象徴性の力

WiLL2016年6月号
象徴性の力
渡部昇一
(略)
ふと「昭和」という年号について連想した。
敗戦後は、保守派と見做されている人々の中にも、
「昭和天皇は退位されて、一応、戦争責任を明らかにされるべきだ」という意見を言う人もいた。
左翼の人はたいていそう考えていたようだし、もちろん皇室廃止論者も多くいた。
平等主義者からすれば、皇室そのものが民主主義と相容れないという主張になる。
しかし、何ということなく「昭和」は残った。
昭和天皇御自身が退位に反対だったのだろうと御推察申し上げるのだが、
今になって見ても、戦前・戦中・戦後を通じて、一人の同じ人が天皇であらせられ、
したがって年号も「昭和」で一貫していることは、日本の歴史の連続性にとって実に有難い象徴的なことであった。
敗戦直後は皇統断絶の懼れさえあった。断絶はなくとも、もし昭和天皇が退位されて、
別の方が皇位につかれたとしても、皇位の一貫性が、米軍の占領によって、
つまり外国の力で傷つけられたという「感覚」は残ったと思われる。
約七年間、日本が外国によって間接統治を受けていたのは事実としても、
「昭和」が続いていたことは歴史的に重大である。
百年、二百年と経てば、間接統治の七年間は単なるエピソードになってしまうであろう。
そして将来の日本人には、日本人の歴史の一貫性が記憶されるであろう。
そういう自国の一貫性の感じひそは、意識下において愛国心のもととなり、
国民としての誇りのもととなるものだと思う。そして国の繁栄のもとともなるであろう。
(中略)
一見何でもないことのようであるが、些事に見えても、象徴的な意味あることは、
意外に大きな結果を生むことがあるのではないだろうか。
近くの例では平成4年10月の天皇・皇后両陛下の中国訪問を思い出す。
天皇が外国を訪問されることは親善外交の姿としてよろこばしいことであると思う。
しかし相手を考えなければならない。
欧米諸国やアメリカの御訪問ならまことに結構である。
しかし東アジアの元首の訪問は、これを朝貢と見做す国の場合は話が違う。
シナ大陸の王朝では、昔から周辺の君主が首都にやってくれば、
それは朝貢であり、臣下の礼を執ったち見なされるのだ。
日清戦争、満州事変、シナ事変以来、シナのリーダーたちが日本や日本人を憎んだとしても当然である。
しかし蒋介石も、毛沢東も、周恩来も、ケ小平も、
日本を憎んだとしても、懼れたり、尊敬の念は持っていたと思う。
何しろ阿片戦争以来、シナ人を見下し、シナの公園なのに「犬を連れた者とシナ人は入るべからず」という
立札を建てたと言われるほど傲慢だが強かった白人たちに勝った日本や日本人に
一目置く気があったに違いない、と私は思う。
しかし平成4年10月でそれが変ったのである。それは平成元年6月、いわゆる天安門事件が起った時、
中国当局は天安門広場を占拠して市民を装甲車や戦車で制圧し多数の死者を出し、
それが世界中にテレビで放送されたことに関係がある。
この市民虐殺に対してアメリカは武器輸出、軍事交流を停止し、フランスも対中国関係を凍結し、
イギリスも武器禁輸し、ソ連ですらゴルバチョフが憂慮を表面するなど、中国は外交は孤立化した。
中国支持したのは東ドイツとチェコぐらいであった。
それで中国を取り囲む外交の輪の一番弱いところと言われた日本に
平成4年4月に中国共産党総書記であった江沢民が来日し、宮沢首相に天皇の中国訪問を要請したのである。
そして翌日、江沢民は天皇に表敬訪問し、与野党の首脳とも会談したのであった。
この要請を受けて宮沢内閣はその年の10月、両陛下の中国御訪問を実現させたのであった。
中国から見れは、日本の天皇を朝貢させたことになる。
日本の歴史ではシナの王朝との交渉は聖徳太子に始まるとされている。
そして、よく知られるように聖徳太子の書状は、東の天皇が西の皇帝に書いたものという形式で、
大国隋とも平等の姿勢であった。それ以来、日本の天皇がシナ大陸の王朝に朝貢することはなかった。
それが平成4年(1992)の10月に変化が起ったのである。このシナ史上空前の手柄のためか、
この年10月の中国共産党第14回大会において江沢民は党総書記に再選されている。
その江沢民は6年後の平成10年(1998)の11月に日本を再訪問した。その時の皇居における
公式晩餐会での江沢民の姿は、一部テレビにも出たので知られたが傲慢そのものであった。
第一に服装からして他国の元首と公式の食事をするものとは言えなかった。
何より日本の過去を批判するようなスピーチをしたのである。
6年前、宮沢内閣時代にゆってきた江沢民と、この時の江沢民とは別人の如くであった。
天皇陛下を見下している態度なのである。これに対して多くの日本人は腹を立てた。
しかし江沢民側からすれば、すなわち中国人の方から見れば当然なのである。
日本の天皇も、江沢民の目から見れば、今や東の島にある国の「朝貢した君主けにすぎないからである。
宮沢さんにしてみれば、日中関係をよくするためにやったことだったろう。
しかし秀才の多くいたと言われる宮沢内閣に「朝貢」の意味を考える人はいなかったのであろうか。
もちろん朝貢などは公務員試験の対象となる事項ではないだろう。
しかし社名、年号、武士の髪などなど、いろいろなことに象徴的なものがあり、
それには理を越えた何かしらがあると思われてならないのである。