗戦当時、内外の視線は昭和天皇に厳しかった。戦勝国では「天皇戦犯論」「天皇処刑論」が展開された。
先人たちはそれら敵意溢(あふ)れる糾弾から、皇室を戴(いただ)く日本の国柄を守り
日本国として生きのびるために、現行憲法をはじめ占領軍による理不尽な制度改革を、
棒を呑(の)み込む覚悟で受け入れた。

マッカーサー司令部は昭和天皇を温存し、占領政策を円滑に進めたが、背後では日本の国柄を潰す試みがなされていた。
情報は厳しく統制され、国民は米国の支配を善きものと歓迎し、民主主義などは米国がもたらしたと思い込み始めた。
そのとき、昭和天皇が詔勅を発せられた。

昭和21年1月1日の詔勅の冒頭に、昭和天皇は明治天皇の「五箇条の御誓文」全文を置かれた。
後にこの御心について語っている。
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。(中略)
『(民主主義を体現する)五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができた。
民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」

政府や国民が涙をのんで日本の国柄とは言えない米国製憲法を受け入れたのは皇室と国柄を守るためだった。
にもかかわらず、国民が日本の国柄を忘れるのは本末転倒だというお気持ちであろう。
占領下でこの重要な詔勅を出された昭和天皇は立派な帝王学を身につけていらした方だ。 

昭和天皇はどのように帝王学を学ばれたのか。東宮御学問所には全分野にわたる碩学(せきがく)が集められ、
白鳥庫吉(くらきち)博士が教務全般の主任を務めた。皇統の継承者にとって不可欠の学問である歴史は、
白鳥博士が7年間一人で受け持ち、国史、東洋史、西洋史のうち、国史と東洋史の教科書は博士自ら執筆した。
『昭和天皇の教科書 国史』がそれで、見事な歴史書である。
優れた教育、深い歴史観を身につけられた昭和天皇にして、初めて日本はあの敗戦を乗り切れた。
だが、国柄を忘れてはならないとの昭和天皇の国民への語りかけとは反対に、
米国は教育を通して日本人に影響を及ぼし続けた。米国の情報操作の苛烈さはここではおくが、
米国は天皇となる東宮さま(現在の上皇さま)の家庭教師にクエーカー教徒のバイニング夫人をつけた。
夫人は著書『皇太子の窓』に、「1946年の春」、
昭和天皇が「アメリカ人の家庭教師を一人世話してもらえるだろうか」と米側に依頼されたとし、
「アメリカ人の家庭教師は占領軍から押しつけられた」との推測は事実に反すると書いている。

一方、マッカーサーの軍事秘書、フェラーズは46年1月、吉田茂外相に
「皇太子は西洋の思想と習慣を学び始めるべき」として
「円熟したアメリカ人女性を」家庭教師につけるよう提案した
(瀬畑源〈せばた・はじめ〉『象徴天皇制の形成過程−宮内庁とマスメディアの関係を中心に』一橋大学機関リポジトリ)。
これは天皇のご依頼の約2カ月前だ。背後に米国の意図が見えないか。

昭和天皇が民主主義は外来の価値観ではなく日本の価値観であることに想いをいたせと詔勅で仰るかたわら、
バイニング夫人は「英語を教えるということは(中略)アメリカ的な民主主義の思想と実践とを、
皇太子殿下その他の生徒達に教えるという、さらに大きな仕事の方便にすぎない」と考えていた(前掲書)。
このせめぎ合いの中で若き日の上皇さまは教育された。
天皇としてのお姿が、昭和天皇と比べて自ずと異なるのにはこうした要素もあるだろう。

では新たに即位した天皇陛下の受けられた教育はどうか。学習院には帝王学の発想もなく、
ご学友もいないと学習院大学の教授だった篠沢秀夫は書いている(『だから皇室は大切なのです』草思社)。

『浩宮の感情教育』(飛鳥新社)の著者、小坂部元秀氏は陛下が学習院高等科にご在籍当時、
クラス担任を2年間務めた。皇室関係の在学生名が大書されている学習院父母会名簿の最初のページを
学生が「破り棄て」るはなしが、小坂部氏の著書の「序章」に出てくるのだが、
小坂部氏はその行為をもっともだと認めているかのようだ。
別の章で小坂部氏は南原繁の国会演説を「記念碑的」と評価し、
「所詮は天皇陛下なんてどうでもいい」と書いた詩人の三好達治や、中野重治らを賛美している。

当時の浩宮親王殿下に小坂部氏が担任教師としての愛情や情熱を注いでいたとは考えにくく、
陛下にとって学習院の教育環境は実に冷淡だったと推測できる。

こんな状況に皇族方を放置して、私たちに立派な天皇像を望む資格があるのか。
帝王学や皇室は、国民から遊離したものではない。国民が望む天皇像は、国民がどのような価値観を重視し、
どれほどの敬愛をもって皇室を支えるかという命題と背中合わせだ。
令和の皇室が日本の国柄を尊び、国民統合の中心となるには、
新天皇の大いなる学びをあらゆる面で支える制度と心が、政府、国民の側にも必要だ。
共に立派な国を創るという覚悟をもって初めてもうひとつの課題の憲法改正も可能になる。

https://www.sankei.com/life/news/190501/lif1905010012-n1.html

「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか
2019/05/01
倉山満(憲政史家、皇室史学者)

まず、皇室に関して最も大事な三つの原則を確認しておく。
一つ目の原則は、皇室は先例を貴ぶ世界だということである。
わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。
風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。
幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。

皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。
ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、
「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。
神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。
毎日、同じ御食事を神様に捧げる。
昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。

京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。
その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。
叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、
1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。
毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。

しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。
いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。
不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。

歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。
そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。
いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、
電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。
そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。

そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。
変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。
もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。
ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。

古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。
これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。
貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。
歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。
ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。

もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。
歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。
法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。
日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。

幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。
元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。
ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。

どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。
たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。
大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。
殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。
元号が制定されたのもこのときである。
実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。

承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、
時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、
即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。
「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。
なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。
史上初の「天皇になっていない上皇」となった。

敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。
その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。

いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。
もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は
現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。
一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。
皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。

二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。
八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。

現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。
その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。
いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。
それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。

蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、
皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。
この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。
せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。
男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。
男系継承は、皇室が皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。

三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。
二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。
この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。
しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。

不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? 
そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。

平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。
これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。
皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。
あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。

ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。
理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。
女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」
「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。
その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。

いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ?
ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。
言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。
「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。
なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。
こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。

最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。
皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か?

最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が
(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。
先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。

小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。
特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。

しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。
今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。
この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。
皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。

ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。
その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。

そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。
「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。
男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。
この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。

一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、
いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。

男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。
そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。
今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。
当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、
閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。

しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。
東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。
東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。

ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。
血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。
「五世の孫」の原則があるからだ。

皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。
定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。
第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。

宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。
生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。
元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、
皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。

ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。
かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で
元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。

では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。
どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。
身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。
女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、
東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。
むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。

東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、
父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。
「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。
男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。

本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。
古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。
そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。
継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。
なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、
直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。

ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。
継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。
むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。

その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。
第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と
弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、
自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。
天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。
天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。

ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。
この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。
もちろん、民間人の天皇など認められず、
皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。
ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。
これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。

ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。
第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。
よって、女系では天智天皇の子孫である。
しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。
草壁皇子は天武天皇の息子である。
女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。
皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。

そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、
いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。
それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。

このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。
第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。
この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。

自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。
それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。
鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。
そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。

北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。
皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。
しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。
後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。

戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。
むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。
江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇
室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。
後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、
光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。
陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。

先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。
今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。
将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。

さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、
今の皇室の直系をなんと心得るか。
いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。

それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。
直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。

もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。
今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。
悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。
https://ironna.jp/article/12479

大正元年 白洋舎 ボア事件

1912年に白洋舍が皇太后の襟巻を溶かした「ボア事件」時の神対応の真相
2017年3月20日 22時0分

街のクリーニング屋さんとして知られる白洋舍(はくようしゃ)=東京都大田区=。
国内のドライクリーニングの先駆けとして2017年で創業111周年を迎える老舗ですが、
創業6年目に一大事件を乗り越えています。

1912(大正元)年、明治天皇の妃だった昭憲皇太后から預かった白鳥の羽毛製の高級襟巻(ボア)を、
誤って溶かしてしまったのです。
この出来事について、2月3日にあるユーザーがTwitterに投稿したことから再び注目が集まりました。

当時の対応について、同社に確認しました。

通称「ボア事件」
くだんの一件は「ボア事件」として社内で語り継がれています。
創業者・五十嵐健治氏(以下、健治)が自伝「恩寵(おんちょう)の木漏れ日」で詳細を語っています。
明治天皇が崩御して4カ月ほどの11月のある朝。
お墓である伏見桃山陵(京都市)を昭憲皇太后がお訪ねになるのに合わせ、
宮内省から「白い襟巻を黒く染めてほしい」という電話が、
かねてからシーツなどの洗濯を請け負っていた健治宛にありました。

期限はわずか3日間。少しためらったものの、染色の勉強もしていたこと、
何より急ぎの要件だったため引き受けることにしました。
自宅に丁重に持ち帰った襟巻を前に「責任がなかなか重大である」と感じ、
なじみの染物店に作業を見守ってほしいと頼みます。
これが思わぬ事態を招きます。

どうして待ってくれなかった
翌日、健治は部下に品物を持たせて先に染物店に行かせ、自分は所用を済ませてから向かいました。
到着すると、なんと店の主人はすでに大釜で襟巻の煮染めを始めているではありませんか。
直感的に不安を覚えた健治は、棒を差し入れて襟巻の端をすくい上げます。

“……指先で羽毛をつまんで見ると、芯がなくっていて、たわいもなく切れてしまう。
よく見ると羽毛は全くとけてしまっていて、質を失っている。
ああたいへんなことになった。
(五十嵐健治自伝「恩寵の木漏れ日」より)


原因は、色づきを良くするための薬剤の間違い。
どうして私が来るまで待たなかったのか……
ため息を吐きつつ、溶けた襟巻をバケツに入れて帰宅しました。

“こんなことになるなら、人に頼まず自分でやればよかったと後悔するのみである。
その晩、まんじりともせずに、煩悶の中に夜を明かした。


「申し訳のために自決しよう」
考えた末、健治は「とにかく代わりとなる襟巻を探そう」と、日が昇りきらぬうちから街に出ます。
東京市内の洋服店や横浜の外国人居留地、はては神戸の商館に電話を掛けて羽毛の襟巻を探し続けました。
しかし、見つかったのは東京・新橋の洋品店にあった短い2本のみでした。

“納期はいよいよ明日に迫っている。
しかるに代品を得る見込みさえなくなった。
絶望とはかかる時のことをいうのであろう。


健治は悩みます。期日を守れなければ、皇太后陛下だけでなく、
自分を頼ってくれた宮内省の担当者にも迷惑を掛けると。

“じつのところ一時絶望して、神経衰弱に陥り、
申し訳のために自決しようとさえ思い迫ったほどであったが……(後略)


キリスト教徒だった健治は、夜通し神に祈ることで気持ちを落ち着かせました。

神に祈り続けて冷静に
浅い眠りから目覚めた納期当日。祈り続けたおかげか「頭脳が鎮まってはっきり」してきました。
前日に見つけた新橋の襟巻2本をつなげ、1本にできるのではないか。
過去にやったことがないアイデアでしたが、「やってやれまいことはあるまい」と早速購入。
一度、“より”をほどいた襟巻の先端を切り、それぞれの芯を麻糸でがっちりと縫い付けてより直します。
そして、期待を上回る立派な1本の長い襟巻を作り上げました。

労作を慎重に黒色に染め、夕方、みごと約束の時間に納入したのです。

“皇后官職へお納めしたところ、見事の出来栄えであると御褒めの御言葉を賜り、
御菓子さえ頂戴して、大いに面目を施した。


のちに宮内省の幹部に「染色異変の事情」を詫びたところ、
幹部はひどく気の毒に感じて皇太后との間を取り繕ったそうです。

真の責任は自分にある
健治は実際に作業を誤った染物店について、わざと名前を伏せて書き残しており、
強い自責の念がうかがえます。
「この事件の原因を究明してみると、真の責任は自分にある」と断言した上で、
染物店の主人との意思疎通が不十分だったこと、本当に重要な品はみずから運ぶべきだったと述懐しています。

この「昭憲皇太后ボア事件」の項目は、自戒の言葉で締められています。

“世の中の間違いというものは、ささいの不注意からおこるものである。
ことばの不明確と、軽率な行為は、時に思わぬ大失敗を招くものであるから、つつしまねばならない。


通信技術や物流網が進化した現代でも、そのまま通じる姿勢です。
ボア事件以降も、健治は関東大震災や東京大空襲、会社乗っ取り事件など
幾多の障害を乗り越え白洋舍を存続させます。
彼の波乱万丈の生涯は小説「夕あり朝あり」(三浦綾子作、新潮文庫)で追うことができます。
企業や役所が不祥事を起こすと、その度合いに関係なく徹底的に叩きのめす風潮が強い昨今。
健治の懸命な事後対応と宮内省のおおらかな姿勢には、学べる部分があります。

http://news.livedoor.com/article/detail/12825262/

天皇家の財産

皇族の美術品 相続に莫大な税金がかかるため一部を寄付
2017.05.09 07:00
皇居・東御苑にある「三の丸尚蔵館」は、昭和天皇崩御後の1989年6月に
皇室から国庫に寄贈された美術品を研究、展示するため、1993年に開設された。
天皇陛下がすべての財産を相続すると莫大な税金がかかってしまうことから、一部を寄付したのだ。
「現在では、皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類に加え、
香淳皇后や故秩父宮妃の遺贈品、三笠宮家からの寄贈品など約9800点を収蔵しています」(宮内庁関係者)
宮内庁管理の美術品は、慣例的に国宝や重要文化財に指定されないのだが、
狩野永徳の『唐獅子図屏風』、葛飾北斎の『西瓜図』、
伊藤若冲の『動植綵絵』など歴史的・文化的価値の高い物も数多い。
昨年春に東京都美術館で開催され、約45万人が来場した若冲展にも三の丸尚蔵館所蔵の作品が展示された。
「もともとは研究と保管のみが目的で、一般への公開については博物館や美術館への貸し出しを行う予定でした。
しかし、陛下をはじめとした皇族方の意向もあって館内に展示室が設けられました。
ただ、なにぶん手狭で定期的に展示会を行っても公開できるのはほんの一握りのみ。
外国人観光客を含め来館者が増加していることから、近いうちに増築が行われる予定です」(前出・宮内庁関係者)
今回の生前退位でも宝物が増えそうだ。入館料は無料。皇室の歴史を感じに足を運ぶのも一興だろう。
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年5月11・18日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170509_536042.html



天皇家の財産 GHQにより大半が消えバブル時は20億円に増加
2017.06.09 11:00
眞子内親王の婚約報道に際し、ご結婚時に1億円を超える一時金が払われることが話題になった。
そんな中、政府や有識者が意見を戦わせてきた「生前退位」をめぐる議論においても、
皇室の財産をめぐる議題が浮上したというのだ。それは「相続税」である。
これはもうひとつの「皇位継承問題」である。
ここで天皇家の財産の歴史について振り返ってみる。戦前、皇室財政は国家財政と分離しており、
全国規模の林業経営などで莫大な収益を上げた。三井、三菱などの大財閥を優に超える資産を形成していた。
終戦直後の1945年11月、GHQ(連合国軍総司令部)は
「天皇は世界有数の財閥であり、ただちに財産税賦課によって適切に処理されるべき」として、
皇室財産の解体に着手した。GHQによる評価の結果、弾き出された昭和天皇の財産は37億1563万円だった。
主な内訳は、皇居や赤坂御用地といった土地(7憶7263万円)、宮内庁舎などの建物(2億3414万円)、
皇室所有の御料林の木材である立木竹(16億3976万円)、美術品(4億4949万円)、
有価証券(2億2012万円)、現金預金(5500万円)などとなっている。
GHQによって評価された天皇家の財産はいきなり大半が消えることとなる。
資産1500万円超の財産所持者には90%もの「財産税」が課されることになり、
昭和天皇は33億4268万円を納めることになったのだ。
さらに新しく制定された憲法では、〈すべて皇室財産は、国に属する〉ことが定められ、
皇室による不動産保有は禁じられた。皇居など天皇家が使い続けるものは国有財産へと移管された。
その結果、昭和天皇の私有財産は、「何か大きな出費に備えるため」という名目で
金融資産1500万円が残されたほか、由緒物の美術品と宝石、身の回りの品だけになってしまったのである。

◆バブルで20億円に
それから40数年後、昭和天皇が崩御した1989年、驚きの事実が明らかになる。
その遺産は約20億円まで増えていたのだ。
皇室経済に詳しい成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科教授の森暢平氏が解説する。
「主な要因は株式投資など資産の積極運用です。昭和天皇が自ら運用していたわけではなく、
天皇家には『経済顧問』という私的なアドバイザーがいます。
特に高度経済成長期には大いに資産を増やしたことでしょう。
その背景には、昭和天皇の代替わりの儀式の費用面の懸念がありました。
当時は公費で賄えるかどうか不確定な面があり、
天皇と宮内庁幹部が私有財産から支出しなければならない事態に備えたのです」
結果的に、総額42億円ともいわれる代替わり儀式は国費で行なわれたため、昭和天皇の懸念は杞憂だったといえる。
約20億円の昭和天皇の遺産のうち、葬儀費用の一部と日本赤十字社への寄付5000万円を差し引いた上で
債務を整理し、課税遺産額は18億6911万4000円となった。皇室ジャーナリストの山下晋司氏が言う。
「今上天皇以外のお子さま方は相続を辞退されたため、二分割した9億3455万7000円ずつを、
香淳皇后と今上天皇が相続されました。さらに2500万円ずつを『長寿科学振興財団』に寄付されたため、
実際の相続額は9億955万7000円。今上天皇は約4億2800万円の相続税を納め、差し引いた5億円弱を相続されました」
配偶者控除により相続税が非課税となった香淳皇后は2000年に逝去。
遺産は今上天皇が相続したが、その額は、公示対象(一人あたり2億円以上)を下回ったとして、公示されなかった。
「約9億円もあった香淳皇后の遺産が激減したのは、
バブル崩壊によって所有株が軒並み下落したことが要因だと見られています」(前出・森氏)
今上天皇が香淳皇后から引き継いだ遺産は、相続税を差し引けば多くても1億円以下と見られる。
昭和天皇の遺産5億円と合わせて、多く見積もって計6億円に満たないと考えられる。

※週刊ポスト2017年6月16日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170609_561354.html?PAGE=1#container


安倍首相 皇太子 両陛下

天皇在位30年式典の裏で安倍首相が皇太子取り込みを画策! 力ずくの圧力でも天皇・皇后を封じ込められず…
2019.02.24 03:03
政府主催の明仁天皇の在位30年式典がきょう、東京の国立劇場で開かれている。
だが、その一方で、安倍首相が奇妙な行動に出た。
22日の午後、元赤坂の東宮御所を訪れ、約30分間、皇太子と面会したのだ。
総理大臣が天皇に国内外の情勢を報告することは「内奏」と呼ばれ、年に数回ほど行われているが、
現役の首相が皇太子と一対一で面会をするのは異例のことで、
政府は内容を明らかにしておらず、菅義偉官房長官も定例記者会見でノーコメントを貫いた。

マスコミ各社は〈5月1日に新天皇に即位されることを踏まえた対応とみられる〉(毎日新聞)、
〈皇位継承の流れを報告したとみられる〉(産経)などと伝えているが、
実際、安倍首相の面会の目的が「代替わり」に関する説明だけだったはずがない。
そこで話された内容は不明だが、少なくとも安倍首相にとっては、
直々に皇太子と会って話すという行為自体に価値があったのだろう。宮内庁担当記者がこう解説する。

「周辺では元号関連の調整をしたのではないかとも見られているが、それだけなら側近間で終わるはず。
わざわざ、皇太子と面会したのは、直接会うことで“取り込み”を図ったのではないでしょうか。
周知の通り、安倍政権と今の天皇皇后両陛下の関係は良くない。
安倍首相から見れば、皇太子の新天皇即位は皇室との関係を修復するまたとないタイミングですから」

本サイトでも何度も指摘しているように、天皇と安倍首相の関係は非常に悪い。
明仁天皇と美智子皇后は、安倍首相が推し進める改憲や歴史修正主義、
“沖縄いじめ”に対して不快感を抱き、釘を刺しているとしか思えないメッセージを発してきた。
一方、安倍政権は天皇の口をふさごうと、陰に陽にプレッシャーを与えてきた。

対立のはじまりは、2013年4月28日に政府主催で初めて「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」だった。
安倍首相は天皇と皇后を出席させたが、このときも天皇・皇后は事前段階から
周辺に拒絶感を吐露していたといわれている。
実際、2016年12月24日付の毎日新聞朝刊記事によれば、
〈陛下は、式典への出席を求める政府側の事前説明に対し、
「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘されていた〉という。

そして2013年末、明仁天皇が誕生日に際した会見のなかで踏み込んだ“護憲発言”を行うと、
翌2014年の「正論」(産経新聞社)5月号に
「憲法巡る両陛下のご発言公表への違和感」と題した文書が掲載された。
執筆したのは、安倍首相のブレーンのひとりと言われる八木秀次・麗澤大学教授。
〈両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への
懸念の表明のように国民に受け止められかねない〉〈宮内庁のマネジメントはどうなっているのか〉と
明仁天皇の“護憲発言”を批判するもので、すなわち「改憲の邪魔をするな」という
安倍側からの圧力に他ならなかった。

また、「生前退位」に関しても、明仁天皇は少なくとも2015年の秋には
宮内庁を通じて官邸に伝えていたとされる。主な窓口は当時の風岡典之宮内庁長官と杉田和博官房副長官。
だが、官邸は難色を示した。翌年に控えていた参院選と改憲スケジュールへの影響、
そして天皇の地位や権威が揺らぐのではないかとの懸念から、「生前退位」問題を棚上げにしてきたのだ。

その結果、天皇側が出さざるをえなかったのが、2016年7月のNHKによる「生前退位の意向」のスクープと、
その後の明仁天皇による「おことば」だったわけだが、これに官邸は激怒し風岡長官を事実上更迭。
次長の山本信一郎氏を長官に繰り上げ、後任次長には
警察官僚出身で内閣危機管理監だった西村泰彦氏を充てるという“報復人事”を行なっている。

皇太子は秋篠宮が問題提起した「大嘗祭への国費拠出批判」にコメント拒否
その後も、「生前退位」をめぐる有識者会議では、
安倍首相が送り込んだ日本会議系のメンバーが明仁天皇を公然と批判するなど、
政権と天皇・皇后との溝はどんどん深まっていった。
事実、昨年10月23日に行われた「明治150年」を記念する式典に、天皇・皇后の姿はなかった。
この明治日本=大日本帝国を礼賛する政府主催式典は安倍首相の肝いり。
前述の西村泰彦次長は「政府からお声がけがなかった」としているが、
実際には、欠席には天皇と皇后の強い意向が背景にあったという見方が強い。

「安倍首相も当初は、陛下の周辺に様々なルートを使って働きかけてたいたようですが、
最近は懐柔するのを完全に諦め、自由な発言を封じるような動きばかりしていた。
毎日新聞のベテラン記者に月刊誌で暴露されていましたが、
オフレコの席で天皇を批判するような言動をしていたという話もありました」(前出・宮内庁担当記者)

そんな安倍首相がある時期から期待をかけ、しきりにアプローチしていたのが、皇太子だったという。
今度はベテラン皇室ジャーナリストがこう分析する。

「皇太子殿下は波風を立てるのが嫌いな性格ですし、雅子妃は小和田恆元外務省事務次官の娘で、
本人もエリート外交官で、政治的には安倍首相の考えに近い可能性がある。
しかも、皇太子夫妻は天皇皇后両陛下と距離をとっていますから、
安倍首相としては、皇太子夫妻なら取り入れると考えても不思議はない。
2016年に外務省出身の小野田展丈氏を東宮大夫にしたのもその一環といわれていますし、
ほかにも、別の外務省ルートを使って雅子妃にアプローチをしているという話もあります」

もしかしたら、安倍首相のそうした目論見はすでに成功しつつあるのかもしれない。
今月21日には、23日の皇太子の誕生日に際した記者会見が東宮御所で行われたが、
そこで記者から「大嘗祭のあり方」について質問を受けた皇太子は、
「今回政府が決定をした内容について、私がこの場で何か述べることは控えたいと思います」
とコメントを避けた。昨年、秋篠宮が「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか
「身の丈にあった儀式にすればよいと思う」と踏み込んだ発言を行ったのとは対照的だ。
皇室ジャーナリストがさらに続ける。
「秋篠宮殿下の発言は天皇陛下の意向を代弁したものでした。
皇太子殿下が立場上、明言できないのはわかりますが、婉曲的な表現さえなかったというのは、
安倍政権のアプローチが効いているのかもしれません。
いずれにしても、官邸は今後も、皇太子殿下への働きかけを強めていくでしょう。
とくに雅子妃に狙いを定めてくる可能性が高い。
もともと、雅子妃は結婚の際『皇室外交をしていただく』と説得されたといわれます。
これから官邸が、そうした雅子妃の自己実現を材料にして、皇太子殿下をコントロールしようとするかもしれない。
一方で、秋篠宮殿下は陛下の意志を継承しようとする。
安倍政権がご兄弟の対立をつくりだす構図になるかもしれません」(前出・ベテラン皇室ジャーナリスト)
いずれにしても、安倍首相は、平和主義や護憲の立場を示す明仁天皇の在位が終わり、
新たな天皇を即位させるときに一気に動いてくるだろう。引き続き注視する必要がある。
(編集部)
最終更新:2019.02.24 03:11
https://lite-ra.com/2019/02/post-4566.html

皇太子さま「ベレー帽を被ったら?」同窓会で見せたユーモア

皇太子さま「ベレー帽を被ったら?」同窓会で見せたユーモア
記事投稿日:2019/02/23 11:00 最終更新日:2019/02/23 11:00

2月23日に59歳の誕生日を迎えられた皇太子さま。
幼少期からのご学友である小山泰生(たいせい)さん(59)と乃万暢敏(のま・のぶとし)さん(59)、
学習院大学のゼミや音楽部で後輩だった竹内尚子さん(58)が、懐かしのエピソードを語り合った。

乃万「小山は幼稚園から殿下とご一緒だったわけだけれど、そのころから特別な方だと思っていた?」

小山「いや、実はそんな感覚はなかったんだ。
初めて東宮御所に招かれたときの話をよく聞かれるけれど、
だいたいほかの友達の家も大きいから、東宮御所だけが特別広いとも思わなかったよ」

――皇太子さまのことはなんとお呼びしていたのですか。

小山「幼稚園のときは『宮ちゃまとお呼びしなさい』と先生に言われました」

乃万「初等科では『宮さま』でした。中学になってからはすっと『殿下』ですね」


《少年時代は生真面目なご印象もあった皇太子さまが変わられたのは大学時代だったという》

小山「僕は大学は別でしたけれど、オックスフォードまで遊びに行ったこともあって、
殿下にとってイギリス留学は大きかったと思う。
オックスフォード大学から帰った殿下はずいぶんお変わりになって、リラックスした雰囲気だった。
あのころ、殿下と食事をご一緒したあと、よくみんなで東宮御所まで歩いたじゃない。
ああやって夜の街を歩くのは、オックスフォードのころの癖だったんじゃないかな」

竹内「なるほど」

小山「東宮御所の門まで行くと、いつもの御料車が待っているの。
歩いて帰ってきて、門に入ってから車に乗るわけで、あべこべなんだけど(笑)
何度も殿下の街歩きにはお付き合いさせていただきました。
殿下の大学時代については、乃万と竹内さんに話してもらいましょう」

竹内「乃万さんは、後輩の私たちから見ると『常に殿下のお隣にいる方』というイメージでした。
そのころから今の格好と同じ、ダブルの背広にきちんとしたネクタイで、
赤いポケットチーフをさしていらっしゃって。そんな学生いないでしょう」

小山「まさか殿下の同級生とは思わなかったでしょうね」

竹内「ええ。みんな『あの人は皇宮警察官よ』と言っていて、そう思い込んでいました(笑)」

乃万「実際に『週刊新潮』が『殿下はいつも皇宮警察の人を連れている』
『それは赤いポケットチーフでわかる』と書いていたんだ。まさしく僕のこと(笑)」

竹内「乃万さんが大学1年生のときからあの格好だったのですか?」

乃万「ええ、もちろん」

竹内「えーっ!」

小山「そうやって、殿下の『付き人』をあえて務めていたのは、
学校から『殿下の面倒をみてほしい』と言われたという経緯もあるわけだよね」

乃万「そう。殿下と同じ文学部史学科に入った男子学生の何名かが、
入学式の数日前に呼び出されて『殿下をサポートしてもらいたい』と言われて。
さらに『入学式では殿下の両脇に座ってほしい』と言うんですよ」

小山「ボディガード代わりでもあったのかな。あのころは過激な学生運動もまだ下火になっていなかったから」

乃万「もう覚悟を決めて殿下のお隣に座って。もちろん入学式は無事に終わったけれど、
今度は『これは大学が君たちに強制するものではないが、
できたら、殿下と同じ科目を履修してもらいたい』という話になった。
もう否応なくお付き添いすることになったのです」

《乃万さんたちは、療養中の雅子さまをお支え続けた皇太子さまのお姿も目撃していた》

乃万「’04年に殿下ご自身が、雅子妃殿下について
『人格を否定するような動きがあったことも事実』と会見で述べられました。
それから5、6年は相当な葛藤がおありだったのだろうと思います。
でも、それについて私たちがお聞きすることも、殿下が口にされることもありませんでした」

竹内「私のような後輩にも悩みなどはお話しになりませんが、
去年くらいから、殿下のとても明るく前向きなお気持ちを感じています。
『来年の一般参賀は、殿下が真ん中ですね』といったお話もしました。ただ、私は一度も行ったことがなくて……」


――皇太子殿下が即位されたら、一般参賀に行かれますか。

竹内「ええ。実は安田ゼミの同窓会でもそういう話題になり、
後輩が殿下に『大勢の参賀者の中から見つけてください!』とばかなお願いをしまして……。
そうしたら殿下が『ベレー帽なんかを目印にするのもいいかもしれない』と提案されたんです。
みんなで『何色がいいかしら』と話して、一番目立つ真っ白のベレー帽をお揃いで被りますと言ったら、
殿下も笑っていらっしゃいました。ゼミの同窓会には、殿下は毎年のように来てくださった、
私たちのたわいのない話にもお付き合いくださいます」

小山「ゼミのお仲間との交流を大切にしていらっしゃるのは、
今後も歴史学などの研究もお続けになりたいということなのでしょうね」

乃万「今年のお正月にも、私が殿下の『水問題』の研究についてお聞きしたら、熱心にお話くださいました」

小山「天皇陛下におなりになっても、ライフワークの研究はぜひ、続けていただきたいです」

https://jisin.jp/domestic/1714450/

儀式と憲法 その課題とは

NHK政治マガジン
2019年2月20日
儀式と憲法 その課題とは

「平成」に代わる新時代の幕開けまで、残すところ2か月余り。
新元号への関心は高まるばかりだ。
一方、前回の平成への代替わりの際は、憲法に定める政教分離の原則などをめぐって、大論争が巻き起こったが、
今回は国会論戦で取り上げられることもほとんどない。
政府は、前例踏襲を前面に着々と準備を進めているが、前回の課題は解消されたのか。議論すべきことはないのか。
有識者や国会議員へのインタビューを通じて、探った。
(政治部官邸クラブ 小口佳伸、後藤匡、清水大志)

前回は大論争だったが…
伝統的儀式と、憲法の国民主権や政教分離との整合性をどう図るのか。
かつて、国民的な大論争が巻き起こった大きな要因は、天皇の代替わりに関する規定が、
現在の皇室典範には詳細に明記されていないためだった。
皇位継承に伴う儀式は神道形式で行われるものが多い。
一方、憲法は、「国は、いかなる宗教的活動もしてはならない」と政教分離の原則を定めている。
当時の政府は、有識者からヒアリングを行いながら、宗教色を薄めるよう努めたが、
国会では与野党の間で意見が鋭く対立し、激論が交わされた。
とりわけ「大嘗祭」をめぐる政府の対応が政教分離の原則に反するとして、各地で裁判が起こされるなど、
平成という新たな時代は、式典と憲法の整合性をめぐる論争で幕開けしたとも言って良い状況だった。
今回の一連の儀式について、政府は、静かな環境で議論を進めることを重視する姿勢を強調し、
つつがなく儀式を終えることを目指している。
こうしたことも影響したのか、統計不正問題をめぐる論争とは対照的に、
皇位継承と憲法との関わりについては国会でも大きな議論とはなっていない。
では今回の皇位継承をめぐる一連の儀式をめぐって課題や論点はないのか。
取材を進めるとさまざまな課題が浮き彫りになってきた。

最初の儀式「成年男子に限る」
皇位を継承した新天皇が最初に臨む儀式が「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけい)」だ。
この儀式は、戦前の大日本帝国憲法下では「剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)」という名称で、
明治から大正、大正から昭和への代替わりの際に行われた。
この際に新天皇に「供奉(ぐぶ)」、つまり付き従う皇族は、成年の男性皇族に限られていた。
政府は、今回も供奉するのは成年の男性皇族に限ることを決めた。
一方、閣僚などは、男女の区別なく参列することを認めることにした。
前回・平成の代替わりの際には、参列者は男性だけだったが、
政府によると、これは女性閣僚がいなかったからで、参列を認めていなかった訳ではないという。

女性閣僚はOKで、女性皇族はダメ
成年の男性皇族に限ると決めたことについて、
皇室制度や元号について詳しい京都産業大学の所功名誉教授は「大変に遺憾だ」と述べた。
その理由として、所氏は、天皇の地位を継げるのは男系男子に限られているが、
天皇が重い病気の場合などに代役を務める摂政(せっしょう)や国事行為の臨時代行には、
女性皇族が就く場合があることから、儀式を見ておくことは必要なことだとして、
女性皇族の参加を認める必要があったと主張した。
そして、政府が女性の閣僚などの参列を認めたことを踏まえて
「天皇という存在の継承をしっかり見守るという意味において、閣僚であろうと、皇族であろうと関係ない。
政府なり宮内庁が柔軟に考えて欲しかった」と述べた。
また、未成年の皇族が出席できない点についても
「戦前、未成年の昭和天皇が、大正天皇の即位礼に出ている」と指摘し、
判断能力や理解力がある未成年皇族の陪席も認めるべきだと指摘した。
日本近現代史が専門の静岡福祉大学の小田部雄次名誉教授も
「戦後日本の男女平等という考え方に直結する問題だ。
日本国憲法が定める男女平等と皇室の伝統が同じ土俵に乗せられていることに、違和感を覚える」と指摘した。
「日本人のライフスタイルと皇室の常識が随分かけ離れてしまっている。
儀式への参加を、成年の男性皇族に限るのであれば、女性閣僚の参列も認めないという遠慮が必要だった」
これに対して、自民党内でも保守的な立場を取る木原稔衆議院議員は
「皇位継承権のある男性皇族のみが参列するというのは、
皇室の長い歴史・伝統に基づくもので、それに配慮することは必要だ」と理解を示した。
さらに女性の閣僚などの参列についても「男女平等」という時代の要請に基づいた対応だとして、
賛同する考えを示した。

三種の神器「宗教的」か「もの」か
憲政史上、初めて行われる「退位礼正殿の儀」と「剣璽等承継の儀」の際、
侍従が、歴代天皇に伝わる剣と曲玉、それに国事行為の際に印として使う国璽と御璽を持って入り、
儀式が執り行われる部屋の中に置くことが決められた。
これについて小田部氏は「国民主権の観点から違和感があり、違憲の疑いがある」という認識を示した。
「平成になった際、慌ただしく行ったやりかたを議論なく踏襲してしまった。
皇室が皇位継承の神器を受け取るのは構わないが、国事行為とされてしまっている。
神器の承継だけ皇室が私的行事として行い、
それから国爾と御璽を受け取るという形で分離することもできたはずだ」と指摘した。
また、日本共産党の政策委員長を務める笠井亮衆議院議員も、剣璽というのが天皇の地位の証明であって、
その継承が代替わりと一体のものだというのは、これは戦前の旧皇室典範の規定だと指摘。
現行憲法の国民主権、政教分離の原則から剣や曲玉は置くべきではないと主張した。
一方、所氏は「いまの剣璽は神器ではない。
皇室経済法には、皇位とともにつたわるべき由緒あるものは、これをただちに継承するという規定がある。
あくまで皇位の継承に伴う『もの』にすぎない」
「天皇と一体であるべき宝器(レガリア)を常に身近に置くということは、皇位の正統性を保証するものだ。
宗教性がなく、大切にしてきた『もの』をセレモニーとして運んでおくことは必要だ」として、理解を示した。
木原氏も、剣璽は神器ではないとした上で
「天皇陛下の即位の礼の時も、会場に剣璽が安置されていたのだから、
退位される時も陛下とともにある剣璽を置くことに問題はなく、きわめて自然なことだ」と述べ、
問題がないという認識を示した。
こうして見てみると、剣や曲玉を、皇位継承に伴う「もの」と見るか、
宗教色の強い「三種の神器」と捉えるのかが争点となっていることが分かる。
儀式の宗教色を指摘した、小田部氏と笠井氏は、政府が「剣璽等承継の儀」を国事行為としたこと自体にも、
憲法上問題があると指摘し、議論を深めるべきだったと主張している。

「大嘗祭」めぐる根強い違憲論
前回・平成への代替わりの際、訴訟が相次いで提起されたのが「大嘗祭」(だいじょうさい)だ。
「大嘗祭」は、新天皇が即位後初めて、新しく収穫された米などを天照大神とすべての神々に供えた上で、
みずからも食べて国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈る儀式だ。
毎年11月に宮中祭祀として行われる「新嘗祭」(にいなめさい)という儀式がある。
この儀式の名称を変え、即位後、初めて大規模に行うものが「大嘗祭」で、
皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式とされている。
「大嘗祭」について、政府は、前回同様、皇室の公的な資金である宮廷費から費用を支出し、
皇室行事として行うことにしていて、前回、訴訟が相次いだことについては、
いずれも国などが勝訴しており、憲法上、問題ないとしている。
しかし、宗教関係者や大学教員など240人余りが去年12月、
「大嘗祭」や「即位の礼」など、皇位継承に伴う一連の儀式に、
公的な費用を支出することは政教分離を定めた憲法に違反するとして、
国に対し、支出をやめるよう求める訴えを起こした。
また、秋篠宮さまは、去年11月、憲法の政教分離の観点から
天皇の生活費などにあてられる「内廷費」から費用を支出すべきだという考えを示した。
皇族が公の場で、政府の決定と異なる意見を述べるのは極めて異例のことだ。
笠井氏は、政府は宗教色が強いとして「大嘗祭」を国事行為にはしていないが、多額の宮廷費を使う以上、
「事実上の国家的行事だ」と指摘し、憲法の国民主権・政教分離の原則に反すると厳しく批判した。
その上で、秋篠宮さまのご発言については、「皇室行事として宗教色の強い儀式であって、
これに国費を支出するのは妥当かと言われたのは道理にかなった発言だ」と評価した。
これに対し、木原氏は、大嘗祭は、五穀豊穣や国家の安寧を祈る公的性格が強い儀式で、
費用を宮廷費から捻出することについて何ら問題ではないと指摘した。
そのうえで、秋篠宮さまの発言について、最初は驚いたとしつつ、
「総合して秋篠宮さまのお気持ちを考えると、
経費、国費を節約して簡素化を求められた発言だと捉えている」と理解を示した。
一方、所氏は、大嘗祭について、宗教色はあるものの皇位継承に伴って行うもので、
強い宗教性は有しておらず問題はないと主張した。
その上で、秋篠宮さまの発言については
「お立場からいろいろな考えがあっておっしゃられたことだと思う」とした上で、
「(秋篠宮さまは)『宗教性が強い』とか、『強い宗教性を有する』とか2回も言っておられるが、
これは明らかに誤解というより認識不足だと思う」と指摘した。
「大嘗祭」は、憲法に定める政教分離との関係で、前回の訴訟の判決が確定してもなお、
根強い議論があることが分かる。

女性宮家の創設は
天皇陛下の退位に向けた特例法の採決にあたっては、皇族の減少が進む中、衆参両院の委員会で、
安定的な皇位継承を確保するための課題や女性宮家の創設などについて、
政府に速やかに検討することを求める付帯決議が可決された。
政府は、皇族数の減少の問題は先延ばしできない重要な課題だとしつつ、
女性宮家をめぐる議論が進んでいる形跡は見られない。
小田部氏は、秋篠宮さまが皇位継承順位1位を意味する「皇嗣」になられることを
広く国民に明らかにする「立皇嗣の礼」が、皇位継承の一年後となる来年の4月19日に行われることで、
女性宮家や女性天皇の議論が置き去りにされてしまうと指摘する。
「女性宮家や女性天皇の問題を議論しないまま、式典という形で道筋を決めていいのか。
政治家や官僚は、機会主義的な態度で目の前の式典をどうするかということばかり考え、先のことを見ていない」
そして「立皇嗣の礼」を通じて、秋篠宮さまに続いて、
悠仁さまに皇位が継承されていくという道筋が示されたことになりかねないという考えを示した。
小田部氏は、皇室が、皇族数の減少などの課題に直面する中、
皇室のあり方を考える機会を奪ってはいけないとして、
「立皇嗣の礼」を行うのは、もう少し後でも良かったのではないかと主張する。
笠井氏は、象徴天皇制のあるべき姿について、国民が主体となって議論することが重要だと主張した。
象徴天皇制は、新憲法下での新しい概念であり、過去の歴史にとらわれる必要はなく、
女性宮家の創設なども含めて活発な議論をすべきだと強調した。
これに対して、木原氏は、「歴史と伝統を継承していくことが原則だ」として、
皇位継承を男系男子で維持すべきだという考えを示した。
過去に議論に浮上した女性宮家の創設の前に、たとえば女性皇族が、
結婚後も引き続き皇室活動ができる仕組みをつくるなどして、
状況をみながら必要に応じて少しずつ制度を変えていくべきだと訴えた。

国民的議論を求める声
政府の対応に批判的な立場に立つ小田部氏は、取材の最後に、
「いろいろ批判したが、一連の儀式を『やめろ』と言っているのではない。
政府は、国民とともに皇室の課題を考える場を作るなどして、
残された課題を次の時までに議論して欲しい。それを強く願う」と述べた。
また笠井氏は「今回の式典は前例踏襲が多いが、平成への代替わりの際に、
現行憲法下での十分な検討は行われたとは言えず、象徴天皇制の下で、
国民主権と政教分離という原則がある中で、
どういうあり方がいいのか立場の違いを超えて議論すべきだった」と指摘した。
皇位継承まで2か月余り。「平成」が終わり、新しい時代の幕が開ける。
政府は先月、憲法の定める国事行為として、
憲政史上初めて行う天皇陛下の退位の儀式「退位礼正殿の儀」や、
新天皇が歴代天皇に伝わる剣や曲玉などを受け継ぐ「剣璽等承継の儀」の次第概要などを決定した。
しかし、前回・平成への代替わりの際に浮上した課題は、
今回の代替わりでも、解消されないまま残っているようにも見える。
こうした課題に、どのように向き合っていけばよいのか、皇位継承に向けて引き続き取材をしていきたい。
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/14392.html