異例の会見終了 平成17年

平成17年12月
天皇陛下お誕生日に際し
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h17e.html

「私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は国民と苦楽をともにすることに努め、
国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが、皇室のあり方として望ましいということであり、
また、このあり方が皇室の伝統ではないかと考えているということです」

女性皇族の役割について
「女性皇族の存在は,実質的な仕事に加え,公的な場においても私的な場においても,
その場の空気に優しさと温かさを与え,人々の善意や勇気に働きかけるという,
非常に良い要素を含んでいると感じています。」

紀宮様のご結婚について
「二人の結婚に対して,多くの人々が心のこもった祝意を寄せてくれたことをうれしく思います。
二人が2年近く十分に話し合い,心を決めることができたことは非常に幸いなことでした。
二人が結婚の日を迎えるまで,様々な面で力を尽くしてくれた多くの人々に深く感謝しています。
清子は皇族として,国の内外の公務に精一杯取り組むことに心掛け,務めを果たしてきました。
また家庭にあっては,皇后と私によく尽くしてくれました。
私の即位の年に成年を迎えた清子が,即位の礼には,皇太子,結婚して4か月余りの秋篠宮とそろって出席し,
私どもを支えてくれたことは心に残ることでした。
清子の結婚後も私の日常は様々な行事で忙しく,今のところはそれ程変わったという感じはしません。
皇后はさぞ寂しく感じていることと思いますが,今までにも増して私のことを気遣ってくれています。
ただこれまでおかしいことで3人が笑うとき,ひときわ大きく笑っていた人がいなくなったことを
二人で話し合っています。清子は心の優しい人でしたが,とても楽しいところがありました。
新しい道が二人にとって幸せなものであるよう願っています。」


皇室の伝統や将来について考えを問う質問には回答を控えられた

宮内庁:関連質問受けず、異例の会見終了 陛下会見で
宮内庁の高橋美佐男総務課長は、
宮内記者会が事前に陛下に伝えた質問のやりとりを終えた時点で、記者会見を打ち切った。
例年の会見で陛下は関連質問を受けており、宮内記者会の抗議に対し、
高橋課長は「ご負担を考えて私の一方的な思い込みで打ち切った。
混乱を招いて申し訳ないと思っている」と話した。
毎日新聞 2005年12月22日 18時56分

皇后陛下基調講演

第26回IBBYニューデリー大会基調講演
子供の本を通しての平和−−子供時代の読書の思い出
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html

(一部)
生まれて以来,人は自分と周囲との間に,一つ一つ橋をかけ,人とも,物ともつながりを深め,
それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり,かけても橋としての機能を果たさなかったり,
時として橋をかける意志を失った時,人は孤立し,平和を失います。
この橋は外に向かうだけでなく,内にも向かい,自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ,
本当の自分を発見し,自己の確立をうながしていくように思います。
私の子供の時代は,戦争による疎開生活をはさみながらも,
年長者の手に護られた,比較的平穏なものであったと思います。
そのような中でも,度重なる生活環境の変化は,子供には負担であり,私は時に周囲との関係に不安を覚えたり,
なかなか折り合いのつかない自分自身との関係に,疲れてしまったりしていたことを覚えています。
そのような時,何冊かの本が身近にあったことが,どんなに自分を楽しませ,
励まし,個々の問題を解かないまでも,自分を歩き続けさせてくれたか。
私の限られた経験が,果たして何かのお役に立つものかと心配ですが,思い出すままにお話をしてみたいと思います。

まだ小さな子供であった時に,一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。
不確かな記憶ですので,今,恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる,
新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。
そのでんでん虫は,ある日突然,自分の背中の殻に,悲しみが一杯つまっていることに気付き,友達を訪(たず)ね,
もう生きていけないのではないか,と自分の背負っている不幸を話します。
友達のでんでん虫は,それはあなただけではない,私の背中の殻にも,
悲しみは一杯つまっている,と答えます。小さなでんでん虫は,
別の友達,又別の友達と訪ねて行き,同じことを話すのですが,どの友達からも返って来る答は同じでした。
そして,でんでん虫はやっと,悲しみは誰でも持っているのだ,ということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。
この話は,このでんでん虫が,もうなげくのをやめたところで終っています。

あの頃,私は幾つくらいだったのでしょう。
母や,母の父である祖父,叔父や叔母たちが本を読んだりお話をしてくれたのは,
私が小学校の2年くらいまででしたから,4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。
その頃,私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。
だからでしょう。最後になげくのをやめた,と知った時,簡単にああよかった,と思いました。
それだけのことで,特にこのことにつき,じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし,この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,
もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。
少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。
生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。
それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。

私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。昭和16年(1941年)のことです。
四学年に進級する頃には戦況が悪くなり,
生徒達はそれぞれに縁故を求め,又は学校集団として,田舎に疎開していきました。
私の家では父と兄が東京に残り,私は妹と弟と共に,
母につれられて海辺に,山に,住居を移し,3度目の疎開先で終戦を迎えました。
度重なる移居と転校は子供には負担であり,異なる風土,習慣,方言の中での生活には,
戸惑いを覚えることも少なくありませんでしたが,田舎での生活は,時に病気がちだった私をすっかり健康にし,
私は蚕を飼ったり,草刈りをしたり,時にはゲンノショーコとカラマツ草を,
それぞれ干して4キロずつ供出するという,宿題のノルマにも挑戦しました。
8キロの干草は手では持ちきれず,母が背中に負わせてくれ,
学校まで運びました。牛乳が手に入らなくなり,母は幼い弟のために山羊を飼い,
その世話と乳しぼりを私にまかせてくれました。教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に,
たまに父が東京から持ってきてくれる本は,どんなに嬉しかったか。冊数が少ないので,惜しみ惜しみ読みました。
そのような中の1冊に,今,題を覚えていないのですが,子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。
日本の歴史の曙のようなこの時代を物語る神話や伝説は,どちらも8世紀に記された2冊の本,
古事記と日本書紀に記されていますから,恐らくはそうした本から,子供向けに再話されたものだったのでしょう。
父がどのような気持ちからその本を選んだのか,寡黙な父から,その時も,その後もきいたことはありません。
しかしこれは,今考えると,本当によい贈り物であったと思います。
なぜなら,それから間もなく戦争が終わり,米軍の占領下に置かれた日本では,教育の方針が大巾に変わり,
その後は歴史教育の中から,神話や伝説は全く削除されてしまったからです。
私は,自分が子供であったためか,民族の子供時代のようなこの太古の物語を,大変面白く読みました。
今思うのですが,一国の神話や伝説は,正確な史実ではないかもしれませんが,不思議とその民族を象徴します。
これに民話の世界を加えると,それぞれの国や地域の人々が,どのような自然観や生死観を持っていたか,
何を尊び,何を恐れたか,どのような想像力を持っていたか等が,うっすらとですが感じられます。
父がくれた神話伝説の本は,私に,個々の家族以外にも,民族の共通の祖先があることを教えたという意味で,
私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは,時に子供に安定の根を与え,
時にどこにでも飛んでいける翼を与えてくれるもののようです。
もっとも,この時の根っこは,かすかに自分の帰属を知ったという程のもので,
それ以後,これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上の,
ほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。

又,これはずっと後になって認識したことなのですが,
この本は,日本の物語の原型ともいうべきものを私に示してくれました。
やがてはその広大な裾野に,児童文学が生まれる力強い原型です。
そしてこの原型との子供時代の出会いは,その後私が異国を知ろうとする時に,
何よりもまず,その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。
私にとり,フィンランドは第一にカレワラの国であり,
アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国,インドはラマヤナやジャータカの国,
メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが,
他国に親しみをもつ上で,これは大層楽しい入口ではないかと思っています。

2,30年程前から,「国際化」「地球化」という言葉をよくきくようになりました。
しかしこうしたことは,ごく初歩的な形で,
もう何十年――もしかしたら100年以上も前から――子供の世界では本を通じ,
ゆるやかに始まっていたといえないでしょうか。
1996年の「子供の本の日」のためにIBBYが作ったポスターには,
世界の家々を象徴する沢山の屋根を見おろす上空に,ぷっかりと浮かんで,
楽しげに本をよんでいる一人の少年が描かれていました。遠く離れた世界のあちこちの国で,
子供達はもう何年も何年も前から,同じ物語を共有し,同じ物語の主人公に親しんで来たのです。

父のくれた古代の物語の中で,一つ忘れられない話がありました。
年代の確定出来ない,6世紀以前の一人の皇子の物語です。
倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は,父天皇の命を受け,遠隔の反乱の地に赴いては,
これを平定して凱旋するのですが,あたかもその皇子の力を恐れているかのように,天皇は新たな任務を命じ,
皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き,皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。
途中,海が荒れ,皇子の船は航路を閉ざされます。
この時,付き添っていた后,弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は,
自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので,皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい,と云い入水し,
皇子の船を目的地に向かわせます。この時,弟橘は,美しい別れの歌を歌います。

さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

このしばらく前,建(たける)と弟橘(おとたちばな)とは,広い枯れ野を通っていた時に,
敵の謀(はかりごと)に会って草に火を放たれ,
燃える火に追われて逃げまどい,九死に一生を得たのでした。
弟橘の歌は,「あの時,燃えさかる火の中で,私の安否を気遣って下さった君よ」という,
危急の折に皇子の示した,優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。
悲しい「いけにえ」の物語は,それまでも幾つかは知っていました。しかし,この物語の犠牲は,少し違っていました。
弟橘の言動には,何と表現したらよいか,建と任務を分かち合うような,どこか意志的なものが感じられ,
弟橘の歌は――私は今,それが子供向けに現代語に直されていたのか,
原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですが――
あまりにも美しいものに思われました。「いけにえ」という酷(むご)い運命を,進んで自らに受け入れながら,
恐らくはこれまでの人生で,最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに,
感銘という以上に,強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも,
愛と犠牲という二つのものが,私の中で最も近いものとして,むしろ一つのものとして感じられた,
不思議な経験であったと思います。この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,
同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。
古代ではない現代に,海を静めるためや,洪水を防ぐために,一人の人間の生命が求められるとは,
まず考えられないことです。ですから,人身御供(ひとみごくう)というそのことを,
私が恐れるはずはありません。しかし,弟橘の物語には,何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ,
そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと,それは愛というものが,
時として過酷な形をとるものなのかも知れないという,やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への,
恐れであり,畏怖(いふ)であったように思います。
まだ,子供であったため,その頃は,全てをぼんやりと感じただけなのですが,こうしたよく分からない息苦しさが,
物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて来て,
しばらくの間,私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています。

紀宮様 お誕生日に際しての文書回答 平成17年

平成17年 皇族としての最後のお誕生日に際しての文書回答
(当時の宮内庁HPより)


結婚に至るまでの段階や新しい生活については,これまでもお会いした折々に少しずつ話を進め,
大体のイメージをお互いに持つようになった部分もあれば,
まだ 実際にその状態に入らなければわからないという部分もあります。
これからは,それらを段々に具体的なものへと進めていくことになると思います。
今の時点で,具体的にお話をすることは控えますが,二人でよく話を重ね,
周囲の人々にも尋ねながら考えていきたいと思っております。
お互いの呼び方については,今 まで意識していなかったのですが,
まだあまりそのような必要性がなかったからでしょうか,
こうというはっきりした呼び方が決まっていないような気がいたします。
結婚に向けての準備の中で,そうしたことも自然な形で決まってくるのではないかと思います。 

新しい生活に関しては,何と言ってもまだ始まってみなければわからないことが多く,
日々を積み重ねながら,少しずつ二人の生活のリズムがつかめてくるように なると良いと願っております。
研究所の仕事についても,無責任な形にならないように
何らかの形で一応の区切りはつけたいと思っておりますが,
個人的な研究はいつでも続けようと思えばできますので,自分の中に大切に持っておきたいと思います。
多くのことが慣れないことばかりで,黒田さんにご迷惑をお掛けすることもあるのではないかと
申し訳なく思いますし,不安はもちろんありますが,何かを始めるときはいつもそうであるように,
戸惑ったり,迷ったり,失敗したりすることも一つの段階として,
時には,周囲の方々に助けていただきながら,少しずつ慣れていければ嬉(うれ)しいと感じております。
私自身はこの立場にあっても,幸いに比較的自由な行動ができましたし,
本当に行きたいと望んでそれでもなお行けない場所というのは非常に限られていましたので,
不自由を強いられていたという思いはあまりありませんでしたが,
自分の行動に伴い,どうしても他の多くの人々を煩わせなければならない状態が,
自然に色々な行動に歯止めを掛けていた面はあったかもしれません。
今までは内親王の立場としてはそれが当然と受け止めておりましたし,
実際にもあまり外に出たがる方ではなかった かもしれませんが,
やはり多くの人を煩わせずに行動できるというのは,ありがたいことではないかと思います。
新たに始めてみたいことは,今のところはありませんが,生活が落ち着くに従って,
様々なことを考える余裕も生まれてくるのではないかと楽しみにしております。 


問3  
皇太子妃雅子さまの静養が続いています。皇太子さまは昨年5月,雅子さまの病状に関連して,
いわゆる「人格否定発言」をされ,さまざまな論議を呼びました。
その後,秋篠宮さまや天皇陛下からも考えが示されました。
一連の経過をどのように受けとめられましたか。

少しずつ外出の機会を持たれるなど,ご回復の傾向におありになると伺っておりますが,
妃殿下のご静養が長期に及んでいることに対して,深くお案じ申し上げております。
私の立場で,一連の経緯に対して多くを言及することは控えますが,ただ,このことを発端として,
多くの事実に基づかない憶測や言論が展開されたことは,大変残念なことでした。
殊に,これまで皇太子同妃両殿下のご相談に一生懸命耳を傾けられ,
新しい世代の行く末を見守り支えようとしてこられた両陛下に対して,
いわれのない批判がなされ,海外における日本の皇室観にまで影響を与えたことについては,
本当に悲しく思っております。妃殿下のご健康を家族皆が心配して おりますが,
両陛下のご健康も守られることを願わずにはいられません。 


問4  
この1年,皇太子さまのご発言や紀宮さまのご婚約内定のほか,
天皇陛下のホルモン療法開始,皇后さまの古希の誕生日,
皇室典範改正を検討する有識者会議 の設置など皇室をめぐるさまざまなニュースがありました。
こうした皇室を含めたこの1年間の出来事で印象に残ることをお聞かせください。 

昨年一年,国の内外でどれだけ多くの災害があったかと考えますと,
本当に自然災害の続いた困難な年であったと思います。
国内だけを見ても,台風に何度も見舞 われた地域や,地震の後に水害に苦しみ,更に大雪で被害を受けるなど,
複数の災害にさらされた地域もあり,ニュースなどで情報を聞くだけでも痛ましい思い がいたしました。
地震など,周期的に発生するものもありますが,異常気象については,
今までにない規模のものになっているように感じられ,
地球上の現象として心配しております。犠牲者のご冥(めい)福をお祈りし,
今なお避難生活を続けたり,仮設住宅に住まう人々が早く生活の安定を取り戻されますよう願っております。
インドネシア・スマトラ島沖地震による津波被害は,その規模の大きさと,内陸部深くまで侵入した折の,
建物などの残骸(がい)物が塊になって押し寄せるという,
今までに見たことのない津波の映像に恐ろしさを覚えました。
度々津波被害を経験してきた日本が早くから支援活動を始め,
被災地の防災にも力を注いだ話 は嬉(うれ)しいものでした。
今年2月に三宅島の人々の帰島が実現したことや,阪神淡路大震災から10年目を迎えたことを始めとして,
過去の災害が一つの節目を迎えた1年でもありました。
三宅島においては,引き続く火山ガスに備える生活や,
生活を一から立て直していく苦労を伴う出発であり,また阪神淡路地域では,建物などの再建は進んだものの,
経済復興は未だ厳しい状態であり,また住民の入れ替わりによる災害の記憶の風化など
新たな課題も出てきていると耳にしています。
既に一般の報道からはその姿を消していても,今なお被災後の生活において
物理的,心理的に苦しんでいる人たちの話を聞く機会も少なからずあり,
災害が年月を経てもその地 域の人々に大きな影響や痛みを与えていることについて考えさせられ,
また被災当事者ではない者が,そうした災害を記憶にとどめておく難しさも実感いたしました。
それと同時に,4年という長い避難生活を経た三宅島の人々が故郷で見せた笑顔や,
被災体験を他国の防災計画支援に役立てようとする試み,
各被災地で 活躍したボランティアたちの姿などは,困難な状況の中で発揮される人々の強さや
そこからはぐくまれるものがあることを感じさせ,心強い思いがいたしました。

スポーツにおいては,プロ・アマチュアを問わず,日本人選手の活躍が明るい話題を呼んだ1年でした。
特に,アテネオリンピック,パラリンピックに引き続き, オーストラリアでデフリンピック,
長野県でスペシャルオリンピックスが開催され,幅広い層の人々がスポーツを楽しむ機会を得られたことは,
大変意義の深いことではなかったかと思います。
国際的に活動する日本人として,来月スペースシャトルに搭乗する野口聡一宇宙飛行士の活躍も,
多くの人々に宇宙への関心を深め,未来への夢を抱かせるものとなるのではないかと,期待しております。

皇室の中の出来事としては,まず,一昨年の陛下に続いて皇后さまが古希を迎えられたことが挙げられます。
多くのお務めを果たされながら,人々の幸せを願ってこられた皇后さまのこれからの日々が,
お健やかで平安なものとなりますよう心からお祈りしております。

天皇陛下のご治療が始まってもうじき1年を迎えようとしておりますが,
今でも毎月のご検査の数値を聞く折には,緊張を覚えます。
幸いにもご治療により数値は 今のところ抑えられておりますが,
これからずっとこのようなことを繰り返していかれる陛下のお気持ちを思うと,
辛(つら)くなります。医学が進歩した現在,病から完治することはできなくても,
共存しながら日常生活を続けている人々がどれだけ多いことかと思います。
そうした人々の上を思いつつ,病とともにありながらも陛下がお元気でこれからもお過ごしくださるよう,
心から願っております。

年の瀬に入ってから,高松宮妃殿下が薨去されました。
妃殿下には,私の結婚についてお心に掛けてくださり,
直前までテレビで婚約内定の発表をご覧になることを楽しみにしておられたと伺っていましたので,
それがかなわなかったことが残念でございます。

自身のこととしては,やはり,結婚を決めたことに伴い,2度の延期を経た後に行った婚約内定の発表,
そして納采の儀を滞りなく終えることができたことが最も 大きな事でした。
結婚は私自身にとっては大きな節目ですが,あくまで個人的なことだと思って今までまいりましたので,
ご縁のあった方々ばかりでなく,外出先で,あるいは沿道などで多くの方からお祝いの言葉を掛けていただき,
喜んでいただいたことは本当にありがたく感じました。
また,山古志村の被災者の方々からも,温かいお祝いと配慮の言葉をいただいたことは,心に深く残りました。

鳥類研究の面では,1986年 から行ってきた赤坂御用地の鳥類調査について,
16年分をまとめて基礎的なデータとして論文に発表でき嬉(うれ)しく思っております。
近年,同調査地において国立科学博物館と合同で行った鳥類調査の成果も間もなく刊行されると聞いており,
楽しみにしています。研究所で行っている様々な事業の中でも,
昨年は,環境省の委託として伊豆鳥島で行っているアホウドリの保護増殖事業に大きな進展が見られました。
デコイと呼ばれるアホウドリの実物大の模型とその鳴き声を用いて,地形条件の悪い従来の繁殖地から,
火山噴火による影響が少なく地形も緩やかな新しい場所へ繁殖個体を誘致して増殖を図ろうと,
1992年 から始められたものですが,最初の1番(つがい)目の誘致,繁殖への成功は
3年後という早い機会になされたものの,以降2番(つがい)以上の繁殖成功を見ることなく年月がたっていました。
昨年繁殖が観察された4番(つがい)の巣で今年に入り4羽の雛(ひな)が確認され,
周辺にも多くのペアを組んだアホウドリが着地していることから,新繁殖地の形成に大きな期待が持たれています。
デコイ作戦は,私が研究所に入所した正にその年に始まり,噴火の危険性もある鳥 島に出掛けていく所員を見送ったり,
現地から衛星通信を用いた無人監視カメラによって送られてくる映像に嬉々(きき)として見入ったりしつつ,
苦労の多い 地道な活動の様子を見てきましたので,感慨深いものを覚えます。
デコイを利用した野鳥の保護活動として,他国から少しずつ関心を持たれてきているのも嬉(うれ)しいことです。 


問5  
これまでに,誕生日に合わせて宮内記者会の質問に答えていただいてきましたが,これが最後になります。
天皇家の長女として特別な立場で過ごされ,喜びや 悲しみなど様々あったと思います。
36年間を振り返り,心に残ることを,とっておきのエピソードを含めてお聞かせください。 

36年間,大きな病を得たり事故にあったりすることなく
元気に今日まで過ごすことができたことは,とても幸いでした。
特殊な立場にあって人生を過ごしたことは,恵まれていた面も困難であった面も両方があったと思いますが,
温かい家庭の中で,純粋に「子供」として過ごすことができ,多くの人々の支えを得られたことは,
前の時代からは想像もつかないほど幸せなことであり,そのような中で生活できたことを深く感謝しております。
一つ二つの心に残る思い出をエピソー ドとともに取り出してお話しするのは大変難しいことですが,
やはり私にとって本当に大きかったと思えるのは,この36年を両陛下のお側で,
そのお姿を拝見しながら育つことができたことではなかったかと思います。
物心ついた頃から,いわゆる両親が共働きの生活の中にあり,
国内外の旅でいらっしゃらないことが多かったということは,周囲にお世話をしてくれる人がいても,
やはり時に寂しく感じることもありました。しかし,私には兄弟があり,
また子供なりに両親のお務めの大切さを感じ取っていたためもあるのでしょうか,
こういうものだと考えていた部分もあったように思います。考えてみますと,
当時両陛下の外国ご訪問は全て各国元首が国賓として訪日したその答礼として行われていたものであり,
しかも昭和天皇の外国ご訪問が難しかったため,皇太子の立場でありながら
天皇としての対応を相手国に求めるご名代という極めて難しいお立場の旅でした。
1回のご訪問につきイラン・エチオピア・インド・ネパールというように
遠く離れた国々をまわらなければならないため,ご訪問が1ヶ月に及ぶことも,
年に2回のご訪問が組まれることもあり,一度日程が決まれば,それを取りやめることは許されませんでした。
同時に,国内においても日本各地の重要な行事へのご出席要望は強く,またその折には両殿下のご希望により,
同年代の若い人たちとのご懇談が各地で行われるなどしていましたので,
本当に大変な中でご出産と育児に当たられたのだと思います。
幼い間は,もちろん両陛下のそうしたご苦労は何も分からずに,
極めてのんびりと与えられた環境の中で過ご しておりましたし,
両陛下は,皇族としての在り方を言い聞かせたり諭したりして教えることはなさらずに,
子供時代には子供らしく自然に育つことを大事にしてくださいましたので,
果たして私がいつごろ自分の特殊な環境に自覚を持つようになったのか,
今思い出してもはっきりと覚えておりません。
ただ,当時皇太子同妃両殿下でいらっしゃった両陛下の,お立場に対する厳しいご自覚や国民の上を思い,
平和を願われるお姿,そして昭和天皇や香淳皇后に対する深い敬愛のお気持ちなどは,
日常の様々なところに反映され,自然に皇族であることの意味を私に教えたように思います。
何よりありがたかったのは,お忙しく制約も多 かったはずのご生活の中で,両陛下がいつも明るくいてくださり,
子供たちにとって,笑いがあふれる御所の日々を思い出に持つことができたことでした。

自分の皇族としての役割や公務について,初めて具体的に深く考えるようになった時期は,
高校に入った頃ではなかったかと思います。
その頃には,既に成人を迎えておられた皇太子殿下はもちろんのこと,
秋篠宮殿下も公務を始められ,まだ時間はあるものの,
自分自身の成年皇族としての役割について漠然とした意識を持つようになっていました。
日本では皇族の子供たちは,基本的に成人になるまでいわゆる公務に携わることはなく,
成人してから急に公務に入るようになるため,ごく自然に様々な公務をこなされる兄宮二人のお姿を拝見しつつ,
内親王としての自覚はあっても具体的な皇族としての仕事に触れたことのない私には,
成人してからの全てが大変不安な時期でもありました。
そのような折に両陛下とご一緒に出席した高校総合体育大会は,大変印象深いものでございました。
それは,兄宮二人と同様,私にとってこれが成人するまでに両陛下と地方におけるご公務で
ご一緒できる唯一の機会であったからです。幼い頃からご両親陛下と離れて過ごされ,
他の皇族より早い18歳で成人を迎えご公務におつきになった陛下のお時代を顧みますと,
そのような機会を頂けるだけでも大きな恩恵であったと思います。
しかし当時は,この機会に両陛下のお仕事の全てを吸収しなければというような,
今思いますと少し笑ってしまいそうなほど,かなり切羽詰まった感じを抱きつつ
高校総体に臨んだことを記憶しております。
結局,高校3年間の毎年を高校総体にご一緒させていただきましたが,
2年目には皇后さまがご手術後でご欠席になられたため,
陛下と二人だけの旅となり,それもまた忘れがたい体験でございました。
もちろん,高校総体だけで,当時皇太子同妃両殿下でいらした両陛下の日々のお務めに寄せるご姿勢が
全てわかったわけではありませんでしたし,何よりも両陛下のお仕事の全般すらつかめていない時代でございましたが,
ご訪問の先々で両陛下が人々に対されるご様子や細やかなお心配り,
暑さの中,身じろぎもされず式典に臨まれるお姿などより,
本当に多くのことを学ばせ ていただいたように感じております。
振り返りますと,皇族としての公務はもちろんのこと
宮中行事にも宮中祭祀(し)にも出席することのなかったこの頃は,
両陛下がお忙しい日々のご公務を欠くことなくお務めになる傍らで,私たち子供たちの話に耳を傾けられ,
朝には皇后さまがお弁当を作ってくださり,学校に出掛けるときにはお見送りくださるという日常が,
どんなに恵まれていたかということにすら気が付いてはいなかったものです。

昭和64年1月,昭和天皇が崩御されました。私にとって,身近な親族を失う初めての悲しみを体験しただけでなく,
昭和天皇の最後の日々を心を尽くして見送られ,お後に残していかれた様々な事柄を丁寧に片づけられ,
新しい御代(みよ)を引き継がれる,という両陛下の一連のご様子が深く心に残りました。
そしてまだ未成年ではありましたが御大喪,ついで即位礼,大嘗祭に参列し,
昭和から平成への移り変わりの儀式すべてを目の当たりにできたことは本当に貴重な体験で した。

皇族としての最初の地方公務は,兵庫県で行われた進水式出席であり,
初めて言葉を述べたのは,陛下(当時の皇太子殿下)の名代として出席した豊かな海づくり大会(茨城県)においてで,
どちらも成人になる少し前のことでした。以来,様々なお仕事をさせていただきました。
皇族の務めの分野は多岐に渡るので,その意味での大変さはありますが,
幼い頃から両陛下が,私たち子供たちをなるべく様々な世界に触れさせてくださったことも,
務めを果たす上の心強い土台になってくれました。
軽井沢など私的な旅の折々に,障害児の施設につれていっていただき,
子供たちと一緒に自由に遊ばせていただいたこと,
沖縄豆記者の子供たちとの交流にご一緒させていただいたこと,
海外の日系移住者やハンセン病の歴史を話してくださったこと,
また,伊勢神宮,熱田神宮,熊野大社を始め各地の神社参拝のため,皇后さまと二人だけの旅を行ったことなどが,
子供の記憶としてではありますが私の意識にとどまり,
後々,公務や宮中祭祀(し)などに当たる 折の備えになってくれたのではないかと感じております。

国内外の務めや宮中の行事を果たす中には,失敗も後悔もあり,
未熟なために力が尽くせなかったと思ったことも多々ありました。
また,以前にも述べましたが,目に見える「成果」という形ではかることのできない皇族の仕事においては,
自分に課するノルマやその標準をいくらでも下げてしまえる怖さも実感され,
いつも行事に出席することだけに終始してしまわないよう自分に言い聞かせてきたように思います。
どの公務も,それぞれを通して様々な世界に触れ,
そこにかかわる人々の努力や願いを知る機会を得たことは新鮮な喜びと学びの時でした。
また,第一回目から携わることになったボランティアフェスティバルや海洋文学大賞を始め,
幾つかの行事が育ち,また実り多く継続されていく過程に立ち会うことができたのは幸せであり,
そうしたものは,訪問しご縁があった国々と同様,
この先も心のどこかに掛かるものとしてあり続けるのだろうと思います。

両陛下のお姿から学んだことは,悲しみの折にもありました。
事実に基づかない多くの批判にさらされ,平成5年ご誕辰(しん)の朝,
皇后さまは耐え難いお疲れ とお悲しみの中で倒れられ,言葉を失われました。
言葉が出ないというどれほどにか辛(つら)く不安な状態の中で,
皇后さまはご公務を続けられ,変わらずに 人々と接しておられました。
当時のことは私にとり,まだ言葉でまとめられない思いがございますが,
振り返ると,暗い井戸の中にいたようなあの日々のこと自体よりも,
誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら,
ひたすらに生きておられた皇后さまのご様子が浮かび,胸が痛みます。

私が日ごろからとても強く感じているのは,皇后さまの人に対する根本的な信頼感と,
他者を理解しようと思うお心です。
皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり,
そうした多くは,誰に頼ることなくご自身で癒(い)やされるしかないものもあったと思いますし,
口にはされませんが,未だに癒(い)えない傷 みも持っておられるのではないかと感じられることもあります。
そのようなことを経てこられても,皇后さまが常に人々に対して開けたお心と
信頼感を失われないことを,時に不思議にも感じていました。
近年,ご公務の先々で,あるいは葉山などのご静養先で,お迎えする人々とお話になっているお姿を拝見しながら,
以前皇后さまが「人は一人一人自分の人生を生きているので,他人がそれを充分に理解したり,
手助けしたりできない部分を芯(しん)に持って生活していると思う。
・・・そうした部分に立ち入るというのではなくて,
そうやって皆が生きているのだという,そういう事実をいつも心にとめて人にお会いするようにしています。
誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら,それでも絶望しないで生きている。
そうした姿をお互いに認め合いながら,懐かしみ合い,
励まし 合っていくことができれば・・・」とおっしゃったお言葉がよく心に浮かびます。
沈黙の中で過去の全てを受け入れてこられた皇后さまのお心は,娘である私にもはかりがたく,
一通りの言葉で表すべきものではないのでしょう。
でも,どのような人の傍らにあっても穏やかに温かくおられる皇后さまのお心の中に,
このお言葉がいつも息づいていることを私は感じております。

36年という両陛下のお側で過ごさせていただいた月日をもってしても,
どれだけ両陛下のお立場の厳しさやお務めの現実を理解できたかはわかりません。
他に替わ るもののないお立場の孤独を思うときもありますが,大変な日々の中で,
陛下がたゆまれることなく歩まれるお姿,皇后さまが喜びをもってお務めにも家庭にも向かわれていたお姿は,
私がこの立場を離れた後も,ずっと私の心に残り,これからの日々を支える大きな力になってくれると思います。
そうした両陛下との日々に恵まれた幸せを,今深く感謝しております。 


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊朝日
紀宮さまのお誕生日の文書回答は一般で売られてる原稿用紙に換算するとなんと「原稿用紙22枚分」
一週間かけてご本人が書き上げ 推敲しようかとご相談申し上げたところ
「結構です。このままお出しください。」と凛としておっしゃった。
紀宮様は大変賢い方なので人物に対する批判などいままでなさらなかったそうだが
今回のことで雅子さまに対する紀宮さまの厳しい見方がはっきりとわかり宮内庁も驚いた。

文藝春秋(発売年月日不明)
福田和也氏は紀宮様の文書回答について
皇族としての教育については、何よりもご両親が厳しく義務を果たす姿を
お示しになることが肝要と述べられているわけだから、
これは当然皇孫の教育についての問題提起としても受け止めなければならない。
だが、何といっても、今回の文書の中で印象的なのは、母・皇后にたいする、深い敬意と共感であろう。
《私が日ごろからとても強く感じているのは,皇后さまの人に対する根本的な信頼感と,
他者を理解しようと思うお心です。皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり,
そうした多くは,誰に頼ることなくご自身で癒(い)やされるしかないものもあったと思いますし,
口にはされませんが,未だに癒(い)えない傷みも持っておられるのではないかと感じられることもあります。
そのようなことを経てこられても,皇后さまが常に人々に対して開けたお心と
信頼感を失われないことを,時に不思議にも感じていました。
近年,ご公務の先々で,あるいは葉山などのご静養先で,お迎えする人々とお話になっているお姿を拝見しながら,
以前皇后さまが「人は一人一人自分の人生を生きているので,
他人がそれを充分に理解したり手助けしたりできない部分を芯(しん)に持って
生活していると思う。・・・そうした部分に立ち入るというのではなくて,そうやって皆が生きているのだという,
そういう事実をいつも心にとめて人にお会いするようにしています。
誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら,それでも絶望しないで生きている。
そうした姿をお互いに認め合いながら,懐かしみ合い,励まし合っていくことができれば・・・」
とおっしゃったお言葉がよく心に浮かびます。
沈黙の中で過去の全てを受け入れてこられた皇后さまのお心は,
娘である私にもはかりがたく,一通りの言葉で表すべきものではないのでしょう。
でも,どのような人の傍らにあっても穏やかに温かくおられる皇后さまのお心の中に,
このお言葉がいつも息づいていることを私は感じております。》
そこに描かれるのは、至尊としてはもちろん、一個の人格として辿りつき得る高みに達した方の面影であり、
そのように娘の目に映り、娘がその姿このように描き出し得るということに、
顕かな達成を認めずにはいられない。・・略・・
このような敬意のもち方を、私たちはずいぶん前に忘れてしまった気がする。
将来、愛子様は、母君をいかに語るのだろうか。

4月29日
読売新聞朝刊投書欄
心に重く響いた紀宮さまの思い
紀宮さまが36歳の誕生日を迎えられた。皇族として最後の誕生日にあたっての思いなどを
宮内記者会が質問したのに対し、紀宮さまが文書で回答された要旨を本紙で読んだ。
幼いころ、両親がいわゆる共働きであったがゆえのさみしさ、
自身が公務に携わるようになったころの不安感やあせり、
そして皇族の仕事に対する姿勢などが、率直に語られていた。
いわれなき批判に心を痛める皇后さまの身を案じつつ、
悲しみの折にも喜びの中にも、両陛下から多くのことを学んだ感謝の気持が随所に感じられた。
控えめなイメージのある紀宮さまだが、自分の立場をわきまえ、
国内外での公務を淡々と立派に果たしてこられたと思う。
奥ゆかしく誠実な人柄は、両陛下の深い愛情に満ちた環境の中ではぐくまれたものだろう。
回答が美しい丁寧な日本語でつづられているのも印象的だった。
また、紀宮さまの心によく浮かぶという皇后さまのお言葉が心に響いた。
「誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。
そうした姿を認め合いながら、懐かしみあい、励ましあっていくことができれば……」


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

紀宮様 文書回答 ご会見

皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならない

皇后陛下お誕生日に際し(平成6年)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h06sk.html


問3 皇后さまが入られて35年間で皇室もずいぶんと変わりました。
「皇后さまが陛下とお二人で新しい風を吹き込まれた」という意見も聞かれますが,いかがお考えですか。
皇后さまが目指される皇室像を含めてお聞かせください。

皇后陛下
皇室も時代と共に存在し,各時代,伝統を継承しつつも変化しつつ,今日に至っていると思います。
この変化の尺度を量れるのは,皇位の継承に連なる方であり,配偶者や家族であってはならないと考えています。
伝統がそれぞれの時代に息づいて存在し続けるよう,各時代の天皇が願われ,
御心をくだいていらしたのではないでしょうか。きっと,どの時代にも新しい風があり,
また,どの時代の新しい風も,それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています。



皇后陛下お誕生日に際し(平成28年)
http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/3


8月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。
私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,
これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,
その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,
皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。
ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。
それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,
一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。
私の感じ過ぎであったかもしれません。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば


象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)

戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。
私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,
ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,
この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。
本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,
天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,
私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,
日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,
更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,
いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。

そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,
加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,
これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,
どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,
また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。
既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,
これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,
難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間私は,我が国における多くの喜びの時,
また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。
私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,
同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,
思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,
天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,
天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,
常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。
こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,
私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。
皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は,
国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ,
私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,
人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,
無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,
重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,
皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。
しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,
生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,
社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,
重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀に関連する行事が,1年間続きます。
その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,
行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。
こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように,憲法の下,天皇は国政に関する権能を有しません。
そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,
これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,
そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,
ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば 関連記事


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『波紋を呼んだ』という質問の表現は削除

皇太子殿下お誕生日に際し(平成24年)
全文
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h24az.html



西尾幹二氏のブログ
皇太子殿下の誕生日記者会見
2012/2/27 月曜日
http://www.nishiokanji.jp/blog/ より一部抜粋
========================
誕生日会見については、事前にこんなことがあったらしい。
「質問は5問。会見は約20分で、記者会の質問に対し、殿下はペーパーを見ながら、
入念に選ばれたお言葉を読み上げられます。今回、事前に用意していた質問項目に、
微に入り細に入り宮内庁側が注文を付けてきたのです」
「今回は『ここを変えて欲しい』とか、“てにをは”に至るまで些事にこだわってきて、
修正を要請されたのです。特に、もっとも国民が聞きたいであろう、ある質問について、
報道室職員が『それはちょっと』と返してきた。もちろん職員が勝手に判断するわけはなく、
殿下にご相談しているはずです」(東宮関係者)

それは、雅子さまの行動が“波紋”を呼んだという部分だった。
「問題視されたのは、『雅子さまの行動が、週刊誌で報じられ、波紋を呼んでいます』といった部分だったそうです。
宮内庁は『波紋を呼んだ』という表現をやめてほしい、と突き返した。
記者会側は、ずばり愛子さまの校外学習に雅子さまが付き添われたことについて、
殿下はどうお考えになっているか、殿下はなぜそれをお許しになったのかをお聞きしたかったのです」
(皇室担当記者)(『週刊文春』3月1日号)

私はこういう不自然なお言葉が今後もくりかえし展開される将来の可能性に不安を覚える。
殿下が「じつは私も悩んでいるんです」と正直に胸のうちを語る日が来ないと、国民の心はますます離れていく。
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  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


週刊朝日2012年3月9日号
会見で公務観を問われた皇太子さまは、
「天皇陛下をお助けし、改めて更なる研鑽を積まなければならないとの思いを強くいたしました」と答えた。
「研鑽を積む」という言葉は50歳の誕生日から3年連続での登場だが、50代の人たちに求められる
「社会を支え、若い人たちを引っ張る」という役割を考えると、引っかかりを感じる人もいるのではないか。
ある宮内庁幹部は、いまの天皇陛下が皇太子だったころの言葉と今回の会見を見比べてこう嘆く。
「陛下は皇太子だったころも率直に思いを語り、印象に残る言葉を多く残されました。
いまの皇太子さまの会見やお言葉からは、ご自身の中からわき出るような思いが感じられません」
いまの皇太子さまの心の多くを占めるのは、やはり雅子さまと愛子さまのことのようだ。
誕生日会見で13回登場した「雅子」という言葉の大半は、病状の説明など触れざるを得ない流れの中で出てくる。
一方で、東日本大震災に触れたくだりで、被災した東北3県を「雅子と共に訪れ」たと強調し、
「雅子と共に、これからも常に被災された方々と被災地に思いを寄せ、その復興を見守っていきたい」
と締めくくるなど、意識的に雅子さまの存在を強調したように見える部分も散見された。
官僚や企業のトップが被災地について話す時「妻が、妻が」と繰り返すだろうか
「雅子さまをほめる内容が多いのは、雅子様が今回の会見録を読むのを意識してのことでしょう」神田秀一
幸い、天皇陛下の心臓手術は成功したが、皇太子さまが天皇に即位する日はいずれやって来る。
家庭と公務の間で揺れ惑う皇太子さまの覚悟が定まる日はいつか。
2月18日に行われた天皇陛下の心臓の冠動脈バイパス手術。
美智子さまの支えもあって、天皇陛下の術後の経過は順調だ。
だがこの間、宮内庁関係者の心を曇らせる出来事もあった。
秋篠宮ご夫妻は天皇陛下の体調を心配し、手術の前から病状について関係者に細かに尋ねてきたのに、
皇太子ご夫妻からは、医師団にそうした問い合わせはなかったのだ。皇太子さまは手術翌日の19日、
秋篠宮さまと2人で天皇陛下を見舞った。医師団はこのときになって初めて、詳しく病状を説明した。
ある宮内庁関係者はこう指摘する。
「1987年に昭和天皇が十二指腸と小腸の上部を縫い合わせるバイパス手術を受けられた際には、
皇太子だったいまの陛下は逐一、医師団に病状を尋ねて気にかけておられた。父を心配する気持ちと、
陛下に何かあれば代わりを務めなければならないとうい責任感からの行動だったと思います」
天皇陛下が今回受けた心臓手術の成功率は、非常に高い。とはいえ、
11日の検査時には心臓外科医が院内に待機するなど、医師団は緊張した時間を過ごしていた。
このため、この宮内庁関係者は、
「いまの皇太子さまには、少し危機意識が欠けているのではないでしょうか」と首をひねるのだ。

目次2へ

陛下と虫探し 悠仁さま

文仁親王殿下お誕生日に際し(平成23年)
全文
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/03/kaiken/kaiken-h23.html

殿下
皇居の方に行って,御所でご挨拶して,それで虫取りに吹上御苑に行くということがありました。
そのようなときに,陛下も息子の虫好きを知っておられますので,普通だったら草刈りをしてしまうところを
そのままに残して,虫がたくさんいられるような環境を作っておいたりとか。それから,暑い時期,
当然短い期間ではありますが,ほとんど(毎週)家内と息子が二人で虫取りに出かけていくわけなのですけれども,
それでも短時間,息子の悠仁に誘われるようにして,(陛下も)ご一緒に昆虫採集・・・(少しお考えになる。)

妃殿下
(殿下をご覧になって)虫探し?

殿下
(妃殿下を振り向かれて)虫探し?

妃殿下
(殿下をご覧になって)観察も・・・

殿下
観察,そういうことがよくありました。
皇太子同妃両殿下のところとの交流については,残念ながらそれほど多くはありません。
ただ,先ほど家内がお話ししたように,秋口でしたか,みんなで集まったときに,子どもたちが集まって,
非常に和やかというか,にぎやかというか,一時を過ごしていたということが私には印象に残っております。
以上です。


秋篠宮さま:46歳に 「被災者に心を寄せていく」
秋篠宮ご夫妻は、秋篠宮さまの46歳の誕生日を前にした記者会見で、
東日本大震災の被災地を訪れた際の体験に触れ、皇室の役割として
「復旧・復興を長期的な視野で見守り、被災者に末永く心を寄せていく」などと語った。
ご夫妻は震災後、東北各県を訪問。秋篠宮さまは「大変な状況の中にあって、
私たちが接した人々は、非常に前向きな姿勢で一日一日を過ごしているという印象を持ちました」などと述べた。
紀子さまは、被災地の子供らから受け取ったビーズの腕輪などを手元に置いていると明かし、
被災地を度々訪れる中で「人々の強い絆」を感じたと振り返った。
10月に成人皇族となった長女眞子さま(20)には、秋篠宮さまが公務について
「一つ一つを大切に一生懸命務めるように」と話しているという。
眞子さまの結婚や、次女佳子さま(16)の進路については、
ご夫妻とも本人の希望を尊重したいとの考えを示した。
「着袴(ちゃっこ)の儀」を今月行った長男悠仁さま(5)について秋篠宮さまは
「木にすたすたと登っていくのを見たり、虫や恐竜のことなど話す会話の量も増え、
成長の様子なのかなと感じます」と話した。【川崎桂吾】
http://mainichi.jp/select/wadai/koushitsu/news/20111130k0000m040149000c.html


天皇公務「定年制」:秋篠宮さま「肉親の情」の発露
秋篠宮さまが、天皇陛下の公務について、「定年制も必要」との考えを記者会見で語った。
憲法には、天皇の公務に関し、首相の任命や法律の公布などの「国事行為」が規定されているだけだ。
だが、植樹祭や国体への出席、海外の賓客の接遇など公務にあたる「公的行為」は数多い。
初めて現憲法下の象徴天皇として即位した天皇陛下は、皇后さまと共に、
国民の中に入っていくことで「国民と共にある皇室」を示してきた。
公務が年齢と共に減るどころか増える傾向すらあり、宮内庁の09年発表によると、
昭和天皇の74歳の時と比べ、東京都内や地方への「お出まし」は約2.3倍になっていたという。
「公的行為」に当たる災害被災地慰問にも即位後の両陛下は心を尽くしてきた。
東日本大震災後は、7週連続で被災者らの見舞いをハードな日程でこなした。
今月の入院に際し、宮内庁は「疲労が相当蓄積し、お身体(からだ)の抵抗力が低下している」と説明した。
秋篠宮さまの「定年制」言及は、まさに陛下が入院中の発言であり、
法改正などが伴う制度創設を念頭に置いたものではなく、
公務を思い切って削減すべき時期に来ているという「肉親の切なる情」の発露と見るべきだろう。
宮内庁は負担軽減を図ってきたが、一層の見直しが「喫緊の宿題」になっていると言える。【大久保和夫】
http://mainichi.jp/select/wadai/koushitsu/news/20111130k0000m040150000c.html


秋篠宮さまの発言に官房長官「コメント控える」
藤村官房長官は30日午前の記者会見で、秋篠宮さまが一定数の皇族確保や、
天皇陛下の定年制の必要性に言及されたことについて、
「制度論は国会の議論に委ねることを前提として、考えをお述べになったと理解している。
個々の発言の内容に政府としてコメントするのは差し控えたい」と述べた。
(2011年11月30日13時07分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111130-OYT1T00624.htm

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊文春2011月12月8日号
皇太子両殿下との交流はそれほど多くありません」
秋篠宮衝撃発言 皇太子雅子さま「孤絶」の全深層
天皇に定年という制度は必要。
皇太子ご夫妻はどう受け止められたか
秋篠宮殿下の誕生日に先駆けて、11月22日、(誕生日)会見は実に1時間半に及んだ。
「(途中までは)悠仁さまとのほのぼのとしたエピソードなどを披露されていたのです。
そのあと突然、きっぱりと断言された」(宮内庁担当記者)
<皇太子両殿下のところとの交流については、残念ながら、それほど多くはありません>
秋篠宮の淀みない口調に、約25名の宮内庁担当記者たちは息を飲んだという。
「やはり、という気持ちと、そこまではっきり仰るのかという驚きの両方がありました。
皇太子ご一家となぜ疎遠なのかは何も語られないままでした」(同記者)
記者が三問目の質問を読み上げた。
「眞子さまが成人を迎えられたのを機会にあらためて殿下に皇統の継承についてお聞きします」の問いに、
<皇室の制度論については国会の論議に委ねることになる。
その過程において、今後の皇室の在り方というものを考える時には、
私、もしくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあってもよいというふうに
思っております>と慎重に言葉を選びながら述べられた。
この言葉は、いみじくも現在の秋篠宮の皇室におけるお立場を象徴するものだった。
「発言の主旨は09年の誕生日会見と同じ。が、“主語”が変わった。
09年のときは『(皇室の在り方については)その当事者となる皇太子ほかの意見を聞く』というように、
当時は『皇太子ほか』が主語でした。今回は『私、もしくは皇太子殿下』と述べられている。
つまり、皇太子より前に『私』という言葉を持ってきたのです」(皇室ジャーナリスト)
さらに09年の際は、「自分のことを言うのはちょっとはばかられたものですから、
それで『(皇太子)ほか』というふうに言いました」と遠慮がちに語られていた。
「今回の『私』発言が、無意識によるものだとしても、
それだけ今、秋篠宮の皇室における存在感が増しているということを
ご自身がお感じになっているということの現れではないかと思うのです」(同ジャーナリスト)
会見の終わりには、さらに驚かせる踏み込んだ発言をされていた。
<私は『定年』という制度はやっぱり、必要になってくると思います。>
<ある年齢で区切るのか、どうするのかというところを含めて議論しなければいけないのではないか>
この発言の背景について、「穏やかにおっしゃっていますが、現状への強い危機感を、秋篠宮がお持ちだと
いうことでしょう。これまでの秋篠宮ではなさらなかっただろうご発言です」(同ジャーナリスト)
増していく秋篠宮の存在感。それは宮内記者たちも意見を同じくするところだという。
「(11月15日『ご名代』としての秋の叙勲と褒章授章者の御接見で)秋篠宮殿下は陛下に代わって
“おことば”を読み上げられたのですが、その声が小さくて聞き取り辛かったですね。一度に500人が出席していたので、
後ろのほうの人たちには聞こえなかったでしょう。それ以外は難なくこなされていました」(受章者の一人)
その2日前、皇太子はご名代の立場で山梨県をご訪問。お召し列車内でカメラを片手にお手振りされたこと、
その後の長野県行啓でのポケットに手をいれたままでの視察が明るみに出た。
「退院されたばかりの陛下が、まだ万全とは言えないご体調で、その5日後に早くも公務復帰
(「東日本大震災消防殉職者等全国慰霊祭」)されました。
いかに陛下が震災被害を心配されているか、ということです。
その陛下の思いを一番おわかりになっているのは、秋篠宮さまではないかと思うのです。
震災後、秋篠宮ご夫妻は、東宮職と比しても非常に小規模な宮家職員たちに支えられながら、
お見舞いを続けてこられた。被災地の人々の負担にならないよう、宮家の車で移動され、
宮城県には日帰りで二度に分けて訪問されています」(両陛下に近い千代田関係者)
女性宮家の創設検討という、平成皇室の根本的課題である皇位継承問題が再び注目された。
今回の会見でも秋篠宮はこう述べている。
<以前に皇族の数が少ないことは、国費負担という意味において悪くはないということを申しましたが、
この考えは今でも変わっておりません>
「秋篠宮は今後、具体的に女性宮家創設の議論が進んだ際に必ず出てくるであろう、さらなる国費負担増に伴う
国民感情の反発について、先手を打っておっしゃったのだろうと思います」(皇室研究家)
一方の東宮側には、まだ当事者意識が感じられないという。
「(女性宮家問題について)東宮職は関係ないよ」(中堅東宮職職員)
皇太子ご一家は、11月26日、27日と「初等科祭」を訪れられた。
「2日目はわずか30分差で皇太子殿下、雅子さまが別々に訪れた。ご鑑賞も別々でいらして。
剣道部の練習をご覧になった皇太子殿下は、相変わらず小型のデジタルカメラでバシャバシャ
写真を撮っていらっしゃいましたよ。お一人でリラックスされているご様子でした」(初等科父兄)
これを聞いた前出の千代田関係者は嘆息しつつ、こう洩らした。
「皇太子ご一家はますます国民ではなくご家庭に、内向きに目が向いているのではないでしょうか」
天皇のお見舞いについても、雅子さまは10日に“ドタキャン”されてから結局一度もお見舞いされることはなかった。
18日、ご名代の報告も皇太子お一人だった。
「東宮大夫は10日は発熱、18日は『咳が残っているため医師の判断により』と発表。
しかし皇太子殿下がご報告にいった同日に雅子さまは愛子さまのお付き添いをされている。
なぜ“医師の判断”で同じようにお付き添いも遠慮されないかは説明されない」(同千代田関係者)
一方、秋篠宮は報告も含め、3度も東大病院を訪れている。
「皇太子殿下がご名代のご公務のあと、数日間報告にいらっしゃらなかった。
秋篠宮殿下はご名代の報告も当日にいらっしゃっています。私はあらためて思い起こすのです。
皇后陛下が、あちら(東宮家)とは途絶状態なので、とおっしゃったあの言葉を。
そして、今回の秋篠宮殿下のご発言…。正直なところ、我々もあちらのことはまるで分からないのです。
何も伝わってこないのだから。いま皇太子ご一家はいわば“孤絶”状況です。お誕生日のお言葉は、
現状に危機感をお持ちの秋篠宮殿下から、皇太子殿下へのメッセージだと思います」(別の千代田関係者)

花田紀凱の週刊誌ウォッチング
記者も息をのんだ…秋篠宮さま、衝撃的なご発言
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/537154/
まさに『週刊文春』(12月8日号)のタイトルどおり、衝撃的なご発言だった。
「秋篠宮衝撃発言 皇太子雅子さま『孤絶』の全深層」
11月22日、1時間半に及んだ異例の会見終盤。
秋篠宮さまが、きっぱりとこう断言され、約25人の担当記者たちは息をのんだという。
〈「皇太子両殿下のところとの交流については、残念ながら、それほど多くありません」〉
また、皇統の継承について問われ、
〈「皇室の制度論については国会の論議に委ねることになる。(中略)
その過程で、私、もしくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあってよい」〉。
2009年の会見の時は〈皇太子ほかの意見を聞くという過程〉と述べられていたのに
今回は〈私、もしくは皇太子殿下〉と述べられたのは、
〈「今、秋篠宮の皇室における存在感が増しているということを
ご自身がお感じになっているということの現れ」(皇室ジャーナリスト)〉。
会見の終わりには「天皇陛下の定年制」について問われ、
〈「私は『定年』という制度はやっぱり、必要になってくると思います」〉。
一方の皇太子ご夫妻は、ますます、
〈「国民ではなくご家庭に、内向きに目が向いているのではないでしょうか」(千代田関係者)〉。
要するに皇室の現状に強い危機感を持たれる秋篠宮さまが皇太子ご夫妻へ向けてメッセージを発したのだという。
皇太子ご夫妻はこのメッセージをどう受け止められるのだろうか。

皇太子ご一家と秋篠宮ご一家 溝生んだ原因は皇位継承問題
2012.01.01 16:00
11月30日、秋篠宮さまは誕生日会見で
「今年は少し私が怠けていたところもあるかと思います」とユーモアを交えながら、
「皇太子同妃両殿下のところとの交流については、残念ながらそれほど多くはありません」
と皇太子ご一家とこの1年間、あまり交流がなかったことを明かされている。
実際、10月の眞子さまの成人を祝う夕食会に皇太子ご一家は参加されず、
11月の悠仁さまの『着袴の儀』の際に行われた夕食会にも、皇太子ご一家は参加されなかった。
『着袴の儀』のときは、愛子さまが入院されていて、雅子さまはそれに付き添っていたために欠席となったのだが、
もともとこの日は、皇太子ご一家は葉山御用邸でのご静養を計画されており、
最初から食事会に参加する予定ではなかったということになる。
両家の溝を生んだ最大の原因は、皇位継承問題といわれる。
「皇位継承順位第3位の悠仁さまが、継承権を持たない愛子さまと、
金銭的な面にしてもお世話をする人員にしても、あまりに待遇が違うことに、
秋篠宮家としても複雑な思いがあるのだと思います」と宮内庁関係者は語る。
しかし、両陛下の体調が万全でない現在、もっと大事なことがあると秋篠宮さまは気づかれているという。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、こう語る。
「秋篠宮さまは、いま皇室が抱えている大変な状況を誰よりも真剣に考えていらっしゃると思います。
秋篠宮さまは、皇太子ご夫妻に将来の天皇として、
そして皇后としてリーダーシップを取っていってほしいと願われているんだと思います。
だからこそ、会見であのようなことを話されたのは、兄君である皇太子さまに向けて、
もっと両家で会う機会を増やして、話し合い、協力しあって、
両陛下を助けていかなければならない時期に来ているんだというメッセージを送ったのではないでしょうか」
※女性セブン2012年1月5・12日号
http://www.news-postseven.com/archives/20120101_77612.html

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ナルちゃん憲法

平成18年 皇后陛下
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h18sk.html
なお,教育ということに関し,時々引用される「ナルちゃん憲法」ですが,
これは私が外国や国内を旅行する前などに,長い留守を預かる当時の若い看護婦さんたちに頼まれ,
毎回大急ぎで書き残したメモのたまったものに過ぎず,
「帝王学」などという言葉と並べられるようなものでは決してありません。
小児科医であった佐藤久東宮侍医長が記した「浩宮さま」という本により,
このメモのことが知れたと思われますが,本来は家庭の中にとどまっているべきものでした。
たしか佐藤医師もこの本のどこかで,このようなメモは別とし,
私が浩宮の教育に関し最も大切に考えていたのは,
昭和天皇と今上陛下のお姿に学ぶことであったと述べていたのではないかと思います。続きを読む

平成18年天皇陛下お誕生日会見

天皇陛下お誕生日に際し(平成18年)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h18e.html

問1
秋篠宮ご夫妻に,皇室にとって41年ぶりの親王となる悠仁様が誕生されました。
紀子様のご懐妊を聞かれたときの陛下のお気持ちは,どのようなものだったでしょうか。
また出産までの10か月間,紀子様をどのような思いで見守られたでしょうか。
悠仁様と初めて対面されましたときのお気持ちや参内された際のご様子,
男のお孫様としての教育のあり方についても,あわせてお聞かせください。

<天皇陛下> 
懐妊の兆候があることは聞いていましたが,安心な状況というばかりの話ではなかったので,
検査の結果順調に懐妊しているということを宮殿で侍従長から聞いた時には本当にうれしく感じました。
その後,秋篠宮妃には,つわりや大出血の可能性のある前置胎盤の症状が生じましたが,
それを乗り越え,無事悠仁を出産することができました。
秋篠宮妃には喜びと共に心配や苦労の多い日々であったと思います。
予定日より早い帝王切開での出産でしたが,初めて会った時には立派な新生児だと感じました。
出産に携わった関係者の尽力に深く感謝しています。
また,大勢の人々が悠仁の誕生を祝ってくれたことも心に残ることでした。
悠仁の生まれたとき滞在していた北海道を始め,その後訪れた各地の道々で,
多くの人々が笑顔でお祝いの言葉を述べてくれました。 
最近の悠仁の様子として目に浮かぶのは,私の近くでじっとこちらを見つめているときの顔です。
教育の在り方についての質問ですが,今は秋篠宮,同妃,眞子,佳子の2人の姉に
愛情深く育てられていくことが大切だと思います。
15歳になった眞子は,今年1年非常に頼もしく成長したように感じています。
きっと眞子,佳子が悠仁の良き姉として,両親を助けていくことと思います。

問2
二つ目の質問をさせていただきます。皇太子ご一家はこの夏,雅子様のご療養を兼ねて
オランダを訪問されました。陛下は海外でのご静養についてどのようにお考えでしょうか。
また,その後の雅子様のご回復の様子や,幼稚園生活を始められた愛子様のご成長など,
皇太子ご一家へ寄せられる思いも,あわせてお聞かせください。

<天皇陛下>
この度のオランダでの静養については,
医師団がそれを評価しており,皇太子夫妻も喜んでいたので,良かったと思っています。
皇太子一家を丁重におもてなしいただいたベアトリックス女王陛下並びに
ウィレム・アレクサンダー皇太子,同妃両殿下に対し,深く感謝しています。
最近の愛子の様子については,皇太子妃の誕生日の夕食後,愛子が皇后と秋篠宮妃と
相撲の双六(すごろく)で遊びましたが,とても楽しそうで生き生きとしていたことが印象に残っています。
ただ残念なことは,愛子は幼稚園生活を始めたばかりで,風邪を引くことも多く,
私どもと会う機会が少ないことです。
いずれは会う機会も増えて,うち解けて話をするようになることを楽しみにしています。
皇太子妃の健康の速やかな回復を念じていますが,
身近に接している皇太子の話から良い方向に向かっていると聞き,喜んでいます。
健康を第一に考えて生活していくことを願っています。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

天皇陛下誕生日
「明るく幸せな年に」=皇居で天皇誕生日の一般参賀 即位以来最高
天皇陛下の73歳の誕生日を祝う一般参賀が23日午前、皇居・宮殿東庭で行われ、
午前9時半の開門から同11時半ごろの閉門までに、
昨年より2420人多い16440人(皇宮警察調べ)が皇居を訪れた。
午後の記帳を含む参賀人数は2万152人と即位以来、最高となった。
陛下は午前中3回、皇后さまや皇太子さま、秋篠宮ご夫妻とともに長和殿のベランダに立たれ、
皇太子妃雅子さまも2回出席された。 陛下は、誕生日のお祝いに謝意を示した上で、
「きたる年が皆さんにとり、明るく幸せな年になることを期待しています」などとあいさつし、
日の丸の小旗を振る人々に手を振って応えられた。


天皇誕生日、一般参賀に2万2655人
12月23日19時18分配信 読売新聞
天皇誕生日の23日、皇居・宮殿で恒例の一般参賀が行われ、
75歳を迎えた天皇陛下は
「先ごろ健康に不調をきたし、みなさんに心配をかけましたが、
次第に快復(かいふく)していくものと思っています」とあいさつされた。
陛下は皇后さま、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻とともに
午前中に3回、宮殿・長和殿ベランダに立ち、
「厳しい経済情勢の中で厳しい年の瀬を迎えている人々も多いのではないかと案じています。
来る年が少しでもよい年となるよう願っています」と話し、祝賀に笑顔で応えられた。
午後の記帳を含めた参賀者は、平成に入り最高の2万2655人だった。
今年の祝賀行事は、陛下の体調に配慮し、関係者との茶会などが取りやめになったほか、
駐日外国大使夫妻との「茶会の儀」は乾杯だけで退席された。
皇太子妃雅子さまは、6年ぶりに「宴会の儀」にも出席された。
最終更新:12月23日19時31分
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いとこ発言

皇太子妃殿下お誕生日に際し(平成18年)
平成18年12月9日(土)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/gokanso-h18hn.html

この一年,皇太子殿下の変わらない温かいお力添えをいただきながら,
少しずつ快方に向かって過ごしてくることができました。
お陰様で,国民の皆様の温かいご理解をいただきながら,
お医者様のご指導の下,公務を含め,活動の幅を少しずつ広げてまいることができました。
この機会に心から感謝申し上げたいと存じます。

愛子も先日5歳になりました。この秋には,天皇皇后両陛下より温かいお心遣いをいただいて,
数え年5歳のお祝いとなる,着袴の儀を無事に終えることができましたことをたいへんありがたく思っております。
この4月からは幼稚園に入園し,新しい環境の中での一歩を踏み出しました。
毎日楽しく幼稚園に通っております様子を心からうれしく思っております。
私自身も,愛子が幼稚園生活を楽しく送れるよう,できる限りの手助けをしたいと思い,
殿下にもお助けいただきながら,送り迎えをしたり,様々な行事に参加したりして参りました。
このようなことを通して,幼稚園生活の一端に触れることができますことも,私にとりまして喜びになっております。

今年の夏は,家族そろってオランダで静養させていただきました。
オランダへご招待下さいましたベアトリクス女王陛下,
また,深いご配慮を下さいました天皇皇后両陛下をはじめとして,多くの方々のお力添えにより,
お陰様でゆっくりと貴重な時間を過ごすことができました。
皆様のご理解に重ねて心からの感謝を表したいと存じます。
また,久しぶりの1泊旅行の公務として,10月に奈良県に参りました。
多くの方に温かく迎えていただいたこともうれしく,ありがたく思いました。
昨年より,国連大学で時々聴講させていただいております。
このようなことを通じ,今日の社会が直面している様々な課題について考える機会を与えていただいていることは,
私にとり有意義であり,ありがたいことと思っております。
また,いろいろな方からお話をうかがう中で,子供たちの将来に明るい希望が持てるよう,
私たち大人が力を合わせていくことの大切さを感じております。

今年9月に,悠仁親王殿下がご誕生になられましたことを心からお祝い申し上げております。
愛子にもかわいらしいいとこが新たに一人できましたこともうれしく,
今後のお健やかなご成長を心よりお祈りしております。

これまで天皇皇后両陛下より温かいご理解とお励ましを賜り,
特に皇后陛下より,私の公務復帰につきまして,こまやかなお心遣いを賜っておりますことに深く感謝申し上げます。
また,皇太子殿下には,お忙しいご公務をお務めになりながら,
いつも傍でお支え下さっていることにあらためて感謝申し上げております。
国民の皆様からも変わらず温かい気持ちを寄せていただき,心よりありがたく思っております。

昨冬は,豪雪のために被害を受けられた方が多くあり,心の痛むことでした。
この冬は,国民の皆様にとりまして穏やかな冬となりますよう願っております。
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