皇太子ご一家 映画試写会 猫逃げる

皇太子ご一家が映画鑑賞
2018.10.15 20:35
皇太子ご夫妻と長女の敬宮(としのみや)愛子さまは15日夜、東京・有楽町で、
映画「旅猫リポート」のチャリティー試写会に臨席された。
映画は作家の有川浩(ひろ)さんの小説を映画化したもので、人間と動物の強い絆を描いた作品。
主演を務めた俳優の福士蒼汰(そうた)さんらに出迎えられたご一家は、笑顔で言葉を交わされていた。
https://www.sankei.com/life/news/181015/lif1810150042-n1.html


皇太子ご一家が映画鑑賞 ネコが逃げ出すハプニング [2018/10/16/07:30]
皇太子ご一家が飼い猫との旅を描いた映画の試写会を鑑賞されました。
出演している猫がご一家の前から逃げてしまうハプニングもありました。
ご一家は15日午後7時ごろから、東京・有楽町で映画
「旅猫リポート」のチャリティー試写会を鑑賞されました。
この映画は猫と飼い主の旅を描いたもので、会場では日本動物愛護協会の募金活動も行われました。
鑑賞前に主演の福士蒼汰さんが出演した猫を抱いて出迎えましたが、
雅子さまや愛子さまが「可愛いですね」と猫をなでられると猫が福士さんの腕から逃げてしまい、
笑いが起こる場面もありました。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000138529.html

皇太子ご一家、チャリティー試写会を鑑賞
皇太子ご一家が、チャリティー試写会として上映された
青年と猫の絆を描いた映画「旅猫リポート」を鑑賞されました。
15日夜、皇太子ご一家が、東京・千代田区内の映画館を訪れると、
主演を務めた福士蒼汰さんが、映画に登場する猫とともに出迎えました。
ご一家は、笑顔を浮かべながら猫の口元を触り、
雅子さまが「ニャー」と猫の鳴き声で語りかける場面もありました。
映画「旅猫リポート」は、新しい飼い主を探す旅に出た青年と猫の絆を描いた作品で、
チャリティー試写会として上映されました。
皇太子ご一家は東宮御所で「セブン」という猫を飼っており、
主演した猫の名前が「ナナ」という名前だったこともあり、
上映後、愛子さまは福士さんに「お互い不思議な縁がありますね」などと話されていたということです。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3498983.html


福士蒼汰「とても光栄です」『旅猫リポート』試写会に皇太子ご一家がご臨席
2018/10/16 13:29Movie Walker
人気作家・有川浩の同名小説を、福士蒼汰主演で映画化した『旅猫リポート』
(10月26日公開)のチャリティ試写会が15日に東京・丸の内ピカデリーで開催。
皇太子殿下、皇太子妃殿下、内親王殿下がご臨席され、主演を務める福士らと共に映画をご鑑賞された。
本作は心優しいネコ好きの青年・悟と、彼に助けられた元野良ネコのナナの旅路を描いた感動作。
5年間一緒に暮らしてきたナナを、とある事情で手放さなくてはならなくなった悟は、
ナナを連れて新しい飼い主を探すための旅に出る。
ナナの声を高畑充希が演じるほか、広瀬アリスや竹内結子など豪華俳優陣の共演でも注目を集めている。
福士は主役ネコのナナと、メガホンをとった三木康一郎監督と共に
皇太子殿下ご一家のお出迎えをし、その際に福士が抱いているナナに興味を示された皇太子妃殿下と内親王殿下。
「可愛い」というお言葉と共にナナを優しくお撫でになる姿も見受けられた。
また皇太子殿下とご懇談した後、インタビューに答えた福士は
「このような機会はなかなかないので少し緊張しましたが、
一緒に映画を鑑賞することができてとても光栄です」と語る。
さらに福士は、上映前に内親王殿下から「ご自分がご出演されている映画を観るのはどんな気分ですか?」
と訊ねられたとのことで
「不思議な気持ちです。客観的に感情移入して観ることができた映画は本作が初めてだったので、
とても不思議な気分でした」と答えたという。
そして福士は上映終了直後に内親王殿下より「感動しました」とのお言葉を頂いたと明かす。
ご懇談の場では撮影時の苦労や楽しい思い出を語ったほか
「皇太子殿下ご一家が飼われているペットたちのお写真を見せていただきながらお話を伺いました」と振り返る福士。
ご一家が飼われているネコの名前が“セブン”と“みー”ということを聞き、
本作の“ナナ”と不思議な縁があることを感じたようだ。
文/久保田 和馬
https://news.walkerplus.com/article/165904/

福士蒼汰、皇太子ご一家と「旅猫リポート」鑑賞 猫トークで盛り上がる
2018年10月16日 14:30
[映画.com ニュース] 皇太子ご夫妻と長女の敬宮愛子さまが10月15日、
東京・丸の内ピカデリーで行われた映画「旅猫リポート」のチャリティ試写会にご出席された。
ご鑑賞には主演の福士蒼汰をはじめ、メガホンをとった三木康一郎監督も同席した。
本作は、「図書館戦争」シリーズや「植物図鑑」などで知られる有川浩氏の同名小説を原作に、
青年・悟(福士)が猫のナナとともに新しい飼い主を探す旅に出る物語。
ご鑑賞前には、福士と猫のナナ、三木監督によるお出迎えがあり、皇太子ご一家がナナを撫でる様子もあった。

福士は「このような機会はなかなかないので、少し緊張しましたが、
一緒に映画を鑑賞することができてとても光栄です」と感慨深げで、
「愛子さまはナナやほかの動物が登場するシーンでは笑顔になられているような場面がうかがえました。
皇太子妃殿下からは時折、笑い声も聞こえましたし、
映画の終盤では、涙をこらえているようなご様子もうかがえました」と伝えた。
鑑賞後には「愛子様より『感動しました』とおっしゃっていただきました。
そして、皆さんからは、ナナの猫の種類の話であったり、映画はどんな雰囲気の中で撮影したのかなど、
ナナの話を中心にたくさんのご質問をいただきました。
撮影の初めの頃は上手くいかないこともあり苦労したこと、
それでもナナとの仲を深めていくうちに撮影を楽しめた思い出などを話しました」と明かした。

また、皇太子ご一家が飼っている猫セブンの話題にもなったといい、
「お写真を見せていただきながらお話をうかがいました。
そして飼われている猫のお名前が『セブン』と『みー』というお話をうかがって、
愛子さまが本作の主演猫が『ナナ』なので、お互い不思議な縁がありますね、と話をしていただきました」と語った。
「旅猫リポート」は10月26日から全国公開。
https://eiga.com/news/20181016/11/

宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実

宮内庁という「とんでもない役所」 皇后が声を失った真実
2018.10.16 07:00
平成の時代があと半年で終わりを告げる。
皇室取材を30年続けてきた、朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、
皇室の「楽屋裏」から見た秘話を通じて、平成皇室の姿を語る。

──岩井さんが宮内庁担当となったのは1986(昭和61)年でした。

そうです。皇居の守りを固める最大の門である坂下門を閉門時刻を過ぎて出入りする際には、
皇宮護衛官が2人がかりで太いかんぬきを外し、全体重をかけて巨大な扉を開けてくれます。
「江戸城開門」を実感するこの場所は、1862(文久2)年1月、
開国を進める幕府の老中安藤信正を水戸藩士らが襲った「坂下門外の変」の舞台でした。
1945(昭和20)年8月15日。玉音盤を奪い降伏を阻止しようと
近衛歩兵を率いて乱入した青年将校が切腹したのも、このそばです。

86年の夏、初めて取材した国賓の歓迎晩餐(ばんさん)会。
宮殿の豊明殿で昭和天皇と皇族方がずらりと並ぶなか、
シャンデリアに照らされた高松宮宣仁親王殿下の頬がげっそりとこけて痩せておられるのに気づいた。

皇室の取材においては、天皇、皇后両陛下の私生活を支える侍従や侍医らへの取材は欠かせません。
すぐに、肺がんだとつかめた。しかし秋には、他社も気づきはじめ、
普段は誰も取材しなかった殿下の公務にわんさか記者が群がるようになってしまった。
ご本人は苦笑いしておられましたが、痛々しかったですね。

翌87(昭和62)年2月に逝去されると、いろいろと問題が持ち上がりました。
皇族の葬儀は53(昭和28)年の秩父宮以来34年ぶり。役人も記者も経験者がほとんどいない。
双方が手探りでしたね。土日はガラガラで当直しかいない役所ですが、
ある日曜日に幹部連中がひそかに集合していた。せわしげに打ち合わせに動きまわる幹部を捕まえて、
「何事ですか」と迫った。しぶしぶ答えてくれたのは、
「シルクハットに喪章を巻くやり方がわからない」。
元内舎人(うどねり)に知っている人がいたから、ようやく解決した、と。
とんでもない役所だと思ったのを覚えています。
つまりは儀式官庁なのですね。時代が昭和から平成に移ろうとも、
天皇制の議論や日々のご公務とは別に、しきたりや作法が重視され受け継がれる。
特に、天皇、皇族方の冠婚葬祭で歴史や伝統が顔をのぞかせる。

──平成に入ると、90(平成2)年の礼宮さまの結婚、
93(平成5)年には皇太子、徳仁親王の結婚で慶事が続きました。
一方、2000(平成12)年6月には昭和の象徴たる香淳皇后の逝去もありました。

香淳皇后が亡くなったときに、皇室に受け継がれるべき作法が十分に伝わっていない、と
問題になったことがあります。

葬儀の一連の儀式では、女性皇族はベールを被ります。
皇后は腰まである長いベール。皇太子妃はこの長さ、皇族妃はここまで、とご身位が重いほど長くなる。
6月の逝去から、通夜にあたる殯宮祗候(ひんきゅうしこう)をはじめ多くの儀式が続きました。
当初、雅子さまがとても短いベールを被って来られ、違和感を覚えたことがありました。
他の女性皇族のほうが長いベールでした。(※)

赤坂御用地にある東宮御所は、ある意味で離れ小島。
皇后さまが作法に通じたベテランの女官を配属する配慮をされたのですが、
新しい女官たちに煙たがられたのか、うまく継承されていなかったらしい。
皇后は、天皇陛下の母であり昭和の時代を象徴する香淳皇后の葬儀を、
完璧に営みたいと、不眠不休で頑張っておられた。
そうしたなかで、問題が起き、雅子さまが本葬に欠席するという事態にまでなってしまった。
ベールひとつとっても、特殊なもので、たまたま高松宮妃が生地をたくさん持っておられ、
何とか間に合ったという状況でした。厳格な作法が求められる一例です。

──来年4月の天皇退位まであと半年。思い起こされるのが、
昭和から平成への代替わり間もないころに起きた皇室バッシングです。
皇后さまは1993年10月20日の誕生日の朝に倒れ、声を失う事態となりました。

「私の天皇像とは、天皇制を遂行できる天皇である。もしそれができない天皇ならば退位してもらいたい」
いまの天皇の退位をめぐる議論ではありません。

93年の「諸君!」12月号に掲載された加地伸行・大阪大学名誉教授の論文です。
平成が本格的に船出し、東南アジアや中国を訪問した時期に、守旧派は平成の皇室に対する批判を強めました。
そして、バッシングは皇后に集中していったのです。

「皇后の役目は、ダンスでもなければ災害地見舞でもない」(加地氏)
天皇、皇后は傷つき、
「だれもわかってくれないのでは」
と孤立感を抱いたようです。
ただ、皇后が倒れ声を失ったのは、バッシング報道で自らを見失い、
くずおれたという単純なものではないと、私は思っています。
「最終的な引き金は、ある親しい人の周辺からの手紙だった」と聞いたからです。
皇太子妃決定過程に関連した人の手紙の一部に傷つくような表現があったとか。
「雑誌などの平成流皇室に対する批判に苦悩する最中、
心にかけていた相手側のメッセージだっただけに、強い衝撃と絶望感で倒れた」のだそうです。
差出人を見て、十分に中身を確かめずに手紙を届けた古参侍従は、自らを責め、後悔の涙を流した、とも聞きました。
皇后が倒れた朝に公表された誕生日の文書回答で、皇后はこう記していた。
「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)
批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、
繰り返し許される社会であって欲しくはありません」

言論の自由が萎縮してはならない、と述べたのです。
「皇室の務めは災害見舞いではない」「皇居の奥で祈るだけでよい」との守旧派の批判に、
天皇、皇后は耳を傾けつつも決して屈しなかった。
その後も戦争の犠牲、災害の犠牲に現地を訪れて祈りを捧げ、
国内外の人々とふれあい、絆を結ぶことに全身全霊で努め続けた。
生前退位も、こうした象徴のありようを十全な形で次世代に継いでもらいたいとの思いからでしょう。
(構成/本誌・永井貴子)
※週刊朝日  2018年10月19日号より抜粋

https://dot.asahi.com/wa/2018101200024.html?page=1



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

ベール事件おさらい

週刊新潮2013年5月2・9日号
「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。
7月25日には豊島岡墓地で、一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、
案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)
これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代でお棺の側に詰める
「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。
その際、妃殿下は現場で行事におけるきまりごとについて、
皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、しきたりに関するものであったという。
が、「妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです。
大勢の皇族方や職員の前で自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、
雅子妃は欠席された。
実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、念のため儀式に携わった人たちに
当日の様子を確かめたところ、そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。 

皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言

皇太子さまと雅子さまのご結婚に侍従長が放った沈痛な一言
2018.10.16 07:00
「平成」の終わりまであと半年。『宮中取材余話 皇室の風』(講談社)の著者で、
朝日新聞元編集委員の岩井克己氏が、30年の皇室取材で見た秘話を明かす。
──温厚なイメージの天皇ですが、違う顔もある。

昭和天皇もそうだったのですが、現天皇は端然としたたたずまいと温顔ばかり知られていますが、
実は内に頑固で激しい性格を秘めている面もある。
もちろん表に出すことは絶対にないが、長年取材していると、
側近らの蒼白(そうはく)な表情から垣間見えたのです。

1986年春、美智子さまの子宮筋腫に東宮侍医たちが気づくのが遅れたとき、
病状取材で退庁時に追いかけた東宮侍医は、電車を乗り継ぎ自宅に帰るまで、
終始沈痛な顔で物思いにふけり、とうとう話しかけることもできなかったのを思い出します。
97(平成9)年、ブラジル・アルゼンチン訪問で、過密日程で皇后が体調を崩し、
帰国後にヘルペスにかかったときです。
事前の記者説明の際に私が過密さを指摘すると「そうは思わない」と発言した幹部がいて、
相棒の記者がその発言を書いた。
天皇陛下はその発言を問題にし、当時の鎌倉節・宮内庁長官があいまいな答えをすると、
「真実はひとつです」
と、報道の訂正を求められて進退きわまったこともありました。
いずれも皇后が深刻な体調不良におちいったときでした。
長官がお召しで御所に行き、蒼白な顔で戻ってきたことも何度かありました。
皇室典範論争の際に長官が以前の発言と違うことを言うと厳しく問い詰められたと聞きました。

昭和天皇が張作霖爆殺事件で田中義一首相の食言を叱責(しっせき)したエピソードは有名ですが、
これを連想したものです。

南北朝時代、北朝初代光厳天皇が詠んだ歌がある。

 ことの葉のかずかず神の見そなはばのちの世までのしるべともなれ

「綸言汗のごとし」と言われるように、天皇はうそやごまかしは絶対にできない立場で、
歴代がおのずから帯びる冷厳さなのでしょう。
これを私は「天皇のリゴリズム(修道者的な厳格主義)」と名づけています。

──侍従長や宮内庁長官をはじめ、多くの人々が皇室に仕え、支えています。

天皇が幼少のころから東宮傅育官として仕えた東園基文氏。代替わりを取り仕切った藤森昭一・宮内庁長官。
後任の鎌倉節・宮内庁長官。そして、93年に声を失った皇后を支え、
その後も皇室医務主管として天皇の心臓のバイパス手術などを支えた金澤一郎氏。
それぞれ生半可でない覚悟で、皇室を支えていました。

昭和と平成の「二君に仕えた」山本悟侍従長も、印象深い人でした。

一本気で、ときには激烈な言葉を吐く。憲法論議をすると、
「オレなんか現行憲法の下で一刻も呼吸したくないんだよ」と挑発され語り合ったこともあった。

天皇の代替わりの難しい時期に、半世紀あまり仕えた徳川義寛侍従長から、後を引き継いだ。
本人は固辞していたが、宮家筋には「いいじゃないか」と推す声もあった。
昭和天皇の戦前からの“権威”に親しんだ旧世代には、新天皇、皇后の民主的な持ち味や公務ぶりに危惧を覚え、
歯にきぬ着せぬ剛直な性格の山本侍従長にお目付け役を期待する向きもあったかもしれません。

でも、本人には、つらい役まわりでした。

代替わり後、旧東宮職スタッフが新侍従として皇居に乗り込みました。
新天皇、皇后は昭和の旧慣を改め、一般国民とひざ詰めで語らい、積極的に外国を訪問しました。
山本侍従長が腕を振るう機会は、限られていたようでした。

93年6月、皇太子さまと小和田雅子さんが結婚しました。
それから半年も経たないころ、ひどく面食らう出来事がありました。

「皇太子妃もだいぶ皇室に慣れてこられたのではないですか」と話しかけたときのことです。
しばしの沈黙のあと、山本侍従長はこう答えたのです。
「この結婚は、失敗だった」
まだ新婚の時期だっただけに仰天しました。
山本侍従長は、何も説明しませんでした。

そのあと雅子妃の「適応障害」や「千代田と赤坂の溝」が取りざたされました。
あの絞り出すような、悲痛な声は今も耳に残ります。
山本侍従長は96(平成8)年、故・秩父宮妃の一周年祭のあと倒れ、脳梗塞(こうそく)で身体の自由を失いました。

2000年7月、豊島岡墓地で営まれた香淳皇后の葬儀には、車椅子で参列。
葬場殿で、起立して柩に拝礼しようと何度も何度も懸命にもがくも、果たせず倒れ込み、
悲痛な表情で天を仰いだ姿は忘れられません。
カミナリおやじみたいに懐かしい人でありました。

──16(平成28)年。天皇陛下は退位の意向を示し、
岩井さんは、天皇陛下の生前退位を検討する政府の有識者会議の専門家ヒアリングのメンバーとして、
意見を述べました。

幼少のころから、歴代天皇の足跡について考え続けてきた天皇の考えに、
政治家も国民も追いつけなかった、という思いはあります。

守旧派の人たちは退位に反対し、天皇は高齢になっても「存在するだけでよい」と言わんばかりでした。
先述の加地氏は、今度は「退位するとは何事か」と書きました。
天皇が高齢となれば、平成の皇室が幅広く紡いできた「人々との絆」が細り途切れてしまう。
「そうなってはいけない」というのが天皇、皇后の思いでしょう。
そしてその思いに国民の9割が共感したのだと思います。
現天皇、皇后が大きく翼を広げて展開してきた、気が遠くなるほどの国民との絆。
これを次の世代がどう受け継ぐか。新天皇、皇后が直面するわけです。

08(平成20)年12月。当時の羽毛田信吾宮内庁長官は、
「将来にわたる皇統の問題をはじめとし、皇室に関わるもろもろの問題をご憂慮のご様子」と、
天皇の心労を明らかにしました。
そのなかで、公務や祭祀(さいし)については天皇、皇后は担当者と考え続けているが、
公務見直しを求める皇太子からはいまだに具体的な提案がない、とも述べました。
あれから10年。皇太子ご夫妻はあと半年で天皇、皇后となります。
しかし、雅子さまの「適応障害」はまだ完治せず、ご夫妻が新しい皇室をどうつくるのか、よく見えないままです。
そして、皇室が抱える課題も難しい。男系男子という皇統観念にどう向き合うか。
皇位継承の先細りをどのように乗り越えるか。皇室側も国民も来年の代替わりで、
いわば漂流の時代に入る覚悟をしなければいけないかもしれない。長年見てきた記者の予感です。

平成は来年4月30日をもって終わり、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が施行されます。
秋篠宮は「皇嗣」となり、対外的には「クラウン・プリンス」の称号となります。
皇太子にのみ許される、「黄丹(おうに)」の袍を着用し、「立皇嗣の礼」で、
皇太子の証しである壺切御剣(つぼきりのぎょけん)も授与されます。
新嘗祭(にいなめさい)など宮中祭祀でも、皇太子と同様に古装束姿で賢所の殿上で皇祖神に向かう。

秋篠宮とその長男の悠仁親王が継承者として法的に確定するわけです。
そのうえで、「過去」の象徴である上皇と上皇后。「現在」の象徴である新天皇、皇后。
そして「未来を担う」皇嗣家。
その三重奏あるいは三本の矢で、危機を乗り越えていくことになるのだと思います。

(構成/本誌・永井貴子)

※週刊朝日 2018年10月19日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2018101200025.html?page=1

「陛下は靖国を潰そうとしてる」靖国神社トップが「皇室批判」

「陛下は靖国を潰そうとしてる」靖国神社トップが「皇室批判」
2018.09.30 16:00
天皇が「深い悲しみを新たにいたします」と述べた平成最後の終戦記念日、
靖国神社(東京・九段北)には安倍晋三首相はじめ現役閣僚の姿はなく、
中国や韓国も一頃ほど神経をとがらせなくなった。
しかし、その落ち着きの裏で、靖国神社は“爆弾”を抱えていた。
来年、天皇の「代替わり」と創立150年が重なる大きな節目を目前に、
前代未聞の問題発言が神社トップである宮司から飛び出したのだ。

◆「そう思わん?」「わかるか?」
靖国神社では今、来年の創立150年に向け、境内のいたるところで改修工事が行なわれている。
だが、その内部では、修復不可能なほどの“綻び”が生じていた。
6月20日、靖国神社の社務所会議室で行なわれた「第1回教学研究委員会定例会議」で、その重大事は起きた。
今年3月に第十二代靖国神社宮司に就任した小堀邦夫氏(68)が、
創立150年に向けて新たに組織したのが「教学研究委員会」だった。
これからの靖国神社がどうあるべきかを考えるとして、第1回の会議には、小堀宮司以下、
ナンバー2である権宮司など職員10人が出席したことが当日の議事録に残されている。
その会議の場で、靖国神社のトップである小堀宮司から、驚くべき発言が飛び出した。
「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? 
どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? 
そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。
はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」
さらに発言は、代替わりで次の天皇となる皇太子夫妻にも向けられた。
「あと半年すればわかるよ。もし、御在位中に一度も親拝(天皇が参拝すること)なさらなかったら、
今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」
静まり返る会議室で小堀宮司の高圧的な口調の“独演”と、速記のキーボードを打つ音だけが響く──。
この会議は、小堀宮司の意向もあって複数の出席者が記録のために録音していた。
宮司の「総括」から始まる110分に及ぶ音声データを本誌は入手した。

小堀宮司が語気を強めたのは、今上天皇が即位以来、一度も靖国を参拝したことがない一方、
かつての戦地を訪れ、戦没者の霊を慰める旅を続けてきたことを指しているとみられる。
皇室ジャーナリストの久能靖氏はこう言う。
「今上天皇が靖国を参拝されない理由はわかりません。が、あえて推察すれば、
昭和天皇が1978年のA級戦犯合祀以来、靖国においでにならなくなった、
その思いを咀嚼されたのではないかと考えられます。今上陛下は戦争体験をお持ちで、
戦中の国民の苦しみは直接ご存じでした。
だからこそ、国内外にわたるすべての戦地で慰霊を行ないたいというお気持ちになられていたと思います。
天皇陛下の慰霊の旅は、強い信念に基づいて行なわれているものでしょう」
その慰霊の旅が、小堀宮司の目には靖国神社を否定する行為に映っていると、靖国神社関係者が言う。
「小堀宮司からすれば、英霊の御霊は靖国にこそあり、戦地にはない。
にもかかわらず、今上天皇は靖国よりも慰霊の旅を選んでいるとなると、
靖国の存在意義を否定することになってしまうという思いがあったのではないか」

しかし、この発言は靖国神社内でも問題視された。
「勅祭社(天皇が例祭などに勅使を派遣し、奉幣を行なう神社)としての靖国神社の性格を考えると、
天皇陛下を批判するような発言は、宮司として問題ではないかという声が上がっています」(同前)

◆「お前の説教、聞きたくないよ」
靖国神社は来年までに天皇の参拝を実現させようとしていた。靖国神社職員はこう語る。
「平成の御代のうちに天皇陛下にご参拝をいただくことは、私たち靖国神社からすると悲願なのです。
小堀宮司は、“平成の御代に一度も御親拝がなかったらこの神社はどうするんだ”と口にしていました。
そうして宮内庁に対し、宮司自らが伺って御親拝の御請願を行なうための交渉を内々にしているのですが、
まだ実現の目処は立っていない」

小堀宮司は専門紙「神社新報」で、〈(創立)五十年目に大正天皇が行幸され、
百年目には昭和天皇が皇后とお揃ひで行幸されてゐます。
そして来年、百五十年といふ大きな節目の年がやってくることの重大さは、
御代替りと相俟って深刻に考へてゐます〉(7月30日付)と語っていた。
天皇の参拝を求める焦りが発言の背景にあったのだろうか。
問題発言に至るやり取りを見ると、小堀宮司の真意が分かる。
この日の会議は、靖国の創立百五十年史略年表の作成・出版などについて話した後に
「戦犯に対する誤解や東京裁判の不当さについて調査考証する」という議題に入った。
そこで出席者の職員が「富田メモ」について言及したことが、小堀発言に繋がった。

富田メモとは、富田朝彦元宮内庁長官(在任は1978〜1988年)が昭和天皇の非公開発言を記したメモで、
靖国にA級戦犯が合祀されたことに関し、
「だから、私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」との記述があった。
2006年に日経新聞がメモの存在をスクープすると、「昭和天皇の真意が分かる超一級史料」と評価される一方、
「陛下の真意とは限らない」と否定的意見も上がり、真贋をめぐる大論争となった。
それに伴い、A級戦犯の靖国神社への合祀の是非や、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝議論も過熱した。
靖国神社はこの富田メモについて、現在に至るまで一切コメントしていない。
だが、実際は“深い棘”として刺さっていたようだ。
この富田メモについて、職員が、「もしそれが本当の昭和天皇の発言だったらどうするんだ、
ということで私は真剣に考えましてですね」と言い出し、合祀の経緯を振り返った上で、こう熱弁を振るった。
「このまま時代を50年、100年経過していったときにどういうふうな説明をして、
国民が理解していけるのか、というところの先読みしたような考え方を持っていく必要があるんじゃないか」

ところがこの職員の発言を、小堀宮司はいきなり遮り、切って捨てた。
「お前の説教、聞きたくないよ。しょうもない。お前のどこに戦略があんねん。
『これ知ってます、私はこれ知ってます』っていう話ばっかりやないか。
どうやって戦うかを考えるんがこの仕事やないか。何も恐れる必要はない。間違ってたら間違ってたと言えばいい。
(中略)戦略を考えるのは俺が考える。君らが考えんでいい。
一番大きな問題はあの慰霊の旅です。気がつかないのか君たちは」
そうして、冒頭の発言が飛び出した。
つまり、小堀発言は富田メモから連なる、天皇と靖国の“複雑な関係”が伏線にあったのだ。
「富田メモについては靖国神社の中でも“タブー扱い”されてきた。
昭和天皇、今上天皇の御親拝が途絶えている真意についても触れないできたわけです。
小堀宮司は、そうした空気の中で、トップとしての風格を見せる狙いもあって
ああした物言いをしたのではないか。『戦う』『戦略』といった言葉からは、
どんな事情が背景にあるにせよ、とにかく天皇の御親拝を実現させたいという強い意思を感じます。
しかし、それが実現しないことの不満となれば、天皇陛下への批判となってしまう。
靖国神社が抱えるジレンマが、ついに噴出してしまったということでしょう」(前出・靖国神社関係者)

◆「皇太子さまは輪をかけてくる」
発言の主である小堀宮司とは、どんな人物なのか。
小堀宮司は、3つの大学、大学院を出たあと伊勢神宮に奉職。
以来、伊勢神宮一筋で、宮司を補佐する禰宜(ねぎ)という要職に登り詰めた。
靖国の前宮司・徳川康久氏が、戊辰戦争の“賊軍”である幕府軍や会津軍の戦死者も
合祀に前向きな姿勢を示したことなどが問題視され、
「一身上の都合」で辞任したのを受けて、靖国の宮司に就任した。
伊勢神宮時代には、メディアにも何度か登場している。
2016年に天皇が生前退位の「お気持ち」を表明された際には、中日新聞(2016年8月9日付)の取材に、
〈苦心されてお言葉を選ばれたのだろう。天皇陛下が『伝統の継承者』であり続けるため、
現行制度の問題を問い掛けているのでは〉と賛同する姿勢で答えていた。

ところが、教学研究委員会では、まったく別の意見を述べている。
「あのビデオメッセージで譲位を決めたとき、反対する人おったよね(中略)正論なんよ。
だけど正論を潰せるだけの準備を陛下はずっとなさってる。それに誰も気がつかなかった。
公務というのはそれなんです。実績を陛下は積み上げた。誰も文句を言えない。
そしてこの次は、皇太子さまはそれに輪をかけてきますよ。
どういうふうになるのか僕も予測できない。少なくとも温かくなることはない。靖国さんに対して」
生前退位に反対だったという本音をにじませ、
皇太子に代替わりしても靖国との距離は広がるばかりだと危惧しているように聞こえる。

◆「僕、出てませんよ」
一連の小堀宮司の発言について、宗教学者の島田裕巳氏はこう読み解く。
「伊勢神宮は神社の世界では別格扱いで、そこにいたという自負が小堀宮司にあるはず。
その感覚には少し浮き世離れした部分があり、発言がどのような問題を引き起こすかを認識しないまま
思った通りに本音を話してしまったのではないか。

ただし、現在の天皇が靖国神社を参拝されないのは、好き嫌いの問題ではなく、政教分離の問題が大きいはず。
なにより宮内庁が止めるはずです。昭和天皇の参拝が途絶えた経緯においても、
A級戦犯の合祀より、当時の中曽根康弘首相が国際社会の反発を予想せずに公式参拝したことの影響が大きい。
それは安倍首相が強行した参拝も同様で、首相参拝へのハレーションが、
ますます靖国神社と天皇の距離を遠くしているという状況がある。
果たして小堀宮司はそうした複雑さを理解した上で発言しているのでしょうか」

本誌は一連の発言の真意を確認するため、9月26日早朝、小堀宮司の自宅前で本人を直撃した。

──6月20日の教学研究委員会で話されたことについてお聞きしたい。
「何も知らないですよ」

──いや、小堀さんが話されたことですよ。
「教学研究委員会、僕、出てませんよ」

──教学研究委員会ですよ。
「ええ、出てませんよ」
そう質問を遮って、迎えの車に乗り込んだ。

靖国神社に会議での発言について見解を求めた。
「教学研究委員会は、社外公開を前提としたものではございませんので、
各委員の発言を含め会議内容などの回答は控えさせていただきます。
また当委員会では、世代交代が進む御遺族・崇敬者のみならず、
多くの人々に当神社をご理解いただくべく、神社運営や教学について研究・協議を始めたばかりです。
その過程において、協議内容の一部分を抽出し、神社の見解とすることはございません」(広報課)

前述の富田メモは、靖国問題についての昭和天皇の「本音」が記されていたとして議論を巻き起こした。
それに対する靖国トップの「本音」と言うべき小堀発言は、どのような波紋を呼ぶのだろうか。

*音声データは「News MagVi」(https://twitter.com/News_MagVi)にて公開中。
※週刊ポスト10月12・19日号
https://www.news-postseven.com/archives/20180930_771685.html


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

靖国神社宮司が退任へ
会議で「不穏当」発言
2018/10/10 18:40
一般社団法人共同通信社
靖国神社は10日、小堀邦夫宮司(68)が退任する意向を示していることを明らかにした。
神社は「小堀宮司による会議での極めて不穏当な言葉遣いの録音内容が
(一部週刊誌に)漏えいした」と説明している。
靖国神社によると、小堀宮司は直接宮内庁を訪れ陳謝し、退任の意向を伝えたとされる。
後任は26日の総代会で正式決定される見込み。
小堀宮司を巡っては、一部週刊誌が6月の会議で「(天皇)陛下は靖国神社をつぶそうとしている」
などと発言したと報じられていた。
小堀宮司は京都府立大を卒業後、皇学館大大学院などを経て伊勢神宮の神職に就き、
今年3月1日付で宮司に就任していた。
https://this.kiji.is/422690413978469473


宮内庁長官「靖国宮司から謝罪」 週刊誌報道で
2018/10/11 18:22
宮内庁の山本信一郎長官は11日の定例記者会見で、
10日に退任の意向を表明した靖国神社の小堀邦夫宮司(68)から、
一部週刊誌で報じられた発言についての謝罪を受けたことを明らかにした。
小堀宮司は5日に宮内庁を訪問。宮中祭祀(さいし)をつかさどる掌典長に
退任の意向と謝罪の意を伝えたという。謝罪の内容について、山本長官は「コメントは差し控える」としている。
週刊誌報道によると、同宮司は神社内での会議で天皇陛下の慰霊の旅を批判し、
「陛下は靖国神社をつぶそうとしている」と発言したという。同神社広報はこの発言を事実と認めている。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36375570R11C18A0CR8000/





2018.10.14 09:00
【花田紀凱の週刊誌ウオッチング】〈690〉
「週刊ポスト」が久々の大スクープ 靖国神社宮司が会議で“アウトな”発言 音声データを入手
『週刊ポスト』(10・12/19合併特大号)久々の大スクープだ。
「『陛下は靖国を潰そうとしている』靖国神社トップ小堀邦夫宮司『皇室批判』の波紋」
今年3月、第12代靖国神社宮司に就任したばかりの小堀氏、この記事がキッカケとなって、
10日、宮司を退任する意向を発表した。
問題の発言は6月20日、社務所会議室で開かれた「第1回教学研究委員会」でのもの。
どんな発言か。

 〈「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? 
  どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊(みたま)はないだろう? 遺骨はあっても。違う?(中略)
  はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」〉

 〈「もし、御在位中に一度も親拝(しんぱい)(天皇が参拝すること)なさらなかったら、 
  今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」〉

いくらクローズドの会議とはいえ、これは完全にアウトだろう。
『ポスト』 編集部は110分に及ぶ音声データを入手したという。
ちなみに宮司退任の意向、11日の新聞は各紙ベタ扱い。しかも、『ポスト』の誌名を出したのは産経のみ。
朝日〈週刊誌で報じられ〉、毎日〈一部週刊誌〉、読売〈一部週刊誌〉。
だから新聞は信頼を失うのだ(除く産経)。
この件に関しては先週のニコニコ動画「週刊誌欠席裁判」で詳しく話しているので関心ある方はどうぞ。
Youtubeでも見られます。
(以下略)
(花田紀凱=月刊『Hanada』編集長)
http://www.sankei.com/life/news/181014/lif1810140002-n1.html

25年前「結婚の儀」リハーサルで微笑んだ小和田雅子さん

25年前「結婚の儀」リハーサルで微笑んだ小和田雅子さん
皇居・賢所で行われている皇室の祭祀とは
三木 善明
2018.09.24
皇居の西にある半蔵門は、天皇皇后両陛下と皇太子ご一家が主にお使いになる「格」の高い門だ。
宮内庁職員であっても、通行を許可された者だけが、半蔵門の小扉(しょうひ)を通り、
皇居内へ入ることができる。皇室の祭祀を司る部署である「掌典(しょうてん)職」の一員として、
28年間仕えた三木(そうぎ)善明氏もその一人だった。
今も変わらずに続く宮中の祈りと、昭和の大喪と平成の即位の大礼、皇太子同妃両殿下の結婚儀式などを知る三木氏が、
平成の終わりを目前に控え、これまでの経験と出会った人々との思い出をあらためて語った。

皇居内にあった2つの「机」
神社の家に生まれた私は、ご縁があって京都御所に出仕していたところ、東京の皇居内で働くことになりました。
掌典職の職員、その中でも唯一公務員の立場である掌典補(しょうてんほ)として、お堀の中へ出勤していたのです。
宮内庁の組織図の中では「式部(しきぶ)職」に属していました。

私には、2つの「机」がありました。1つは坂下門を入ってすぐの宮内庁庁舎。
2階の部屋にある「掌典職」の机です。宮内記者クラブと近い部屋で、
当時はまだ記者クラブにも麻雀に興じる人たちがいて、とてもにぎやかでした。
もう1つは半蔵門から入った皇居の森の奥に位置する「賢所(けんしょ)」の中。
毎朝、千鳥ヶ淵の三番町宿舎から20分ほど歩いて出勤する時は、半蔵門を通り賢所へ直接向かうことが多かったですね。
賢所はとても広いところで、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)から職員がひかえる部屋まで
全てが一つ屋根の下にあります。掌典補の詰所(つめしょ)にも、私の机がありました。
公務員でありながら、神様にご奉仕するという立場だったからこそ、知ることのできた内実が多くあったように思います。

祭祀を司る部署である掌典職は、宮内庁の組織ではなく、内廷(天皇の私的機関)に属しています。
掌典長以下、掌典次長、掌典までが管理職。
そして、祭祀の実務を担当する女性の内掌典(ないしょうてん)と掌典補からなります。
先述した通り、例外は私たち掌典補で、公務員として採用され、宮内庁の式部職に属していました。
歌会始に関する事務、儀式に関する事柄などもあわせて担当していたのです。

皇太子同妃両殿下のご婚儀のリハーサルで
私が掌典補としてお仕えしたのは、昭和48年(1973年)から平成13年(2001年)までの28年間のこと。
最も忘れがたい経験と言えば、昭和天皇の御大喪と今上陛下の御大礼です
(「知られざる『掌典職』の世界 儀礼担当者が語る『平成の大礼』の舞台裏」)。
また、平成5年(1993年)の皇太子同妃両殿下のご婚儀に際して、数日前に行われた習礼(しゅらい)、
すなわちリハーサルの時に、皇太子妃殿下の先導をさせていただきました。
お車で賢所へお着きになった皇太子妃殿下は大変緊張されたご様子だったのですが、
私から「おめでとうございます」と申し上げたところ、「ありがとうございます」とおっしゃいました。
まだその時は、小和田雅子さんという民間の方ですから、「ありがとう」とはおっしゃらなかった。
その時にニコッと微笑まれた笑顔を拝見して、実にチャーミングな方だということが伝わってきました。
習礼が終わりお車へ戻られる頃には、ほっと安堵したご表情をなさっていましたね。

賢所の一日 朝5時から夜9時まで
平時の場合、掌典補は6日に1回が当直の日に当たり、朝は5時45分に起きます。御殿を開けてお掃除をして、
それから神様のお食事(神饌)を用意してお供えすると、
8時30分には、御上(天皇陛下)の代わりに当直の侍従さんが毎朝御代拝に参られます。
その後、神様のお食事をお下げして片付けをして、事務仕事に戻ります。
そして夕方に御殿の扉を閉めて、21時30分頃には夜の御用を終えるという日々でした。
毎日の御用のほかに、年間60回ほどの御祭(宮中祭祀)などがあります。
賢所は厳かで尊い場所ですが、お客様の来訪などもあり、
一般の人が想像されるよりはにぎやかなところだと思います。

私にとって幸せであったのは、内掌典さんのすぐ横でご奉仕をさせていただいて、
尊敬できる方がたくさんおられたことです。私がお仕えしていた当時は、
未婚の女性が4〜5人おつとめされていました。短大や大学を卒業してまだ間もないような20代前半の方であっても、
自分には決してできないことをやっておられる。そういった意味で、みなさんを尊敬できました。
内掌典は心身共に清浄であるため、神事を第一として実に大変なことをされているんだな、と。

「神さまのことは研究してはいけない」
今年5月に、内掌典であった高谷朝子さんが93歳で亡くなられました。
高谷さんは昭和18年(1943年)に内掌典に上がられてから、57年にわたり奉仕された方です。
ご著書『宮中賢所物語 五十七年間皇居に暮らして』(ビジネス社刊、のちに加筆・修正のうえ
『皇室の祭祀と生きて 内掌典57年の日々』として河出文庫から刊行)からは、
内掌典がご奉仕する御祭と御用などについて、その一端を知ることができます。
高谷さんは私に対しても、実にさまざまなことをお教えくださいました。

「神様は研究してはいけない」。このことは、高谷朝子さんが「当時、上の方には
『神さまのことは研究してはいけない。ただ素直に御用をさせていただくように。
研究をすると神さまに御縁がなくなるのですよ』と教えていただきました」と
インタビューでもお話しになっていました(「祖国と青年」平成18年2月号)。
神様は神様であって、例えばここにどういう神様がいらっしゃるか、
神様とはなんぞや、ということは考える必要がない。
自分の身も心も清めてご奉仕するもの、というのが内掌典なのです。

夜の御用を終えた後、候所で宴会を行ったことも
 内掌典と、その他の職員がお話をする機会は、思いのほかたくさんありました。
毎日21時頃に内掌典は「おひけ」と言って、夜の御用を終えて候所に戻ります。
当直の掌典補は皇宮警察の人と最終的な点検をするので、私が当直の日は内掌典候所の前を通った時に、
「おやすみなさい」とお声をかけますと、少しお話をすることもありましたね。
高谷朝子さんがお頭さん(上席、一番長くおつとめをする内掌典)になられた後は、
候所で宴会をやったこともありました。若い人の中には、ワインが好きな人もいて、
日本酒はもちろん、ビールなどのお酒も多少は召し上がっていたようです。
男性の職員も一緒になってお話しできる機会でもあり、日々の楽しみの一つになっていたのではないかと思います。
候所にはテレビもありました。

たまの息抜きはありますが、内掌典はさまざまなしきたりを守って、基本的には365日、賢所で生活を送っています。
プライベートな時間は、内掌典候所で過ごし、時間がある時には、身の回りのこと、
例えば手紙を書いたり、読書をしたり、若い人であれば3日に一度髪を結い直したりしているようです。

内掌典の食事は、雑仕(ざっし)が作ります。内掌典の手足は、神様のためだけに使われないといけない。
自分のために使ってはいけないので、炊事・洗濯は雑仕の仕事です。
食事の内容は魚と野菜が中心で、鶏肉以外の肉類や、バター、牛乳、肉のエキスが入った加工品などは食べません。
豆乳やマーガリンなどはOKです。

最初の試練は「髪上げ」
賢所での生活は常に着物で、洋服は外出する時も着ません。候所をはじめとして全てが畳の間です。
眠る時は、髪が崩れないように箱枕を使うそうです。
時々、時代劇では箱枕に仰向けになって寝ている場合がありますが、それは間違い。
顔を横に向けて寝るものなんですね。

賢所での生活を始めたばかりの内掌典の姿を見ていて、最初の試練として特に心に残っているのは
「髪上げ」ができないことで四苦八苦していたことです。
内掌典を拝命し、賢所での生活を始めた翌日は「おさえ」という髪型に上げます。
まず内掌典の次席の人が新人の髪を上げるのに、4時間もかかるそうです。
3回目くらいまでは先輩のお姉さんが新人を助けるのですが、そのあとからは自分でやるのです。
そうすると10時間以上かけても、髪が上がらない。一日中髪上げです。髪を上げられないと御用ができません。
髪を上げる時には「びんつけ油」を付けますので、舞妓さんや芸妓さんと同じような甘い香りがしますね。
内掌典は、採用が決まった時から髪を切らずに伸ばすのだそうです。

最も重要かつ基本的な「次清」のこと
賢所での生活の中で、大切なことが「次(ツギ)」、「清(キヨ)」という概念です。
「御殿での次清」、「候所での次清」が、最も重要かつ基本的なしきたりです。とても厳しいものだと思います。
清浄ではないことを「次」、清浄なことを「清」と区別して、どんなに細かなことでも厳格に区別しています。
社寺に参拝する前などのように「手水」をすると、手が綺麗になり、清められますね。
これは「清」の状態です。一方で、体の下半身に触れたり、
履物やお金、賢所の外から届いた郵便物を扱ったりした時などは手が「次」の状態になっている、という次第です。

私が掌典補としてお仕えした頃、内掌典の仕事のうち、簡単なところの手伝いをしたことがありました。
例えば、「おすべし」。これは神様のお食事を下げるという仕事ですが、一つひとつ、
今自分の手がどの状態なのか意識していないと、本当に分からなくなってしまいます。
また、内掌典の場合、「御内陣」という神様がいらっしゃる場所で御用をする時や、
しつらえてある物を持つ時は、手が「清い」以上の状態、「もったいない手」になっています。
平常に戻す――「次める」と言いますが――ということもやらないといけない。
清いと思っていたはずが、次になっている。これは大変なことですが、
間違いを指摘された時は素直に自らの振る舞いを顧みるのだそうです。

上下が入れちがうということは、あってはならない
一般の人が畳の上で寝る時、布団を畳んで押し入れに入れてまた出して、としている間に、
ひょっとしたら布団の頭と足の位置が逆になっていることもあるでしょう。これもいけません。
上半身は「清」。下半身は「次」なので、上下が入れちがうということはあってはならないのです。

また、入浴の時は湯船に肩まで浸かるのではなく、大たらいを使って行水するようです。
これも「次」と「清」の関係ですね。バスタオルで体をふくのではなく、浴衣を着て水分を拭き取るそうです。
浴衣の語源は「ゆかたびら」と言って、「かたびら」は薄い着物のことを指します。
お湯で使うので、「ゆ・かたびら」。それが短くなって「ゆかた」。バスローブのような役割を果たしているのですね。
あらゆる生活の所作の中に、「次」と「清」があるんですよ。

心が変わることによって、形が変わる
「手抜きがない」というのは、賢所の伝統だと思います。
よく「形は変わっても心は変わらない」ということが言われますね。私は、そうではないと思うんです。
心が変わることによって、形が変わるんですよ。
もちろん、自分の技量が足りないという問題が、最初はあるかもしれません。
それでも、色々と突き詰めてやっていくのが普通なんです。
形を変えて、上辺だけでやってしまうと駄目なんですね。私たち掌典補も神様のお食事をこしらえる時、
例えば鯛を薄切りにして円筒状に形作る場合、「できるだけきれいに」と心を込めてこしらえます。
そこで、「ここまでやる必要があるのだろうか」と思って手抜きをすれば、心が変わってしまっている。
あるいは「ちょっと、この鯛は高価すぎるのではないか」と感じてしまうこともあるのですが、
神様に対して「ぜいたく」はないんですよ。

私がご奉仕させていただくようになってから、大正年間に内掌典として賢所へ入っておられた
ある内掌典がいらっしゃいました。京都で執り行われた昭和天皇の御大礼も経験された方です。
退職される時に、貯金がどれくらいあるのか伺ったら、思いもよらないほど少ない額でした。
何十年もおられて、倹約した生活をなさっているのに、と非常に驚いたのです。
戦後直後の一時期は、物資が不足していたために、神様にお供えするものが粗末になってしまった。
その方は、少なくとも自分が頂く以上のものを神様にお供えしたい、
そういう思いで、ご自分の持ち出しもあって、神様のお食事を用意されていた。
歴代の内掌典の方々には、妥協する心や「まあいいか」という姿勢が全くありません。本当にすごいことだと思います。

絶えたことのない「御燈」
賢所には、「御燈(ごとう)」という絶えたことのない火があります。
朝夕には土器に菜種油を注ぎ足して、消えることがないようお守りするのも内掌典の仕事です。
油が多すぎても少なすぎてもいけませんし、煤がたまってしまうと
火が大きく燃え盛った後に消えてしまうことが考えられるので、適度に煤を払います。
地震があった時などは、真夜中でも内掌典が火の無事を確かめるそうです。
また平時の御用や宮中祭祀など、すべての作法は口伝(くでん)で伝えられ、
記録として書き残されているものはありません。こうして、現代に受け継がれてきた伝統なのです。

今上陛下がお持ちになっている宮中祭祀へのお気持ち、これは物凄いものだと思います。
皇后陛下も同じです。昭和天皇に勝るとも劣らないと、私は思っています。
ご自分がお参りできるものは、どんなことがあってもお参りされる。
宮中祭祀を一番になさってこられましたよね。それは昭和天皇も同じご姿勢でした。
今上陛下がお父さまの後姿をご覧になってやってこられたからこそ、
平成という時代がここまで続いてきたのだと、30年を振り返りあらためて思っています。

そうぎ・よしあき 1948年京都府生まれ。1
973年、宮内庁京都事務所から掌典職に異動。昭和天皇大喪儀、
今上陛下の即位・大嘗祭を担当、伊勢神宮の式年遷宮も二度務める。
2014年より御香宮神社権禰宜。

http://bunshun.jp/articles/-/9046

元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない

元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない」
『竹元正美』 2018/09/20

竹元正美(元東宮侍従、国際文化教育協会理事長)

昨年9月3日、宮内庁は、「眞子内親王殿下には、小室圭氏と御婚約が御内定になりました」と発表しました。
そして、秋篠宮同妃両殿下は、天皇陛下のご裁可をいただき、
婚約が内定した旨、および、二人の意思を喜んで尊重したとのご感想を表明されました。
眞子さまと小室圭さんは、ご婚約内定について記者会見をされました。
私もテレビで拝見し、とてもさわやかな印象を受けました。多くの皆さんも同様の印象を受けたものと思います。
また同日、宮内庁長官は、「小室圭氏は、眞子内親王殿下のご結婚のお相手としてふさわしい、
誠に立派な方であり、本日お二方のご婚約がご内定になりましたことは、
私どもにとりましても喜びに堪えないところでございます」と発言しました。

眞子さまは、国内外においてさまざまなご公務を熱心にされております。
とりわけ、私がかつて大使として赴任しておりました中米のホンジュラスを訪問されるなど、
国際親善の実をあげてこられました。私はご婚約内定の祝意を表明するため、
翌日の4日、秋篠宮邸に記帳に伺いました。
秋篠宮さまがご結婚される以前に、私は東宮侍従としてお仕えしました。
日本人のブラジル移住80周年記念式典ご臨席のため、当時の礼宮さまがブラジルを訪問された際にお供いたしました。
また、私がタイに赴任した後、宮さまがタイを訪問されました。
タイの空港にお迎えに行ったとき、宮さまは「タイは暖かくてよいですね」とおっしゃいました。
今年の日本の夏は暑くて大変でしたが、タイはもっと暑い国です。
少々暑くても、暖かいと思えば暑さをしのげるものだと思うようになったことを覚えています。
昨年11月22日、ご結婚に関する儀式、行事の予定が宮内庁より発表されました。
納采の儀が本年3月4日、ご結婚式が本年11月4日と予定されました。私はその日を心待ちにしていたものです。

ところが、当初予定された納采の儀の約1カ月前、本年2月7日に宮内庁は、
ご結婚関係儀式等は後日に延期することになり、再来年になる見込みと発表しました。
そして、眞子さまと小室さんのお気持ちが紹介されました。
その中で、お二人は結婚までに行う諸行事や結婚後の生活について、
十分な準備を行う時間的余裕がないことを認識したので、再来年に延期して、
必要な準備を行うのが適切であると判断したと述べております。
本年8月に小室さんは、国際弁護士の資格を取得するため、
米国フォーダム大学ロースクールでの留学生活をスタートしたと承知しております。
この留学については、ご結婚後の生活についての準備の一環と捉える向きもあります。

お二人のご結婚の予定がなぜ急遽(きゅうきょ)延期されたのか。
前述の通り、お二人のお気持ちでは、十分な準備を行いたいからとのことですが、
一方で小室さんの母親の金銭にかかわる週刊誌の記事が原因であると推測する週刊誌報道もあります。
その後も、週刊誌を中心に、小室さんに対するバッシングともとれる記事を含め、
お二人のご結婚をめぐってさまざまな報道が続いております。

皇室にかかわるマスコミの報道の在り方については、いろいろな意見があると思います。
皇后さまのご結婚、皇太子殿下のお妃候補、昭和天皇のご病気などに際しての
マスコミ各社の報道ぶりは大変なもので、記者の皆さんの努力には、時として頭が下がる思いもありました。
昭和天皇のご病気の際には、宮内庁の前にテントを張って、24時間体制で臨んでいたことを記憶しております。

一方において、過剰とも思われる取材のやり方については、批判もありました。
皇后さまや皇太子妃雅子さまのご結婚に至る過程での取材については、
平穏な日常生活が妨げられるような取材攻勢があったと聞いております。
また、これらの報道の中には有意義な記事もありますが、事実と異なる記事や
誤った事実を前提にして書かれた記事が含まれていたことがありました。
皇后さまに対するいわれのない批判記事の連続により、皇后さまが声を失われる事態に陥られたこともありました。
他にも皇太子妃候補として多くの女性の皆さんが、週刊誌で報道されました。
関係のない女性の皆さんにとっては、大変迷惑であったものと思われます。

宮内庁では報道室が中心になって、必要に応じて正確な事実関係を指摘してきております。
眞子さまと小室さんにかかわる一部週刊誌の記事についても、
宮内庁はホームページにおいて事実関係を説明してきております。
本年7月30日には、「今回の記事(週刊文春7月26日号)によって読者のみならず、
さまざまな形でこの問題に関係する人々にも誤解が生じないよう重ねて説明することにしました」と結んでいます。
お二人のご結婚が延期に至った事情や小室さんの母親の金銭にかかわることなどについて、
私は何ら事実関係を承知していませんので、いかなる論評も行う立場にありません。
多くの皆さんも同じだと思います。

皇室関係の記事が続くのは、それだけ読者の関心が高い表れとも思われます。
読者が正確な理解を深めることができるように、事実に基づいた記事や論評が報道されるよう
望みたいと思います。決して、関係者を傷つけることがないよう願うばかりです。

私は、自著『皇室ってなんだ!?』のまえがきの中で、
「天皇陛下はいつもわれわれ国民の幸せを祈ってくださっている」と書きました。
私は、この場をお借りして、眞子さまと小室さん、及び関係者の皆さまのお幸せを祈念いたします。

https://ironna.jp/article/10743?p=1

三笠宮彬子さまトルコご訪問

トルコで大絶賛! 三笠宮彬子さまのお辞儀とネイルに込められた「特別な国」への想い

内橋徹
2018年9月19日 水曜 午後6:30

彬子さまの所作に大反響
9月9日から14日にかけてトルコを訪問された彬子さま。
トルコでも関心が高く、連日その動静が報じられました。
その中でも彬子さまのある所作がトルコ人の大きな反響を呼びました。

180921_1.jpg
初代大統領アタチュルクの廟に献花・拝礼される彬子さま :トルコメディアより

首都アンカラにある初代大統領アタチュルクの廟。
トルコ建国の父として知られ、トルコ人は時の政権を好む好まざるにかかわらず、
初代大統領アタチュルクを尊敬しています。
10日に、そのアタチュルクの廟を訪れた彬子さまは献花し、深々とお辞儀をされました。
この姿に多くのトルコ人が驚きとともに感銘を受けたのでした。

SNS上ではトルコ人から「なんて素敵な、なんて気高いプリンセスなのだろう!素晴らしい!」
「アタチュルクにこれほど優美に敬意が表されたことが未だかつてあっただろうか!」
「日本人は、日本国に、環境に、自国の価値に対して敬意を払うことを学んでいる。
我々もその方法を見習うべきだ。」と彬子さまの振る舞いが絶賛されたのです。

トルコを訪れる海外要人は必ずと言っていいほどアタチュルク廟を訪れますが、
このような反応が出るのは珍しく、あるトルコ人は、
「献花をするだけの人が多い中、あそこまで綺麗に深々とお辞儀をする方を見たのは初めてだ」と話していました。
トルコ人は、自分たちが尊敬するアタチュルクに対し、彬子さまが多大な敬意を示されたことに感動したようです。

国旗を描いたネイルアートも話題に

また、トルコ外相と面会された際には、彬子さまの手元がクローズアップされ話題になりました。
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話題になった彬子さまの手元   :トルコメディアより

日本国旗とトルコ国旗をあしらったネイル。
細部まで気遣い、日本とトルコの友好親善のお気持ちを示された彬子さま。
まさにトルコ人はハートをつかまれたのでした。
このほかにも彬子さまが各地を訪問される様子は連日報道されました。

28年前の同じ月日に訪問されたご両親の記帳

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イスタンブール市内のベイレルベイ宮殿(オスマントルコ時代の離宮)を鑑賞された彬子さま。
宮殿には28年前の同じ日に記された、父・寛仁さまと、母・信子さまの記帳が残されていました。

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今回、トルコの海事博物館に旧日本軍の軍艦「清輝」の模型が贈られました。
「清輝」は1878年に初めてトルコに寄港した日本の軍艦で、入港140周年を記念して寄贈されました。
模型とともに展示される木札は、戦艦「三笠」の甲板の一部で、彬子さまが「清輝」と書かれたということです。

トルコは「特別な国」

彬子さまのトルコ訪問は今回で7回目を数え、トルコとの繋がりについて「特別な国」だと述べられています。
「トルコは私にとりまして特別な国です。私が生まれて初めて訪れた海外の国はトルコでした。
父が、初めての私の海外行きを許して下さったのは私が高等科の二年生の時でした。
祖父である三笠宮殿下が、長年支援をされてきた、カマン・カレホユック遺跡を
どうしても見てみたいとお願いをしたのです」

彬子さまがトルコを訪問されるきっかけとなった、トルコ中部のカマン・カレホユック遺跡とは、
三笠宮さま・寛仁さまの支援を受けた日本の調査チームが30年以上に渡って発掘を続けている遺跡です。
出土した遺物を保存・研究するだけでなく、専門家や考古学者の育成も行われていて、
日本とトルコの学術研究における交流の懸け橋にもなっています。
遺跡の発掘、研究を今後も継続できるように、トルコでは去年、「三笠宮記念財団」が設立され、
彬子さまが総裁に就任されました。

13日に行われた記念式典で、彬子さまは「三笠宮家親子三代の想いが込められた研究所の活動を
永続的に支えていくために三笠宮記念財団がトルコ政府の認可を頂き設立されました。
この財団の総裁を引き受け致しますことは三笠宮家に連なる者として大変ありがたく、
また多くの責任も感じております。」と述べられました。

親子三代に渡って築き上げてこられたトルコとの絆、そして今回の彬子さまのご訪問は
日本とトルコの友好親善だけではなく、トルコ人の心に残る印象深いものになったようです。

(執筆:FNNイスタンブール支局長 内橋徹)

https://www.fnn.jp/posts/00364480HDK

皇室の財産 皇居の土地は23兆円、国宝級の美術品も多数

皇室の財産 皇居の土地は23兆円、国宝級の美術品も多数
2018.09.13 16:00

2019年5月1日、新しい天皇の時代が始まる。
それに伴って、「三種の神器」をはじめ、宮中祭祀に使われる太刀や屏風、皇后の王冠(ティアラ)といった、
皇室経済法で「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(御由緒物)と定められた品々が、
今上天皇から新天皇に引き継がれることになる。
いったい、皇室にはどのくらいの財産があるのか。
真っ先に思い浮かぶのは不動産だろう。東京都心の真ん中にある皇居(約115万平方メートル)、
東宮御所や秋篠宮邸がある赤坂御用地(約51万平方メートル)のほか、
京都御所や3つの御用邸などがあり、その総面積は千代田区の2倍以上にのぼる。
二重橋前駅周辺の最新の公示地価(1平方メートル約2000万円以上)で換算すると、
ざっと見積もっても皇居の土地だけで23兆円。
赤坂御用地も周辺の公示地価で計算すると1兆円は下らない。
だが、実は憲法88条で不動産などは国の管理下に置かれたうえで、皇室に供される「皇室用財産」と定められている。
そういう意味では、天皇や皇族方は“借家住まい”と言える。
一方、私的な宝物、美術品も受け継がれてきた。
厚い菊のカーテンに覆われたその全貌が明らかになったのは、過去1度しかない。
昭和から平成への代替わりの際、宮内庁は昭和天皇の遺産を整理し、
約4600件にのぼる宝飾品、美術品を保有していたことがわかった。
その中には、狩野永徳、葛飾北斎、円山応挙、伊藤若冲などの絵画、「蒙古襲来絵詞」などの絵巻物、
聖徳太子画像や現存最古の万葉集写本など値段がつけられない国宝級の美術品が数多くあり、
うち約580件は冒頭の「御由緒物」に分類された。
その他約4000件のうち、約3200件が国庫に寄贈され、残りは今上天皇が相続した。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏が解説する。
「今上陛下の在位も30年に及び、その間にも献上品や、海外の王室などからの贈り物があったでしょう。
代替わりを機に、財産が新たに国に寄付されることも考えられます」
そうした宝物を除くと、天皇が自由に使える財産の1つが、昭和天皇から相続した現金や有価証券だ。
「当時、課税遺産が約18億6900万円。今上陛下と香淳皇后が約9億円ずつを相続しました。
今上陛下には相続税約4億円が課税され、残されたのは5億円ほど。
その後、香淳皇后が亡くなったときにも相続が発生しましたが、2億円以下だったので額は公表されませんでした。
質素倹約は皇室の昔からの伝統であり、日々の生活は決して華美にならないように心掛けていらっしゃいます。
大きく目減りしたということは考えにくいでしょう」(同前)
※週刊ポスト2018年9月21・28日号
https://www.news-postseven.com/archives/20180913_758920.html

天皇譲位と眞子さま婚約に託ける「女性宮家」創設の陰謀

天皇譲位と眞子さま婚約に託ける「女性宮家」創設の陰謀
歴史と伝統を無視すれば、「皇室」の崩壊につながる
2017.6.7(水) 森 清勇

秋篠宮眞子さまの婚約が明らかになり、嬉しいニュースでマスコミはもちきりである。
皇室典範第12条で「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは皇族の身分を離れる」との規定に従い、
眞子さまは皇籍を離脱されることになる。
一方で天皇陛下の譲位のための法案が審議されている。
本来、天皇の譲位と眞子さまの問題は全く関連のない事案である。
しかし、女性宮家推進の民進党などはここを先途と、安定的な皇位の継承と公務を担う皇族の減少が問題だとして、
譲位の特例法案の付帯事項で女性宮家創設を検討課題にしようとしている。
永い皇室の歴史を見た場合、8人10代の女性天皇を含めて
125代のすべての天皇が男性天皇の子孫(いわゆる男系天皇)である。
8人の女帝も男系天皇で、次の男系天皇への中継ぎとして在位されただけである。
皇室典範第1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という規定も、
憲法第2条の「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、
これを継承する」も守られてきた。
しかし、民進党などが主張する女性宮家の創設は、皇室典範(や憲法)の改正を意味する。
すなわち、女性宮家主張の裏には、かつて日本の歴史になかった女系天皇の臭いも漂う。
これを「皇室の終わりの始まり」という人もおり、日本国家の在り様を根本的に改変することを意味する。
一昨年の安保法案国会で、民主党(当時)をはじめ多くの野党は、
憲法を拡大解釈するもので、立憲主義に反すると主張して政府・与党を論難した。
その野党が、今度は皇室典範も憲法も無視する暴挙に出ようとしており、場当たり主義の独善としか言いようがない。

女性宮家創設より旧皇族の復帰が先決
連合国総司令部(GHQ)は、日本を高度な民主国家にするためとして大規模な改革に着手する。
その第1が国家の基本法である憲法、そして歴史と伝統を担い、日本国家の真髄である皇室の改革であった。
戦争に伴う法規慣例を謳うハーグ条約は「敵国の領土における軍の権力」を定めている。
それによると、「占領者は絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重」するとなっており、
憲法と皇室典範の改正はGHQが日本の意志にも国際条約にも反して強行した不当なものであったことが明瞭である。
そうした中で、皇統の維持に必要な皇族は、昭和天皇の直宮(じきみや)の
3宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)だけが許され、11宮家は廃止となり、51人が皇籍を離脱した。
ただ、「重臣会議で鈴木貫太郎元首相が『皇統が絶えることになったらどうであろうか』と質問すると、
加藤宮内次官は『かつての皇族のなかに社会的に尊敬される人がおり、
それを国民が認めるならその人が皇位に就いてはどうでしょうか』と述べ、
また皇籍離脱する皇族について『万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの
御自覚のもとで身をお慎みになっていただきたい』と述べた」
(竹田恒泰著『旧皇族が語る天皇の日本史』、2008年刊)と記している。
新憲法・新皇室典範・皇室経済法が昭和22年5月3日に施行され、11宮家は10月14日に廃止される。
18日に赤坂離宮で(昭和)天皇主催のお別れ晩餐会があり、天皇からは「身分は変わるようになったけれども、
自分は今までとまったく同じ気持ちをもっている。どうか今後もいつでも会いに来てくれるように」との御言葉があり、
皇室と11宮家の交流は、菊栄親睦会という会を通じて今も続いていると、竹田氏は同書で書いている。
また、不本意に皇籍を離脱させられた旧皇族ではあるが、ェ仁親王は同書の竹田氏との対談で、
「陛下も皇族と旧皇族からなるこの菊栄親睦会を大切になさり、
正月や天長節など、事あるごとにメンバーをお集めになられています。
私のなかには現職皇族と元皇族の垣根などありません」とさえ語っておられる。

世評では、皇籍を離脱して70年にもなる旧皇族にはもはや皇族としての矜持はないのではないかと見がちであるが、
上述のェ仁親王の発言からは、旧皇族が菊栄親睦会を通じて現皇室ともしっかり繋がっていることが伺える。
このような状況を無視して、一足飛びに歴史上になかった女性宮家の創設はないであろう。
旧皇族が皇族に復帰する違和感(むしろ親和性と言った方がいいかもしれない)と、
女性宮家の婿になった一般人男性が抱く違和感は比較するまでもないであろう。
女性宮家の創設を主張する民進党などは、皇室典範第1条の男系天皇の継承を無視ないし軽視し、
女性天皇を実現して、歴史にもとる女系天皇への道を拓く深謀遠慮があると思われてもおかしくない。 

旧宮家の皇族復帰のために
眞子さまの婚約準備が進む一方で、心ある国民は公務の問題も然ることながら、
皇統の断絶を心配し、あれこれ知恵を出している段階である。
ざっくり言って、天皇の譲位に託けて女性宮家の創設が提議されているが、
皇室の歴史と伝統に基づく皇統の安定的な維持が真剣に考慮されたのであろうかという疑問がある。

皇族方には選挙権・被選挙権や居住の自由など、一般国民に認められている基本的人権の多くが制約されている。
そうした中で、婚姻については大きな自由が認められるようになってきている。
ただ、今日は皇統の維持が非常に困難な時代である。
そこで、GHQが一方的に皇籍を剥奪した旧宮家に対し、皇籍復帰を願う意見も出ている。
そのためには、旧皇族の存在をより身近なものとして国民が感じる環境醸成が大切であろう。
その有力な一助は、内親王の結婚相手に見定められることではなかろうか。
皇室・皇族にとって、皇統の持続は至上命題であろう。
そこで、国民は皇統の維持について皇族方がまずは熟慮されることを、声なき声として求めている。
国民が皇室を愛し、弥栄を願う故であり、決して僭越でも不遜でも不自然でもないであろう。
旧宮家の皇族復帰が決まっているわけではないが、それを現実化するためにも、
未婚の内親王方が旧皇族から伴侶を見つけて、皇籍復帰への助走に勢いをつけてほしいと筆者は願っている。

おわりに
女性宮家という、かつてなかった人為的な制度の創設よりも、旧宮家の皇籍復帰は自然であり、
国民の祝福も受けやすいのではないだろうか。
明治以前には4つの世襲親王家が存在し、皇位継承の対象者が数多く存在した。
しかし、現在は皇位継承者が数人でしかない(『正論』2017年3月号、p222)。
この杞憂を払拭する最良策が旧宮家の皇族復帰であろう。
譲位の特例法案では女性宮家の創設を検討事項に上げているが、
創設される場合は公務の一部を分担される範囲に限定し、
歴史に鑑みて皇位とは無関係であることを明確にしておく必要があろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50193

倉山満が「5つの誤解」を解く

あなたの天皇観はまちがっている!? 倉山満が「5つの誤解」を解く
2017.06.14

新刊『日本一やさしい天皇の講座』にて、皇室と日本人の関係を通史で書き上げた倉山満氏。
譲位、女系、女帝、旧皇族の皇籍復帰など、皇室を巡る論点は尽きないが、
氏に言わせれば「その前提となる部分に、国民のカン違いが多い」という。
皇室に対する「よくある誤解」として、以下の5つを挙げてもらった。

【誤解1】天皇陛下が退位を希望するのは、公務に「疲れた」から!?

倉山満(以下、倉山):とんでもない誤解です。
平成28年8月8日のいわゆる「生前退位に関するビデオメッセージ」において、
天皇陛下はひと言も「俺は疲れた、休みたい」などとは仰っていません。
自分は死ぬほど働けと言われたら働くが、制度としてこの状態はどうなのか、
今後もずっと続けられるかどうかを考えてほしい、と訴えられたのです。

──「続けられる」というのは、何をですか?

倉山:伝統としての象徴天皇を、です。
日本国憲法に「天皇は、日本国の象徴であり……」と記されているせいで、
誤ったイメージが広まっているのかもしれませんが、
じつは歴代天皇のなかで「象徴ではなかった」天皇というのは、数えるほどしかいません。
平安時代の嵯峨天皇以降で考えれば、基本的にすべて象徴天皇です。
実力を伴う独裁者の地位を目指したのは、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇ただひとり。
明治天皇も昭和天皇も、そんなことは微塵も考えていなかった。これが第2の誤解につながります。

【誤解2】戦後、マッカーサーが天皇の権力を剥奪した!?

倉山:象徴天皇というのは、別に進駐軍から押し付けられたものではありません。
日本はもともと象徴天皇でしたし、明治以降もそうでした。
にもかかわらず、マッカーサーが勝手に思い違いをして、「独裁者はやめろ!」と言ってきたわけです。

──話が噛み合っていなかったと?

倉山:そうです。初めからマヌケなやりとりなんですよ。
しかも厄介なことに、ここへもうひとつの誤解が重なってくる……。

【誤解3】日本憲法下では、天皇は自分の意見を表明してはいけない!?

倉山:繰り返しますが、マッカーサーは天皇に「独裁者はやめろ!」と言ってきました。
「判を押すだけのロボットになれ!」とは言っていません。
日本国憲法の表現を使うなら、天皇は「国政に関する権能を有しない」としただけです。

──「権能」とは?

倉山:一般的な言葉に置き換えるなら、「権限」でしょう。
英語にすれば、どちらも「power of command」で同じ意味です。
日本憲法下では、天皇は国政に関する権限こそ持ちませんが、
自分の意見を表明することや、結果として影響力を行使することまでは禁じられていません。
つまり戦後、日本人の多くは天皇に対して【誤解2】と【誤解3】という二重の誤解をしながら、
マッカーサーすら口にしなかった暴挙を行ってきたということです。

【誤解4】女系を認めない皇室典範は「男尊女卑」だ!?

倉山:これはむしろ逆だろう、と私は考えています。
詳しくは以前の記事「『女性天皇』賛成派は愛子様に生涯独身で通していただくつもりか?」を
読んでもらいたいと思いますが、
男系でつながる皇室はむしろ「男性排除」の論理で成り立っています。
女性は民間人でも皇族の方と結婚すれば皇室に入れますが、男性はそうはいきません。
男性が民間人の場合、皇族の方と結婚されても民間人のままです。

──結婚相手の女性皇族のほうが、皇籍を離れることになりますね。

倉山:そうです。美智子様や皇后陛下、雅子様が皇太子妃になられても、
眞子様と結婚される予定の小室圭さんが皇室に入ることはない。
ゆえに「男性排除」の論理だと言っているわけです。

──なるほど。

倉山:愛子様の女帝に関する議論についても、誤解があると思います。
我が国では、奈良時代に民間人の道鏡が皇位を狙って以来、
「女帝は生涯独身か未亡人のみ」とする不文法が確立しました。
女帝を認めていない現在の皇室典範を「男尊女卑」だと叫ぶのは勝手ですが、
もし愛子様が御即位された場合、「生涯独身」を求められるという歴史があることを
きちんと理解しているのでしょうか。甚だ疑問です。

【誤解5】「上皇」という尊号は「元天皇」だけに与えられるもの!?

倉山:特例法の成立により、天皇陛下は退位後、200年ぶりの「上皇」となることが決まりました。
この「上皇」という尊号は、天皇を辞めた方に贈られる「太上天皇」の略ですが、
歴史上には天皇にならなくても「上皇」になった方が存在します。
その方々を「不登極帝(ふとうぎょくてい)」と呼びます。

──聞き慣れない呼び名ですね。

倉山:鎌倉時代の後高倉上皇や、室町時代の後崇光上皇などが「不登極帝」です。
死後に追贈された、陽光上皇と慶光上皇もいらっしゃいます。いずれも天皇の父君です。
天皇にはなっていないので、歴代天皇にはもちろん数えません。


 日本人なら誰もがその存在を知りながら、よく理解できていない事柄も多い皇室関係。
「じゃあ、よく理解できるようにしましょう」(倉山氏・談)との気持ちから生まれた
『日本一やさしい天皇の講座』は、全国書店ほかで絶賛発売中だ。

【倉山満】
1973年、香川県生まれ。憲政史研究者。
著者シリーズ累計35万部を突破したベストセラー『嘘だらけの日米近現代史』『嘘だらけの日中近現代史』
『嘘だらけの日韓近現代史』『嘘だらけの日露近現代史』『嘘だらけの日英近現代史』
『嘘だらけの日仏近現代史』のほか、保守入門シリーズ『保守の心得』『帝国憲法の真実』など。
2017年6月、待望の新刊『日本一やさしい天皇の講座』を上梓

<取材・文/ツクイヨシヒサ>

https://nikkan-spa.jp/1345846