皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言

皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言
2018.10.16 07:00
「平成」の終わりまであと半年。『宮中取材余話 皇室の風』(講談社)の著者で、
朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、30年の皇室取材で見た秘話を明かす。
──温厚なイメージの天皇ですが、違う顔もある。

昭和天皇もそうだったのですが、現天皇は端然としたたたずまいと温顔ばかり知られていますが、
実は内に頑固で激しい性格を秘めている面もある。
もちろん表に出すことは絶対にないが、長年取材していると、
側近らの蒼白(そうはく)な表情から垣間見えたのです。

1986年春、美智子さまの子宮筋腫に東宮侍医たちが気づくのが遅れたとき、
病状取材で退庁時に追いかけた東宮侍医は、電車を乗り継ぎ自宅に帰るまで、
終始沈痛な顔で物思いにふけり、とうとう話しかけることもできなかったのを思い出します。
97(平成9)年、ブラジル・アルゼンチン訪問で、過密日程で皇后が体調を崩し、
帰国後にヘルペスにかかったときです。
事前の記者説明の際に私が過密さを指摘すると「そうは思わない」と発言した幹部がいて、
相棒の記者がその発言を書いた。
天皇陛下はその発言を問題にし、当時の鎌倉節・宮内庁長官があいまいな答えをすると、
「真実はひとつです」
と、報道の訂正を求められて進退きわまったこともありました。
いずれも皇后が深刻な体調不良におちいったときでした。
長官がお召しで御所に行き、蒼白な顔で戻ってきたことも何度かありました。
皇室典範論争の際に長官が以前の発言と違うことを言うと厳しく問い詰められたと聞きました。

昭和天皇が張作霖爆殺事件で田中義一首相の食言を叱責(しっせき)したエピソードは有名ですが、
これを連想したものです。

南北朝時代、北朝初代光厳天皇が詠んだ歌がある。

 ことの葉のかずかず神の見そなはばのちの世までのしるべともなれ

「綸言汗のごとし」と言われるように、天皇はうそやごまかしは絶対にできない立場で、
歴代がおのずから帯びる冷厳さなのでしょう。
これを私は「天皇のリゴリズム(修道者的な厳格主義)」と名づけています。

──侍従長や宮内庁長官をはじめ、多くの人々が皇室に仕え、支えています。

天皇が幼少のころから東宮傅育官として仕えた東園基文氏。代替わりを取り仕切った藤森昭一・宮内庁長官。
後任の鎌倉節・宮内庁長官。そして、93年に声を失った皇后を支え、
その後も皇室医務主管として天皇の心臓のバイパス手術などを支えた金澤一郎氏。
それぞれ生半可でない覚悟で、皇室を支えていました。

昭和と平成の「二君に仕えた」山本悟侍従長も、印象深い人でした。

一本気で、ときには激烈な言葉を吐く。憲法論議をすると、
「オレなんか現行憲法の下で一刻も呼吸したくないんだよ」と挑発され語り合ったこともあった。

天皇の代替わりの難しい時期に、半世紀あまり仕えた徳川義寛侍従長から、後を引き継いだ。
本人は固辞していたが、宮家筋には「いいじゃないか」と推す声もあった。
昭和天皇の戦前からの“権威”に親しんだ旧世代には、新天皇、皇后の民主的な持ち味や公務ぶりに危惧を覚え、
歯にきぬ着せぬ剛直な性格の山本侍従長にお目付け役を期待する向きもあったかもしれません。

でも、本人には、つらい役まわりでした。

代替わり後、旧東宮職スタッフが新侍従として皇居に乗り込みました。
新天皇、皇后は昭和の旧慣を改め、一般国民とひざ詰めで語らい、積極的に外国を訪問しました。
山本侍従長が腕を振るう機会は、限られていたようでした。

93年6月、皇太子さまと小和田雅子さんが結婚しました。
それから半年も経たないころ、ひどく面食らう出来事がありました。

「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と話しかけたときのことです。
しばしの沈黙のあと、山本侍従長はこう答えたのです。
「この結婚は、失敗だった」
まだ新婚の時期だっただけに仰天しました。
山本侍従長は、何も説明しませんでした。

そのあと雅子妃の「適応障害」や「千代田と赤坂の溝」が取りざたされました。
あの絞り出すような、悲痛な声は今も耳に残ります。
山本侍従長は96(平成8)年、故・秩父宮妃の一周年祭のあと倒れ、脳梗塞(こうそく)で身体の自由を失いました。

2000年7月、豊島岡墓地で営まれた香淳皇后の葬儀には、車椅子で参列。
葬場殿で、起立して柩に拝礼しようと何度も何度も懸命にもがくも、果たせず倒れ込み、
悲痛な表情で天を仰いだ姿は忘れられません。
カミナリおやじみたいに懐かしい人でありました。

──16(平成28)年。天皇陛下は退位の意向を示し、
岩井さんは、天皇陛下の生前退位を検討する政府の有識者会議の専門家ヒアリングのメンバーとして、
意見を述べました。

幼少のころから、歴代天皇の足跡について考え続けてきた天皇の考えに、
政治家も国民も追いつけなかった、という思いはあります。

守旧派の人たちは退位に反対し、天皇は高齢になっても「存在するだけでよい」と言わんばかりでした。
先述の加地氏は、今度は「退位するとは何事か」と書きました。
天皇が高齢となれば、平成の皇室が幅広く紡いできた「人々との絆」が細り途切れてしまう。
「そうなってはいけない」というのが天皇、皇后の思いでしょう。
そしてその思いに国民の9割が共感したのだと思います。
現天皇、皇后が大きく翼を広げて展開してきた、気が遠くなるほどの国民との絆。
これを次の世代がどう受け継ぐか。新天皇、皇后が直面するわけです。

08(平成20)年12月。当時の羽毛田信吾宮内庁長官は、
「将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室に関わるもろもろの問題をご憂慮のご様子」と、
天皇の心労を明らかにしました。
そのなかで、公務や祭祀(さいし)については天皇、皇后は担当者と考え続けているが、
公務見直しを求める皇太子からはいまだに具体的な提案がない、とも述べました。
あれから10年。皇太子ご夫妻はあと半年で天皇、皇后となります。
しかし、雅子さまの「適応障害」はまだ完治せず、ご夫妻が新しい皇室をどうつくるのか、よく見えないままです。
そして、皇室が抱える課題も難しい。男系男子という皇統観念にどう向き合うか。
皇位継承の先細りをどのように乗り越えるか。皇室側も国民も来年の代替わりで、
いわば漂流の時代に入る覚悟をしなければいけないかもしれない。長年見てきた記者の予感です。

平成は来年4月30日をもって終わり、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が施行されます。
秋篠宮は「皇嗣」となり、対外的には「クラウン・プリンス」の称号となります。
皇太子にのみ許される、「黄丹(おうに)」の袍を着用し、「立皇嗣の礼」で、
皇太子の証しである壺切御剣(つぼきりのぎょけん)も授与されます。
新嘗祭(にいなめさい)など宮中祭祀でも、皇太子と同様に古装束姿で賢所の殿上で皇祖神に向かう。

秋篠宮とその長男の悠仁親王が継承者として法的に確定するわけです。
そのうえで、「過去」の象徴である上皇と上皇后。「現在」の象徴である新天皇、皇后。
そして「未来を担う」皇嗣家。
その三重奏あるいは三本の矢で、危機を乗り越えていくことになるのだと思います。

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日 2018年10月19日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2018101200025.html?page=1

三笠宮彬子さまトルコご訪問

トルコで大絶賛! 三笠宮彬子さまのお辞儀とネイルに込められた「特別な国」への想い

内橋徹
2018年9月19日 水曜 午後6:30

彬子さまの所作に大反響
9月9日から14日にかけてトルコを訪問された彬子さま。
トルコでも関心が高く、連日その動静が報じられました。
その中でも彬子さまのある所作がトルコ人の大きな反響を呼びました。

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初代大統領アタチュルクの廟に献花・拝礼される彬子さま :トルコメディアより

首都アンカラにある初代大統領アタチュルクの廟。
トルコ建国の父として知られ、トルコ人は時の政権を好む好まざるにかかわらず、
初代大統領アタチュルクを尊敬しています。
10日に、そのアタチュルクの廟を訪れた彬子さまは献花し、深々とお辞儀をされました。
この姿に多くのトルコ人が驚きとともに感銘を受けたのでした。

SNS上ではトルコ人から「なんて素敵な、なんて気高いプリンセスなのだろう!素晴らしい!」
「アタチュルクにこれほど優美に敬意が表されたことが未だかつてあっただろうか!」
「日本人は、日本国に、環境に、自国の価値に対して敬意を払うことを学んでいる。
我々もその方法を見習うべきだ。」と彬子さまの振る舞いが絶賛されたのです。

トルコを訪れる海外要人は必ずと言っていいほどアタチュルク廟を訪れますが、
このような反応が出るのは珍しく、あるトルコ人は、
「献花をするだけの人が多い中、あそこまで綺麗に深々とお辞儀をする方を見たのは初めてだ」と話していました。
トルコ人は、自分たちが尊敬するアタチュルクに対し、彬子さまが多大な敬意を示されたことに感動したようです。

国旗を描いたネイルアートも話題に

また、トルコ外相と面会された際には、彬子さまの手元がクローズアップされ話題になりました。
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話題になった彬子さまの手元   :トルコメディアより

日本国旗とトルコ国旗をあしらったネイル。
細部まで気遣い、日本とトルコの友好親善のお気持ちを示された彬子さま。
まさにトルコ人はハートをつかまれたのでした。
このほかにも彬子さまが各地を訪問される様子は連日報道されました。

28年前の同じ月日に訪問されたご両親の記帳

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イスタンブール市内のベイレルベイ宮殿(オスマントルコ時代の離宮)を鑑賞された彬子さま。
宮殿には28年前の同じ日に記された、父・寛仁さまと、母・信子さまの記帳が残されていました。

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今回、トルコの海事博物館に旧日本軍の軍艦「清輝」の模型が贈られました。
「清輝」は1878年に初めてトルコに寄港した日本の軍艦で、入港140周年を記念して寄贈されました。
模型とともに展示される木札は、戦艦「三笠」の甲板の一部で、彬子さまが「清輝」と書かれたということです。

トルコは「特別な国」

彬子さまのトルコ訪問は今回で7回目を数え、トルコとの繋がりについて「特別な国」だと述べられています。
「トルコは私にとりまして特別な国です。私が生まれて初めて訪れた海外の国はトルコでした。
父が、初めての私の海外行きを許して下さったのは私が高等科の二年生の時でした。
祖父である三笠宮殿下が、長年支援をされてきた、カマン・カレホユック遺跡を
どうしても見てみたいとお願いをしたのです」

彬子さまがトルコを訪問されるきっかけとなった、トルコ中部のカマン・カレホユック遺跡とは、
三笠宮さま・寛仁さまの支援を受けた日本の調査チームが30年以上に渡って発掘を続けている遺跡です。
出土した遺物を保存・研究するだけでなく、専門家や考古学者の育成も行われていて、
日本とトルコの学術研究における交流の懸け橋にもなっています。
遺跡の発掘、研究を今後も継続できるように、トルコでは去年、「三笠宮記念財団」が設立され、
彬子さまが総裁に就任されました。

13日に行われた記念式典で、彬子さまは「三笠宮家親子三代の想いが込められた研究所の活動を
永続的に支えていくために三笠宮記念財団がトルコ政府の認可を頂き設立されました。
この財団の総裁を引き受け致しますことは三笠宮家に連なる者として大変ありがたく、
また多くの責任も感じております。」と述べられました。

親子三代に渡って築き上げてこられたトルコとの絆、そして今回の彬子さまのご訪問は
日本とトルコの友好親善だけではなく、トルコ人の心に残る印象深いものになったようです。

(執筆:FNNイスタンブール支局長 内橋徹)

https://www.fnn.jp/posts/00364480HDK

秋篠宮摂政論

「秋篠宮摂政論」に皇室事情通「最も現実的な選択肢」と評価
2013.06.18 07:00
去る6月9日、皇太子殿下と雅子妃が成婚20年を迎えた際、
両殿下は文書で発表した「ご感想」の中で次のように述べた。
「雅子につきましては、療養が長くなり、ご心配をいただいていることと思いますが、
お陰様で、以前と比べ大分元気になったように思います」
当日のテレビ報道の多くは、雅子妃が11年振りの海外公式訪問となるオランダ訪問(新国王即位式への参列)
を果たしたことなどを取り上げ、回復ぶりを強調した。
だが、宮内庁周辺にはその祝賀ムードとは裏腹の動きがあると、宮内庁関係者が明かす。
「実は宮内庁内部や一部の宮家関係者などの間で、将来、両殿下が天皇皇后になられた際、
雅子妃の公務負担を軽減するため、秋篠宮殿下に摂政に就任していただくべきだとする意見が出ているのです」
皇室に詳しいジャーナリストは、その背景をこう説明する。
「オランダから帰国後、期待された雅子妃の公務による外出がただ一度に限られ
(故ェ仁親王喪儀墓所一周年祭の儀に参列)、被災地訪問の計画も先行き不透明な状況から、
やはりご病状の回復はなかなか難しいという認識がある。
その一方、精力的に公務に励まれる秋篠宮ご夫妻の存在感が、必然的に高まっている」
そうした現状を背景に浮上したのが「秋篠宮摂政論」である。皇室制度に関する有識者ヒアリングに出席するなど、
皇室に詳しい八木秀次・高崎経済大学教授は、「いま考えられる最も現実的な選択肢だ」と評価する。
「宮内庁内で検討課題になっていなければおかしい話ですが、
これまでは選択肢の一つとして話すこと自体、タブーとされてきました。
しかし、いまやこれに関する議論を避けてはいけない。
歴史上、天皇皇后両陛下が一緒に行動することは必須ではありませんでしたが、
その当時の皇后のお務めを果たしていた。たとえば香淳皇后も、
昭和天皇の巡幸や外国からの国賓を招いた晩餐会のときには同席されることがほとんどでした。
まして平成においては皇后陛下の存在感は増し、
被災地などへ両陛下揃ってのご公務というスタイルが定着し、国民から支持されています。
だとすれば、雅子妃が療養を続けたまま皇太子殿下が天皇に即位された時、ご夫妻が十分に天皇皇后として
お務めできるだろうか、という懸念が国民から出てくるのは当然です。
そのとき、秋篠宮殿下が摂政としてサポートできれば、状況はずいぶん改善されるのではないか」
例えば、ある国にはご夫妻で訪問するのに、別の国にはおひとりで訪問するとなれば、
相手国から見れば不公平との憶測も呼びかねない。
実際、皇太子夫妻でのオランダ訪問後、皇太子の単独訪問となったスペインのメディアは、
「皇太子はまた一人になった」「雅子妃は再び檻に戻り悲しんでいる」(エルパイス紙)などと書き連ねた。
「代わりに秋篠宮ご夫妻が訪問したとしても、一宮家の立場だと格が下がってしまう。しかし、
摂政宮とその妃という立場ならば重みが生まれ、相手国の受け止め方も変わってくるはずです」(前出・八木氏)
※週刊ポスト2013年6月28日号
http://www.news-postseven.com/archives/20130618_194660.html


秋篠宮摂政論への期待 皇室が近代では異例の状態にあるため
NEWS ポストセブン 6月19日(水)7時6分配信
いま宮内庁内部から「将来、両殿下が天皇皇后になられた際、雅子妃の公務負担を軽減するため、
秋篠宮殿下に摂政に就任していただくべき」とする意見が出ているという。
「秋篠宮摂政論」が論議される背景には、「天皇皇后の健康問題」という避けては通れない事情がある。
昨年2月に心臓の冠動脈バイパス手術を受けた天皇は「手術前より元気になられた」という見方もあるが、
79歳という高齢である。さらに最近、78歳になった皇后が公務を休まれるという異例の事態もあった。
「皇后陛下は大変我慢強く、極めて責任感の強いお方です。その皇后陛下が公務をお休みになる、
しかも当日になって発表されるのはよほどお辛かったからではないでしょうか」(宮内庁関係者)
その状況下で、一部ではさらに踏み込んだ意見も飛び出している。「今すぐ、秋篠宮殿下を摂政に」と唱えるのは、
元内閣総理大臣官房・内閣安全保障室長で、昭和天皇の大喪の礼の警備担当実行委員も務めた佐々淳行氏である。
「本来、両陛下に代わって公務を行なうべきは皇太子ご夫妻ですが、残念ながら雅子妃はご病気のために
十分な役割を果たせず、皇太子殿下も雅子妃のご病気のことで目一杯になられている。ならば、雅子妃には
今は徹底して療養していただき、皇太子殿下もそれに専念なさるほうがいいのではないでしょうか。
その間、秋篠宮殿下に摂政をお任せしてはいかがでしょうか」
確かに天皇皇后の公務削減は喫緊の課題であるが、東日本大震災の被災地・被災者お見舞いをとってみても、
皇太子夫妻がこれまで5日(皇太子単独が2日)に対し、
秋篠宮夫妻は13日と、秋篠宮夫妻の公務への取り組みが目立っている。
だが、今すぐ――すなわち今上天皇から皇太子へ皇位継承が行なわれる前に、秋篠宮が摂政に就任するには、
就任の事由に加え、本来摂政になるべき順位で上にある皇太子との間で、就任順位まで変える必要が生じるなど、
さらにハードルは高まり、現実的には難しく、かつ反発も強い。
しかし、「秋篠宮摂政論」の是非や実現性はともかく、皇室の将来が皇室内外で真剣な議論を呼んでいる現実がある。
宮内庁担当記者が明かす。
「実は、昨年2月に天皇陛下が手術を受けて以降、月1回のペースで、皇居内で天皇陛下、皇太子殿下、
秋篠宮殿下の御三方に宮内庁長官を加えた会合が行なわれている。
そこで話し合われているのは、被災地のお見舞いスケジュールだけではないはずです。
皇太子殿下が天皇に即位した場合、雅子妃は皇后としてどれだけの活動ができるのか、あるいは秋篠宮殿下が
天皇となった皇太子殿下をどう支えていくのか、さらに今後の皇位継承や皇室の在り方をどうしていくか、
といった重大なテーマについても、話し合われているのではないでしょうか」
秋篠宮はあくまで兄である皇太子を陰から支える姿勢を一切崩していない。それでも周囲が摂政になるのを
期待してしまうのは、現在の皇室が近代では極めて異例の状態にあるからだ。
皇室に詳しい八木秀次・高崎経済大学教授が話す。
「将来の皇位継承者が悠仁親王しかいない以上、これまでの皇室制度とは違った前提の議論を展開する必要が
あるはずです。江戸時代の光格天皇(在位1780〜1817年)以降、父から子への皇位の直系継承が続いており、
兄から弟の系統に皇位が移るような傍系への皇位継承は、数百年ぶりになる。現状の皇室典範も皇室のあり方も、
父子間の継承しか想定されていない。議論の前提が変わったことを認識したうえで、
さまざまな選択肢を検討する必要があるのではないか」
皇室が歴史的な転換点に立っていることは間違いない。
今、皇室の将来について国民も真剣に考えるべき時がきている。
※週刊ポスト2013年6月28日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130619-00000011-pseven-soci

愛子さま高等科運動会

愛子さま 高校初の運動会「ドリブル競争」で悔し涙
2017.10.06 07:00

朝からさわやかな秋晴れが広がった9月30日、学習院女子中等科・高等科合同の運動会が開催された。
年に1度のイベントに胸を高鳴らせる生徒たちに交じって、愛子さまが登校されたのは午前8時20分頃。
髪を後ろで1つに結ばれ、通学かばんと手提げバッグを持たれた愛子さまは、
軽やかな足取りの一方、両ふくらはぎに巻かれたテーピングが目を引いた。
「9月上旬から、運動会に向けて始業前に練習が行われ、
愛子さまも、普段より1時間以上早く登校されていました。
猛特訓を積まれたため、少し足に負担もかかってしまったのでしょう。
昨年、愛子さまはこの時期に長期欠席されており、運動会に参加できませんでした。
それだけに、より強いお気持ちがあったのかもしれません」(皇室記者)

愛子さまに遅れること20分ほどで、皇太子ご夫妻も観戦のため到着。
グレー系のお召し物でトーンを合わされたご夫妻はテント席に着かれ、ちょうど9時に開会式がスタートした。
午前の部で愛子さまが出場されたのは、クラス対抗の玉入れだった。
「高校生になって初めての運動会とあって、愛子さまは大はりきり。身振り手振りをされながら、
クラスメートと楽しそうに作戦を練られていました。
ときおり、両手で『ゲッツ!』のようなポーズをされて、
ふざけ合っている様子も微笑ましかったです」(学習院関係者)

皇太子ご夫妻は、交互に双眼鏡を覗かれながら愛子さまに声援を送られていた。
お昼をはさんで、午後に愛子さまが登場されたのは「ドリブル競争」。
バスケットボールをドリブルし、ゴールを決めたらまたドリブルで戻って
次の人にパスするというリレー形式のレース。
各学年の代表者が20人ほど出場し、中等科1年〜高等科3年までの学年別6チーム対抗で
争うもっとも盛り上がる競技の1つだ。
「愛子さまは高1チームの11番目の走者としてパスを受けました。
トップも狙える位置につける接戦で、見事に1回でゴールを決めました。
うしろのメンバーにボールを託すと、愛子さまは祈られるような仕草を見せられていましたが、
チームはだんだんと遅れをとってしまい、結局4位でゴール。
その結果がよほど悔しかったのでしょう。愛子さまは、しゃがみこんで泣いていらっしゃいました。
それだけ練習を頑張ってきたということでしょう。
愛子さまは、一緒に涙を流すチームメートと手を握ったり、
背中をさすったりと、健闘をたたえ合われていました」(前出・学習院関係者)

1学期には授業を欠席されることもあった愛子さまだが、
夏休みが明けてからは、ほぼ毎日元気に登校されているという。
生活の充実ぶりは、学校行事以外でも見られた。
「9月26日、愛子さまは皇太子ご夫妻とご一緒に、
新任皇宮警察官の会釈に参加され、ご挨拶されていたようです。
体調やお気持ちが安定されていることが伝わってきます」(前出・皇室記者)
運動会の一日を、文字通り駆け抜けられた愛子さまの表情は、天の高い空のように晴れやかだった。
※女性セブン2017年10月19日号
http://www.news-postseven.com/archives/20171006_619084.html

絢子さま、日本郵船勤務の守谷慧さん以前の茶髪ピアスな交際相手たち

高円宮絢子さまご婚約
高円宮絢子さまご結婚


絢子さまは眞子さまの「ご結婚」を待っていた
「文春オンライン」編集部
6月26日、高円宮家の三女・絢子(あやこ)さま(27)が、
日本郵船に勤務する守谷慧(もりや・けい)さん(32)と婚約することが発表された。
それからわずか2日後の28日、秋篠宮家の長女・眞子さま(26)のお相手・小室圭さんが、
弁護士資格を取得するため、今夏から3年間渡米するとメディア各社が報じた。
眞子さまと小室さんは、昨年9月に婚約が内定し、2020年に結婚を延期されている。
今回のように、皇族の婚約という「慶事」と、結婚の「延期」が同時期に重なるのは極めて異例のことだ。
「ネットでは『なぜいま絢子さまが婚約を発表されたのか』と絢子さまに対し一部批判の声もあがっています。
しかし、絢子さまの婚約発表は、天皇陛下にお伝えした上でのこと。宮家のみの独断で決められることではありません。
宮内庁としても、すべて考慮した上で発表の時期を探っていたとみるべきでしょう」(皇室担当記者)
絢子さまは、現在いる皇族17人(天皇・皇后両陛下を除く)の中でも、
天皇陛下の直系である「内親王」(眞子さま、佳子さま、愛子さま)とは違い、「女王」の立場である。
さらに、絢子さまは最年少の「女王」で、一番身位が低い立場であるため、
守谷さんにお会いする前から「いつ結婚するべきか」を気にされていたという。
「絢子さまは自身の結婚の時期について、陛下の退位、皇太子殿下の即位の関連行事の時期を外すことはもちろん、
昨年9月の眞子さまの婚約発表の際にも『仮に良縁があったとしても、今は待たなければいけない』とお考えでした。
実際、眞子さまの婚約延期が決まった2月から絢子さまの結婚話が具体化していったのです。
守谷さんと絢子さまが出会ったのは昨年末ですが、春には高円宮家の慶事が発表されるのではないかと
記者たちがマークしていました。発表に至らなかったのは眞子さまへの“配慮”があったからとみられています」(同前)
眞子さまへの配慮は「時期」だけではない。絢子さまは、守谷さんのお名前が、
眞子さまの婚約相手である「圭(けい)」さんと名前の読み方が同じことを気にされ、
守谷さんのお名前を「けい」から、「さとし」の読みに
改名してから発表されたほうがいいのではないかというお考えを示されたこともあったという。
「絢子さまとしては、婚約発表の時期は8月頃になると考えていたそうです。
今回、宮内庁の発表前にNHKが先行して報じたことについては憂慮されているご様子です」(宮内庁関係者)
http:// bunshun.jp/articles/-/7958

【絢子さまご婚約】三姉妹で語られた結婚相手の「条件」
〈子どもが好きなので、いつかは結婚をして子育てをしたいと考えております〉
(2010年9月15日・絢子さまが成年皇族になるにあたっての文書回答)
高円宮家の三女・絢子(あやこ)さま(27)がこのように「将来」について述べられたのは20歳の頃だった。
それから7年。日本郵船に勤務する守谷慧(けい)さん(32)に出会い、ようやくその“夢”を叶えられようとしている。
「守谷さんは物腰が柔らかく、周囲への気配りのある方。
170cmで細めの体形は“絢子さまのタイプ”だったそうです。幼少期はパリで過ごされ、
慶応大学文学部在学中にはオックスフォード大学に短期留学されたこともある国際派。
父親は通産省(当時)の元職員で、母親はNPO法人『国境なき子どもたち』の専務理事を務められていました。
守谷さんは2015年に母親を亡くされた後、その遺志を継いで、
日本郵船に勤務しながら理事の職を引き継いでいます」(皇室担当記者)
絢子さまは、城西国際大学・大学院で子どもや高齢者の福祉を学び、
2017年6月から同大学の福祉総合学部研究員として勤務していた。
子ども好きで、福祉に関心があるという守谷さんと共通項がある。
また、守谷さんが趣味に挙げていたスキーは、絢子さまも幼いころから親しまれてきた。
絢子さまの人柄を知る学習院関係者が語る。
「絢子さまは、ハメを外した友達の誘いにも『私は宮さまという立場があるからさ』と
やんわり断ることができる“しっかり者”でした。
親しみやすく女の子らしい一面もあり、いきものがかりの『コイスルオトメ』を聞き、
歌詞にある『大好きだよ いつまでもいっしょ』という一節のように、
女性の恋心をいつまでも大切にしたいと仰っていました。
結婚したいというお気持ちは三姉妹でも一番強かったのではないでしょうか」
絢子さまに結婚への「強い憧れ」があったのは、2015年11月、
ご友人とともに「縁結び」で知られる出雲大社の「縁結大祭」を訪れたことからもうかがえる。
「絢子さまは白い装束に身を包み、最前列で御祈祷をしてもらっていました。
その日は、八百万(やおよろず)の神が出雲大社に集まる日とされ、
大勢の女性たちが良縁を求めて出雲大社に押し掛ける。
絢子さまがご友人とともに御祈祷を受けている様子を、
周りにいた女性たちはじっと見つめていたそうです」(前出・皇室担当記者)
出雲大社の祭祀は、絢子さまの姉・典子さまが嫁いだ千家家(せんげけ)が、代々「宮司」を務めている。
「絢子さまは、典子さまに会って団欒するひとときを楽しまれながら、
お姉さまのような“良縁”を願われていたのではないでしょうか。
守谷さんに出会われるころ、偶然絢子さまがその時に求めたお守りを手にする機会があったとか。
このたび守谷さんとの御縁に恵まれたのも、
この時の御祈祷の効果があったのではないかと思われているそうです」(別の皇室担当記者)

母・久子さま主導の“お見合い”
母の久子さまは、かねてより「娘を無事にお嫁に出したい」と周囲に語られていた。
「2002年に高円宮さまが47歳の若さで急逝されてから、久子さまは高円宮さまにかわって、
公務の多くを引き継ぎ、『娘を嫁に出す』責任も果たしたいと思われていました。
皇族としての責任と、親としての責任の二つを、高円宮さまの分まで背負われたんです」(高円宮家の知人)

三姉妹が成年になられてからは、宮邸で催すパーティ等の社交の場に積極的に参加させていたという。
「特にここ数年は絢子さまの“お見合い”の意味合いが強くなり、
天皇家の遠戚にあたる旧華族や代々政治家を輩出している名家の子息を招いて自然に出会えるようにしたり、
パーティの後も、子どもたちだけで会う機会をさりげなく設けるようにしていました。
そういった機会に恵まれていたからか、ご姉妹は『結婚相手をどう見極めるか』と話しあわれる機会もあったそうです。
そのポイントの1つが『結婚後も家同士できちんと付き合えること』。
絢子さまも、久子さまが良いと思う方ならば『間違いない』と思われていたのではないでしょうか」
(前出・皇室担当記者)という。
守谷さんとの出会いのきっかけをつくられたのも久子さまだった。
「久子さまが、昨年11月、『国境なき子供たち』の設立20周年の祝賀会で守谷さんに会い、
その人柄に好感を持たれていたようです。その後、宮邸で久子さまと、
守谷さんの父・治さんと慧さんの3人でお会いする機会があった。
その時、久子さまが機転を利かせて『その話は娘が詳しいので、次は娘も呼びましょう』と
再び会うきっかけをつくられたのです。
お二人は出会ってから半年ですが、久子さまと慧さんの父・治さんとは40年ほど前からの知り合いで、
母・季美枝さんとは、季美枝さんが専務理事をしていた『国境なき子どもたち』の関連行事で親しくお付き合いがあった。
久子さまがお相手の家族をよく知っていたからこそ安心して自ら“紹介”されたのでしょう」(前出・皇室担当記者)
次第に慧さんが絢子さまに心を寄せられるようになり、絢子さまもそれに応える形で愛を育まれたという。
〈気の置けぬ竹馬の友と語り合ふ理想の未来叶ふときあれ〉
今年の歌会始ではこのように詠まれていた絢子さま。“理想の未来”が近づいている。
http://bunshun.jp/articles/-/7959

絢子さま、日本郵船勤務の守谷慧さん以前の茶髪ピアスな交際相手たち
週刊女性2018年7月17日号
2018/7/2
「高円宮家の三女・絢子さまと日本郵船に勤務する守谷慧さん(32)が婚約されました。
守谷さんは勤務の傍ら、途上国の子どもたちを支援するNPO法人『国境なき子どもたち』の理事を務めています。
'15年に亡くなった慧さんの母・希美枝さんが、もともとこのNPO団体の専務理事でした。
絢子さまのお母さまである久子さまは毎年、関連行事に足を運ばれていて、
母親同士の交流があったのです」(宮内庁関係者)
昨年12月、久子さまが絢子さまに慧さんを紹介して、まもなく交際に発展。
半年後にご婚約が内定するに至った。
その一方で、絢子さまを知る関係者は、今回の結婚相手に驚きを隠せないという。
「私が知っている限り、絢子さまは過去に計3人の男性とお付き合いされていましたが、
守谷さんとはタイプが違うように思えるんです。
城西国際大学時代にお付き合いしていたのは、同い年くらいの茶髪の男性で、
ピアスをつけ、ズボンを“腰ばき”している方だったのでとても驚きました。
結局、絢子さまのカナダ留学を機に自然消滅したようですね」(城西国際大学関係者)
イマドキの学生と別れてしまったあと、海外留学中にも交際相手がいらっしゃったと、この関係者が続ける。
「'13年9月から'14年4月に、カナダの『カモーソンカレッジ』に留学していたときには、
外国人とお付き合いされていましたが、すぐに破局したそうです。
その直後の'14年5月から約3か月留学していた同国にある『ブリティッシュコロンビア大学』では、
日本の地方出身の方と交際されました。
この方は宮邸にお呼びしたり、男性側の実家を訪れたこともあったようです」
学生時代から恋愛経験を積みながら、最終的には久子さまのご紹介で守谷さんとの結婚をお決めになった絢子さま。
これには“高円宮家の家訓”と“眞子さまの結婚延期”が影響しているそう。
「“恋愛と結婚は別”というのが、久子さまのお考え。高円宮家は皇室の一員として、
国民が納得できる“それなりの相手”を選ばなくてはならないという意識が強いのです。
そのせいなのか、昨年5月に眞子さまと小室さんの婚約が報道され、大学で出会い、
自由恋愛を経ての結婚だと知った際は、絢子さまはとても驚かれていたと聞いています。
しかし結局、結婚延期となり、“やっぱり恋愛と結婚は別なんだ”と思い直されたそうですよ」(高円宮家関係者)
ほかの皇族方のご結婚事情にも眞子さまの結婚延期が影響しているようだ。
http://www.jprime.jp/articles/-/12772

「雅子妃」銀婚式に“人格否定”の残響

「雅子妃」銀婚式に“人格否定”の残響 孤立を深めた皇太子の「美智子皇后」批判
週刊新潮2018年6月21日号掲載
雅子妃」銀婚式に「人格否定」の残響(上)
来年の御代替わりまで、残すところ10カ月余り。先ごろ両陛下は「最後」の被災地ご訪問を果たされた。
一方でさる9日には、皇太子ご夫妻がご成婚から25年となる「銀婚式」を迎えられたのだが、
そこには今なお、14年前の“衝撃発言”が、厳然と響き渡っているのだ。
9日から福島県を行幸啓された両陛下は、最終日の11日、相馬市にある東日本大震災の慰霊碑に向かわれた。
「今回の目的である植樹祭はもちろんのこと、事実上、ご在位中の被災地ご訪問もこれが最後となります」
とは、宮内庁担当記者。
「皇后さまはお疲れもあって体調を崩され、11日の早朝には38度を超す高熱があったのですが、
慰霊碑前には予定通りお見えになり、強い雨の中、
陛下とともにしっかりしたお手つきで供花なさる姿が印象的でした」
こうした行幸啓は来年5月以降、皇太子ご夫妻へと引き継がれていくわけだが、
1993年のご成婚から四半世紀、辿ってこられた道のりは、まさしく山あり谷ありだったと言わざるを得ない。

9日に発表された文書で皇太子さまは、次のように述べられていた。
〈雅子は、この25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け、
また、私と愛子をしっかりと支えてくれており、ありがたく思うとともに、心から感謝しています。
点数を付けるのは難しいですが、今回は、結婚10年の折の「努力賞」と「感謝賞」のダブル受賞に加えて、
銀婚式に因んで銀メダルも贈りたいと思います〉
そのお言葉を受けるようにして雅子妃も、
〈今回、殿下からは、身に余る賞や「銀メダル」までいただけると仰って下さり、
その寛大なお気持ちを大変ありがたく思いますとともに、
金婚式に「金メダル」をいただけますかどうかは心許なく感じます……〉
と、さらに四半世紀先へと思いを馳せられながら、あわせてこう記されていた。
〈25年間を振り返りますと、様々な出来事が走馬灯のように頭の中を巡り、感慨深いものがございます〉
〈私が体調を崩しましてからも、皇太子殿下には、いつも優しく、
細やかなお心遣いをいただきながら、お助けいただいてきている〉
文面の通り、過ぎ去りし25年は実に起伏に富んでいた。
中でも特筆すべきは、やはり皇太子さまの「人格否定」発言であろう。

皇太子の「美智子皇后」批判
ことは14年前に遡る。2004年5月10日、欧州各国ご訪問を前に皇太子さまは、
東宮御所で恒例の会見に臨まれていた。
ここで、予期せぬ事態が生じた。当時を知る全国紙デスクが振り返る。
「前年からご静養されていた雅子さまが同行されないことについて質問があり、
皇太子さまは『心底残念に思っています』と、お気持ちを代弁されながら
『外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、
大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました』と明かされた。
また、ご自身のお気持ちも『後ろ髪を引かれる思いです』と吐露なさったのです」
皇太子さまの口から衝撃的なフレーズが発せられたのは、その直後であった。
〈雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、
私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。
それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉
会見の場が静まり返ったのは言うまでもない。
「会見の最後には『どんなことを念頭に置かれたお話なのか』と、補足質問が飛びました。
皇太子さまは『細かいことは控えたい』とされながら
『そのことで雅子も私も、とても悩んだ』と漏らされたのです」(同)
皇太子さまはその2日後に渡航され、5月24日に帰国。が、ご不在中に騒ぎが鎮まるはずもなかった。
「5月17日には、宮内庁の羽毛田(はけた)次長(当時)の会見で『社会的影響の大きい発言。
あらためて具体的内容が説明されなければ、国民が心配する』との陛下のお気持ちが示されました。
結果として皇太子さまは、ご帰国後の6月8日、長官の会見を通じて
文書でご発言の真意を説明せざるを得なくなったのです」(同)
その文面には、こう綴られていた。
〈具体的内容について、対象を特定して公表することが有益とは思いません(略)
皆さんにお伝えしたかったのは、私たちがこれまで直面してきた状況と今後に向けた話です〉
名指しこそ避けられたものの、ご夫妻を取り巻く環境に苛(さいな)まれてこられた点を繰り返し強調されたのである。

東宮大夫の電話を叩き切った雅子さま
が、ここからさらなる混乱が引き起こされていく。
「皇太子さまの苛烈なお言葉は、一体どなたに向けられたものなのか、と様々な憶測が流れました。
一義的には、ご成婚当時から『外遊はともかくお世継ぎを』との空気が支配していた宮内庁、
中でも歴代の長官をはじめとする幹部らへ向けられたものでしたが、
そうした雰囲気をおのずと醸成なさっているであろう両陛下、
とりわけ皇后さまにも切なるお声を届けたかったのではないか……。
当時はそんな見方も、記者会では広まりました」(同)
この6月8日の「説明文」が出される少し前、皇太子さまのご真意を伺うべく
電話をかけてきた当時の東宮大夫に対して雅子妃は、
〈そんなことをするのなら、私は皇太子妃を辞めます〉
そう言って一方的に電話を切り、傍らの皇太子さまに「はっきり申し上げましたよ」とご報告される一幕もあった。
さらには、「その年の11月、今度は秋篠宮さまがお誕生日会見でこの問題に触れ
『記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、
その上での話であるべきではなかったかと思っております。そのことは残念に思います』と、
異例の兄宮批判をなさったのです」(同)
庁内は言うに及ばず、宮中でも抜き差しならない状態が続いていた。それは、陛下が同年末のお誕生日に、
〈皇太子の発言の内容については(略)まだ私に十分に理解しきれぬところがあり……〉
そう言及なさったことからも明らかで、まさしく平成最大の危機が皇室を覆っていたのだった。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06230800/?all=1&page=1


「皇太子ご夫妻」ご成婚25年も… 次期皇后が未だ「会見NG」の非常事態
社会週刊新潮 2018年6月21日号掲載
「雅子妃」銀婚式に「人格否定」の残響(下)
さる6月9日に「銀婚式」を迎えられた皇太子ご夫妻。
皇太子さまが発表された文書では
〈雅子は、この25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け…〉と述べられていた。
〈25年間〉を振り返るとき、中でも特筆すべきは2004年の皇太子さまの「人格否定」発言だろう。
〈雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉
というお言葉は、歴代の宮内庁幹部、あるいは美智子皇后に向けられたものか、との憶測を呼んだ。
秋篠宮殿下、そして陛下も疑問の声を投げかけられたこの発言により、皇太子さまは孤立を深めていった。

そんな異常事態を招くに至った経緯を、あらためて振り返っておく。
銀婚式にあたり雅子妃は、
〈皇室に入りましてから間もない頃、殿下からご助言をいただきながら、
初めての公務の一つ一つに臨んでおりました頃のことも懐かしく思い出します〉
そう回想しておられるのだが、当時はご公務以上に重要な使命を帯びていた。
「言うまでもなく、男子のご出産です。秋篠宮家では91年に眞子さまがお生まれになっていましたが、
皇位継承に連なる男子は皇室には一人もいらっしゃらなかった。
その後、94年暮れには佳子さまが誕生なさるものの、状況は依然、変わらないままでした」(全国紙デスク)
いや増すばかりの重圧に、雅子妃はこんなお振舞いを見せたこともあった。当時を知る宮内庁関係者が言う。
「95年のことです。ご懐妊の兆しが見えない雅子妃を陛下が慮(おもんぱか)って
『国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ』というお言葉を掛けられたことがあった。
それに対して妃殿下は『私の周りには、そんなことを言う人は一人もおりません』と、毅然と言い放ったのです。
陛下は驚き、呆気にとられたご様子でした」

居場所を失いつつあった妃殿下
その後、99年末の流産を経て01年には愛子さまをご出産。
当時、子を授かった喜びを雅子妃は「生まれて来てくれてありがとう」とのお言葉で表したのだが、
周囲との“温度差”は際立っていったという。
「庁内はもっぱら『事態は何一つ進んでいない』という雰囲気で、つまりはおつとめを果たせていないということ。
にもかかわらず、ご出産から1年で外遊に復帰なさったのですから、風当たりは一層強まってしまいました」(同)
02年12月、ご夫妻はニュージーランドと豪州をご訪問。
その直前、会見で雅子妃は、きわめて率直なお気持ちを口にされていた。
〈私にとりまして、結婚以前の生活では(略)外国に参りますことが、頻繁にございまして、
そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから(略)
外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、
正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要った〉
が、これが物議を醸した。
「メディアでは『そんなに海外に行きたいのか』といった論調が目立ち始めた。
加えて、数少ない理解者であり、妃殿下が大きな信頼を寄せられていた
高円宮殿下の薨去(こうきょ)(02年11月)も、時期が重なってしまった。
妃殿下は徐々に、居場所を失いつつあったのです」(同)
高円宮さまは86年10月、東宮御所で催されたスペイン王女の歓迎レセプションの場に
当時学生だった雅子妃を招き、皇太子さまとの出会いに繋げられた。
いわばご夫妻のキューピッドであり、雅子妃のお気持ちの沈みようは計り知れなかったであろう。
そして、「03年の暮れには帯状疱疹を発症し、軽井沢で転地療養をなさいます。
そうした中で04年、殿下の“人格否定”発言が飛び出したわけです。
その翌月には適応障害と診断され、本格的な長期療養生活に入られたのでした」(同)
以来14年。06年夏には、皇太子さまや愛子さまとご一緒に、
オランダで2週間のご静養という異例の措置までとられたのだが、
「翌年5月、訪欧前の会見で、陛下が『私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません』と発言された。
これがもっぱらご一家への“苦言”だと見なされてしまったのです」(同)

16年間肉声なし
現在まで療養を余儀なくされながらも、「銀婚式の文書からは、雅子妃殿下の変化が窺えます」
とは、皇室ジャーナリストの山下晋司氏である。
「5年前のご成婚20年の際には、いわば一方的な両殿下のご感想が宮内庁から出されましたが、
今回は記者会の質問に対して両殿下が別々に回答されています。
その点を以てしても、妃殿下の体調は良くなっているのではないでしょうか」
とはいえ、なおも大きな“懸念”が横たわったままだと指摘するのは、宮内庁担当記者である。
「02年末以降、雅子さまは16年間にわたって記者会見をされていません。
我々は今回、ご夫妻揃っての会見を3カ月前から宮内庁に申し入れていたのですが、受け入れて貰えませんでした」
雅子妃がメディアをことのほか遠ざけられているご様子は、療養生活において度々窺えた。
「外国ご訪問の前には、慣例で会見が開かれます。
ですが、このままでは新皇后となられて以降もなさらないお考えでしょう。
深刻な事態に違いなく、それで果たして、国民に声が届くのか。
皇后さまから御養蚕や赤十字の名誉総裁職を引き継がれても、
やはり最後には、公の場でご自分の言葉でお話しになるという“高い壁”が、立ちはだかっているのです」(同)
きたる9月には、友好160周年を記念した皇太子さまの渡仏に同行なさる見通しだ。
が、ここでも肉声は拝聴できそうにない。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06240801/?all=1

秋篠宮家の庭

秋篠宮家の庭には○○○がごろごろしている…〈週刊朝日〉
dot. 5月30日(木)11時34分配信
佳子さまがご家族と暮らす秋篠宮邸は港区元赤坂の赤坂御用地にある。外周約3キロの敷地内には、
東宮御所や、三笠宮邸、高円宮邸などが散在し、春秋の園遊会が開かれる赤坂御苑や、
本格的な試合ができるテニスコートがあるほか、野鳥の観察もできる鬱蒼(うっそう)とした森も広がる。
「愛子さまが住む東宮御所とは1キロ近く離れていますが、皇太子ご一家が散歩の途中に、秋篠宮家を訪れ、
お茶を飲んだりすることもあるそうです。
一人っ子の愛子さまは、佳子さまと10代の女の子同士の女子トークを楽しんでいるそうです」(宮内庁記者)
秋篠宮ご夫妻は、結婚後約10年間、同敷地内の元職員宿舎を改造した木造平屋(約100平方メートル、
3LDK+S)に仮住まいを続けていた。築60年を超えるシロモノだったが、長女の眞子さまと佳子さまが生まれた際に、
それぞれ2間ずつ増築。佳子さまも幼稚園までは、ここで暮らしていた。
佳子さま5歳の2000年に、総工費約6億5千万円を投じて、公務に使う秩父宮邸(延べ860平方メートル)に
住居部分として鉄筋コンクリート2階建て(8室、延べ床面積472平方メートル)を増築した新邸が完成した。
佳子さまのお部屋も増築部分にあるとみられる。
「秋篠宮ご夫妻が公務に使っている部屋には、大小のひょうたんがずらりと並んでいます。
中には、人の背丈ほどあるものもあり、初めて訪れた人はびっくりするでしょう。
秋篠宮さまは全日本愛瓢会の名誉総裁なのです」(同家を訪れた人)。
庭では野菜づくりをしており、食卓にのぼることもあるという。
ペットもいる。秋篠宮家では最近犬を飼っているが、そのほかにも、以前から「一風変わったペット」がいる。
「温泉に入る姿が一般でも大人気になっている南米原産の巨大ねずみ『カピバラ』を
かつて飼っていたことがあります。今も、カピバラとよく似た『マーラ』が数匹、庭に放し飼いになっています」(同)
マーラもアルゼンチン原産で、体長50〜70センチ。体重も10キロ近くなるねずみの仲間だ。
ねずみとはいえ、愛くるしい容姿で、天気のよい日には、秋篠宮家の窓から庭でマーラたちが
ごろごろとひなたぼっこしている姿が見えるという。
ちなみに昨年9月、悠仁さまのお誕生日に公表された写真の端には、眞子さま、佳子さまや悠仁さまと一緒に、
背後の茂みからこちらを向いているマーラの姿がうつっていた。
※週刊朝日 2013年6月7日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130530-00000004-sasahi-soci

立て膝でリラックス・SPをふりきる承子さま

週刊新潮 2014年9月4日号
「承子さま」28歳の夏 お相手の自宅に寄る日もある「高円宮承子女王」の恋と結婚

立て膝でリラックス
7月上旬、承子女王はユニセフの業務でベトナムに出張された。
そして、実はその直前にも件の男性と2人きりで会われていたのだ。
巻頭グラビアに掲載した写真と合わせ、当日の様子を再現してみる。
週末の21時過ぎ、東京・神保町で合流したお二人は、豚料理が売りの居酒屋へ。
生ビールを飲み干し、話題は間近に控えた出張へと及ぶ。
ベトナムは夜が寒いらしくて―― そう懸念される女王は、待ち合わせ前に立ち寄られた量販店で、
出張用の衣類を購入したと告げられた。そこで男性が、デニムって、労働者の服じゃないのと、
おもむろに意見を差し挟む。テーブル席でリラックスされ、
立て膝姿で聞いていた女王のパンツは、あいにくデニム地であった。
「おもに女性が積極的に話しかけ、男性はもっぱら聞き役で、時折気のない返事をしていました。
でも、むしろ長い付き合いで、お互い以心伝心、というような雰囲気でしたね」(居合わせた客)
実際に、先の宮内庁関係者はこう明かすのだ。
「承子女王は、その男性の住むマンションに遊びに行かれることもある。
すでに、そうした“間柄”になっているのです」
さては、宮家に立て続き慶事の到来か――。

「結婚と交際は別です」
残暑厳しい週末の昼下がり、赤坂御用地からお出ましになる女王をお見かけした。
陽射しを避けるべく鍔の広い帽子を被り、飼い犬を連れて青山1丁目の交差点を渡られている。
そこで畏れながらお声掛けを試みたところ、
「(男性と)仲良くはしていますよ。私、すごく友達が多いので、
いつ知り合ったかは覚えていませんが、かなり以前ですね」
と仰る。男性のマンションに立ち寄られた件については、
「どうだったかなあ……行きましたっけ?」一瞬、間を置きつつも、率直な“結婚観”を披瀝して下さったのだ。
「私の家には、(男性は)大勢のお友達と一緒に来たことがあります。
母とも会っていますが、当面、私は仕事に打ち込もうと決めているので……。
父の務めていた名誉職などを母が全て継いでおり、私もしなければならないことが沢山あるのは自覚しています。
ですから結婚は、少なくともあと3、4年は絶対にありません」
そもそも11年、民主党政権下で始まった「女性宮家」創設に向けた議論は、
<未婚の女性皇族が次々と結婚適齢期を迎え、皇室活動の安定性が保てなくなる>
との危機感が根底にあった。が、承子女王は、
「今の時代、女性にそれ(適齢期)を言ったら怒られますよ。
妹の婚約は本当に嬉しいですが、母からは私の結婚について何も言われていません。
母も私の年齢ではまだ独身でしたので。昔から私、結婚とお付き合いするのは、完全に別だと思ってきました」
これまで積み重ねられてきたイメージに違わぬ、堂々の“奔放宣言”である。
さらには、次のように付言なさるのであった。
「でも、全てにおいて、誰と何がどうなるかなんて、分からないじゃないですか……ふふふ」
 一方、お相手の男性に尋ねると、こちらも示し合わせたかのように、
「(女王とは)共通の友人が多いので、その繋がりで知り合いました。
仲は良いですが、私の家に来られた日は、他に仲間も何人かいて、
彼らは用事があって先に出て行ったのです。2人で過ごしていたのではありません」
と言うものの、先の関係者によれば、
「マンションに立ち寄られた際、承子女王はこの男性と2人きりで、
麻布十番の焼肉レストランで食事をなさっていたのです」
やはり、火のないところに煙は立たないようなのだ。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、
「高円宮家はもともと開放的、活動的なお家柄。久子妃殿下はもとより、亡くなられた殿下も
ご交友の広い方でしたから、承子女王もまた然りでしょう。
ご成婚に際しても妃殿下は、本人の意思を尊重するお考えだと思います」と指摘しながら、
「ひと頃に比べ、承子女王は皇族として、また一人の人間として大いに成長なさったと拝察されます。
この秋には妹宮が嫁がれるわけですから、長女として、
ご公務が目白押しのお母様を支えるお役目は一層増します。
そのご自覚も、十分におありのことでしょう」
とはいえ、そこは“型破り女王”だけあって、いつ何時サプライズが起きぬとも限らない。
果たして、恋の行方やいかに……。


女性セブン2014年9月18日号
皇族のSP カラオケ時に隣部屋で待機したり振り切られる例も
2014.09.10 07:00

高円宮家の長女・承子(つぐこ)さま(28才)が、
ガバンク系のシンクタンクに勤務する20代後半の男性と都内でデートする様子を
『週刊新潮』(9月4日号)が報じた。
承子さまと男性は、神保町や新橋で待ち合わせをされ、居酒屋で過ごされたとのことだが、
このときSPは店外で待機していたという。
当のご本人はSPを待たせていることなど気にも留められずデートを楽しまれていたが、
やはり皇族のデートにはSPが同行するのだ。
秋篠宮家関係者もこう話す。
「佳子さまは男女複数のお友達とカラオケによく行かれるんですが、
佳子さまたちの部屋の隣の部屋をSPたちが取って、待機しているそうです」
SPと良い関係を築くことも、女性皇族が恋を育てる最良の方法のようだが、承子さまだけはちょっと違うようで…。
「早稲田大学在学中、承子さまはSPに何も告げず、突然電車に乗り込まれ
成田空港まで行ったことがあったそうです。このときは友人の迎えに行ったというのが理由でしたが、
SPは大混乱となってしまったみたいで…。
就職された現在も承子さまは一時的にSPをふり切られ、
デートや会食に出かけられることも少なくないみたいですよ」(宮内庁関係者)
女性皇族の恋ではないが、皇太子さま(54才)が雅子さま(50才)にプロポーズされた
1992年10月の鴨場デートは、まさに“極秘プロジェクト”だった。
絶対にマスコミにデートをキャッチされてはなるまいと、
東宮御所から車で千葉県の新浜鴨場に向かわれた皇太子さまに付き添ったのは、運転手と当時の東宮侍従長だけ。
通常、皇太子さまの外出時には前後を皇宮警察が護衛、そして警視庁や地元警察が周囲の警戒にあたるのだが、
この日だけはSPに一切の連絡をしなかったという異例のデートだった。
万が一、事故にでも巻き込まれれば一大事だ。
しかし、そこまでしなければ実現しなかったのが皇太子さまと雅子さまのご結婚だった。
http://www.news-postseven.com/archives/20140910_274835.html

嵐のコンサートに出かける奔放な承子さま

秋篠宮さま沖縄2015年2月

佳子さま 秋篠宮さまと生まれて初めての父娘二人っきり旅行
2015.02.12 07:00
2月6日午後2時過ぎ、沖縄・那覇空港に降り立たれた秋篠宮さまと次女・佳子さまのお姿に、
居合わせた人たちからは「佳子さまだ!」といった声もあがり、空港内は一時騒然となった。
今回、秋篠宮さまはご自身が設立に尽力され、
現在も常任理事を務められる『生き物文化誌学会』の例会に出席されるため、沖縄を訪問された。
「この沖縄訪問はご公務ではなく、私的なご旅行です。
普段、秋篠宮さまはおひとりで例会に出席されるのですが、
今年は秋篠宮さまから佳子さまに“一緒に学会に出てみないか? 
沖縄に行かないか?”と誘われたようです。
佳子さまは照れくさそうに“別にいいけど…”
みたいなお返事をされたそうです(苦笑)」(秋篠宮家関係者)
昨年11月、秋篠宮さまは誕生日会見でこんな話をされている。
「私は海外に家族みんなで行ったことはありますけれども、
次女(佳子さま)と一緒に二人で出掛けたことはないのですが、
何の機会だったでしょうか、二人で上野動物園に行ったことがあるんですね」
佳子さまが5才ぐらいの時に、上野動物園で桜見物をされたのが、唯一のお二人でのお出かけだったことと
佳子さまがお生まれになってから20年間、一度も“父娘”二人旅をしたことがないと明かされた。
つまり、今回の沖縄旅行が“初めての二人っきりの旅”ということになる。
前出の秋篠宮家関係者は父娘関係について、こう語る。
「佳子さまは勝気なご性格なため、ご両親にお考えをはっきりおっしゃることも多く、
秋篠宮さまとはお気持ちが行き違うこともありました。
姉の眞子さまに比べると、秋篠宮さまと距離があったのも間違いありません。
そんなわけで、実際、沖縄に着かれた当初はお互い気恥ずかしさもあってか、
少々ぎこちない雰囲気だったみたいですよ」
※女性セブン2015年2月26日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150212_303365.html


父と2人だけで沖縄入り 佳子さまのラフなお姿と母の気遣い
2015.02.16 16:00
黒のスリムパンツに白のざっくりニット、ウェーブがかった髪を下ろした公務での姿と
異なる佳子内親王の装いに、那覇空港に居合わせた利用客は一様に驚いていた。
「今回はご公務ではなく私的旅行でした。殿下と二人きりだったので
ラフなファッションになったのでしょう」(宮内庁関係者)
2月6日から8日にかけての父娘の沖縄訪問は、
秋篠宮が常任理事を務める「生き物文化誌学会」の例会に出席するためで、今回初めて佳子内親王も同席した。
「殿下が佳子さまに“学会に一緒に行かないか”と声を掛けて実現したのですが、
お二人だけ一足先に沖縄入りされたのは、紀子さまの計らいだったようです」(同前)
もともと沖縄訪問は秋篠宮一家揃っての2泊3日の旅程だった。だが、悠仁親王の学校のため、
紀子妃と悠仁親王は別便で沖縄入りした(長女の眞子内親王は英国留学中)。
学会は到着翌日(7日)だったので、佳子内親王も紀子妃と悠仁親王と同じ便でも差し支えなかったはずだが、
あえて先乗りしたのにはこんな理由があったという。
「連日の佳子さまフィーバーの中、紀子さまは佳子さまに注目が集まることを気にかけ、
服装や言動について厳しく教育されていたようです。そんな様子をご覧になった殿下が、
息抜きの意味もこめて佳子さまをお誘いになったのでしょう」(同前)
6日の夜、佳子内親王は父とともに那覇市内の豚料理専門店で夕食をとった。
「学会の関係者を交えた会食で、個室からは時折、佳子さまの楽しそうな笑い声が洩れてきました。
佳子さまはお酒を飲まれませんでしたね」(店の関係者)
紀子妃と悠仁親王が合流した翌日も父娘二人の行動が続いた。
午前中は世界遺産の中城城跡などを観光し、午後は学会に出席した。
「紀子さまは学会には出席せずに悠仁さまと会場近くの動物園へ行かれました。
学会は殿下と佳子さまお二人だけでというお気遣いでしょう。
佳子さまは殿下とは本当に仲が良いご様子でした」(学会関係者)
※週刊ポスト2015年2月27日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150216_304071.html

皇太子一家恒例の奥志賀スキー旅行 宮内庁内部で波紋広がる

皇太子一家恒例の奥志賀スキー旅行 宮内庁内部で波紋広がる
2015.03.16 16:00
10年前から皇太子一家の“恒例行事”となってきた「奥志賀スキー旅行」が月末に行なわれる。
しかし、この旅行は雅子妃の適応障害が発表された2004年以来、常に騒動の火種となってきた。
すでに今年も「冬の恒例行事」は宮内庁内部で波紋を広げている。
「東宮一家は私的な動静をほとんど公にしませんが、今年も3月23日から27日まで
4泊5日の日程で長野県の奥志賀高原スキー場を訪問する予定です」(宮内庁関係者)
2月6日、『第60回青少年読書感想文コンクール』の表彰式とパーティに皇太子が出席したが、
隣に雅子妃の姿はなかった。その日、小町恭士・東宮大夫は定例会見で、
「雅子さまにご出席の気持ちはあったが、週2回の公務は厳しいと医師が判断した」と欠席の理由を説明している。
雅子妃は週2回の公務をこなせない状態でスキー旅行に出掛けることとなる。
病気が病気だけに仕方ないとしても、これが毎年、物議をかもしてしまう。
タイミングも悪かった。同時期には天皇・皇后が3泊4日の日程で栃木県御料牧場を視察する予定が組まれている。
皇太子は2月23日の誕生日会見で天皇の公務軽減を弟の秋篠宮とともに果たしていくことを改めて語り、
雅子妃の病状については、
「体調を整えながら、引き続き、焦らず慎重に、少しずつ活動の幅を広げていってほしい」と述べた。
その直後のスキー旅行に、前出の宮内庁関係者は深いため息をつく。
「雅子妃がお元気で活動的になられるのは喜ばしいが、
過去にも奥志賀へのスキー旅行は騒動の原因になってきた。また批判の的になるかと思うと心苦しい」
昨年のスキー旅行は、式年遷宮を終えたばかりの伊勢神宮を天皇・皇后が初めて参拝するタイミングと重なった。
そのため、「この時期の私的旅行は控えるべきではないか」との声が上がった。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏が語る。
「今上天皇の皇太子時代は、警備の負担などを考慮して、
昭和天皇・香淳皇后両陛下と皇太子さまご一家が同じ時期に外出することを控えていました。
昨年にしても今年にしても、両陛下のお出ましの日程を考慮せずに日程を決めてしまう皇太子ご一家に
疑問を感じる関係者は少なくないと思います。
プライベートな旅行は結構ですが、両陛下はご静養先でも近隣住民とふれあいの機会をもたれます。
そこに皇太子ご一家と両陛下の姿勢の違いを感じます」
初めて一家で奥志賀を訪れたのは2005年2月。3歳の愛子内親王を伴い、
一家揃っての初めてのスキー静養となった。
当時公開された映像には、幼い愛子内親王と満面の笑みでスキーを楽しむ雅子妃が映っている。
適応障害の発表から半年後だっただけに、その姿に多くの国民が安堵した。
ところがその直後、雅子妃は予定されていたスペシャルオリンピックスの視察を欠席。
「スキーは笑顔で滑れるのに公務はできないのか」と批判が起きた。それ以来、スキーは注目の的なのだ。
※週刊ポスト2015年3月27日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150316_309728.html


皇太子一家のスキー旅行 「遊び」と「公務」の落差に批判も
2015.04.06 16:00
東宮一家は3月23日から4泊5日の日程で長野県の奥志賀スキー場でスキー旅行を楽しんだ。
10年前からほぼ毎年の恒例となっている旅行である。笑顔のうちに終了した旅行だが、
その一方で宮内庁関係者の表情は晴れない。
「雅子さまや愛子さまがリフレッシュされてお元気になられるのは喜ばしいことだが、
今年は特に間が悪かった。批判の声が大きくなることは致し方ないかもしれない」
宮内庁関係者が懸念しているのは、雅子妃の皇室行事への復帰が必ずしも順調ではないことだ。
東宮一家が長野から帰京した翌日、3月28日の出来事だった。
この日の昼、来日中のデンマークのフレデリック皇太子夫妻が皇居・御所で開かれた昼餐会に招かれた。
天皇は風邪による体調不良が伝えられる中、皇后とともに御所の車寄せに姿を見せて笑顔で
フレデリック皇太子夫妻を出迎えた。
しかしその晩、皇太子主催の晩餐会に出席するため
東宮御所を訪れたフレデリック皇太子夫妻を出迎える皇太子の隣に、雅子妃の姿はなかった。
全国紙皇室担当記者が内情を明かす。
「フレデリック皇太子夫妻の到着時、雅子さまは御所の部屋の中におられたそうで外に出ていらっしゃいませんでした。
理由は明らかにされなかったので、ご夫妻の姿を収めようとした記者の間では“何があったのか”と騒然となりました。
その一方でご自身がメニューを考案されたという晩餐会には出席されているというので、
“単にお姿を報道陣に撮影されたくなかったのでは”という声も上がっていました」
この件については、東宮職関係者も懸念している。
「ゲレンデには立ってもカメラの前には姿を現わさないということでは、
『遊び』と『公務』の落差に批判の声が高まりかねない」
さかのぼること2か月前の2月6日、「第60回青少年読書感想文全国コンクール」の表彰式に
皇太子が出席した際も雅子妃の姿はなかった。
当日、小町恭士・東宮大夫は欠席の理由について
「雅子さまにご出席の気持ちはあったが、週2回の公務は厳しいと医師が判断した」と説明している。
週2回の公務がこなせない状態で4泊5日のスキー旅行を満喫し、
リフレッシュしたはずなのに海外からの来賓を出迎えることすら十分にできないとなれば、
東宮職関係者が心配するのも仕方ないところかもしれない。
東宮一家のスキー旅行は例年のように物議を醸してきた。奥志賀スキー静養が始まったのは2005年。
2004年に雅子妃の適応障害が発表された直後だっただけに、
笑顔でスキーを楽しむ雅子妃と愛子内親王の姿に国民は胸を撫で下ろした。
ところが、スキー直後に雅子妃がスペシャルオリンピックスの視察予定をキャンセルしたため、
「笑顔でスキーはできても公務はできないのか」との批判が強まった。
以降、愛子内親王の小学校不登校問題の最中(2010年)や天皇・皇后の伊勢神宮参拝時(2013年)など、
例年タイミングの悪さが指摘され、一家に批判が向けられた。
今回もやはり因縁のスキー旅行となってしまったのである。
※週刊ポスト2015年4月17日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150406_314318.html

週刊ポスト2015年4月17日号
雅子妃「北陸新幹線貸し切りスキー旅行」と<撮影拒否>の落差
東宮一家はパウダースノーを堪能。
チェックインの前からホテルの上層部を立ち入り禁止にして警備チェックを行い、宿泊中は全館貸し切り。
東宮一家は警備関係者に守られ一般のスキー客からは完全ガード。心置きなくスキーを堪能。
皇太子は8歳からスキーを始め腕前は検定一級程度の上級者。
雅子妃も小さい頃からスキーに慣れ親しまれ、愛子内親王は小学校低学年の頃から上級者コースを滑る腕前。
東宮一家の帰路は長野駅から新幹線。これは北陸新幹線開業で導入された車両。
新幹線のファーストクラスとして話題のグランクロスの設定がない便。
ご一家はグリーン車に乗車。車両ごと貸し切りにされた。(皇室担当記者)