「天皇陛下が脳貧血で倒れた夜」に起きたこと

2018.07.04
現代ビジネス編集部

深層レポート「天皇陛下が脳貧血で倒れた夜」に起きたこと
学習院の同窓会の後に…

去る7月2日、「天皇陛下が体調不良を訴え、医師の診察を受けた結果、脳貧血と診断された
」との一報が駆け巡った。
生前退位を目前に控えての心配なニュースだが、その後、詳細は報じられていない。
いったい何が起きていたのか?

猛暑の日に行われた「同窓会」
7月1日、日曜日。東京都心で最高気温が32度に達したこの日、
天皇の姿は母校・学習院初等科(新宿区若葉)にあった。
14時から開催される同窓会に出席するためである。格式あるその同窓会は「初等科桜友会」という。
正堂(講堂)で総会が行われたあと、約500人の参加者は食堂へ移り、会食となった。
昨年まで桜友会総会議長を務め、天皇の学友としても知られる明石元紹氏が、当日の天皇の様子をこう語る。
「みなさんノータイ姿の中、陛下は背広に革靴で来られまして、
大変に暑い日でしたから、大丈夫かなと少し心配でした。
私は陛下と同学年ですが、この歳になりますと、やはり暑さを感じにくくなりますしね。
ただ、今年は天皇陛下として最後の桜友会ということもありましたから、正装されたのかもしれません」
天皇は、学習院の内藤政武院長、常磐会(学習院女子中・高等科同窓会)の近衞ィ子(このえ・やすこ)会長、
桜友会の東園基政会長らとテーブルにつき、談笑しつつ旧交を温めていた。
だが、食事にはあまり手を付けなかったという。

宮内記者が言う。
「このところの急な猛暑続きで、ご体調が万全でなかったようです。
加えて、来年に迫った退位、年々減っていく旧友…
そうしたことを陛下がお考えだったどうかはわかりませんが、
この日はややお酒のピッチが早く、いつもより酒量も多いご様子だった」
天皇にとって学習院、とりわけ初等科の級友たちは、戦時中、ともに疎開し空腹に耐えたという特別な思いがある。
どうしても、会っておきたい仲間たちだった。

東園桜友会会長と内藤学習院院長の挨拶が終わると、歓談になった。
天皇はテーブルを離れて、同級の仲間、前出の明石氏ほか3人に歩み寄った。
「今年は(同級生が)4人来ましたね」
明石氏が言うと、天皇は顔をほころばせながら応じた。
「もう最近は、テニスもしんどくなってね。外で運動できないから、室内で卓球をやっているんだよ」
1時間半ほどで帰途についた天皇の笑顔は、やや赤らんでいた。
ゆっくりではあったが、足取りは矍鑠たる、しっかりとしたものだった。
級友たちはその後ろ姿を叩頭して見送った。

貧血と栄養失調
日ごろ、侍医たちは24時間体制で天皇の健康管理にあたっている。
その侍医から天皇は、つねづねこんな注意を受けていた。
「夜のお小水のときは、急がずゆっくり起きてください。ゆっくり起きていただかないと、
頭に血流が行かず、転倒してお怪我をする心配がございますから」――。

桜友会から帰ったその夜の未明、7月2日午前4時ごろ。天皇は目を覚まし、トイレに立とうとした。
その刹那、目の前が真っ暗になり、倒れ込んでしまった。
すぐに侍医が駆けつけたものの、立ち上がることができず、
「皇后を、美智子を…」
とかろうじて言葉を発した。侍医は女嬬(にょじゅ)に「皇后陛下をお呼びしてください」と伝える。
急変は直ちに侍医長と宮内庁病院にも通報された。

その場で応急処置が行われた。脈拍と瞳孔、呼吸状態を観察し血圧を測る。
5分と経たないうちに天皇の寝室に駆け付けた美智子さまは、
「陛下!陛下!」と懸命に声をかけるとともに、侍医に尋ねて状況把握につとめた。
「宮内庁病院へ行くのですか?」
「いま連絡しています。血圧、呼吸などはしっかりしていますので、
このまま処置させていただきます。ご心配には及びません」
侍医は、玉体を動かすのは危険と判断したのかもしれない。
その後、天皇の容体が落ち着いてから診断結果の報告を受けた美智子さまは、
ショックを隠しきれない様子だったという。

脱水性脳虚血。そして栄養失調――。
「一時は脳梗塞も疑われましたが、倒れられたのは貧血のためだった。ご高齢で最近はお食事の量も減り、
ミネラルや鉄分を十分に摂取できていなかったのが原因だったようです。
その後、しばらくは吐き気も続いたと聞きます」(宮内庁職員)

2日の高円宮絢子女王と守谷慧さんの婚約内定報告は欠席、
3日以降に予定されていた昼食会などの公務も当面中止・延期となった。
4日午前の時点でも、御所での静養が続いている(4日午後から、一部公務復帰と報じられた)。

一方で首相官邸には、早い段階で「重篤というわけではないが、天皇の心臓は加齢にともなって弱っていること」、
そして「軽い脳梗塞が起こった疑いが拭えないこと」が伝えられた。それを受けて、
政府は宮内庁に対し、必要以上の情報開示を慎むよう指示しているという。

事実、詳しい容体に関しては、宮内庁の発表にもとづく
「2日午前4時ごろに急な発汗があったため、侍医が診察して脳貧血との診断を下した」
「めまいと吐き気、腹痛があるが、熱はない」ということ以外、ほとんど報じられていない。

ご静養は長引かせたくない
「陛下のご症状は、宮内庁の発表よりも重いのではないか」と証言するのは、宮内庁から委嘱される医師だ。
「宮内庁も懸念しているように、心配なのは脳梗塞、つまり脳にごく小さな血栓が詰まった可能性です。
精密検査を行ったうえで、しばらくは安静にしていただく必要があります。
高齢者の極小脳血栓は珍しいことではありません。
50代や60代の若い方でも発症することがありますから、80代となりますとなおさらです。
陛下には抗血栓薬、ビタミン剤、ミネラルなどが点滴で投与されています。
もうひとつ、お歳を考えると注意が必要なのは、寝た状態が長引く場合、脚の筋肉が衰えてしまうおそれです」

天皇が自ら希望した「生前退位」の期日は2019年4月末、まる9カ月後に定められている。
ある宮内庁幹部は、こんな心配を口にした。

「いま腐心しているのは、陛下のご静養をあまり長引かせないことです。
陛下ご自身がもっとも考え抜かれた『象徴天皇』のあり方とは、
『退位するその日まで、国民と向き合う姿を保持することが務めである』というもの。
退位されるその日も、車椅子ではなく自らの足で歩かなければならないと、陛下はお考えだからです」

平成の終わりは、時代の区切りであるだけでなく、天皇皇后にとって、人生の大きな転換点となる。
その日を万全の体調で心安く迎えていただくためにも、いまはただ、快復を願いたい。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56408

宮内庁職員「皇太子殿下は3.11に被災地に赴いてもよかった」

週刊ポスト2012年3月30日号
宮内庁職員「皇太子殿下は3.11に被災地に赴いてもよかった」
2012.03.21 07:00
心臓バイパス手術から退院後、天皇陛下が並々ならぬ思いでご出席された、3月11日の東日本大震災1周年追悼式。
ご出席が発表された9日、皇居では天皇皇后両陛下と皇太子との昼食会が行なわれた。
しかし、そこに雅子妃の姿はなかった。
宮内庁では、この昼食会の趣旨を「皇太子から陛下にご公務代行をご報告するため」と説明し、
雅子妃の同席が必要でなかったと強調している。だが、宮内庁関係者はこう嘆息して語る。
「陛下としては、追悼式典の後のご公務の代行をすべて皇太子殿下に託すわけです。
雅子妃殿下に対しても同じお気持ちでしたから、当然ご夫婦で御所にきてほしかったはず。
昼食会では終始、陛下からこれからの名代の責務と重要性についてお話しされていましたが、
殿下は雅子妃が同席されていないからか、平身低頭で聞かれていたようです」
追悼式の時、皇太子夫妻は両陛下がご臨席される様子を居所(東宮御所、宮邸)のテレビで見ながら黙祷を捧げていた。
それは両陛下のご指示によるものといわれるが、宮内庁職員らの心中は複雑なようだ。
「陛下は本来であれば、東北の被災地に再び足を運びたかったという思いが強かった。
しかしご病気ということもあって、それは叶いませんでした。その陛下の胸中を察して、
皇太子殿下が被災地に行かれてもよかったのではないか、そんな声が職員の間で上がったのは事実です(宮内庁関係者)
http://www.news-postseven.com/archives/20120321_96156.html

高円宮絢子さまご婚約関連雑誌記事

高円宮絢子さまご婚約

絢子さまは眞子さまの「ご結婚」を待っていた
「文春オンライン」編集部
6月26日、高円宮家の三女・絢子(あやこ)さま(27)が、
日本郵船に勤務する守谷慧(もりや・けい)さん(32)と婚約することが発表された。
それからわずか2日後の28日、秋篠宮家の長女・眞子さま(26)のお相手・小室圭さんが、
弁護士資格を取得するため、今夏から3年間渡米するとメディア各社が報じた。
眞子さまと小室さんは、昨年9月に婚約が内定し、2020年に結婚を延期されている。
今回のように、皇族の婚約という「慶事」と、結婚の「延期」が同時期に重なるのは極めて異例のことだ。
「ネットでは『なぜいま絢子さまが婚約を発表されたのか』と絢子さまに対し一部批判の声もあがっています。
しかし、絢子さまの婚約発表は、天皇陛下にお伝えした上でのこと。宮家のみの独断で決められることではありません。
宮内庁としても、すべて考慮した上で発表の時期を探っていたとみるべきでしょう」(皇室担当記者)
絢子さまは、現在いる皇族17人(天皇・皇后両陛下を除く)の中でも、
天皇陛下の直系である「内親王」(眞子さま、佳子さま、愛子さま)とは違い、「女王」の立場である。
さらに、絢子さまは最年少の「女王」で、一番身位が低い立場であるため、
守谷さんにお会いする前から「いつ結婚するべきか」を気にされていたという。
「絢子さまは自身の結婚の時期について、陛下の退位、皇太子殿下の即位の関連行事の時期を外すことはもちろん、
昨年9月の眞子さまの婚約発表の際にも『仮に良縁があったとしても、今は待たなければいけない』とお考えでした。
実際、眞子さまの婚約延期が決まった2月から絢子さまの結婚話が具体化していったのです。
守谷さんと絢子さまが出会ったのは昨年末ですが、春には高円宮家の慶事が発表されるのではないかと
記者たちがマークしていました。発表に至らなかったのは眞子さまへの“配慮”があったからとみられています」(同前)
眞子さまへの配慮は「時期」だけではない。絢子さまは、守谷さんのお名前が、
眞子さまの婚約相手である「圭(けい)」さんと名前の読み方が同じことを気にされ、
守谷さんのお名前を「けい」から、「さとし」の読みに
改名してから発表されたほうがいいのではないかというお考えを示されたこともあったという。
「絢子さまとしては、婚約発表の時期は8月頃になると考えていたそうです。
今回、宮内庁の発表前にNHKが先行して報じたことについては憂慮されているご様子です」(宮内庁関係者)
http:// bunshun.jp/articles/-/7958

【絢子さまご婚約】三姉妹で語られた結婚相手の「条件」
〈子どもが好きなので、いつかは結婚をして子育てをしたいと考えております〉
(2010年9月15日・絢子さまが成年皇族になるにあたっての文書回答)
高円宮家の三女・絢子(あやこ)さま(27)がこのように「将来」について述べられたのは20歳の頃だった。
それから7年。日本郵船に勤務する守谷慧(けい)さん(32)に出会い、ようやくその“夢”を叶えられようとしている。
「守谷さんは物腰が柔らかく、周囲への気配りのある方。
170cmで細めの体形は“絢子さまのタイプ”だったそうです。幼少期はパリで過ごされ、
慶応大学文学部在学中にはオックスフォード大学に短期留学されたこともある国際派。
父親は通産省(当時)の元職員で、母親はNPO法人『国境なき子どもたち』の専務理事を務められていました。
守谷さんは2015年に母親を亡くされた後、その遺志を継いで、
日本郵船に勤務しながら理事の職を引き継いでいます」(皇室担当記者)
絢子さまは、城西国際大学・大学院で子どもや高齢者の福祉を学び、
2017年6月から同大学の福祉総合学部研究員として勤務していた。
子ども好きで、福祉に関心があるという守谷さんと共通項がある。
また、守谷さんが趣味に挙げていたスキーは、絢子さまも幼いころから親しまれてきた。
絢子さまの人柄を知る学習院関係者が語る。
「絢子さまは、ハメを外した友達の誘いにも『私は宮さまという立場があるからさ』と
やんわり断ることができる“しっかり者”でした。
親しみやすく女の子らしい一面もあり、いきものがかりの『コイスルオトメ』を聞き、
歌詞にある『大好きだよ いつまでもいっしょ』という一節のように、
女性の恋心をいつまでも大切にしたいと仰っていました。
結婚したいというお気持ちは三姉妹でも一番強かったのではないでしょうか」
絢子さまに結婚への「強い憧れ」があったのは、2015年11月、
ご友人とともに「縁結び」で知られる出雲大社の「縁結大祭」を訪れたことからもうかがえる。
「絢子さまは白い装束に身を包み、最前列で御祈祷をしてもらっていました。
その日は、八百万(やおよろず)の神が出雲大社に集まる日とされ、
大勢の女性たちが良縁を求めて出雲大社に押し掛ける。
絢子さまがご友人とともに御祈祷を受けている様子を、
周りにいた女性たちはじっと見つめていたそうです」(前出・皇室担当記者)
出雲大社の祭祀は、絢子さまの姉・典子さまが嫁いだ千家家(せんげけ)が、代々「宮司」を務めている。
「絢子さまは、典子さまに会って団欒するひとときを楽しまれながら、
お姉さまのような“良縁”を願われていたのではないでしょうか。
守谷さんに出会われるころ、偶然絢子さまがその時に求めたお守りを手にする機会があったとか。
このたび守谷さんとの御縁に恵まれたのも、
この時の御祈祷の効果があったのではないかと思われているそうです」(別の皇室担当記者)

母・久子さま主導の“お見合い”
母の久子さまは、かねてより「娘を無事にお嫁に出したい」と周囲に語られていた。
「2002年に高円宮さまが47歳の若さで急逝されてから、久子さまは高円宮さまにかわって、
公務の多くを引き継ぎ、『娘を嫁に出す』責任も果たしたいと思われていました。
皇族としての責任と、親としての責任の二つを、高円宮さまの分まで背負われたんです」(高円宮家の知人)

三姉妹が成年になられてからは、宮邸で催すパーティ等の社交の場に積極的に参加させていたという。
「特にここ数年は絢子さまの“お見合い”の意味合いが強くなり、
天皇家の遠戚にあたる旧華族や代々政治家を輩出している名家の子息を招いて自然に出会えるようにしたり、
パーティの後も、子どもたちだけで会う機会をさりげなく設けるようにしていました。
そういった機会に恵まれていたからか、ご姉妹は『結婚相手をどう見極めるか』と話しあわれる機会もあったそうです。
そのポイントの1つが『結婚後も家同士できちんと付き合えること』。
絢子さまも、久子さまが良いと思う方ならば『間違いない』と思われていたのではないでしょうか」
(前出・皇室担当記者)という。
守谷さんとの出会いのきっかけをつくられたのも久子さまだった。
「久子さまが、昨年11月、『国境なき子供たち』の設立20周年の祝賀会で守谷さんに会い、
その人柄に好感を持たれていたようです。その後、宮邸で久子さまと、
守谷さんの父・治さんと慧さんの3人でお会いする機会があった。
その時、久子さまが機転を利かせて『その話は娘が詳しいので、次は娘も呼びましょう』と
再び会うきっかけをつくられたのです。
お二人は出会ってから半年ですが、久子さまと慧さんの父・治さんとは40年ほど前からの知り合いで、
母・季美枝さんとは、季美枝さんが専務理事をしていた『国境なき子どもたち』の関連行事で親しくお付き合いがあった。
久子さまがお相手の家族をよく知っていたからこそ安心して自ら“紹介”されたのでしょう」(前出・皇室担当記者)
次第に慧さんが絢子さまに心を寄せられるようになり、絢子さまもそれに応える形で愛を育まれたという。
〈気の置けぬ竹馬の友と語り合ふ理想の未来叶ふときあれ〉
今年の歌会始ではこのように詠まれていた絢子さま。“理想の未来”が近づいている。
http://bunshun.jp/articles/-/7959

絢子さま、日本郵船勤務の守谷慧さん以前の茶髪ピアスな交際相手たち
週刊女性2018年7月17日号
2018/7/2
「高円宮家の三女・絢子さまと日本郵船に勤務する守谷慧さん(32)が婚約されました。
守谷さんは勤務の傍ら、途上国の子どもたちを支援するNPO法人『国境なき子どもたち』の理事を務めています。
'15年に亡くなった慧さんの母・希美枝さんが、もともとこのNPO団体の専務理事でした。
絢子さまのお母さまである久子さまは毎年、関連行事に足を運ばれていて、
母親同士の交流があったのです」(宮内庁関係者)
昨年12月、久子さまが絢子さまに慧さんを紹介して、まもなく交際に発展。
半年後にご婚約が内定するに至った。
その一方で、絢子さまを知る関係者は、今回の結婚相手に驚きを隠せないという。
「私が知っている限り、絢子さまは過去に計3人の男性とお付き合いされていましたが、
守谷さんとはタイプが違うように思えるんです。
城西国際大学時代にお付き合いしていたのは、同い年くらいの茶髪の男性で、
ピアスをつけ、ズボンを“腰ばき”している方だったのでとても驚きました。
結局、絢子さまのカナダ留学を機に自然消滅したようですね」(城西国際大学関係者)
イマドキの学生と別れてしまったあと、海外留学中にも交際相手がいらっしゃったと、この関係者が続ける。
「'13年9月から'14年4月に、カナダの『カモーソンカレッジ』に留学していたときには、
外国人とお付き合いされていましたが、すぐに破局したそうです。
その直後の'14年5月から約3か月留学していた同国にある『ブリティッシュコロンビア大学』では、
日本の地方出身の方と交際されました。
この方は宮邸にお呼びしたり、男性側の実家を訪れたこともあったようです」
学生時代から恋愛経験を積みながら、最終的には久子さまのご紹介で守谷さんとの結婚をお決めになった絢子さま。
これには“高円宮家の家訓”と“眞子さまの結婚延期”が影響しているそう。
「“恋愛と結婚は別”というのが、久子さまのお考え。高円宮家は皇室の一員として、
国民が納得できる“それなりの相手”を選ばなくてはならないという意識が強いのです。
そのせいなのか、昨年5月に眞子さまと小室さんの婚約が報道され、大学で出会い、
自由恋愛を経ての結婚だと知った際は、絢子さまはとても驚かれていたと聞いています。
しかし結局、結婚延期となり、“やっぱり恋愛と結婚は別なんだ”と思い直されたそうですよ」(高円宮家関係者)
ほかの皇族方のご結婚事情にも眞子さまの結婚延期が影響しているようだ。
http://www.jprime.jp/articles/-/12772

「天皇の稲作」と「皇后の養蚕」は、次代にどう引き継がれていくのか

現代ビジネス 2018.07.01
「天皇の稲作」と「皇后の養蚕」は、次代にどう引き継がれていくのか
畑中 章宏
田植えをする天皇、蚕を育てる皇后
天皇・皇后両陛下は、忙しいご公務の合間を縫って日本の伝統産業に取り組まれてきた。
天皇陛下が田植えをし、皇后陛下が蚕に餌をやるシーンは、メディアを通じて報道され、
国民に皇室への親しみをおぼえさせるとともに、農業や養蚕業に対する関心を持続させてきたのである。
5月25日、天皇陛下は、皇居内の生物学研究所脇にある水田で田植えをされた。
開襟シャツにズボン、長靴姿で水田に入り、種もみから育てたうるち米の
「ニホンマサリ」ともち米の「マンゲツモチ」の苗を1株ずつ植えられた。
秋には陛下の手で収穫も行われ、稲の一部は伊勢神宮に奉納されるほか、新嘗祭などの宮中祭祀に用いられる。
天皇陛下が田植えをした4日前の5月21日には、皇居内にある紅葉山御養蚕所で、
皇后陛下が、蚕に餌の桑の葉を与える「給桑(きゅうそう)」に取り組まれた。
木造2階建ての紅葉山御養蚕所は1914年に建てられ、現在も当時とほぼ同じ方法で養蚕が行われている。
皇后陛下はこの日、蚕に桑を与えた後、蚕が繭を作る器になる藁蔟(わらまぶし)を手で編まれた。
皇居では現在、3種類の蚕を12万〜15万頭飼育し、皇后陛下は毎年5〜6月ごろ、蚕の餌やりや繭の収穫などを行う。
繭からできた生糸は、正倉院宝物の修復などに使われる。

宮中養蚕は殖産興業のシンボルだった
天皇の稲作と皇后の養蚕の歴史を振り返ると、皇后が皇居で蚕を育て始めたことの方が、半世紀以上古い。
しかし、いずれも近代になってからのことだ。
宮中養蚕は1871年(明治4年)に、明治天皇の皇后美子 (昭憲皇太后)が要望し、
「その道の知識経験のあるものに聞くように」と促して、渋沢栄一が回答したことに始まるという。
明治政府の高官には下級武士出身者が多く、養蚕にかんする知識があるのは、
武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)生まれで
当時大蔵大丞を務めていた渋沢栄一しかいなかったためだと考えられている。
宮中養蚕が始まると、大蔵省はこれを記事にした新聞を買い上げ、各府県に配布した。
これも渋沢の発案だった可能性がある。
渋沢栄一は、官営「富岡製糸場」の設立にも尽力した。
明治政府は、重要な輸出品目として生糸の品質向上と需要の拡大のため、
リヨン近郊出身の技術者ポール・ブリュナーを招き、
1872年群馬県の富岡に官営の「富岡製糸場」を設けた。
この製糸場で、蒸気機関を動力に用い、25人分の繰糸機を12連備えるという最先端技術を誇った。
渋沢は富岡製糸場の設立に向けた計画や調整を行ない、設置主任としてかかわったのであった。
美子皇后が始めた宮中養蚕は、英照皇太后(孝明天皇妃)、貞明皇后(大正天皇妃)、
香淳皇后(昭和天皇妃)、そして美智子皇后へと引き継がれてきた。
1879年、英照皇太后は青山御所内に「御養蚕所」を新設して、養蚕を再開。
群馬県島村の養蚕技術者田島弥平の設計で、木造2階建て、
1階は飼育室、2階は蚕が繭をつくるための上蔟(じょうぞく)室だった。
隣には小さな蚕室も併設され、華族の子女が蚕の飼育を行なった。
その後も青山御所での養蚕は行なわれ、英照皇太后が崩御する前年、1896年まで続けられた。
1908年、皇太子妃節子(のちの貞明皇后)により、青山御所内御養蚕所での蚕の飼育が復活されることとなる。
節子は幼少のころから養蚕に関心があり、青山御所で、
1912年までは皇太子妃として、1913年からは皇后として「御親蚕」を行なった。
1914年には、本多岩次郎設計の御養蚕所が、皇居内紅葉山に新設された。
木造2階建てで、伝統的な蚕室と近代的設備を備え、本格的に養蚕が行なわれるようになった。
貞明皇后は戦後の1947年「大日本蚕糸会」の総裁に就任。
蚕糸関係施設の視察や、蚕糸関係者、養蚕農家を激励して各地をめぐった。
美智子皇后は、1988年に香淳皇后より養蚕を引き継いだのである。

昭和天皇が稲作を始めた“事情”
現在も、「皇后の養蚕」とともにつづけられている「天皇の稲作」は、皇后の養蚕より新しく、
1927年(昭和2年)に昭和天皇が、内大臣秘書官長や
侍従次長兼皇后宮太夫などを務めた河井弥八の発案により始められたものだった。
河井はのちに、大日本報徳社社長を務め、サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし、
「サツマイモ博士」とあだ名された官僚・政治家である。
河井は、1926年7月23日、内大臣府秘書官長に就任。官長としての最初の大きな仕事は、
同年12月25日に崩御した大正天皇の大喪と昭和天皇の皇位継承の儀式だった。
1927年3月3日、侍従次長兼皇后宮大夫になった河井は即位したばかりの昭和天皇に、皇居での稲作を提案した。
この提案を受け入れ、赤坂離宮内苑菖蒲池のほとりの水田で、昭和天皇はお田植えをされたのである。
河井は日記に「聖上陛下御親ら田植を遊ばさる。
真に恐懼(きょうく)とも歓喜とも名状し難き思あり」と提案が実現した感動を記している。

天皇の稲作は、農業奨励や農民の苦労をしのぶために始められたといわれる。
しかし河井が、新天皇にも、皇后の養蚕のような日本産業を体現するシンボリックなふるまいが必要だ、
と考えていたとしても不思議ではない。
じつは昭和初年頃には、米の生産高は明治10年代の2倍以上に増加したものの、
幕末の3倍近くにまでなった人口増加のため、日本は深刻な米不足に陥り、
朝鮮や台湾からの米の移入で不足分をまかなっていたのである。
河井が発案した天皇の稲作が効果を上げたわけでもないだろうが、1930年は大豊作となる。
しかし、世界恐慌によって生糸の対米輸出が激減し、生糸価格が暴落。
これを引き金にほかの農作物の価格も次々と崩落する。
大豊作だった米価も暴落し、日本の歴史上初めての「豊作飢饉」が起こる。
米と繭で成り立っていた日本の農村は、収入源を絶たれてしまったのだ。
翌1931年には一転して東北地方、北海道は冷害による大凶作にみまわれ、
欠食児童や女子の身売りが横行する事態となった。

新しい産業に手を染めていただきたい
宮内庁によると、宮中養蚕は、2019年4月の天皇陛下の退位後は新皇后となる雅子さまが養蚕を継承されるという。
今月13日には皇后陛下が天皇陛下とともに皇太子ご一家を御養蚕所に案内された。
2019年は即位関連の儀式が相次ぐため、雅子妃による本格的な養蚕は2020年からになるとみられる。
一方、天皇の稲作は、今上陛下にとっては今年が最後のお田植えとなり、
陛下の譲位後は新天皇となる皇太子が引き継がれる見込みである。
なお、天皇の稲作と皇后の養蚕は「ご公務」ではない。
また、稲作によってできた米が新嘗祭に使われるものの「宮中祭祀」でもない。
宮内庁のホームページの「天皇皇后両陛下のご活動」によると、ふたつとも「伝統文化の継承」に位置づけられている。
しかし、ここまで見てきたように天皇の稲作と皇后の養蚕は、近代日本の殖産興業としての側面が強かった。
だとすれば次代の天皇皇后には、21世紀の日本を象徴する産業にも手を染めていただきたいものである。
これからの日本を支える産業のひとつは、なんと言っても情報通信産業だろう。
そこで思い浮かぶのは、天皇皇后がスマホを使いTwitterやFacebook、
あるいはInstagramで日々の暮らしやご活動、思いやお姿を発信する未来だ。
日本の皇室とも関係が深い英国王室は、インターネットをさかんに活用している。
ロイヤル・ファミリーは、ソーシャルメディアに積極的に取り組み、さまざまな発信を行っている。
天皇皇后ご自身が、インターネットをとおして発信する思慮深いお言葉や慎みのあるお姿は、
日本人はもちろん、世界中の人々に届くに違いない。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56263

「雅子妃に銀メダル」発言に違和感

皇太子殿下の「雅子妃に銀メダル」発言に違和感 --- 八幡 和郎
6/25(月) 16:20配信
アゴラ言論プラットフォーム

結婚25年となる皇太子ご夫妻が、お気持ちを文書でつづって発表されました
(http:// www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/19)。
来年5月に新天皇となられる皇太子殿下は
「気持ちを新たに、互いに協力しながら一つ一つの公務に取り組んでまいりたい」と述べられ、
妃殿下は「たくさんの喜びも悲しみもありました」「広く人々の幸せを祈っていきたい」とされました。

そして、皇太子殿下は結婚10年の時に、雅子さまに「『努力賞』と『感謝賞』のダブル受賞」とされましたが、
今回は「加えて、銀婚式に因んで銀メダルも贈りたい」とされ、妃殿下は皇太子さまに「感謝状を」とし、
金婚式で金メダルとなるか心もとないが、温かい家庭を築くよう努力していくと述べられました。
いうまでもなく、両殿下が銀婚式を迎えられたことは、喜ばしいことで、
国民の一人として、お祝いを申し上げたいと思います。
また、妃殿下の体調が回復傾向にあることも心から安堵しています。
しかし、「銀婚式に因んで銀メダル」というのには、
2003年から適応障害の療養が続き公務を十分に果たされていないなかでは、いささか違和感を覚えました。
ただ、お祝い事に水を差すのもいかがかと思い、少し時間をおきましたが、
やはり、来年には天皇陛下になられる皇太子殿下に対して、ひとこと問題提起をするべきだと思います。

殿下は、以下のようにされました。
“雅子は,この25年間,大変なこともある中で,色々な努力を続け,また,私と愛子をしっかりと支えてくれており,
ありがたく思うとともに,心から感謝しています。点数を付けるのは難しいですが,
今回は,結婚10年の折の「努力賞」と「感謝賞」のダブル受賞に加えて,
銀婚式に因んで銀メダルも贈りたいと思います。”

しかし、妃殿下は25年の結婚生活のうち、15年間は公務をごく限定的にしかされていないのです。
首相夫人にとって公的な活躍は、私人としての任意のものです。しかし、妃殿下の場合には、公務です。
民間企業の副社長夫人に例えれば、首相夫人はただの社長の配偶者ですが、
妃殿下は副社長夫人であるだけでなく、自分も専務か常務であるようなものです。
そういう状況にあって、15年もほとんど仕事ができないなら、
それが病気がゆえであろうが、ほかの事情があろうが、
株主や社員に対して申し訳ないということをいうのが先決ではないかと私はかねがねいってきました。
それを仰らないのは、たとえ、自分たちが被害者だと思っておられるとしても、おかしいし、
また、被害者というなら誰が加害者かも大問題なのです。

皇族内や宮内庁のなかで苦言を言われたり、マスコミで批判されたりするのは、不当でも何でもないことです。
海外のロイヤル・ファミリーは日本での遠慮がちな皇室報道と違って情け容赦ないものです。
また、政治家や実業家、スポーツ選手、芸能人の夫人だって公人として厳しい批判の洗礼を受けているのであって、
究極の公人である皇族が批判を受けたくないなどというのはおかしいし、
まして、国際的な常識のもとでの「開かれた皇族」であろうとしたいなら、
これまでのような抑制されたものでなく、国際水準での厳しい試練に耐えるべきだと思います。
だとすれば、まずは、これまでの状況について、国民に対しても、
両陛下に対してもお詫びのようなものがないのは不自然なのではないでしょうか。
両殿下は、来年、即位されれば、なにかと今上陛下および皇后陛下と比べられることになります。
陛下は、一昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」において、
自らが心がけてこられた象徴天皇像をお示しになりました。
当時、私は、それは普遍的なものでなく、陛下ご自身の美学と捉えるべきだと申し上げました。
なぜなら、現在の両陛下の実践されているストイックな象徴天皇像は、
雅子さまの体調からして真似できないものだからです。
だから、私は雅子さまや、それに寄り添うことで、公務をセーブされているとみられる皇太子殿下も、
今上陛下ほどストイックな活動をされるのは、難しいし、無理をされることも止められた方が良いと思います。

今回の文書でも妃殿下は、「(被災地訪問などで国民と苦楽をともにしてきた天皇、皇后両陛下の姿を)常に心に留める」
と仰っしゃるに留められているのは、余り無理をしないというおきもちかもしれません。
ただ、やはり、そのことについて、両殿下は、両陛下や国民に対して、
申し訳ないという姿勢を示すことがなくていいのかというと、違うのでないかと思うのです。

皇族であろうが、首相であろうが、家族愛は結構なことで、
家族を大事にする姿勢をポジティブに捉えたいのですが、
やはり、公人として、本人の責任であろうがなかろうが、結果として責任を果たせてないときに、
申し訳ないという姿勢を示さなければ、社会的信頼を失うし、社会全体に悪影響も及ぼすと思います。

私はどうも、このところ、社会的に影響力がある人が、家族とか身内に甘すぎて、
世の中に示しが付かなくなっているのでないかと危惧しています。
もちろん、安倍昭恵夫人も好ましくない交友のもたらした混乱について
一言でいいから反省とお詫びを言って欲しいし、
それをしないから、モリカケの追究が延々続く理由でもあるとかねてからアゴラでも書いてきたとおりです。

私は皇室の問題について、批判的な議論が封じられることはあってはならないと思います。
敬意を払い少しオブラートに包むことはあってよいが、アンタッチャブルではいけないのであると思うから、
アゴラでも書いてきましたし、それを「新潮45」の記事や
『誤解だらけの皇位継承の真実』 (イースト新書)(https:// amzn.to/2IijKta)ではかなり網羅的に論じました。

日頃、いろんなところで、各界の有力者ともこのテーマを話すのですが、
危機感をもちながらも、なかなか難しいテーマなので、外に向かっては発言しない人が多いのですが、
そんなことをしていると、いずれ、危機が訪れるでしょう。
私は、できるだけ「皇室制度」の現状に問題ありという形で制度論として論じるように心がけています。
皇室というのは、皇族、宮内庁、それに政府の三つからなると思います。
私はそれら全体をひとまとめにした「皇室」に問題ありといって、
個々の三要素のどの責任かは少しオブラートに包んで議論しているわけです。

私は、宮内庁にも、政府にも、そして皇族方にも問題があり、また、問題を解決出来るシステムも崩壊状態であり、
いまの責任回避と問題の先送り体質のままでは、皇室制度の危機につながりかねないと心配しています。
八幡 和郎
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180625-00010002-agora-soci

「雅子妃」銀婚式に“人格否定”の残響

「雅子妃」銀婚式に“人格否定”の残響 孤立を深めた皇太子の「美智子皇后」批判
週刊新潮2018年6月21日号掲載
雅子妃」銀婚式に「人格否定」の残響(上)
来年の御代替わりまで、残すところ10カ月余り。先ごろ両陛下は「最後」の被災地ご訪問を果たされた。
一方でさる9日には、皇太子ご夫妻がご成婚から25年となる「銀婚式」を迎えられたのだが、
そこには今なお、14年前の“衝撃発言”が、厳然と響き渡っているのだ。
9日から福島県を行幸啓された両陛下は、最終日の11日、相馬市にある東日本大震災の慰霊碑に向かわれた。
「今回の目的である植樹祭はもちろんのこと、事実上、ご在位中の被災地ご訪問もこれが最後となります」
とは、宮内庁担当記者。
「皇后さまはお疲れもあって体調を崩され、11日の早朝には38度を超す高熱があったのですが、
慰霊碑前には予定通りお見えになり、強い雨の中、
陛下とともにしっかりしたお手つきで供花なさる姿が印象的でした」
こうした行幸啓は来年5月以降、皇太子ご夫妻へと引き継がれていくわけだが、
1993年のご成婚から四半世紀、辿ってこられた道のりは、まさしく山あり谷ありだったと言わざるを得ない。

9日に発表された文書で皇太子さまは、次のように述べられていた。
〈雅子は、この25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け、
また、私と愛子をしっかりと支えてくれており、ありがたく思うとともに、心から感謝しています。
点数を付けるのは難しいですが、今回は、結婚10年の折の「努力賞」と「感謝賞」のダブル受賞に加えて、
銀婚式に因んで銀メダルも贈りたいと思います〉
そのお言葉を受けるようにして雅子妃も、
〈今回、殿下からは、身に余る賞や「銀メダル」までいただけると仰って下さり、
その寛大なお気持ちを大変ありがたく思いますとともに、
金婚式に「金メダル」をいただけますかどうかは心許なく感じます……〉
と、さらに四半世紀先へと思いを馳せられながら、あわせてこう記されていた。
〈25年間を振り返りますと、様々な出来事が走馬灯のように頭の中を巡り、感慨深いものがございます〉
〈私が体調を崩しましてからも、皇太子殿下には、いつも優しく、
細やかなお心遣いをいただきながら、お助けいただいてきている〉
文面の通り、過ぎ去りし25年は実に起伏に富んでいた。
中でも特筆すべきは、やはり皇太子さまの「人格否定」発言であろう。

皇太子の「美智子皇后」批判
ことは14年前に遡る。2004年5月10日、欧州各国ご訪問を前に皇太子さまは、
東宮御所で恒例の会見に臨まれていた。
ここで、予期せぬ事態が生じた。当時を知る全国紙デスクが振り返る。
「前年からご静養されていた雅子さまが同行されないことについて質問があり、
皇太子さまは『心底残念に思っています』と、お気持ちを代弁されながら
『外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、
大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました』と明かされた。
また、ご自身のお気持ちも『後ろ髪を引かれる思いです』と吐露なさったのです」
皇太子さまの口から衝撃的なフレーズが発せられたのは、その直後であった。
〈雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、
私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。
それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉
会見の場が静まり返ったのは言うまでもない。
「会見の最後には『どんなことを念頭に置かれたお話なのか』と、補足質問が飛びました。
皇太子さまは『細かいことは控えたい』とされながら
『そのことで雅子も私も、とても悩んだ』と漏らされたのです」(同)
皇太子さまはその2日後に渡航され、5月24日に帰国。が、ご不在中に騒ぎが鎮まるはずもなかった。
「5月17日には、宮内庁の羽毛田(はけた)次長(当時)の会見で『社会的影響の大きい発言。
あらためて具体的内容が説明されなければ、国民が心配する』との陛下のお気持ちが示されました。
結果として皇太子さまは、ご帰国後の6月8日、長官の会見を通じて
文書でご発言の真意を説明せざるを得なくなったのです」(同)
その文面には、こう綴られていた。
〈具体的内容について、対象を特定して公表することが有益とは思いません(略)
皆さんにお伝えしたかったのは、私たちがこれまで直面してきた状況と今後に向けた話です〉
名指しこそ避けられたものの、ご夫妻を取り巻く環境に苛(さいな)まれてこられた点を繰り返し強調されたのである。

東宮大夫の電話を叩き切った雅子さま
が、ここからさらなる混乱が引き起こされていく。
「皇太子さまの苛烈なお言葉は、一体どなたに向けられたものなのか、と様々な憶測が流れました。
一義的には、ご成婚当時から『外遊はともかくお世継ぎを』との空気が支配していた宮内庁、
中でも歴代の長官をはじめとする幹部らへ向けられたものでしたが、
そうした雰囲気をおのずと醸成なさっているであろう両陛下、
とりわけ皇后さまにも切なるお声を届けたかったのではないか……。
当時はそんな見方も、記者会では広まりました」(同)
この6月8日の「説明文」が出される少し前、皇太子さまのご真意を伺うべく
電話をかけてきた当時の東宮大夫に対して雅子妃は、
〈そんなことをするのなら、私は皇太子妃を辞めます〉
そう言って一方的に電話を切り、傍らの皇太子さまに「はっきり申し上げましたよ」とご報告される一幕もあった。
さらには、「その年の11月、今度は秋篠宮さまがお誕生日会見でこの問題に触れ
『記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、
その上での話であるべきではなかったかと思っております。そのことは残念に思います』と、
異例の兄宮批判をなさったのです」(同)
庁内は言うに及ばず、宮中でも抜き差しならない状態が続いていた。それは、陛下が同年末のお誕生日に、
〈皇太子の発言の内容については(略)まだ私に十分に理解しきれぬところがあり……〉
そう言及なさったことからも明らかで、まさしく平成最大の危機が皇室を覆っていたのだった。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06230800/?all=1&page=1


「皇太子ご夫妻」ご成婚25年も… 次期皇后が未だ「会見NG」の非常事態
社会週刊新潮 2018年6月21日号掲載
「雅子妃」銀婚式に「人格否定」の残響(下)
さる6月9日に「銀婚式」を迎えられた皇太子ご夫妻。
皇太子さまが発表された文書では
〈雅子は、この25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け…〉と述べられていた。
〈25年間〉を振り返るとき、中でも特筆すべきは2004年の皇太子さまの「人格否定」発言だろう。
〈雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉
というお言葉は、歴代の宮内庁幹部、あるいは美智子皇后に向けられたものか、との憶測を呼んだ。
秋篠宮殿下、そして陛下も疑問の声を投げかけられたこの発言により、皇太子さまは孤立を深めていった。

そんな異常事態を招くに至った経緯を、あらためて振り返っておく。
銀婚式にあたり雅子妃は、
〈皇室に入りましてから間もない頃、殿下からご助言をいただきながら、
初めての公務の一つ一つに臨んでおりました頃のことも懐かしく思い出します〉
そう回想しておられるのだが、当時はご公務以上に重要な使命を帯びていた。
「言うまでもなく、男子のご出産です。秋篠宮家では91年に眞子さまがお生まれになっていましたが、
皇位継承に連なる男子は皇室には一人もいらっしゃらなかった。
その後、94年暮れには佳子さまが誕生なさるものの、状況は依然、変わらないままでした」(全国紙デスク)
いや増すばかりの重圧に、雅子妃はこんなお振舞いを見せたこともあった。当時を知る宮内庁関係者が言う。
「95年のことです。ご懐妊の兆しが見えない雅子妃を陛下が慮(おもんぱか)って
『国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ』というお言葉を掛けられたことがあった。
それに対して妃殿下は『私の周りには、そんなことを言う人は一人もおりません』と、毅然と言い放ったのです。
陛下は驚き、呆気にとられたご様子でした」

居場所を失いつつあった妃殿下
その後、99年末の流産を経て01年には愛子さまをご出産。
当時、子を授かった喜びを雅子妃は「生まれて来てくれてありがとう」とのお言葉で表したのだが、
周囲との“温度差”は際立っていったという。
「庁内はもっぱら『事態は何一つ進んでいない』という雰囲気で、つまりはおつとめを果たせていないということ。
にもかかわらず、ご出産から1年で外遊に復帰なさったのですから、風当たりは一層強まってしまいました」(同)
02年12月、ご夫妻はニュージーランドと豪州をご訪問。
その直前、会見で雅子妃は、きわめて率直なお気持ちを口にされていた。
〈私にとりまして、結婚以前の生活では(略)外国に参りますことが、頻繁にございまして、
そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから(略)
外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、
正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要った〉
が、これが物議を醸した。
「メディアでは『そんなに海外に行きたいのか』といった論調が目立ち始めた。
加えて、数少ない理解者であり、妃殿下が大きな信頼を寄せられていた
高円宮殿下の薨去(こうきょ)(02年11月)も、時期が重なってしまった。
妃殿下は徐々に、居場所を失いつつあったのです」(同)
高円宮さまは86年10月、東宮御所で催されたスペイン王女の歓迎レセプションの場に
当時学生だった雅子妃を招き、皇太子さまとの出会いに繋げられた。
いわばご夫妻のキューピッドであり、雅子妃のお気持ちの沈みようは計り知れなかったであろう。
そして、「03年の暮れには帯状疱疹を発症し、軽井沢で転地療養をなさいます。
そうした中で04年、殿下の“人格否定”発言が飛び出したわけです。
その翌月には適応障害と診断され、本格的な長期療養生活に入られたのでした」(同)
以来14年。06年夏には、皇太子さまや愛子さまとご一緒に、
オランダで2週間のご静養という異例の措置までとられたのだが、
「翌年5月、訪欧前の会見で、陛下が『私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません』と発言された。
これがもっぱらご一家への“苦言”だと見なされてしまったのです」(同)

16年間肉声なし
現在まで療養を余儀なくされながらも、「銀婚式の文書からは、雅子妃殿下の変化が窺えます」
とは、皇室ジャーナリストの山下晋司氏である。
「5年前のご成婚20年の際には、いわば一方的な両殿下のご感想が宮内庁から出されましたが、
今回は記者会の質問に対して両殿下が別々に回答されています。
その点を以てしても、妃殿下の体調は良くなっているのではないでしょうか」
とはいえ、なおも大きな“懸念”が横たわったままだと指摘するのは、宮内庁担当記者である。
「02年末以降、雅子さまは16年間にわたって記者会見をされていません。
我々は今回、ご夫妻揃っての会見を3カ月前から宮内庁に申し入れていたのですが、受け入れて貰えませんでした」
雅子妃がメディアをことのほか遠ざけられているご様子は、療養生活において度々窺えた。
「外国ご訪問の前には、慣例で会見が開かれます。
ですが、このままでは新皇后となられて以降もなさらないお考えでしょう。
深刻な事態に違いなく、それで果たして、国民に声が届くのか。
皇后さまから御養蚕や赤十字の名誉総裁職を引き継がれても、
やはり最後には、公の場でご自分の言葉でお話しになるという“高い壁”が、立ちはだかっているのです」(同)
きたる9月には、友好160周年を記念した皇太子さまの渡仏に同行なさる見通しだ。
が、ここでも肉声は拝聴できそうにない。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06240801/?all=1

ご退位表明で申し込み殺到! 「皇居勤労奉仕」に行ってきた

【新潮45】ご退位表明で申し込み殺到! 「皇居勤労奉仕」に行ってきた
デイリー新潮2018年06月19日06時50分

天皇陛下にお目にかかれ、直接お言葉をいただけることもある――。
昭和20年に始まった皇居勤労奉仕。陛下がご退位を表明されたことを契機に、現在申し込みが殺到しているという。
大の大人が涙するという皇居勤労奉仕とは一体どんなものなのか。ライターの小桜真理さんが自身の体験を綴る。
(以下、「新潮45」2018年7月号より抜粋、引用)

 ***

「はい、そこ! おしゃべりしない! 4列を乱さないで!」

これが皇居勤労奉仕の初日、奉仕開始後、たった5分で我が団に浴びせられた言葉である。
集合場所から皇居内の奉仕場所へ移動するには4列縦隊が原則。
集合するたび、速やかに4列になり、全員揃っているかの点呼が必要だ。
我が団は40をとうに過ぎたメンバーで構成されており、
列をつくるのも、足並みを揃えて歩くのも数十年ぶり。しかも怒られるとは……。
そんな、いきなり10代の学生時代に戻ったような衝撃と甘酸っぱさで、勤労奉仕は始まった。
叱責の主は全国から集まってくる奉仕団を束ねる宮内庁の女史。
かわいらしい外見からは想像のつかない厳しい言葉がそれぞれの団に飛ぶ。
その存在はまるで「アルプスの少女ハイジ」で、
都会へやってきたハイジを厳しく教育するロッテンマイヤーさんを彷彿とさせ、
我が団では誰からともなく「マイヤー先生」と親愛を込めて呼ぶようになった。

終戦直後に始まった勤労奉仕
皇居勤労奉仕が始まったのは昭和20年(1945)。終戦直後、皇居も空襲に遭い、
焼け落ちた場所があったことを知った宮城県の有志が「後片付けをさせてほしい」と手弁当で上京、
奉仕を許されたことがきっかけとなり、全国から続々と奉仕団が集まるようになった。
現在では、祝日のない週の月曜から木曜、火曜から金曜の4日間が奉仕日とされ、
うち3日を皇居、1日を赤坂御用地にて、清掃や草むしりなどの作業に当たる。
最大の魅力は皇居では天皇陛下、皇后陛下の、
赤坂御用地では皇太子殿下、皇太子妃殿下の「ご会釈」を賜われることである
(皇太子妃殿下はお出ましにならないことが多い)。
私自身、勤労奉仕未経験のときも「ご会釈」なるものがあることは知っていて、
それは草むしりなどをしているところへ陛下が歩いていらして、
文字通り「ご会釈」をしていってくださるもの、と思っていた。
ところが実際は違った。ご会釈用の部屋へ通され、奉仕団ごとに整列。
そこへ天皇皇后両陛下がお出ましになり、各団が普段どんな活動をされているのかなど
直々にご下問をされ、言葉を交わすことができるのだ。
答えられるのは団長だけだが、その後ろに立つ団員も感激の涙を流す者が後を立たない。
数年前、初めて勤労奉仕に入ったとき、ご会釈についての説明を受けた。
宮内庁の方の「皆様が退出した後の部屋の床が涙で濡れていることがあります」という言葉を
半分「誇張」として聞いていたが、なんのことはない、ご会釈を体験した自分が涙で床を濡らしていた。
私だけではなく、退出するときに床を見れば、あちらこちらに
同じような涙の跡が小さな水たまりを作っていたのである。

ご退位の表明で申し込みが殺到
なぜ、大の大人にそれほどまでに涙を流させるのか、その考察は後に譲るとして、
どうすれば勤労奉仕に入れるのかを説明しよう。
年齢制限は15歳から75歳。15名から60名までを一団とする。
このために集まったのではなく、普段から活動をしている仲間であることが望ましいとされ、
その名簿とともに奉仕に入りたい希望の日にちを第3希望まで明記して、宮内庁へ提出する。
すると、宮内庁で人数調整をした上、奉仕許可証が発行され、当日を迎えることとなる。
……と、以前まではこの段取りでスムーズに参加できていたのだが、
陛下のご退位が決まったことを契機ににわかに様相が変わってきた。
「最後のご奉仕」とばかり、申し込みが殺到し出したのである。
総勢200人(7団体)が上限とされている中、その倍の申し込みがあり、抽選が行われている現状だという。
我が団も1度は外れ、捲土重来を期して2度目の申し込みで今回のご奉仕を獲得した。
そのとき「前回落とされたから、今回は大丈夫」と思い、申し込んだが、
実はそうした忖度は一切なく、延々と落ち続ける団もいるという。
今後の申し込み状況を宮内庁のHPでチェックすると、すでに12月の申し込み可能期間も残りわずか。
陛下が在位期間である来年4月までは、さらに熾烈な申し込み合戦が繰り広げられるに違いない。

記念撮影からスタート
それでは、具体的な奉仕内容に移ろう。皇居は、天皇皇后両陛下がお住まいになる吹上御所を中心とする「御所エリア」、
晩餐会や陛下の執務が行われる「宮殿エリア」、一般にも開放されている「東御苑エリア」の三つに分けられる。
各エリアを1日ずつと赤坂御用地で計4日間の奉仕となる。
どのエリアからの奉仕になるのか、赤坂御用地にはいつ行くのかは奉仕に入るまでわからないが、
初日の午前中に行われるのはもれなく「記念撮影」だ。
皇居なら二重橋前、伏見櫓をバックに。赤坂御用地なら春、秋の園遊会の舞台となる庭園で。
専属のカメラマンが団員それぞれの顔がよく見えるよう細心の注意を払って撮影してくれる。
初めて奉仕に入ったとき、いきなりのこの撮影会を体験して「これは勤労奉仕というより、
国民のための思い出づくり大会なのでは……?」という思いが頭をかすめた。それが大正解だった。
皇居勤労奉仕とは、天皇皇后両陛下をはじめとするご皇室の方々、
さらに宮内庁の方々を総動員しての、国民大接待の場なのだ。

奉仕団50人ほどに1人、宮内庁管理部庭園課の方がつき、一日中アテンドをしてくれる。
奉仕場所へ辿り着くまで、広い皇居の中、一般の皇居参観では
決して立ち入ることのできない場所まで、勤労奉仕では立ち入りを許される。
たとえば「御所エリア」。もちろん、御所の近くへ行くことはできないが、重要な祭祀が行われる宮中三殿や、
陛下が毎年、稲を育てられる水田、皇后陛下のご養蚕のための桑畑など、庭園課の方の詳しい説明とともに見学できる。
300もの盆栽が並ぶ大道庭園では、国賓を出迎える際、宮殿玄関に飾られる「根上がりの松」という樹齢390年、
重量380キロの五葉松はじめ、3代将軍家光が愛した五葉松、樹齢600年にもなる真柏などを間近に拝見することができ、
その素晴らしさには目を見張るばかりだ。(後略)

 ***

全文は「新潮45」2018年7月号に掲載。陛下に間近に拝謁した時の感情や、
そのときの陛下のお言葉など、6ページにわたり克明にルポルタージュする。

小桜真理(こざくら・まり)
ライター。日本の歴史、伝統文化に特化した執筆、講演活動につとめる。
現在は新元号に向けて「日本人にとっての元号とは何か」論を展開中。今回で勤労奉仕は3回目。

「新潮45」2018年7月号 掲載

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-543797

秋篠宮家の庭

秋篠宮家の庭には○○○がごろごろしている…〈週刊朝日〉
dot. 5月30日(木)11時34分配信
佳子さまがご家族と暮らす秋篠宮邸は港区元赤坂の赤坂御用地にある。外周約3キロの敷地内には、
東宮御所や、三笠宮邸、高円宮邸などが散在し、春秋の園遊会が開かれる赤坂御苑や、
本格的な試合ができるテニスコートがあるほか、野鳥の観察もできる鬱蒼(うっそう)とした森も広がる。
「愛子さまが住む東宮御所とは1キロ近く離れていますが、皇太子ご一家が散歩の途中に、秋篠宮家を訪れ、
お茶を飲んだりすることもあるそうです。
一人っ子の愛子さまは、佳子さまと10代の女の子同士の女子トークを楽しんでいるそうです」(宮内庁記者)
秋篠宮ご夫妻は、結婚後約10年間、同敷地内の元職員宿舎を改造した木造平屋(約100平方メートル、
3LDK+S)に仮住まいを続けていた。築60年を超えるシロモノだったが、長女の眞子さまと佳子さまが生まれた際に、
それぞれ2間ずつ増築。佳子さまも幼稚園までは、ここで暮らしていた。
佳子さま5歳の2000年に、総工費約6億5千万円を投じて、公務に使う秩父宮邸(延べ860平方メートル)に
住居部分として鉄筋コンクリート2階建て(8室、延べ床面積472平方メートル)を増築した新邸が完成した。
佳子さまのお部屋も増築部分にあるとみられる。
「秋篠宮ご夫妻が公務に使っている部屋には、大小のひょうたんがずらりと並んでいます。
中には、人の背丈ほどあるものもあり、初めて訪れた人はびっくりするでしょう。
秋篠宮さまは全日本愛瓢会の名誉総裁なのです」(同家を訪れた人)。
庭では野菜づくりをしており、食卓にのぼることもあるという。
ペットもいる。秋篠宮家では最近犬を飼っているが、そのほかにも、以前から「一風変わったペット」がいる。
「温泉に入る姿が一般でも大人気になっている南米原産の巨大ねずみ『カピバラ』を
かつて飼っていたことがあります。今も、カピバラとよく似た『マーラ』が数匹、庭に放し飼いになっています」(同)
マーラもアルゼンチン原産で、体長50〜70センチ。体重も10キロ近くなるねずみの仲間だ。
ねずみとはいえ、愛くるしい容姿で、天気のよい日には、秋篠宮家の窓から庭でマーラたちが
ごろごろとひなたぼっこしている姿が見えるという。
ちなみに昨年9月、悠仁さまのお誕生日に公表された写真の端には、眞子さま、佳子さまや悠仁さまと一緒に、
背後の茂みからこちらを向いているマーラの姿がうつっていた。
※週刊朝日 2013年6月7日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130530-00000004-sasahi-soci

立て膝でリラックス・SPをふりきる承子さま

週刊新潮 2014年9月4日号
「承子さま」28歳の夏 お相手の自宅に寄る日もある「高円宮承子女王」の恋と結婚

立て膝でリラックス
7月上旬、承子女王はユニセフの業務でベトナムに出張された。
そして、実はその直前にも件の男性と2人きりで会われていたのだ。
巻頭グラビアに掲載した写真と合わせ、当日の様子を再現してみる。
週末の21時過ぎ、東京・神保町で合流したお二人は、豚料理が売りの居酒屋へ。
生ビールを飲み干し、話題は間近に控えた出張へと及ぶ。
ベトナムは夜が寒いらしくて―― そう懸念される女王は、待ち合わせ前に立ち寄られた量販店で、
出張用の衣類を購入したと告げられた。そこで男性が、デニムって、労働者の服じゃないのと、
おもむろに意見を差し挟む。テーブル席でリラックスされ、
立て膝姿で聞いていた女王のパンツは、あいにくデニム地であった。
「おもに女性が積極的に話しかけ、男性はもっぱら聞き役で、時折気のない返事をしていました。
でも、むしろ長い付き合いで、お互い以心伝心、というような雰囲気でしたね」(居合わせた客)
実際に、先の宮内庁関係者はこう明かすのだ。
「承子女王は、その男性の住むマンションに遊びに行かれることもある。
すでに、そうした“間柄”になっているのです」
さては、宮家に立て続き慶事の到来か――。

「結婚と交際は別です」
残暑厳しい週末の昼下がり、赤坂御用地からお出ましになる女王をお見かけした。
陽射しを避けるべく鍔の広い帽子を被り、飼い犬を連れて青山1丁目の交差点を渡られている。
そこで畏れながらお声掛けを試みたところ、
「(男性と)仲良くはしていますよ。私、すごく友達が多いので、
いつ知り合ったかは覚えていませんが、かなり以前ですね」
と仰る。男性のマンションに立ち寄られた件については、
「どうだったかなあ……行きましたっけ?」一瞬、間を置きつつも、率直な“結婚観”を披瀝して下さったのだ。
「私の家には、(男性は)大勢のお友達と一緒に来たことがあります。
母とも会っていますが、当面、私は仕事に打ち込もうと決めているので……。
父の務めていた名誉職などを母が全て継いでおり、私もしなければならないことが沢山あるのは自覚しています。
ですから結婚は、少なくともあと3、4年は絶対にありません」
そもそも11年、民主党政権下で始まった「女性宮家」創設に向けた議論は、
<未婚の女性皇族が次々と結婚適齢期を迎え、皇室活動の安定性が保てなくなる>
との危機感が根底にあった。が、承子女王は、
「今の時代、女性にそれ(適齢期)を言ったら怒られますよ。
妹の婚約は本当に嬉しいですが、母からは私の結婚について何も言われていません。
母も私の年齢ではまだ独身でしたので。昔から私、結婚とお付き合いするのは、完全に別だと思ってきました」
これまで積み重ねられてきたイメージに違わぬ、堂々の“奔放宣言”である。
さらには、次のように付言なさるのであった。
「でも、全てにおいて、誰と何がどうなるかなんて、分からないじゃないですか……ふふふ」
 一方、お相手の男性に尋ねると、こちらも示し合わせたかのように、
「(女王とは)共通の友人が多いので、その繋がりで知り合いました。
仲は良いですが、私の家に来られた日は、他に仲間も何人かいて、
彼らは用事があって先に出て行ったのです。2人で過ごしていたのではありません」
と言うものの、先の関係者によれば、
「マンションに立ち寄られた際、承子女王はこの男性と2人きりで、
麻布十番の焼肉レストランで食事をなさっていたのです」
やはり、火のないところに煙は立たないようなのだ。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、
「高円宮家はもともと開放的、活動的なお家柄。久子妃殿下はもとより、亡くなられた殿下も
ご交友の広い方でしたから、承子女王もまた然りでしょう。
ご成婚に際しても妃殿下は、本人の意思を尊重するお考えだと思います」と指摘しながら、
「ひと頃に比べ、承子女王は皇族として、また一人の人間として大いに成長なさったと拝察されます。
この秋には妹宮が嫁がれるわけですから、長女として、
ご公務が目白押しのお母様を支えるお役目は一層増します。
そのご自覚も、十分におありのことでしょう」
とはいえ、そこは“型破り女王”だけあって、いつ何時サプライズが起きぬとも限らない。
果たして、恋の行方やいかに……。


女性セブン2014年9月18日号
皇族のSP カラオケ時に隣部屋で待機したり振り切られる例も
2014.09.10 07:00

高円宮家の長女・承子(つぐこ)さま(28才)が、
ガバンク系のシンクタンクに勤務する20代後半の男性と都内でデートする様子を
『週刊新潮』(9月4日号)が報じた。
承子さまと男性は、神保町や新橋で待ち合わせをされ、居酒屋で過ごされたとのことだが、
このときSPは店外で待機していたという。
当のご本人はSPを待たせていることなど気にも留められずデートを楽しまれていたが、
やはり皇族のデートにはSPが同行するのだ。
秋篠宮家関係者もこう話す。
「佳子さまは男女複数のお友達とカラオケによく行かれるんですが、
佳子さまたちの部屋の隣の部屋をSPたちが取って、待機しているそうです」
SPと良い関係を築くことも、女性皇族が恋を育てる最良の方法のようだが、承子さまだけはちょっと違うようで…。
「早稲田大学在学中、承子さまはSPに何も告げず、突然電車に乗り込まれ
成田空港まで行ったことがあったそうです。このときは友人の迎えに行ったというのが理由でしたが、
SPは大混乱となってしまったみたいで…。
就職された現在も承子さまは一時的にSPをふり切られ、
デートや会食に出かけられることも少なくないみたいですよ」(宮内庁関係者)
女性皇族の恋ではないが、皇太子さま(54才)が雅子さま(50才)にプロポーズされた
1992年10月の鴨場デートは、まさに“極秘プロジェクト”だった。
絶対にマスコミにデートをキャッチされてはなるまいと、
東宮御所から車で千葉県の新浜鴨場に向かわれた皇太子さまに付き添ったのは、運転手と当時の東宮侍従長だけ。
通常、皇太子さまの外出時には前後を皇宮警察が護衛、そして警視庁や地元警察が周囲の警戒にあたるのだが、
この日だけはSPに一切の連絡をしなかったという異例のデートだった。
万が一、事故にでも巻き込まれれば一大事だ。
しかし、そこまでしなければ実現しなかったのが皇太子さまと雅子さまのご結婚だった。
http://www.news-postseven.com/archives/20140910_274835.html

嵐のコンサートに出かける奔放な承子さま

眞子さまご婚約スクープの背景

眞子さまご婚約スクープ、皇室の事実上リークか…安倍首相への警告、宮内庁職員も関与か
Business Journal / 2017年5月18日 7時0分
16日、NHKのスクープが世間を驚かせた――。
同日19時から放送のテレビ番組『NHKニュース7』は、
秋篠宮眞子さまが国際基督教大学(ICU)在学時代の同級生、小室圭さんと婚約されると報じた。
皇室に詳しいマスコミ関係者は語る。
「宮内庁の山本信一郎長官が眞子さま婚約の報告を受けたのは16日当日の昼頃だとみられ、
この日の夜にNHKが報じるということは、宮内庁にとってもまさに寝耳に水。
報道直後から翌日17日にかけ、庁内はかなり混乱している様子でした。
山本長官は報道直後の16日夜8時30分から急遽記者会見を開きましたが、
『現時点では未定』『知らない』『申し上げる段階ではない』という発言に終始し、
事実上のノーコメントであったことが、その混乱ぶりを物語っています。
宮内庁は通常こうした重要な情報については、記者クラブ以外でも日頃良好な関係を築いているジャーナリストや
記者から問い合わせを受けた際には、きちんと対応するのですが、今回はシャットアウト状態で、
かなり慌てている様子が伝わってきます。
実は宮内省記者クラブ内では、16日に『何か大きな報道が出るかもしれない』という情報は流れていたのですが、
どのマスコミもまさか眞子さまの婚約だとは思ってもいなかったようです」
今週19日に政府は天皇陛下の退位を認める特例法案を閣議決定する予定だが、
なぜそのような“微妙なタイミング”で眞子さま婚約が公表されたのであろうか。
「現在皇族は14人で、そのうち30歳以下は7人ですが、近い将来結婚して皇室を離れる可能性もあります。
これが皇族数、とくに女性皇族数減少により十分な皇室活動を維持できなくなるという懸念につながり、
女性宮家【編注:女性皇族が独立して営む宮家。結婚した女性皇族が皇室にとどまり、
皇室活動を続けることができるとされる】創設の議論につながっているわけです。
19日に閣議決定される特例法案でも、付帯決議に女性宮家創設が入れられるかどうかが焦点となっていますが、
安倍政権は創設に否定的なため、微妙な状況です。
一方、皇室内部には皇族数減少に危機感を抱き女性宮家創設に前向きな方々もおられます。
そうした方々が、閣議決定直前というタイミングを見計らい、
政府に対して『女性宮家を認めないと大変なことになりますよ』と警告なされる意味で、
近しい宮内庁職員を通じてNHKにリークさせたという見方が強いです。
つまり、実質的に皇室によるリークともいえます」(同)

今後の皇室への影響
皇室に詳しい別のマスコミ関係者も、同様の見方を示す。
「今の状況で女性皇族が結婚されれば、女性宮家の議論が盛り上がるのは必至ですが、
女性宮家に否定的な安倍政権は、天皇陛下退位が終わってからゆっくり議論していこうというスタンスです。
そんな現政権のイエスマンで上層部が固められた宮内庁ゆえに、眞子さま婚約の報告を受けたとしても、
政権の意向をうかがっているうちにズルズルと正式発表のタイミングが後ろにずれ込むのは目に見えています。
一方、皇室内で女性宮家創設を進めたい方々は、そんな宮内庁の動きを待ってはいられない。
そこで近しい宮内庁の職員をお使いになられて、NHKに報じさせたとみられています」
では、眞子さまご成婚は、今後の皇室にどのような影響を与えるのであろうか。
「眞子さまは現在、東京大学総合研究博物館で研究員として勤務されながら、
日本テニス協会名誉総裁や日本工芸会総裁などを務められ、さらに海外訪問も含めて公務は多忙を極めておられます。
皇族数が減少するなかで皇族の方々のご負担は現状でもかなり重いですが、眞子さまが皇室を離れれば、
さらにその傾向は強まります。なかでも、秋篠宮家の次女で22歳の佳子さまは現在学生であり、
学業優先のため公務はほとんど免れていますが、
ご卒業と同時に一気に公務の負担がのしかかってくることが予想されます。
秋篠宮家の長男で皇位継承順位3位の悠仁さまはまだ10歳ということもあり、
皇室全体はかなり厳しい事態を迎えつつあるといえるでしょう」(前出と別のマスコミ関係者)
女性宮家創設の問題も含め、安倍政権の対応が問われる。
(文=編集部)
https://news.infoseek.co.jp/article/businessjournal_336931/?p=1

2017.5.18 16:37
伊吹文明元衆院議長「眞子さまの政治利用は厳に慎むべき」 女性宮家検討主張の民進を牽制
自民党の伊吹文明元衆院議長は18日、最高顧問を務める二階派の例会で、
秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまが婚約の準備を進められていることを受け、
民進党などが女性宮家創設に関する訴えを強めていることを牽制(けんせい)した。
「公務をする人が1人減ったからどうかとか、眞子さまを政治的に利用するような発言は厳に慎み、
根本論をしっかりとやった上で、この問題をどうするかを政策集団として議論してほしい」と述べた。
伊吹氏は天皇陛下の譲位を可能にする特例法案の付則決議案に
女性宮家に関する記述を盛り込むべきだとの意見について、
「男系男子が皇室典範の定めるところによって世襲していくという考えをどうするのか、
国民が共通の認識を持つ前に女性宮家を創設することは非常に危険だ」と慎重な姿勢を示した。
同時に「女性宮家の方が外国の方と将来ご結婚して皇嗣がおできになったとき、
その方を天皇陛下として今までと同じ気持ちで日本人が仰ぎ見られるかということがある」とも述べた。
眞子さまは、結婚すると皇室典範の定めにより皇籍を離れられることになる。
現在、皇室には天皇、皇后両陛下をはじめ19人がおられるが、眞子さまが結婚されれば18人となる。
民進党は皇族の減少を念頭に「女性宮家の早急な検討を期限を区切って行うべきだ」(蓮舫代表)と主張している。
http://www.sankei.com/life/news/170518/lif1705180043-n1.html