皇室関連報道について


【社会部発】週刊新潮の皇室記事 一方的報道は不公正 1996年06月16日東京朝刊社会面
週刊新潮(六月二十日号)が掲載した「天皇陛下突如御静養の背景に秋篠宮殿下」の記事で、
宮内庁は訂正を求めて抗議を行った。
新潮側は「記事には自信があるが、再調査して返事をする」と回答を留保したが、
皇族が立場上、発言・反論されないのを承知の上での報道に“不公正”のにおいがする。
問題の記事は、天皇陛下が前庭神経炎で静養されたのは心痛によるところが大きく、
背景には秋篠宮さまの行状がある、といった内容。
「宮内庁関係者」の話として、秋篠宮妃紀子さまの父、川嶋辰彦・学習院大教授が四月二十一日、御所を訪れ、
陛下に秋篠宮さまの女性問題に関して苦言を呈したとし、「これでは陛下のご心痛も増すばかり」
「皇位継承順位第二位の重みをどう受けとめておられるのか」などと批判する。
だが、記者が取材した範囲では、川嶋教授が同日、御所を訪ねたことはなく、記事の命である事実そのものが成り立たない。 
(後略)
(詳細 過激な週刊誌報道と権力と権威について


秋篠宮さまバッシングに伴い、陛下に苦情を言ったとされる新潮記事に対する川嶋教授の「反論文」
週刊文春1996年8月15・22日号
この報道に驚いた川嶋教授は、六月二十日、宮内庁の鎌倉節長官宛に、
事実関係にかかわる次の三点について書簡を出している。
1 本年四月二十一日には、御所に上がらせて戴いてはおりません。
午後三時頃は、帝国ホテルで催された知人の結婚披露宴に出席致しておりました。
また、本年は御所に上がっておりません。
2 (『週刊新潮』)6月20日号及び6月27日号の記事の中で、
陛下に対して私が宮様の女性問題で苦言を呈した旨、記されておりました。
しかし、これまでそのようなお話を申し上げた事は一度もございませんし
、些かもそのような気持ちを抱いた事もございません。
3 数は限られているかも知れませんが、過去に私共に関して事実と食い違う報道がなされたことがございました。
そのような時私共は、原則として取り上げられた事項に関し
そのままにしておくと言うプリンシプルを大切にして参りました。
何故ならば一つの事柄を否定致しますと、
気がつかないでいる他の事柄を肯定していると受け取られる可能性がございますし、
その逆の場合も考えられるからでございます。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

天皇ご一家 皇室報道を批判 (産経97.2.23)
型にはまったイメージでみられがちで、ある特定の部分が強調される−。
皇太子さまは記者会見で、自らマスコミの皇室報道に言及し、こう述べられた。
昨年十一月、週刊誌の記事に反論した秋篠宮さまをはじめ雅子さま、天皇陛下、そして今回の皇太子さまと、
天皇ご一家はそれぞれの言葉で国内外の皇室報道の在り方を批判されている。

秋篠宮さま(平成八年十一月三十日付) 
「(週刊新潮が報じた女性問題について)火のないところに煙が立った。
非常に想像力の豊かな人がそういう記事を書いたんだとは思いますけれど、
完全に事実と異なる報道がなされたことに、不満を持っています」

雅子さま(十二月九日付)
 「(ニューズウィークなどの報道について)皇室なり、宮内庁なり私に対して一定の先入観を持って、
あるいは事実に基づかない憶測というものを中心として議論を進めているもの、
そしてまたさらに、その上にとてもセンセーショナルな見出しが付けられたりしていることがよくございます」

天皇陛下(十二月二十三日付)
 「(週刊新潮が、川嶋辰彦・学習院大教授が陛下に苦言を呈したと報じた問題で記事を否定して)
間違っているということがほとんど確実であっても、
絶対にそれが間違いであるということを証明することは、非常に難しいわけなんです。
そして、その文献がずっと後でも引用されて、非常に奇妙な分布というものが示される」

また、誕生日(十月二十日)に際し宮内記者会の質問に、文書で答えられた皇后さまは、
「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々にこの国に皇室があってよかったと、
国民が心から安堵(あんど)し喜ぶことのできる皇室でありたい」と述べ、
間接的ながら過剰な皇室報道を戒められている。

http://www01.sankei.co.jp/databox/paper/9702/html/0223side11.html

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皇室報道暴走 読売新聞2005年9月23日
宮内庁が頭を悩ませているのは皇太子の人格否定会見以降毎週女性週刊誌の載っている皇室記事。
各週刊誌の手法は毎度同じでまず匿名の「元宮内庁職員」「皇室記者」らが、皇族方の動静など事実関係を語る。
それを前提に「政府高官夫人」といった匿名の人物や皇室ジャーナリストが皇族方の動静について
(雅子さまと皇后さまの間に微妙な距離が生じているのではないか。)と推論。
芸能人などなら名誉毀損で訴訟に発展することもあるほどのレベル。
陛下が沈黙を守るとおっしゃったため いままで宮内庁は抗議してこなかった。
陛下が記者会見などで憶測報道に対して「こころの沈む日もありました。」と
皇族方が心情を傷つけられていることを吐露なさったこともあった。
しかし、報道はますます過熱。 秋篠宮さまを貶める記事三連発でついに宮内庁も出方をかえた。
「週刊誌の誹謗中傷に陛下と皇族方がさらされ傷つけられているが
お立場上反論することもなく黙々と公務に励まれている。」


(宮内庁の抗議)
宮内庁:「女性自身」の皇室記事に抗議、訂正求める  2005年9月9日
宮内庁は週刊誌「女性自身」(光文社発行)の今月6日号と20日号の皇室に関する記事に誤りがあるとして
9日、同社に抗議し、記事の訂正を求めた。
6日号は「雅子さま那須『ご静養』中に秋篠宮家 両陛下を招いて『食事会』の波紋」の見出しで、
「これでは皇太子さまご夫妻ハズシと受け取られかねませんね」とのジャーナリストの談話を引用して報じた。
これに対し同庁は「食事会は皇室の集まりでなく、秋篠宮さまがタイ旅行前に旧知の人たちと行ったもので
事実が異なる」と指摘した。
20日号は「秘められた秋篠宮ご一家 那須御用邸入りの『なぜ』」の見出しで
「秋篠宮ご一家が那須御用邸に向かわれるということは報道陣にまったく知らされていなかった」と報じたが、
同庁は「事前に宮内記者会に伝えた」と指摘した。


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週刊誌の皇室報道「目に余る」 宮内庁長官
朝日新聞 2006年2月23日
宮内庁の羽毛田信吾長官は23日の定例記者会見で、
秋篠宮妃紀子さまご懐妊が明らかになってからの週刊誌報道について、
誤った事実や憶測が含まれたものが多いとして、「目に余る。誠に遺憾」と述べた。
紀子さまにとっては今、静かな環境が極めて大切で、
「心ない記事でご負担をおかけすることがあってはならない」と語った。
そのうえで、「(秋篠宮)妃殿下が他の方のご意向のままに懐妊されたかのような失礼な記事」
「(雅子さまと紀子さまの)立場や歩みの違いを無遠慮に比較した記事」 などを挙げ、「心が痛む」とした。
さらに、憶測に基づき(天皇ご一家の中に)わだかまりがあるとを印象づけようとする記事があると指摘して、
「良識の中でお書きいただきたい」と求めた。


読売新聞
紀子さまの懐妊の背景には天皇陛下の意向があったなどとする記事を例に挙げて、
「他の方のご意向のままに懐妊なさったかのような失礼な記事」と指摘。
また、 天皇、皇后両陛下が秋篠宮ご夫妻と頻繁に会われ、皇太子ご夫妻が孤立しているという記事については
「憶測に基づいた意義付けで、ご一家の中にお気持ちの行き違いやわだかまりがあると
印象づけようとしている」と述べた。
宮内庁は今後、雑誌に対し「節度ある報道」を文書で求める方針。
(読売新聞) - 2月23日21時40分更新

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皇室報道に絶えぬ憶測…公私巡り関係者の苦悩深く
2011.11.7 15:15
肺炎による発熱とせきの症状で入院した皇太子ご夫妻の長女愛子さま(9)=学習院初等科4年。
5日、東宮御所に戻り、ご一家のお世話をする宮内庁東宮職は「治療経過は順調」と明らかにしたものの、
通学への不安を訴えた昨年春以降「静かな環境で見守ってほしい」と、
その心情や日常生活の状況をほとんど説明していない。(SANKEI EXPRESS)
一方、週刊誌には長期療養が続く雅子さまのことも併せ、時に臆測も交えた記事が毎週のように載る。
公人としての立場と、私人としてのありようを過不足なく国民に理解してもらうには−。関係者の苦悩は深い。
東宮職トップで、ご一家のスポークスマン的役割も担う小町恭士東宮大夫は週1回、宮内庁で記者会見する。
登下校は1人か、付き添いは、欠席は、体調は。記者からは次々愛子さまに関する質問が出る。
時に「それはどういう思いからなのか」と心の内面を尋ねる問いもある。
小町氏は「10歳にも満たないお子さまの問題。長い目で見守る必要がある」と、
詳しい返答を避けるのが基本姿勢。
登下校時や校外での活動時は、一切の撮影や取材をしないよう一貫して記者側に要請してきた。
皇太子さまは将来、象徴天皇の地位を継ぐ立場にあり、ご一家の動向は公私を問わず国民の大きな関心事だ。
しかし、「きちんと説明するべきだ」とする記者側とのやりとりは、堂々巡りになることが多い。
9月中旬、愛子さまを含む4年生約120人が山梨県山中湖村へ2泊3日で出掛ける校外学習があった。
事前の会見で小町氏は「雅子さまが付き添う可能性がある」と言及した。
事実を知らせた上で、現地での取材自粛を求める狙いだったとみられる。
「なぜ子どもたちだけの集団校外活動に付き添うのか」。
記者の関心は一点に集中したが明確な回答はなかった。
小町氏が「愛子さまの希望だった」と明かしたのは校外学習から戻って2週間ほど後。
山梨まで同行することは雅子さまの主治医も同意していたが、こうした背景は十分に説明されなかった。
この間、週刊誌は現地での雅子さまの様子を写真付きで詳細に報じた。
匿名の学校関係者の話を引用する形で、校外学習への同行そのものを批判する記事もあった。
周辺によると、記事を目にした雅子さまは落ち込んだ様子だったという。
一家に近い関係者は「プライベートをあまり明らかにしたくない気持ちがご夫妻にあるのだろうが、
今のままではあまりに悪循環。
国民に理解を求めるなら説明することも大切で、時には東宮大夫が
ご夫妻にもっと踏み込んだ助言をしてもいいのではないか」とみる。
NPO法人「広報駆け込み寺」の三隅説夫代表は
「企業の場合は、トップと広報担当者が事前に十分な意思疎通を図った上で記者会見に臨むことが、
株主や顧客に狙いや思いを正しく伝えることにつながる。皇室では言えないことも多いのだろうが、
ご一家と東宮大夫がしっかり話し合って言えることを整理すれば、
暮らしぶりや思いを分かりやすく国民に伝えることができるのではないか」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111107/imp11110715190002-n1.htm

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・テーミス2010年11月号
深層摘出/大正天皇のときと同じか?!宮内庁が操作する「雅子さま&愛子さま」報道
3月5日、野村東宮大夫はいわゆる「不登校会見」を開き、大騒動となったが、
東宮職トップが愛子さまの通う学校内のトラブルについて記者会見をするのは異例で、
さすがに天皇皇后両陛下も唖然とされた。
その2時間後、東園理事が学習院で記者会見を開き、反論。
その後、波多野学習院長も週刊誌のインタビューに答えて反論した。
そうした状況で臨んだ運動会に関係者は解決の糸口を期待したが、
今も同伴登下校は続いており、いつ問題が終息するのか皆目見当がつかない。
「私たちがやらなければならないのはお子さまの教育についてであって、お母さまに関しては何も出来ない。
心配は分かるが、いつでも一緒であることが子どもを育む視点から見たとき、本当にいいのかどうか。
参観は許可しているので、お母さまに『やめて下さい』とはいえない。雅子さまがそのあたりの事情を受け止められ、
『愛子はもう大丈夫ですから』とおっしゃってくださったら万々歳なのですが」(東園理事)
なぜこうも皇太子ご一家の話題ばかりマスコミに登場するのか。
皇室報道を検証していくと、「ある筋からの力」が見えてくる。
04年の「人格否定会見」後、公務も皇太子単独で務めることが多くなり、
雅子さまは何かと「欠席」されることが多く、それがまた逐一詳しく報道される。
「ある筋からの力」とは宮内庁からのものだ。宮内庁官僚は、皇太子ご一家のネガティブな報道が
日常的に流される現状が、将来の皇室のあり方に与える影響を想定した上で成り行きに任せているのではないか。
過去にも大正天皇の「遠眼鏡事件」があり、その後、陛下のご病気はかなり進行しているとの世論が形成されていった。
同時に、若くして大正天皇の摂政に就く裕仁親王(昭和天皇)の売り出しキャンペーンがマスコミを総動員して始まった。
重要なのは、宮内庁官僚は天皇陛下に対してさえ、世論を創り出し、コントロールするという事実。
悠仁さまが誕生されてから、雅子さま愛子さま報道は激しさを増していき、08年の文藝春秋8月号では、
「皇太子、雅子妃への手紙―」を特集したが、雅子さま批判のオンパレードとなった。
それに対して、悠仁さまに対する宮内庁の「報道規制」は厳しい。
08年2月に宮内庁が宮内記者会に配布した「申し合わせ概要・申し合わせ内容」には、
「宮内庁は原則として、以下の機会(新年・初春・初夏・夏)に悠仁親王殿下もお入りに
なった秋篠宮ご家族のお写真及び映像又はそれらを撮影及びペン取材する機会を報道機関に提供する」とあり、
「上記に反する行為を行った報道機関に対しては、宮内庁は当分の間便宜提供を行わない」との罰則規定もある。
雅子さま愛子さま報道に対する態度との差は歴然としている。

・ジャーナリズム崩壊 上杉隆著
悠仁殿下の怪我は宮内庁の指示で全社報道自粛していた。
悠仁殿下の映像や写真は、新年 初春ごろ 初夏ごろ 夏又は誕生日(両方は無しどちらか)、
秋篠宮殿下の誕生日の5回のみの提供と宮内庁から御達しがあった。
各報道機関は上記の場合以外秋篠宮家のお子様方の取材・放映・報道は自粛する」と宮内庁からの申し合わせ。

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記者会見について
皇后陛下お誕生日に際し(平成9年)(文書回答)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h09sk.html

5 記者会見について
問10  宮内記者会は,毎年お誕生日に皇后様の記者会見を要望していますが,
宮内庁は,外国御訪問前に会見を実施していることなどを理由に実現していません。
皇后様は,記者会見の意義などをどうお考えになりますか。
また,皇后様が望ましいと考える会見のあり方もお聞かせください。

皇后陛下
記者会見は,正直に申し,私には時として大層難しく思われることがあります。
一つには自分の中にある考えが,なかなか言語化出来ないと云うことで,それはもしかすると,
質問に対する私の考えそのものが,自分の中で十分に熟し切っておらず,
ぼんやりとした形でしかないためであるからかもしれません。
尋ねられることによって,始めて自分の考えが分かったと云うことが,
今までにも何回かあり,私にとっての記者会見の意義は,
自分の考え方をお伝えすると云うことと共に,言語化する必要にせまられることで,
自分が自分の考えを改めて確認できるということであるかもしれません。
会見の望ましい形については,まだ考えがまとまりませんが,
答の一部分だけが報道され全体の意図が変わってしまった時や,
どのような質問に対する答かが示されず,答の内容が唐突なものに受け取られる時は悲しい気持ちがいたします。

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皇太子さま誕生日会見で
1989年9月22日朝日新聞
礼宮さま(当時)と川嶋紀子さんの婚約について
礼宮さまの婚約が先になったことについて皇太子さまは
「焦りは全くない、正式決定は皇太子自身が強くすすめた」と語る。
この時点での皇太子自身の結婚については「はずみで言ったのが一人歩きした」と述べ、
煮詰まっていないことを匂わせている。
(はずみで言った内容は、この1988年2月の記者会見の「富士登山にたとえると7合目、8合目」)
川嶋紀子さんの印象は?の質問に対する回答 
「私の口から言うのはヤボでございまして」
会見の最後に「私から逆に質問があります」と前置きし、
一部の週刊誌で報道された礼宮さまの「皇籍離脱発言」について
「そういうことは家族は一度も聞いていない。根拠は何なのか。 こういう報道は困ることだ」と、柔らかい口調で抗議。

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敬称について 三笠宮寛仁親王殿下
(※平成14年)
総裁コラム  三笠宮寛仁
 ―矛盾―
昨年の12月20日、長女の彬子が、20歳の誕生日を迎えました。
随分以前から、宮内記者会が、宮務課( 宮内庁の各宮家担当課)を通じて依頼していたので、
「女王殿下の成人式に伴う記者会見」を、前日の午後、公邸に於て実施しました。
メディアで御覧になった会員もいらっしゃる事と思います。
会見には私は同席しませんでしたが、記録用のテープ起こし原稿の校正をしたので、
内容はすべて承知していますし、終了後開催した茶会で、数多くの、「ブン屋さん」達が、
「素晴らしい会見でした」「彬子様のファンになってしまいました」
「どの様な躾をなさると、あの様に素敵なお嬢様に成長されるのでしょうか?」等々、
大変高い評価を得たので、企画者としてはとても満足でした。
が、しかし、翌日の各社の誌面を見て、怒り心頭に発しました。
毎日新聞を除いて、天下の産経も含めて全紙が、
「三笠宮寛仁さまの長女彬子さまが成人式を迎え……」とやったからです。
「戦後初の、『女王殿下の成人式』であるので会見をして欲しい、取材がしたい…… 」が、
記者会の総意だったにも拘わらず、皇室典範の条文に規定されている処の、
「女王」「殿下」といった、「身位」と、「敬称」を抜かして、「さま」と書き、
一般国民と同じ扱いをしたわけですから、
何の為の、女王殿下の記者会見」であったのか、皆目分からなくなりました。
だいたい、私は、「三笠宮」(父の宮号)では無く、「寛仁親王」であり、
彬子は、「身位」が、「女王」で、敬称は、「殿下」でなければなりません。
従って正しくは、「寛仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……」となるべきでした。
きちんと書く気が無い、つまり皇族としての記事を作らないのなら、
何も記者会見を要望する必要はありませんし、
天皇制に反対で、皇族を認めたくないのならば、いい機会ですから、「皇室反対論」を載せるべきでした。
公共の報道機関たるメディアが、こういう、「矛盾」を平気で押し通す事に対し、
我々は常にチェックしなければならないという、最も分かり易い証例になってしまいました。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

両陛下への敬語不使用に疑問、違和感
産経新聞2006年6月8日
両陛下への敬語不使用に疑問、違和感 小坂文科相、安倍官房長官が表明
小坂憲次文部科学相は8日午前の衆院教育基本法特別委員会で、
天皇、皇后陛下に対する一部新聞報道に敬語が使われていないことについて、
「新聞だから、字数が限られているから、では済まされない。敬語を使う方がどういう方なのかを学び、
また親しみを持つ言葉と混ぜて伝えることが必要だ」と述べ、報道のあり方を批判した。
これに関連し、安倍晋三官房長官は「天皇陛下に対する敬語の使い方については、
報道各社で検討した結果だと思う。政府はとやかく言うべきではない」と指摘。
そのうえで、個人的感想として
「ここで使わなければ誰に使うのか。天皇陛下が強制することを望んでいるとはまったく思わないが、
こうした記述ぶりには政治家個人として、国民の1人として違和感を覚える」と述べた。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

叱責の事実はなかった
美智子妃が皇太子妃時代、御所に呼ばれて天皇陛下から叱責されたという事実はない。
皇太子殿下皇太子妃殿下 ご結婚二十年より(1979年)※現両陛下

当時東宮大夫の鈴木菊男氏
「もう十数年前のことになろうか・・・噂が流され、その後何年にもわたりいくつかの紙面に取り上げられたことに関し一言したい。
事実のないこの記事は、他の事とは違い陛下の御名を引き合いにだしてあったため、
妃殿下には十余年ものあいだ随分お哀しい思いをなさらねばならなかった。
私の退任後もこの記事がひきあいにだされ、それがこのたび陛下(昭和天皇)の御目にとまったのであろう。
後日、侍従職を通じ、『このようなことは、事実がないばかりでなく、心に思ったことさえなかった』と
深いおいたわりに満ちたお言伝てが東宮職に届けられたと聞く」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

柳行李云々は間違い
(平成13年天皇陛下お誕生日に際し)
【天皇陛下】 
「…また,プライバシーに関する誤った報道は,これを正すことは非常に難しく,
時には,長期間にわたって誤った報道が社会に流れていくことになります。
おかしな例ですが,私が「柳行李一つで」と皇后に結婚を申し込んだと今も言われていますが,
このようなことは私は一言も口にしませんでした。」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

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親王妃の「妃」を「きさき」と呼称することについて
先の崇仁親王殿下の薨去に際しての一部の報道において,
崇仁親王妃百合子殿下を「きさきの百合子様」と呼称する部分がありましたが,
この呼称は下記のとおり誤りでありますので,注意喚起するとともにその点をお伝えします。

1.皇室典範における妃
明治の皇室典範において,皇族の配偶者を妃と規定されました。
すなわち,皇太子妃・皇太孫妃・親王妃・王妃がそれであります。
これは,現行の皇室典範にも継承されておりますが,
ここでの「妃」の呼び方は,いずれも「ひ」であり,「きさき」とは呼ばれておりません。

2.歌会始めにおける妃
現在,歌会始の儀においては,皇后陛下のことを「きさいのみや」とお呼びしています。
しかし,皇太子妃は「ひつぎのみこのみめ」,
親王妃は「○○のみこのみめ」とお呼びするように皇太子殿下を始め皇族の妃を
「きさき」もしくは「きさい」と称することは行われておりません。

3.結論
宮内庁において,皇族の配偶者はいずれも「妃(ひ)」と呼んでおり,「きさき」とは呼んでおりません。

(注)
広辞苑においては,「きさき(后)」を「天皇の正妻。皇后。中宮。」,「ひ(妃)」を「皇族の妻の称。」とされています。

http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h28-1121.html


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礼宮様の作文

初等科卒業時

「バフロンズの開発」
世界の肉不足は、最近の大きなニュースの一つです。 安くて大量の肉を得るためには、
牛や豚ばかりに頼ってはいられません。狭い国土のわが国では、成長期間が長く、
生まれる数の少ない牛などより、鶏肉をもっと利用する必要があります。
そこで私は、太って肉が多いといわれる中国産のバフコーチンとブロンズ種の七面鳥とから、
新しい肉用鳥の開発に取り組みました。
研究期間五ヶ年、やっと新しい品種『バフロンズ』が誕生しました。
体重二十キロ、体高六十センチ、卵も年百個は生みます。体重はコーチンの四倍もあり、
肉質も良く味も良いのです。今では日本ばかりではなく、世界各国で飼われ、
肉用種としてばかりでなく、おとなしく、人になれ易い性質のため、
子供たちにも人気があります。
今日も研究室の庭では、子供たちがバフロンズと楽しく遊んでいます。


中等科
「卒業前の自分」文仁親王
 私はペンギンの形をした貯金箱である。
私が禮宮文仁親王という長いようで短い名を持った十五歳の子供に
会ったのは 、約一年前である。以来、私は彼の机の隅に存在している。
私はこれから帰宅後の彼の様を書いてみることにする。
実は彼が私に卒業文集用にと依頼したのである。
彼は、普通四時頃に学校から戻って来る。彼は暫しだらだら時を過し、
見ている私がいらいらしてくる頃やっと勉強を始める。
その勉強なるものが少々だらしない。カセットを聴きながらするのである。
やがて彼は部屋の隅に山積みにされているカメラのカタログを見始める。
買うつもりなのか、見て喜んでいるだけなのか。よく分からない。
夜は夜で人に会ったり、一人物静かに「rock and roll」などという
騒々しいものを聴いたりしてだらだら時を過す。そして十一時頃寝室の方へ姿を消す。
 以上が私の見た彼の一日である。十五歳とはこのような時期なのか?
 一つお断りするならば、ここに書かれた事はフィクションであり、
私のような几帳面な人間にとっては日常ありうべからずであります。




秋篠宮文仁親王殿下のご研究

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皇太子の怒り

いさかいが天皇誕生日に暗雲を広げる  2009年1月5日 ロイター通信 
(Spats cast pall over Japan imperial anniversary)
http://uk.reuters.com/article/worldNews/idUKTRE50411420090105?pageNumber=2&virtualBrandChannel=0

SUCCESSION QUESTION POSTPONED
(先延ばしにされた継承問題)
小さい皇室内では、男子の皇位継承者が先細りになる懸念があるが、
2年前の徳仁親王の弟である秋篠宮の妻による悠仁親王の誕生でそのジレンマはとりあえず解決した。
皇室内に亀裂が生じた原因は、恐らく皇太子の怒りにあるだろうと言われている。
皇太子の怒り。
それは、彼の唯一の子である愛子内親王に皇位を継承するべく法律改正を図ろうと
まさに動き出していたところで、秋篠宮紀子妃殿下の御懐妊によって、(計画途中で)
あきらめることとなってしまったことへの怒りである。
「皇太子は完全にキレてしまったんですよ」と語るのは、
Portland State University の教授を務め、
"The People's Emperor: Democracy and the Japanese Monarchy 1945-1995."という
本も書いているKenneth Ruoffだ。
「東宮夫妻が皇位継承者を育てる余地は、もはや完全になくなったのです(から)」。
タブロイド紙ははでに書き立てているけど、一般紙は皇室のゴシップは避けている。
「皇族は戦後、理想的な家族としてのイメージを楽しんできました」と、Ruoffは言いました。
「現在、彼らは明らかに理想的な家族ではありません」
「彼らは、言い争いなどを持っている家族です」と、彼は付け足しました。
日本人はそのことに親近感を感じるかもしれませんが、皇室の権威への無礼であるとみなすかもしれません。


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妃殿下・内親王殿下の作文

紀宮内親王殿下中等科時代の詩
「母の日に」
母の日に夕焼けの絵を描いた
夕焼けはどこか母に似ているから
夕焼けの絵を描いた
ただそれだけの絵なのに
母は大事にたなの上にかざってくれた
夕焼けのよく見える
窓の近くにかざってくれた

紀宮内親王殿下 初等科卒業作文
盲導犬指導員 中組 清子内親王
「オーケイ。ストレイト、ゴー。グーッド、グーッド。」
朝の冷たい空気の中、私はアドニスと共に路上に立った。
アドニスは、足元やまわりを見ながら、注意深く私を導いてくれる。
しばらくすると、一つの建物が見え、私たちはその中に入った。
とびらの中には、『東京盲導犬協会』と書いてある。
私は今見習いの指導員で、盲導犬に仕立て中のアドニスと練習をしているのだ。
夕方になると、協会の食堂に集まり話し合いをする。
協会の理事長、塩屋賢一先生に、「君なかなか板についているよ」と言われて、
思わずいすの下にいるアドニスに、「アドニス、がんばろうね」と言ってしまった。
一人前になるために、あと一年かかる。
そう思いながら、アドニスをなで、希望に燃える私であった。
初等科卒業文集『紀桜集』より


秋篠宮眞子内親王殿下 2004年初等科卒業作文
五年生の春休みに、家族と一緒に奈良県と京都府を訪れました。正倉院で長く受け継がれてきた宝物、
唐招提寺で東山魁夷画伯が鑑真和上の旅を想いながら描いた障壁画、
そして京都御所で中国の故事を題材としたものや花鳥風月の襖絵などを鑑賞したことは、
私にとって良い思い出になりました。
また、奈良鳥類研究所では上村淳之先生からいろいろな鳥についての楽しい説明を受けました。
先生は鳥を描くためにはその生態をよく知り、自分の心の中で鳥の様子を想像できるように
することが大事であるとお話しくださいました。
日本画を見ていると、描かれた時代の歴史、自然や生活などを知ることができ、
たいへん興味深く思います。
また、私たちが目にする多くの美しい古典絵画は、適切な修復を繰り返して
今日に伝えられていると聞いています。
現在の日本画の修復は、オリジナルの部分を尊重して、修復の計画と結果の予測を立てて、
伝統的な技術と最新の科学技術を使って進めるようです。貴重な美術品を大切に保存して、
修復することは、非常に大切なことではないでしょうか。
このように、私は日本画の制作、保存や修復の仕事、そして広く美術の研究にも関心を持っています。
そしていつか、今にも飛び立ちそうな鳥の絵を描きたいと思います。

眞子内親王殿下 2009年学年文集「はなすみれ」より

ふとした瞬間(とき)に思うこと
私は今高校二年生だ。そのうち高校を卒業し、大学に入学する。
そんなこの頃、よく感じるのは、自分が変わってしまったということだ

小さい頃はよく外で遊んだ。今でも外で運動する機会はあるが、昔のように純粋に楽しむことはなかなかできない。
家が自然に囲まれていることもあって、昔はもっぱら自然の中が私の遊び場だった

空想するのも大好きだった。今考えると微笑ましい話だが、趣味の読書も手伝って、
自分はホウキで空が飛べるのだと信じていた。いつか動物と話すことができると思っていた

対して今は余計な思考がじゃまをする。手が汚れるだの、つかれるだの。
その上、現実が見えてしまっているから空想の余地もなくなってきている。
現実社会を生きていくのだから仕方がない、当然のことだ。
自分が変わったと感じる分、成長しているということでもある 

それでもふとした拍子に昔に帰ってみたいと思ってしまうのだ 

この間、那須へ、夏休み中唯一の旅行に出かけた。
東京の人ごみから離れて緑いっぱいの自然の中で過ごせるのがうれしい。
そう、永遠に変わらない気持ちだって存在するのだ
(週刊新潮2009年4月16日号)

秋篠宮佳子内親王殿下 2007年初等科卒業作文
これからも続けたいこと 
私の将来の夢は、まだ具体的に決まっていません。
しかし、これからも続けていきたいと考えていることのひとつに
小学二年生の時に始めたフィギュアスケートがあります。
フィギュアスケートを習い初めたころは、氷がつるつるして滑ったり転んだりして
難しいと感じましたが、練習を続けるうつに少しずつスピードを出したり、
片足で長く滑ることができるようになって楽しくなりました。段々滑ることに慣れてくると、
ジャンプやスピン、そしてステップなどを習うようになりました。
今は、音楽に合わせてきれいに滑っていけるように先生が丁寧に教えてくださいます。
上手にできないこともありますが、繰り返し練習をしてできるようになると大変うれしいです。
私が通っているスケート場は、スケートのインストラクター、リンクを管理する人、
怪我をしたときの救護員などたくさんの人が働いています。
多くの人たちに支えられてスケートができることに感謝の気持ちを忘れずに滑られるよう、
心がけていきたいと思います。そしてこれからも、スケートの練習をしながら、
他にも関心を持っているいろいろな事ができるように努力していきたいと思います。

二十歳の私へ
お元気ですか。
今、十二歳の私は中学校への進学を前にして、残り少ない初等科生活を勉強したり、
友達と遊んだりしています。また、家では優しい家族に囲まれて楽しく過ごしています。
そして、関心を持っているいろいろなことの中から今は、放課後や休みの日に
フィギュアスケートの練習を一所懸命にしています。上手に滑れないときもありますが、
練習を積み重ねると、今までできなかったジャンプやスピンができるようになり、
少しずつ上達していくのがわかってとてもうれしいです。
スケートを通して、目標にむけて頑張って練習をしたり、
大変なことがあっても努力を続けることの大切さを学んだりするなど、よい経験ができました。
八年がたち、二十歳になった私は、何をしているでしょうか。
この八年の間にも、色々なことに出会い、興味を持ったと思います。スケートは、まだ続けていますか。
二十歳のときに経験していることも、その後の将来の自分につながると思います。
大変だったり、難しかったりすることがあっても、十二歳のときに楽しみながら
スケートの練習を続けたことを思い出し、現在していることを大切にしながら充実した日々を過ごしてください。


秋篠宮佳子内親王殿下 2012年学習院八重桜祭3年中組の「クラス企画」での作文
テーマ:「言葉の伝達能力」
私は、言語は「伝達の可能性」をもつにとどまると考える。
まず、言語は私達の生活にかかすことができず、通じている前提で社会が成り立っている。
例えば、日本では駅の案内や標識は日本語で書かれており、他の言語を用いる人には理解できない。
また、国や地域の文化をふまえてもいる。肉食文化のアメリカでは、同じ牛肉でも複数の言い方があり、
魚食文化の日本では、「出世魚」という成長によって呼び方の変化する魚が存在する。
このように、言語は文化とともに、より良く伝達するために発達してきたと言える。
一方で、自分の国の言語であっても思うように伝わらないという経験はないだろうか。
次のような話を聞いたことがある。
「熊が人間をなでたつもりでも、人間はなぐられたと感じるかもしれないし、死んでしまうかもしれない。」
これは、熊が人間を殺したことになる。言語も同じだろう。
優しさのつもりでかけた言葉も、相手が傷ついたと感じれば、結果的に傷つけたことになる。
このような危険性を言語は持っている。最近よく耳にするいじめの問題においても、
いじめる側といじめられる側の言葉の捉え方の違いや、一つ一つの言葉に対する重みが違うために、
深刻な問題となっている。このように、人間同士の会話であっても、
言語を持たない熊と、言語を持つ人間の会話と同じくらい正確に伝達されない可能性が高い。
ゆえに、言語は、本当に伝えたい気持ちや意味が正しく伝わるとは限らない。
そのため、言語は「伝達の可能性」を持つにとどまることを理解し、責任を持って使用する必要がある。



小和田雅子さん 小学校卒業文集
「クラブ」小和田雅子
略)
私たちは「コジュウケイ」のはくせいをつくることにしました。
その鳥は学校の窓ガラスにぶつかって死んだのだと先生はおっしゃいました。
肛門からはさみをいれておなかの皮をさきます。その後肉を切らないようにして
中の肉を取り出します。
そのためには、足とつばさを適当なところから切らなければなりません。
足はうまくいきました。(中略)
残るは翼一個となりました。そこは先生がなさいました。ところが何という失敗!
先生がつばさを切り落としてしまったのです!
あと、頭のところの肉を取れば肉が取れたのに。
そして、かわかしたあと、中身を入れてはくせいができたのに・・・・・ とても残念!


川嶋紀子さん 小学校卒業時
初等科の思い出 オーストリー在 川嶋紀子
四年生で入学してから、五年生の二学期に特別休学するまでの短い間でしたが、
私の初等科生活にはいろいろと楽しい想い出があります。
なかでも五年生の春に三クラスそろって八幡平へ旅行した時に、 経験したおもちつきは
特に印象深く心に残っています。
私達が八幡平に訪ねている間ずっとよいお天気にめぐまれ、翌日は松尾校舎にさよならを
しなければならない三日目の日も、青い空は、大きく広がっていました。
この日の午後、先生も生徒も 全員でおもちつきをしました。校庭にうすをすえ、
中に白いゆげがぼうぼうとでるふかしたばかりのもちごめが入れられました。
うすのとなりには水の入ったおけがおかれました。まず、東組のお友達がうすの回りを
囲み、いい音でつきはじめました。自分達の部屋で西組の番がくるのを待つ間、
私はペッタン、ペッタンと おもちのつかれる音を、空を見上げながら聞きました。
小さな音でも大きい音でも力のこもっている感じがしました。長い間ようやく待って、
西組の女子の番がきました。名ぼ順にならびおもちをつき、私の番がとうとうきてしまいました。
うすの所まで行くとお手伝いをして下さるおば様が、タライの水を手の上にのせ
うすの中のおもちにつけて下さいました。きねを持ち上げると思ったより重く、
前についていた友達が軽そうに持ち上げていたきねとちがう気がしました。
私は四回うちましたが、うつたびにきねがいきおいよくはね返ってくるような気がしました。
やわらかいにおいもプーンと感じました。
夕食後のデザートはおもちでした。あんこや大根おろしをつけていただきました。
みんなで力を合わせた味がしみこんでおり、口の中がホカホカでした。
私にとっては生まれて初めてのおもちつきで、 それまでいただいた中で最高のおもちでした。


川嶋紀子さん 小学校3年生の時の作文
私の弟 私には弟が、います。舟と書いて、しゅうと読みます。舟ちゃんはかわいい時と、
悪い時があります。かわいい時は、かわいくわらったり、私のドレスを着る時です。
お母様が、私のかみのけをとかして下さっているとき、舟ちゃんは、かみをとかしてるのを見て、
お母様に「かみとかして。」といいます。私がそれを見ると、弟は、なんとなく女の子みたいに、
見えます。悪いときは、かみのけを引っぱったり、だいじな物をさわったり、する時です。(中略)
舟ちゃんはこのごろ、いろいろなことをいいはじめました。たとえば、「タツ」、「キコ」、
「カアカア」などいいます。「タツ」というのは、お父様の名前が、たつひこで、
お父様が、ぼくのことを「タツ」といいなさいと、教えたので、それから「タツ」というように
なったのです。「キコ」というのは、私の名前です。だから、そのまま、「キコ」というようになったのです。
「カアカア」というのは、カラスが、「カアカア」と鳴くからおぼえたのです。
いつもいたずらをして、私をこまらせる舟ちゃんですが、ほんとうは、私の心の中には、
舟ちゃんのことをだいすきという心があるのです


小和田雅子さん 編入した新宿区立富久小学校2年3組の時の作文
雪がっせん
きのう、学校のおく上で、雪がっせんをしました。
わたしは、中川さんと、大きい玉を作っていました。そうしたら中川さんが
「男の子たちに、これ、あてちゃおうか。」といったので、わたしは「そうしよう。」と
いいました。その玉は、長まるで、たては五十センチくらいで、よこは二十センチくらいでした。
わたしたちは、ほっ田くんにあてたのでほっ田くんは びちょぬれになってしまいました。
わたしはしかいしがくるかなあと思いましたが、きませんでした。だから、ほっとしました。

小和田雅子さん 5年生 詩
「一日」
カゲロウにとって
一日は一生だ。
なんて短かい一生だろう。
めすは
そんなに短かい時間に
たまごをうむのか。
たまごをうみおえて死んでいく「カゲロウ」
そんな短かい一生を
大切使ってほしい。



照宮成子内親王殿下(昭和天皇の第一皇女)の文章 
酒井美意子氏著 ある華族の昭和史より
私はどういうめぐり合わせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。
いつどこにおいてもわたしは優れていなければならない。私は皇室を背負っている。
私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。 どうして安閑としていられよう。
高い木には風が当たり易い。
それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるときこの地位にいる資格があるか
どうか恐ろしくなる。自分の能力は誰よりも自分で一番よくわかっている。
ともかく私は自分で自分を育て築きあげていかなければならない。
この炭鉱の奥深くで、来る日も来る日も働き続け世間から忘れ去られそして人知れず
死に行く運命をもった人々の前に立った時、護衛の警官やおおぜいのお伴をひきつれている
自分の姿にいたたまれぬ申し訳なさを感じた。

敬宮愛子内親王殿下 詩
「本当の喜び」 敬宮愛子
おおなわをした
でもうまく飛べない
みんなはできているのに
私だけできない
すごく心細かった
みんなに申し訳ないような気がする
次の日もおおなわをした
最初はできなかった
でもこつをつかんだのかとべた
とべた!
これが本当の喜びの気がした
達成感があった
明日も
これからも
この喜びを絶対に
忘れたくないな
(初等科文集「小ざくら」より女性自身2012年4月10日号掲載)

敬宮愛子内親王殿下
犬や猫と暮らす楽しみ
私は、飼っている犬や猫と過ごす時が、一日の中で心が和む楽しい時間です。
犬や猫は人間と同じように、一頭一頭顔も性格も違います。
この違いが犬や猫などの動物の魅力でもあり、一緒にいる事の楽しみでもあります。
今、私の家には犬が一頭と猫が一頭います。犬の由利は、私が二年生の春に保護され、
生後二ヶ月半位で私の家に来ました。
来て数日で家にも慣れ、元気良く走り回っていた事を覚えています。
成犬になった今も子犬の時と同じように、家族が帰ってくると、
しっぽを振りながらおもちゃをくわえて走り回り、喜びを表現しようとしています。
猫達は、私が三年生の春に、家の庭で生まれた子猫とその母猫です。元は野良猫だったので、
なれるのに時間はかかりましたが、今ではすっかり慣れ、甘えて鳴いたり、
なでると目を細めてゴロゴロ言ったりしています。
犬も猫もほめながら教えると良く躾ができます。特に由利は、出された指示に従う時には、
得意そうに目を輝かせてこちらを見て、とても可愛いです。
猫のミーも「おすわり」や「お手」ができます。私はこんな由利や猫達が大好きです。
そして、由利や猫達がいるおかげで、家族の中の楽しい会話がいっそう増えるように感じます。

敬宮愛子内親王殿下 卒業記念文集
大きな力を与えてくれた沼津の海 敬宮愛子
不安な気持ちを抱きつつも、きっと楽しい思い出が作れると言われて出かけた沼津でしたが、
初日から練習は厳しく、海に入りたくないと思う時も少なくありませんでした。
ただ楽しかったのは、友達との生活と食事、お風呂でした。
しかし、足の着かない海で泳いで、初めて気持ち良いと感じる日が来ました。
三日目に行ったプレ距離泳の時でした。プレの日は、波もなく、
太陽が照りつける中での距離泳となりました。海に入るまでは、五百メートルも泳げる訳がないと
諦めていましたが、泳いでいるうちに、体の力が抜け、楽しく泳げるようになりました。
五百メートルを泳ぎ切ると、海が好きになり、海に入るのが楽しみになっていました。
迎えた本番の五日目は、潮の流れが少しあり、泳ぎにくいと感じましたが、
前日に一キロ泳や二キロ泳を終えた人たちの「頑張れー」という応援の声が聞こえる度に、
不思議と力が湧いてきました。無事に泳ぎ切り、みんなと喜びながら頂いた氷砂糖の甘い味は格別でした。
沼津での生活は、私に諦めないことの大切さを教えてくれ、大きな自信を与えてくれました。
沼津の海は、私にとって忘れられない記念の海。六年間の中で、私がいちばん成長できたと感じられる
素晴らしい思い出になっています。
卒業記念文集「桜愛集」より
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140318/imp14031812400003-n1.htm


敬宮愛子内親王殿下 中等科卒業文集
「世界の平和を願って」=愛子さまの卒業文集公表−宮内庁
宮内庁は22日、皇太子ご夫妻の長女愛子さま(15)が学習院女子中等科を卒業されるのに合わせ、
愛子さまが卒業記念文集に寄せた作文を公表した。
「世界の平和を願って」との題で、昨年5月の修学旅行で広島市を訪れた際に感じたことや、
平和への思いがつづられている。
全文は次の通り(表記は原文通り)。

世界の平和を願って 敬宮 愛子
卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。
雲一つない澄み渡った空がそこにあった。
家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。
なんて平和なのだろう。
青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。
このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。
原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。
まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。
ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。
写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。
平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、
熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。
これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。
そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。
命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、
人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。
最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、
被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。
これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。
その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、
「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。
オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。
私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。
私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、
世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、
皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。
平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。
これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。
この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。
原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。
間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、
原爆ドームが守られているように思われた。
「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。
平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。
しかし、世界の平和の実現は容易ではない。
今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。
何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。
毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。
なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。
日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、
他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。
そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、
感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。
「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。
「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。
きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。
そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、
広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。
(2017/03/22-11:07)